lullaby「そういえばさ、まだ話してなかったと思うんだけど」
淡い暗がりの中、じいっとこちらを見つめてくれる温かなまなざしをやわらかに細めるようにしながら、吐息まじりの優しい言葉がそっとこぼれる。
「前に話したでしょ、郁弥と最初に会ったのがいつだったかってこと」
「あぁ、中学の時だっけ?」
顔を合わせたことくらいなら何度かはあれど、きっとこちらのことにきちんと〝気づいて〟くれたのは初めてだったはずのあの瞬間のことをありありと脳裏に思い返せば、どこかためらいがちに瞼を伏せるようにしながら、訥々と言葉は続く。
「……そうじゃなかったんだよね、ほんとうは。どうにも言えなくって、あの時は」
「うん、」
促すようにそっと吐息を洩らせば、答える代わりのようなやわらかな笑みがふっと浮かぶ。どこか無防備で幼くて優しい――あの日、あの瞬間に目にした〝それ〟の面影をかすかに宿したかのような、穏やかな色を帯びた囁き声が静かにこぼされる。
「うんと昔のことなんだ……幼稚園の頃、その時に住んでいた町の水泳教室に通わせてもらっていて。泳ぐことはすごく楽しかったけれど、周りの子たちみたいに周囲になじんで友達を作るだなんてことはちっとも出来そうになかった。両親だってそういったことを望んでるのはわかってるのに、ちっとも期待に応えられない自分がなんだか情けなくって。でも、泳いでいる間だけはそんなこともみんな忘れられる気がして。そんなふうにひとりで泳いでいる時、隣のレーンに居た男の子が声を掛けてくれたんだ。『君、泳ぐのじょうずだね』って。こんな自分のことを見てくれている誰かが居たなんて信じられなくって、すごく嬉しくって。その子は言ってくれたんだ、『一緒に泳ごう』って。夢みたいだと思った。泳いでいる間はずっとひとりで、ひとりぼっちでいても平気で居られる時間だってそう思っていたから――信じられなかった、こんな自分だって誰かと一緒に泳げるだなんてことも、それがこんなに楽しいだなんてことも」
記憶の糸を静かに手繰り寄せるようにしながら洩らされる言葉には、きっとまだ色褪せる事などない、やわらかく温かな痛みを伴う思いがそっとこみ上げる。
「じきに終わりの時間がやってきて、その子にも僕にも迎えがきた。僕らはそのまま、お互いに手を振り合って別れて―名前を聞くだなんてことをすっかり忘れてたのに気づいたのは、帰り道になってからだった。またすぐに会えるんだからそれでいいって思った。その時にはまたいろんな話が出来るはずだからって……心からそう信じてた、疑う余地なんてかけらもないくらいに」
次第に薄れ、翳りゆく言葉にじわりと胸のうちを淡く締め付けられるような心地に襲われる。自分にだってわかる、まったく同じような経験なんてなくたって―どれだけ時間が経ったとしても、置き去りにしたままの痛みが胸の内を巣食い続けることがあることを。
かすかな痛みに揺れるまなざしをじいっと見つめれば、ぽつりぽつりと、囁くような淡い響きを携えた言葉が続けざまに落とされていく。
「それからはさ……まぁ、予想通りだよね? 次の水泳教室の日が来るよりも前に、僕は新しい町に引っ越すことになった。次の町でも水泳には通わせてあげるからって両親は言ってくれるんだけど、それじゃあちっとも意味なんてなかった。言えるわけなんてなかったんだけれどね、そんなこと。言葉通りに次の町でも、その次の町でも水泳は続けさせてもらえて、ジュニア大会で記録を残せるようになったころには両親も随分喜んでくれた。夢中になれるものに出会えたことも、その結果が目に見える形で残せることもすごく嬉しかったけれど、やっぱりどこか空しい気持ちはいつでもあった。僕にはあの時のあの子みたいな、周りの同世代の子たちみたいな、一緒に泳げる仲間なんてちっとも出来そうになかったから。……中学に上がって少し経った頃、こんどはアメリカに行くんだって言われた。水泳は続けさせてくれるだなんて約束で、先生の紹介もあってアメリカの強豪のチームで泳がせてもらえることも決まった。アメリカに渡ってすぐに、挨拶もそこそこに練習に合流させてもらえることになって―言葉の壁も相まって、コミュニケーションなんてちっとも取れそうにはなかったけれど、泳いでいる間はずっとひとりでいられるからって、周りなんてちっとも見ないでひとりで泳いでた、あの時と同じように……そしたらさ、隣のレーンからふいに声が掛けられて」
ひどく朧気だった言葉尻に、途端にふわりとあたたかな安堵の色が滲む。
「カタコトの英語で話しかけてくれたもんだから、日本人なんだってことはすぐにわかった。すぐさまゴーグルを外して『日本語で大丈夫だよ』って話しかけたら、すごくほっとした顔で笑いかけてくれて―不思議だって言われるかもしれないけど、すぐにわかった。あの時のあの子だってことが。一緒だったんだよね、笑い方が」
ため息まじりの吐息を洩らすようにしながら、穏やかに言葉は続く。
「他に日本人が居なかったこともあって、僕たちはすぐに意気投合出来た。お互い幼稚園のころに岩鳶に住んでいたこと、水泳教室に通い始めたのもその頃だってこともすぐにわかったから、きっとそうだって確信が持てた。でも、その子は―郁弥は、日本に居た頃の話になると途端にすごく苦しそうな張り詰めた表情になるから……すぐに分かった、これ以上は聞いちゃいけないんだってことが。過去に縋るのなんて何の意味もない、郁弥にはいまだけがあればいい、そうやって、〝いま〟の郁弥を支えられるのは僕だけなんだってことをわかってもらえればいい―心からそう信じてた。それからはさ、君たちも知ってる通りだよね?」
「日和……、」
自嘲気味にそっと零される声に、やすやすと言葉になることのない息苦しさがこみ上げる。分かっているつもりだ、日和の気持ちは日和だけのものだなんてことくらい、もうずっと前から。それでも―こんな風に心の奥にしまった自分だけのものだったはずの思いを打ち明けてもらえる瞬間はいつだって、もどかしいほどのあたたかさに満ちている。
「ずっと伝えたかったんだ。郁弥は覚えていないだろうけれど、僕たちはずうっと昔にも会ってるんだよ。こうして僕が水泳を続けてきたのだって、あの時のあの子にまた会えるかもしれないだなんてずっと思ってたからなんだよ。郁弥はもうずうっと昔から僕だけのヒーローなんだよって。ただそれだけだったのにね? 結局、本当の意味で郁弥を救えたのは散々邪魔をしたはずの君たちで――七瀬くんで。僕はずっと間違っていて、そんな簡単なことにも気づけなくって……。それでも、そんな僕に郁弥は言ってくれたんだ。【一緒にリレーを泳ごう、僕とならきっと出来る】って。まるであの時と同じだと思った。ずうっと一人でしか居られないと思っていた僕のことを郁弥はあっさり見つけてくれた―やっぱり郁弥は僕のヒーローなんだって、心からそう思えた。きっとこれが、郁弥と泳げる最初で最後なんだろうなってことも」
ためらうように深く息を吐き、囁きまじりの優しい言葉が落とされる。
「リレーを終えた後、郁弥は僕に教えてくれたんだ。幼稚園の頃、一度だけ水泳教室で出会った男の子がいたことを思い出したんだって。その子はすごく泳ぎが上手で、一緒に泳ごうって声を掛けたら素敵な笑顔で笑いかけてくれたんだって―郁弥は僕のほうをじいっと見て、はっとした顔をしていて。驚いたよね、ほんとうに。もう何年もずっと側にいたはずなのに、こんなことがあるんだなぁって」
ひどくあどけない無防備な笑顔の奥に、出会ったことなんてないはずの〝あの頃〟の姿がやわらかに浮かび上がる。
「なんて答えたの、日和は?」
促すように尋ねるこちらを前に、得意げな笑みにくるまれた穏やかな言葉が返される。
「……その子にとってきっと、郁弥はヒーローだったんじゃないかって」
優しい口ぶりには、心からの安堵がそっと滲む。
「日和らしいね、すごく」
「……そうなのかな?」
「そうだよ」
きっぱりと答えながら、差し伸ばした指先でそっと洗いざらしの髪をなぞる。幼い子どもを宥めるみたいなそんな仕草を前に、いつだって気恥ずかしさと心地よさ、その両方をありありと伝えるかのようなやわらかな笑顔を返してくれるのだから、最大限まで募るような愛おしさは身動きを奪うかのような心地をありありとこちらへと伝えてくれる。
「不思議な感覚だったんだ、すごく。きっと忘れらないと思う、これから先もずうっと。なあんだ、こんな簡単なことだったんだって思った。随分遠回りはしたけれど、やっとこれで何もかもを終われたんだなってこともね。きっともう僕の役目は終わりなんだって思った。納得はしてたんだけど、やっぱりどうしても寂しくって、そんな自分がひどく勝手で情けないな、だなんてことも思って―でも、どうすることも出来なくって、。そんな矢先だよ。すっかり自分に酔って黄昏てる僕に声を掛ける人が居て―名前だって知らないし、率直に言えば興味だってちっともなかったのに、そんなのちっとも気にしてない風で」
「……おどろいた?」
「そりゃあもう、すごく」
やわらかな笑みは、心をただ静かに解きほぐしてくれる。
「すぐにわかった。ひょっとすれば彼も同じように思ったのかもしれないってことを。彼らには四人だけの時間が必要で、自分の入る隙がそこにないことをどうしようもなく感じて―それでも、真意みたいなものはちっともわかりそうになかった。きっとただの暇つぶしに過ぎないはずだ、もしかすれば親切のふりで僕の弱みでも握るつもりなのかな、だなんてことだって思ったくらいで。この人には―〝鴫野くん〟には僕なんかと違って、ほんものの仲間が居るんだからって」
いまだからこそ告げられる本音には、言葉に込められた意味合いとは裏腹のあたたかな安堵の色が満ちている。
「〝鴫野くん〟は言ってくれたでしょう? 郁弥がきっと心配してるよ、一緒にみんなのところに行こうって。そんなことあるわけないって思った。郁弥は僕が居なくなったおかげで彼らのとこに帰れたんだからって。でも……それなのに、〝鴫野くん〟は本当に何でもない風に僕に笑って見せてくれたでしょう? 本当に不思議なんだけれど、なんだかすごくホッとして……嬉しくって。思ったんだよね、その時に。この人のことなら信じられるかもしれない、信じてみたいなって」
はらりと優しくこぼされる言葉に、心の奥から湧き上がるような気持ちがそっとこみ上げてくるのを僕は感じる。
「日和……」
胸が詰まらされるような心地のまま、それでも、心の奥からふつりと零れ落ちるような想いを胸に、そっと〝あの頃〟には呼べなかった名前で呼びかける。
続く言葉ならいくらだってあるはずなのに、なぜだかちっとも紡ぎだせない―ひどくもどかしいはずなのに、こんなにも耐え難いほどに温かくて優しい。相反するはずの想いにぎゅうぎゅうと心の中を掻き立てられるのを感じながら手探りで胸の内をなぞっていれば、まるで幼い子どもを宥めるかのようなうんと優しい口ぶりでの言葉が掛けられる。
「随分後になってから思ったんだよね。あの時の〝鴫野くん〟は僕のヒーローだったんだなってこと。本当に感謝してる……初めてだったから、ここに居てもいいんだって、心からそう思える場所が見つけられたのは。君のおかげだって、いまでもそう思ってる。君が僕のことを導いてくれたからだって」
〝あの頃〟には聞かせてもらえるはずもなかった心からの言葉は、温かく静かな波を胸の内へと引き寄せる。
「聞かせてもらってもいい? あの時のこと」
ぱちり、と優しいまばたきをこぼされるのに促されるままに、ぽつりぽつりと僕は切り出す。
「あぁ……まぁ。日和が言ってくれた通りではあるんだよね、概ねは。やっとみんなが揃ったことが、いままでのことなんて何もなかったみたいに郁弥が一緒にいて、まるであの頃の続きみたいに笑い合ってることがすごく嬉しくて―それでも同じだけ、どこか息苦しいような気持ちにさせられて。なんでなのか、だなんてことはすぐにわかった、〝遠野くん〟はどうしてるのかなっていうのが気がかりだったんだよね。いまここに〝遠野くん〟が居ないってことは、きっとどこかで郁弥を待っているのに違いないって思った。もしかすればチームメイトの誰かといて、僕のことなんて気にも留めてくれないのかなってことだって思ったよ? それならそれで良かった。でも―そうじゃない可能性だって、きっとあるだろうなって」
言葉こそ交わしたことはなくとも、いつしか気づいていた。〝遠野くん〟の口にする言葉や態度はいつもどこかぎこちなくて、ひどく張り詰めた息苦しさに満ちていたことを。
「……もしかしたら、いまなら少しだけでも話が出来るんじゃないかなって。いままではずうっと会えずじまいだった、〝ほんとうの遠野くん〟と。そしたらさ、びっくりするほどあっさり〝遠野くん〟は見つかって、いままでとはまるで違うようすで、どこか寂しそうで―いまならって思った。少しでいいから話したいな、〝遠野くん〟のことを聞かせてほしいなって」
同情めいた気持ちがかけらもなかった、だなんてことを口にすれば、きっと嘘になる。それが決して褒められた感情ではないことだなんてことだっていくらだって、それでも。
「すごく嬉しかったんだよ、あの時は。〝遠野くん〟のことを聞かせてもらえるのがなんだかすごく嬉しくって、こうしてゆっくり話すのなんて初めてなのに、不思議と心が通じ合うような気がして……これでやっと、本当のスタートラインに立てるんだなって思った。新しい仲間に出会えてもっと強くなって帰ってきた郁弥と、僕たちとで。そう思ったらさ、みんなのところに、郁弥のところに〝遠野くん〟を―日和のことを連れていってあげなくっちゃって思う気持ちにはもう迷いなんてひとつも浮かばなかった」
「……貴澄」
ため息まじりのあたたかな吐息にくるまれるようにしながらうんとあたたかな響きで名前を呼ばれれば、ただそれだけで心の内では見たこともない色鮮やかな光の洪水が瞬く。
「でもさぁ、」
くしゃりと髪をかき上げ、吐息まじりに僕は答える。
「いまだから言えるんだけどさ、本当はちょっとだけ思ったよね。『このままふたりでどこか遠くに抜け出さない?』って言っちゃいたかったなって。あの四人だけで思い出に浸りたいっていうんなら、いまのうちに僕たちだけで新しい思い出でも作ろうよって」
冗談めかした口ぶりで告げる言葉に、温かな笑顔がこぼれる。
「もう叶ってるじゃない、時間差はあったけれどね」
「あの時に言わないでおいて正解だったよね、物事って結局はタイミングだからさ」
くすくすと穏やかに笑い合いながら、どちらともなく身を寄せ合い、お互いを隔てる距離を少しでもゼロへと近づけ合う。
人生は時に、ささやかな選択の連続だ。
何気なく放った言葉や振る舞いは時に心をひどく縛り付ける枷になり、そして時に、知らず知らずのうちに誰かを救い、導くための糧となりうる。
誰しもが皆、巻き戻すことの出来ない時間を生きている。取返しのつかない痛みはいくつもあり、きっとそれと同じだけ、忘れうることの出来ない輝きがある―〝過去〟に置き去りにしてきたはずのそれらひとつひとつが鎖になるのか、希望を描くための架け橋にすることが出来るのかだなんてことはきっと、自分自身では選べることなんかじゃなくって、それでも。
「本当にありがとう―あの時さ、もしああやって貴澄が声を掛けてくれなかったらだなんてこと、もうちっとも考えられない。……すごく感謝してる、すごく好きだよ」
心からの感嘆を込めた言葉は、じわじわと胸の内を埋め尽くして、息もできないほどの愛おしさを運んでくれる。
「……僕だって」
ため息まじりに囁きながら、いまこの瞬間を少しでも閉じ込められるようにと、背中に回した腕の力をぎゅっと強める。
どうかこの腕の中で満ちゆく魔法が、容易く消えてしまうことなんてありませんように。
祈るような心地で僕はそっと瞼を閉じ、深く息を吐く―ささやかな奇跡の繰り返しの先に訪れたこの穏やかな夜に捧げられるとびっきりの祈りがあるのならきっと、こんな形をしているのかもしれないだなんてことを感じながら。