【縁切りの木(Side Haku)】【縁切りの木(Side Haku)】
ある日の放課後、特待生は放課後、教師のモービーに加賀見昴流宛の書類を託され、ホタルビ寮に寄ることとなった。
しかし、肝心の加賀見は不在、折角だしお茶でもどうだいと笑った副寮長の草薙伯玖と話が弾んでしまい、すっかり帰りが遅くなってしまった。
(この学校、夜は怖いんだよね…)
寮までの道に人影はなく、動くものは揺れる木々と時折横切る猫の影だけだ。
(やっぱり伯玖さんに送って貰えばよかったかな…)
寮まで送るという伯玖の申し出を固辞したことを、特待生は今更ながらに後悔していた。
「はぁ、早く帰ろ……あれ?」
ふと、視界の端に何か気になるものが写った気がして、特待生は足を止めた。
(あの木、なんだろ…)
切り揃えられた垣根の隙間から、太い枝が覗いていた。この向こうは中庭だが、手入れの行き届いた芝生と小さな池があるだけで、普段は猫たちのささやかな憩いの場となっている。
特待生は何故かその木がたまらなく気になるものに感じられて、中庭に足を踏み入れた。
(これって…)
特待生の眼前に現れたのは、枝の太さに見合う大きな木だった。
背丈はそれほどないものの、幹は太く、教師のモービーの胴ほどありそうだ。
しかし、特待生の目を引いたのは、その木の大きさではなかった。
枝葉に絡まる赤い糸、そしてその糸から垂れ下がる漆黒の鋏。
明らかに異様な佇まいのその木に、特待生は噂好きの友人、魁斗の話を思い出していた。
『俺もまだ見たことないんだけどさ、この学校に《縁切りの木》っていうのがあるらしいんだよね。その木にはハサミがぶら下がってて、そのハサミを使えば、どんなものでも切れるんだって。それこそ、誰かとの縁とか』
俺だったらロミオさんとの縁を永遠に断ち切るね。人でごった返す昼の学食で、並んで座る席を探す間に魁斗がしてくれた、何気ない噂話。そのはずだった。
(“なんでも”切れる…)
ぶら下がった鋏が風に揺れる。刃の鈍い光に導かれるように木に近づいた。芝を踏むさくさくとした感触に、なんだか足がザワザワした。
(呪いも、切れる…?)
鋏に触れるとまるで人肌のように温かく、握り込めば長年使い慣れたそれのように、特待生の手にフィットした。
しかし叡智の指輪が鋏に触れ、カツンと小さな音を立てた。
(そうだ、切らなきゃ…)
-まずは、邪魔な指を。
右手の薬指の指輪がジリジリと熱を発していて、酷い嫌悪を抱く。この指輪が全ての元凶なのだと教えてくれるようだった。
(この指輪さえなければ、危険な任務について行くこともなかった…)
思い返せば、この指輪は特待生の意思を無視して体の一部を占拠しているのだ。何故、今の今まで呑気に“この指輪の力でみんなの役に立ちたい”などと思っていたのか、特待生にはてんで理解が出来なかった。
外れないなら、指ごと切って仕舞えば良いのだ。指輪が外れなくとも、指の一本くらいこの《縁切りの木》の力があれば、造作もないはずなのだから。
(切らなきゃ…早く、早く切らなきゃ…)
左手で鋏を握り直す。利き手ではないにも関わらず、不思議とピッタリとフィットし、動作に支障は無さそうだった。
目に入る指輪の輝きが酷く不愉快だ。特待生は、一刻も早く取り去ってしまいたい衝動に駆られた。
(切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ)
特待生は衝動のままに、鋏の刃を指に沿わせた。
「特待生っ!!」
「キャッ!!」
不意に何者かに後ろから抱きしめられ、特待生はハッと我に返った。
「特待生、落ち着け、俺がわかるか!?」
「はっ、伯玖さん…!?」
顔を上げると、酷く焦った顔をした伯玖が特待生の顔を覗き込んでいた。
「指は無事だな!?」
「へっ!? え、ゆ、指?」
伯玖のその手には、つい先ほどまで特待生の手にあった漆黒の鋏が握られていた。
特待生は伯玖の顔とその手の鋏を交互に見る。そこでようやく、自分が取り返しのつかないことをしようとしていたことに気がついた。
「…あ、わ、わたし、私…?」
「よかった…正気に戻ったか…」
震える特待生の顔を覗き込み、伯玖が小さな子供を落ち着かせるようにゆっくりと語りかけてきた。
「コイツは《縁切りの木》っていう怪異でな、普段は任務で連れ帰って来ちまった悪いもんとの縁を切ってもらうのに使うんだが……たまーに、コイツ自身も悪戯しちまうのよ」
「そう、だったんですね…」
伯玖はいまだに小さく震える特待生の頭を優しく撫でる。
「驚いたぜ…。嫌な予感がしてお前さんを追いかけてたら、案の定、虚な眼ぇしてこの木の前に立ってるんだからな」
「ご、…ごめんなさい」
「あやまりなさんな。ま、さしずめ、かわいいお前さんの指を独り占めしてるコイツに嫉妬しちまったってところだろ」
伯玖は軽く笑って、叡智の指輪を指先でコツコツと弾いた。
「か、かわ…! そ、そんなこというのは伯玖さんくらいですよ」
「はは、顔が真っ赤だぜ。さっきまでの顔色が嘘みたいだ」
もう大丈夫そうだな、と笑う伯玖が、特待生の手を引く。
「遠慮なんてしないでくれよ。いくら忙しくても、お前さんの安全より優先するものなんてないからな」
「はい…ありがとうございます」
大きな伯玖の手が、特待生の手を包み込む。
ふざけたような口ぶりだが、これが伯玖なりの気遣いなのだ。
二人並んで歩き出す。特待生を安心させるためか、伯玖がここ最近のホタルビ寮生の近況を(主に殊玉善治への愚痴を)面白おかしく語ってくれたおかげで、先ほどまでの不安が解けてなくなるようだった。
-シャキン…
「あれ…?」
「……ん? どうかいしたかい?」
「あ、いえ、なんでもない…と思います」
「……そうか? まぁ警戒するに越したことはないな、早く帰ろう」
「はいっ」
特待生は伯玖に強く手を引かれ、寮へと向かった。
***翌日***
「あの、特待生さん…!」
「…はい?」
放課後、すっかり日課となった怪異動物の世話のためにジャバウォックへ向かう道すがら、特待生は見知らぬ生徒に声をかけられた。
ターコイズブルーの校章を見るに、モルトクランケンの生徒だろう。長い前髪の隙間から切れ長の瞳が覗いている。彼の頬は真っ赤に染まっていた
「あの、きっ、昨日の返事、考えてもらえましたか…?」
「…昨日?」
特待生は首を傾げる。昨日も何も、彼とは初対面のはずだ。
「あの…?」
「…えっと…ごめんなさい、どなたですか…?」
誰かと勘違いしているのかもしれない。特待生が困り果てて問いかけると、彼は信じられないものを見るような目で特待生を見下ろした。
「えっ!? どなたって、あの、きっ、昨日、昨日、キミに…その…こく……、…した…」
「…昨日?」
狼狽える彼の声は小さく、かろうじてその単語だけ聞き取ることが出来た。
「昨日、ボクが声をかけて…でも、キミは昨日の放課後、用事があるからって…また明日ちゃんと返事をしてくれるって…それで、だから…今…」
彼の言い分が本当なら、昨日の特待生は彼と何かしらの約束をしたこととなる。しかし、特待生には約束はおろか、彼の名前すら記憶にない。
(昨日…? 昨日はえっと、午前中は授業を受けて、昼休みにモービー先生から書類を預かって、放課後その書類をホタルビに…それで、伯玖さんと…)
ホタルビへは寮長の加賀見を訪ねたのだったが、そこで会ったのは伯玖だった。
『どうしたんだ? 俺で良ければ話でも聞こうか。ちょうど美味い茶菓子もあるしな』
『…ありがとうございます。伯玖さん、実は、今日の放課後…』
確かその時の自分は何かの理由で困り果てていた。ホタルビの客間で、温かいお茶と甘い和菓子に絆されて特待生は口を開いたのだ。
(…それで、伯玖さんに、なんの相談をしたんだっけ…?)
確かに自分は伯玖と話をした。出してもらった練り切りの甘さまで蘇ってくるほど鮮明な記憶。
それなのに、会話の内容だけが思い出せない。
「えっと…もう一度、その話を、」
「あぁ特待生、こんなところにいたのか」
「…伯玖さん?」
気まずい沈黙を打ち破ったのは、他でもない伯玖本人だった。
「よかった、まだ教室にいてくれて。昨日持って来てくれた書類について急いで確認したいことがあるそうなんだが…これからホタルビに来られるか?」
「は、はい…」
少し慌てた様子の伯玖に肩を押される。いつもと異なる強引な様子に、特待生は思わず足を踏み出した。
「あ、あの、でも彼が…」
モルトクランケンの男子生徒を振り返る。さすがにこのまま置き去りにするわけには行かないだろう。案の定、彼は特待生を追いかけようとしたのか、半歩前に踏み出した体制でオロオロしていた。
「…あぁ、“オトモダチ”には俺から話をつけておくよ」
「え、でも…」
「ほーら、行った行った」
ぐ、と伯玖に背中を押される。踏み出した特待生とは反対に、伯玖は男子生徒の元へ歩き出していた。
(…伯玖さんなら大丈夫、だよね)
一抹の不安を振り切るように、特待生はホタルビ寮へと歩き出した。
-シャキン…
耳の奥で、鋭い金属の擦れる音を聞いた気がした。