吸血鬼の世界に異世界転生した燈 頭上には燦然と輝くシャンデリア。
足元には膝を包み込むような柔らかな絨毯。
「……は?」
黒川燈は、自分の置かれている状況が理解出来ず、間抜けな声を上げた。
澄んだ空気は乾いていて、先程までの池袋のシェアハウスのものとは明らかに異なる。
「おや、我は使い魔を喚んだつもりだったのだけど…」
そこで何をしているんだい、LIGHT。
そう言って目を丸くするフェリクス・ルイ=クロード・モンドール。
そして、その後ろには今し方フェリクスに呼ばれた自分自身ことLIGHTが、茫然と立ち尽くしていた。
《吸血鬼の世界に異世界転生した燈》
ことの発端は、いつもの遵の不幸だった。
池袋のシェアハウスの階段を昇ろうとしていた燈が、降りようとした遵とかち合った。それならよくある朝の風景であるが、それで終わらないのが遵の不幸体質である。寝ぼけ眼の遵が足を滑らせ、燈の上に降ってきたのだ。
お互い軽い怪我で済むと思われたいつもの事態は、何故かそうはいかなかった。脳が揺さぶられる感覚がして、頭をぶつけたのだと認識した瞬間に訪れたのは、包み込むような浮遊感。そして眩い白い光。
目が焼けるような光から解放された燈は、どういうことか現代とは思えぬ古城の玉座の間に倒れ込んでいた。
「…なるほど。言わばキミは…そうだな、どこかの時空に存在するというパラレルワールドから来たLIGHTという解釈が出来るね」
「まぁ、そう、かも…しれません…はは…」
どうやらフェリクスことFELIXは、燈の知るフェリクスとそう変わらない性質を持っているようだ。燈がどうにか頭を働かせてことのあらましを説明すると、FELIXは新しいおもちゃを見つけたように目を輝かせて、是非もてなしをと慌てふためく燈を豪奢な食堂に通した。
燈はFELIXの話を聴きながら、夢の中にでもいるのではないかと掌に強く爪を立てる。そして非常に残念なことに、これが紛れもない現実であることを知った。
「どうだいLIGHT、もう一人の自分に会った感想は?」
「…感想…と申されましても…」
LIGHTは温かい紅茶とスコーンを給仕し、チラリと燈を見やるものの、燈と視線が合うことはなかった。
「我が君がDに喚ばれたように、このように召喚される存在というのは私が思うより多いものだと、認識を改めようと思います」
「ふぅん…つまらないなぁ。珍しく慌てるLIGHTが見られると思ったのに」
「ご期待に添えず、申し訳ございません」
つまらないと言いつつも、FELIXの口角は上がっている。その表情は、まさに自分の興味の対象を見つけたフェリクスそのものだった。
「トモル、キミは?」
「へっ!?」
白羽の矢が立って、燈は素っ頓狂な声を上げる。
「もう一人の自分に会ってみて、どうだい?」
LIGHTを見るが、やはり目が合わない。
「…どう…と言われましても…」
「あぁ、やっぱりキミたちは同じ存在だね」
困惑の気持ちを思わず口に出した燈に、FELIXは声を上げて笑った。
***
その夜、燈はLIGHTの寝室に案内された。
「お、お邪魔します…」
「どうぞ」
あえてLIGHTの部屋に厄介になることになったのは、急に召喚されて一人では心細いだろうとFELIXが主張したことによるのだが、彼が内心面白がっているであろうことは容易に想像が出来た。LIGHTも口には出さずとも同じ見解だったようで、一瞬複雑な表情をしたものの、おとなしく承服した。
「部屋は好きに使っていただいて構いません。見られて困るものも…例え盗られようとも困るものはありませんので」
「…ありがとう。でも、そんなことはしないよ」
LIGHTの部屋は非常にシンプルで機能的だった。机、本棚、ベッド、それから二人掛けのソファセット。
(片付いてるのによく使う筆記用具が机に出てるところとか、ソファが綺麗に整ってるのも“僕”らしいな。僕も部屋は兎も角、シェアハウスでも共用部分は綺麗にしなきゃって思ってるし…)
ソファのクッションはキチンと並べてあり、ローテーブルには瑞々しい百合の花が生けてあることから、そこがFELIXのための場所であると分かる。初めて来た場所だというのに、自分との共通点を見出しては微笑ましくなってしまう。
「そうだ、シェアハウスといえば…あっちは今頃どうなってるのかな…」
ここ数年異世界転生ものの物語は流行りで、燈も手軽なものをいくつか読んだことがある。まさか自分がその当事者になるとは思いもしなかったが。
(平凡な社畜がチート魔導士に、なんてよくあるけど…ある、けど…)
しかし、そこで燈はある恐ろしいセオリーに思い当たった。
異世界転生ものとは大抵主人公が“死ぬ”ことを条件に異世界に転生するのだと。
「い、いやいやいや…!!」
恐ろしい想像に血の気が引く。自分は死んだ? だから異世界に転生してしまったのか? まだアラサーだ、やりたいことは沢山ある。
(何よりFantôme Irisの活動は?)
「燈、五月蝿いですよ」
「ご、ごめん。元の世界のことを考えたらなんか怖くなって来ちゃって…」
どうやら口に出ていたらしい。LIGHTにぴしゃりと言われて、思わず口元を覆う。
(僕、ライブでLIGHTになった時、冷たすぎる? いや、でもLIGHTはFELIXの伶俐な右腕だしな…)
自分とLIGHTは同一人物、ましてやLIGHTは燈から生まれたのだ。相違点を探すのは不毛だことだとわかっていても、どうしてもそんなことを考えてしまうのを止められない。
「はぁ…。我が君もDにより突然召喚されてここにいますが、帰る術がない訳ではありません。今は我が君がそれを望んでいないだけ…。貴方の件も恐らくじきに原因が発覚します。それまでジタバタせずに構えていたらどうですか」
「LIGHT…うん、そうだね、ありがとう」
LIGHTの言葉に、燻っていた不安がすっと溶けていく。他ならぬ自分自身の言葉でもあるからだろうか。
(うん、LIGHTは【伶俐な王の右腕】だけど、冷血漢って訳じゃないもんな)
きっと自分とLIGHTの立場が逆であったなら、自分も同じことを言っただろう。
「ベッドは一つですが二人で寝ても十分な広さですし、予備の毛布を借りてきてあります。私と貴方が同じ存在だというなら、ベッドは一つを分けて使うこととしましょう」
「ありがとう。寝相は悪くないと思うよ」
「私も寝相は悪くありませんので」
寝起きは悪いけど。というのはきっと言うまでもないだろう。
***
「LIGHT、トモル、失礼するよ」
「はい」
燈が一通り部屋と屋敷の説明を受け終わったところで、部屋の扉をノックする者があった。FELIXの声だ。
「いかがなさ、いましたか……」
LIGHTが間髪を入れずに返事をすると、満面の笑みを浮かべたFELIXが部屋にやってきた。既に部屋着に着替えているが、その手には料理の乗った盆がある。
(あっ、やっぱりこっちもそういう感じなんだ…)
一瞬言葉に詰まり、しかしすぐにいつもの涼やかな表情を取り繕ったLIGHTを見て、燈は妙に納得してしまった。
「トモルに夜食を振る舞いたいと言ったら、Dがちょうど帰ってきたHARUに夜食を頼まれたところだからと、みんなの分も作ってくれたんだ」
LIGHTの表情がわずかに緩んだのが燈にはわかった。こちらはこちらで苦労があるのだろう。LIGHTも、今はまだ見ぬ大門ことDも。
「ありがとうございます。いただきます」
Dの作った夜食は豆とじゃがいものスープだった。口に含むと心も体もホッと温まった気がした。調味料も材料も異なるはずなのに、舌が、体が、大門の料理であると教えてくれる。
「とても美味しいです…! この世界は僕がいた世界とは何もかも違うはずなのに、このスープは大門さん…ええと、僕の世界のDが作る料理にとても似ていて、なんだか不思議な感覚です」
柔らかく煮込まれた野菜たちが、こちらのDの優しさを伝えてくれるようだった。
「…トモル、もっとキミと、キミの世界のことを知りたいな。異世界の文化を知ることが出来る機会なんて、何百年も生きている我ですらそうそうあるものではないからね!」
「わっ…!」
「おっと! すまないね」
興奮のあまり隣に座るFELIXが身を乗り出して燈に触れようとしたが、燈の手にはスープのカップがある。燈が咄嗟に身を引いたおかげでスープは溢れずに済んだものの、頭上から冷たい声が降ってきた。
「燈、我が君のお召し物を汚してはいないでしょうね」
二人掛けのソファをFELIXと燈に譲ったLIGHTは、我が君を見下ろすなど畏れ多いと言いながら、机に備え付けの椅子を引いて少し離れたところに座っていた。
「スープがかかったりしていませんか、我が君。よければ着替えをお持ちしますが」
「問題ないよ、LIGHT。それに今のは我が悪いんだ。トモル、キミは大丈夫かい?」
「あ、は、はい…」
さっとLIGHTがFELIXの足元に跪く。燈がLIGHTに扮していたならば間違いなく同じ行動をとっただろうが、自分が跪いているところを客観的に見るのは少しばかり恥ずかしい。
(自分で言うのもなんだけど、様になってるよなぁ)
美しいFELIXと、彼の前に膝を付く従者。燈にとってステージ上の設定だけの存在だったはずの二人が、燈の目の前で現実となってしまった。
(そういえば、この二人は付き合ってるのかな…)
燈とフェリクスは恋人同士であるが、燈の世界のLIGHTとFELIXはあくまでも吸血鬼の王とその右腕のダンピールという【設定】である。
(僕とフェリさんが付き合い始めてからも、LIGHTとFELIXに恋人っていう裏設定は当然付けてないし、そうなるとこの二人はやっぱりただの主従関係なんだろうか…)
ここはLIGHTとFELIXにとって現実でも、燈とフェリクスにとってはFantôme Irisが紡ぐ物語の中である。Fantôme Irisの世界観を超えることが、この世界では起こり得てしまうのだろうか。
(いや、でも僕がこっちに来てしまったってことは、本当は僕の世界が何らかの要因でこちらの世界を元に出来た世界って可能性もある訳で…って、なんか頭がこんがらがってきたぞ…)
燈にとって、二つの世界はまるで合わせ鏡のように思えて、考えれば考えるほど深みにハマってしまいそうだった。
「ええと…それで、ぼくら世界の話ですよね…」
「ああ、聞かせてくれるかい?」
話しているうちに整理がつくかもしれない。それに、詳しく話せば元の世界に戻る糸口を見つけてくれる可能性もある。
「ぼくの住んでいるところは日本という国で…」
FELIXの、好奇心に目を輝かせる姿はフェリクスそのものだ。
燈は御伽話をねだる子供のようなFELIXに、脳裏に浮かぶ今までの日常を語って聞かせた。
****
「我が君、そろそろお部屋にお戻りになった方がよろしいのでは?」
ついつい話し込んでしまった燈とFELIXが一息吐いたところで、LIGHTがすっと歩み出た。
「差し出がましいようですが、夜も更けて参りました。続きは明日にいたしましょう」
提案の形をとりつつもLIGHTにとっては決定事項だったようで、とっくに空になった全員分の食器を持って出て行った。時計はないが、随分時間が経っていることは燈にも分かった。
「ふふ、楽しい時間はあっという間だね」
「あはは…楽しんでもらえたなら良かったです」
ついでに元の世界に戻る手掛かりになると良いんですが、と小さく付け足す。FELIXが楽しんでくれていたのは嬉しいが、燈としてはただ楽しむだけでなく元の世界についての心当たりなども知りたいところだった。
しかし、FELIXは唇に人差し指を触れさせて、首を傾げた。
(…あ、フェリさんが考える時と同じ…)
フェリクスが思案する時の癖だ。こんなところからも類似点を見つけて、また少し元の世界が恋しくなった。
「…トモルは、元の世界に帰りたいのかい?」
「そ、そりゃそうですよ。ずっとここにいる訳にはいきませんから!」
「今すぐに?」
「え? …えぇ…それは…はい、出来れば…」
FELIXは何やら思案したまま、ずいと燈に顔を寄せる。どうして? 美しい顔にありありと不満の色が見えるものの、不満なのは燈の方だ。FELIXの間違いによってこの世界に突如召喚されたのだから、すぐにでも帰って元の世界がどうなっているのか確かめたいというのに、FELIXがなぜそれを不満に思うのか。
しかし、FELIXの表情から不満の色はすぐに消え去り、悪戯っ子のような笑みで燈の顔を覗き込んだ。
「…ふふ、ねぇトモル、我の眼を見てくれるかい?」
「…目…ですか?」
「あぁ、この瞳の色も、キミの言うフェリクスと同じなのかな」
突然、麗しい顔が鼻先の触れる距離まで近づく。思わずのけ反ろうとした燈の体は、しかしFELIXの腕に絡め取られた。
(瞳の色、瞳の、ひと、み……?)
至近距離で見るFELIXのライラック色の瞳は、確かにフェリクスのそれと同じだ。同じだと言うのに、どこか違う。見ているとクラクラして、酔ってしまいそうな、深く深くどこまでも吸い込まれてしまいそうな、そんな色だ。
「あ、れ……? なん、れ…?」
気がついた時には、燈の体から力が抜けていた。アルコールは摂取していないのに、舌が回らず、気持ちよく体が脱力する。体はFELIXの腕に支えられてやっと上体を起こしていられるようなものだ。
「やはりトモルは人間だね。ダンピールであるLIGHTには、あまり効かないんだ」
にっこり笑うFELIXから、眼が逸らせない。FELIXの声が何度も脳内でこだまする。
「同じ顔だけれど、さすがに魔力に耐性はなかったようだね。…トモル、我の言葉は聞こえているかな?」
「ふぁ…い」
「すまないね、トモル。LIGHTには効きが悪いものだから、ついいつもの調子でやってしまったんだ」
FELIXが燈を抱き上げる。花のように甘くて、少しだけスパイシーな香りを纏っているところはフェリクスと同じだ。吸い込むとクラクラして、のぼせてしまいそうになる。
「っあ…」
「ふふ、嬉しいことをしてくれるね」
ベッドに降ろされると途端に迷子になったかのような不安に襲われ、燈は思わずFELIXの服の袖を掴む。ほとんど力は入っていなかったが、それでもFELIXに燈の意図は伝わったようだった。
「大丈夫、どこにもいかないよ」
FELIXが燈の頭を優しく撫で、そっと部屋着の腰紐を寛げる。現代のバスローブのようなその衣服の隙間から、男らしく太い首と厚い胸板が顕になって、燈は思わず見惚れてしまった。
「LIGHTもそろそろ帰ってくるだろう。さすがにLIGHTのいないところで…というのは気が引けるからね」
FELIXが燈を見下ろして、微笑んだ。悪戯っ子のようでありながら、甘く妖艶なその表情に、燈の頸が甘くピリピリと疼く。
「我が君…? 何をなさっているのですか?」
「おかえりLIGHT、待ってたよ!」
「…燈に何を?」
「つい魔力を込めすぎてしまってね」
「答えになっておりません。何をして…いえ、何をするおつもりでしょうか」
LIGHTが燈の目の前で手を振る。燈、気を確かに持ちなさい、と呆れたように呟いた。
「ら、いと…?」
「我が君、こんな状態の燈に一体何をするおつもりで?」
「それはもちろん、燈の…いや、LIGHTの血を味わおうと思って!」
「はぁ?」
「はぇ?」
一層明るいFELIXの声に二人の声が重なる。怪訝な表現をする二人を前に、綺麗にハモったね、とFELIXはご満悦だ。
「だって、我がLIGHTの血を吸うわけにはいかないだろう? ダンピールとはいえ、半分は吸血鬼の血が流れてるのだから、共食いのようであまり気分が良くないからね。でも、燈は人間だから吸血することに何の問題もないと気づいたんだ!」
そういう問題なのか? 抱いた疑問が言葉に出来るほど、まだ体は自由になっていない。
「それに、我は確信したんだ! キミたち二人の性格や、燈の世界のDの料理の話を聞いて、パラレルワールドの二人は全く同じ存在なのだと。きっと、血の味も同じに違いない!」
LIGHTが額を抑えて俯くと、ベッドの上の燈と眼が合った。
その瞳は明確に語っていた。
『こうなった我が君は止められない』と。
己とLIGHT、大門とDの性質が似ているとなれば、もちろんフェリクスとFELIXも同じであることは想像に難くない。
そして、燈も、フェリクスの好奇心に振り回され続ける性質であるのだ。