人魚姫の夢――夢を見ているのはすぐにわかった。
立香は人魚だった。
色とりどりの魚たちと共に縦横無尽に泳ぎ回り、疲れれば生い茂る海藻の中に潜り込んで眠り、時には海上に行ってマシュやイルカたちと歌う。そんなお転婆な人魚の姫だった。
――ああ多分、寝る前にアンデルセンとキアラさんと話したからかな?
「なんだか騒がしいね。胸がザワザワする」
ある日のことだった。魚たちはどこか落ち着きなく右往左往している。イルカたちの姿も見えない。
「嵐で海上が荒れておるのだ。今日は上へは行くでないぞ、立香よ」
堅牢なサンゴのお城の中、金の髪と髭を蓄えたどこか見覚えのある父王が玉座に頬杖をつきながら立香を『知っているんだぞ』という目で見た。
人魚が海上へ行くことは禁じられている。実の所立香自身が知ったのはたった今だが、『そういうことになっているのだ』と頭は認識する。
これは夢だからだ。
「はあい」
立香は素直に返事をして、管制室によく似た玉座の間を後にする。海上が駄目でも遊び場はたくさんある。マシュとどこかへ行こう。
そう思いながら城を出ると、頭上から光るものがゆっくりと海底目指して落ちてくるのを見つけた。手を伸ばして受け止めると、それはローマの皇帝が彫られた金貨だった。はっとしてまた頭上へ顔を向けると、他にも様々なものが落ちてきている。
食器、トマト、宝石、たくさんの木片、ガラス、鉄くず、訳の分からないもの――ヒト。
「大変だ!」
驚いた立香は慌てて尾びれで海水を蹴って駆けた。夢の中独特の上手く進めないもどかしさを感じつつも、目に入った人間の腕を掴んで海面を目指す。
上は嵐だと聞いたばかりだ。どうやら船が難破したらしい。
人魚とはいえ、ヒト一人――それも体躯からして男性だ――を抱えて泳ぐのは難儀する。何とか海面に顔を出したが、男は意識がなく、ぴくりとも動かない。
「えっと、気道確保して、人工呼吸……?」
雷鳴が轟く。
浮いた板切れに男を載せて顔を改めるが、稲光に照らされた男には顔がなかった。これでは人工呼吸どころか自発的な呼吸さえできまい。
「なっ、なんで!? ウソでしょ!?」
これが夢であることを忘れた立香が焦って叫び本来口があるべき場所を指で何度も擦ると、男に口が現れた。ゲホゲホと男は咽て海水を吐き出す。
良かったこれで大丈夫だとホッとすると、いつの間にか生えていた瞼がうっすらと開かれて、乱れた白黒の毛の間から黒曜のような瞳がちらりと見えた。
(あ、いけない)
顔を合わせてはいけない。人魚として咄嗟にそう思った立香は海の中へざぶんと飛び込む。
嵐の海上のど真ん中に船の残骸と共に取り残された人間は果たして自力で陸地へ戻れるのだろうかと一瞬考えたが、これ以上関わると父王になんと言われるか分かったものではない。
「……まあ、道満だからなんとかするでしょ」
と同時に思ったことをぽつりと呟く。
「夢に出てくるのは珍しいな」
――シーンが飛んだ。
立香は大鍋の前に立っている。
蛸の脚を持つ大きな人魚がゆらりと大鍋の向こうを泳いでいた。
「ンンンン――ヒトとなり陸へ行きたいとは随分と愚かな、いえ、愉快なことを考えたもので」
「……別に陸になんて行きたくないんだけど……」
即座に状況を把握した立香は思ったことを素直に口にする。元々人間である立香にとっては海の中の方が物珍しいものが沢山ある。まだまだ行ってみたいところがあるというのに、人魚姫という大本の話の展開には逆らえずに陸へ行かされるらしい。
「あとなんで魔女役まで道満なの? さっき王子役だったのに?」
疑問はどちらも無視された。
「人魚であれば三百年は生きられるというのに……百年も生きられないヒトになりたいと申されるのか」
締め切り前の作家に横道にそれるなとでも厳命でもされているのか、わき目もふらず話を進める道満はその長い蛸の脚で立香を覆うように広げる。
「しかし、まあ……人魚には魂がありませぬ故。死しても泡になり水面を揺蕩うだけ。極楽も地獄もありませぬ。それほどまでに魂を得て地獄の底が見たいと言うならば、よろしい、差し上げましょう。ただし薬をただ飲んでも魂は得られませぬ。愛される必要がありまする、その王子とやらに」
「……無理ゲーでは?」
なぜなら『王子』は道満なのだ。
「そもそもさ、わたしが万が一『王子』に愛された場合、道満的にオーケーなの? 許せるの?」
浮気だのなんだのと言われて呪われてはたまらない。念のために確認すると、一瞬道満は蛸の脚をこわばらせた。
「ンン……どちらも拙僧なので、せぇふかと!」
「そっかぁ……」
とまれかくまれ、押し付けられる形で立香はヒトになる薬を手に入れてしまった。薄いすみれ色は、どこかの星見のお茶を思わせる。
「ところでこれ、飲んだら痛いんだって聞いたんだけど」
「ええ、ええ! ですので是非とも拙僧の目の前で飲んで頂きたく!」
「えっ絶対嫌……。そもそもこんな深いところで肺呼吸になったら溺れちゃうし」
「ンンンン!」
不満そうな魔女道満の家を後にする。ヒトになる気はない。なったら終わりだ。薬は捨ててしまおうと振りかぶり――しかし実行に移す前にまた場面が切り替わった。
(回避できなかった……)
砂浜に見慣れた二本足で倒れていた立香は、あれよあれよという間に王子拾われ、城に迎え入れられていた。
(じゃあもう泡になるのが予定調和だしなぁ)
当然声も失っているので、立香の意思を伝えることは出来ない。投げやりになった立香は物語の流れに身を任せることにした。
元々が人間だったせいか、それとも夢の中であるためか、足の痛みはない。女奴隷に混じって踊れと言われれば見様見真似で踊ることも出来るだろう。下働きをしろと言われれば苦も無く出来るだろう。
だが一つ予想外のことがあり、王子は物言わぬ立香を大層気に入ったようだった。働かせようとした臣下たちに、下にも置かぬ扱いをしろと周囲にお触れを出した。
(もしかして道満の顔をしているだけで、王子様の要素が強いのかな……? だとしたら似合わないな)
同じ顔をしていても中身まで同じとは限らない。サーヴァントではよくあることだ。その上、これは夢の中なのだから。
だが道満の顔をした王子は二人きりになって立香を逞しい太腿の上に座らせると、こう言い放った。
「囀るだけの煩い女共に飽き飽きしていたところです。その点貴方は素晴らしい。何をしても誰の助けも呼べぬとは! なんと好都合か!」
(全然嬉しくない……!)
王子は自分の寝室の手前の部屋を立香の寝床にしていいと言い、部屋を明け渡した。そして執務の合間に立香の元へとやってきてはあれやこれやと世話を焼き、部屋に入り浸っては立香を可愛がる。
喋ることが出来ない以外立香は自力でなんでもできるのに、髪を梳かすのも着替えをするのも手を出されて辟易した。口がきけないので拒否の意をもって何度も首を横に振ったが、遠慮だと思われてしまう。
その内、慣れてしまった。
流行りだというドレスを着せられ飾り付けられて連れまわされ、また丁寧に脱がされることに。
(太陽が黄色い……)
立香は寝室に差し込む午後の陽の光をベッドの上でぼんやりと眺めた。寝直すと言って王子は自室に戻った。海の中では拝むことのできない光だが、果たしてこんな風に見たいと思っただろうか。
(これって愛されてる内に入るの……?)
実感はない。これではただの玩具になっているだけだ。否、幼子が人形で遊んでいるほうがよっぽど愛情がある。
立香の胸は虚しさで塞がれる。せめて夢の中でくらい、ちゃんと愛されたいものだ。
本来の流れならもうそろそろ王子の結婚相手が現れそうだが、一考にその様子がない。なんならそろそろ目覚ましが鳴って起床したいのだが、その気配もない。
のろのろとベッドから起き上がった立香はバルコニーへと出た。寝室は海に面しており、海原が見下ろせる。もはや懐かしい海。マシュや父王、友人の魚やイルカたちはどうしているだろうか。
「先輩!」
慣れ親しんだ声と共に波音とは違う水音がして顔を向ける。薄紫色の美しいヒレが揺れている。
(マシュ!)
思わず立香は手すりから身を乗り出した。いっそそこから海へと飛び込んでしまおうと思ったが、二本足の立香では人魚のマシュとは共にいけない。
「事情は聴きました! これを!」
マシュが投げたものが立香のそばの手すりに突き刺さる。見なくてもそれがなんなのか、立香には分かっている。この流れはやはり避けられないのか。
「これで王子を刺せば先輩は人魚に戻れます! 早く戻ってきてください! あの王子に愛はありません! 先輩が泡になるまで飼い殺しにするつもりなのです!」
泣き叫ぶようにそう言ってマシュは波間に消えていった。無言で見送った立香はナイフを手すりから引き抜く。銀色が陽光を跳ね返して眩しさに目を細めた。
ゆっくりと踵を返し、ナイフを持ったまま室内へと戻る。
忍び足で隣の部屋に入り込む。ベッドにはまだ王子が眠っており、無防備な寝顔を晒している。今ならば心臓を貫くのは容易いが、散々迷った立香は首を横に振る。
(――出来ない。出来るはずがない)
本来の人魚姫だって、自分が生きるために愛する人を殺せなかった。
(潔く泡になろう)
立香がナイフを下ろしたとき――
「否。否ですよォ、立香」
静かな声がして立香はびくりと飛び上がる。
いつの間にか背後に立っていたのは道満だった。魔女でも、王子でもない、ただの道満だった。
瓦解するように周囲が暗転する。お城にいたはずだが、いつの間にか二人が立っているのはどこでもない場所だ。
「出来る筈です。殺せるはずです。何故ならば貴方は―――カルデアの貴方は、今までずうっと、そうしてきたでありましょうや! 自らが生きるために異聞帯の無辜の民を消してきた貴方が!」
道満は爛々とした目で笑い、その大きな手で立香の手ごとナイフを掴んで自らの心臓のあたりに先端を押し当てた。切っ先から肉の弾力を感じて、立香は声のない喉を震わせる。
「それとも人殺しはサーヴァントの手を借りねば出来ませぬか。なに、サーヴァントも道具の一つと思えば、小刀とそう変わりありますまい」
ナイフの先が触れた箇所からじわりと血が滲んで広がる。立香がどれだけ力を振り絞っても彼の手はびくともしない。
「っ、……道満」
「はい」
足と引き換えになくしたはずの声が戻っていた。
「だってこれは、ただの夢だって分かってるから」
「……はい?」
下総の時のような精神だけ特異点に移動したパターンを疑いすらしない、支離滅裂な夢だ。
「これが現実で、ここが特異点とかなら、多分わたしは道満に死んでもらうと思う。でもこれは夢だから」
だから殺したくない。立香には泡になる選択の自由がある。
「道満が珍しく夢に出てきてくれたと思ったのに、これを悪夢で終わらせたくないよ」
道満はまじまじと立香を見下ろした。
「泡沫と化すのは悪夢にならぬ、と? 夢の中の死が現実の死につながるやもしれませんぞ?」
立香はフフと口角を上げる。
「知らないの? 人魚姫は泡になった後風の精になって、三百年後に自力で魂を得るんだって。天国にも地獄にも行ける」
寝る前に作者から教わったばかりの話だ。
だから王子を殺しても殺さなくとも、結局は同じなのだ。
「流石に三百年も夢のなかにいるわけにはいかないから、そろそろ起きたいんだけど」
「……好きになさればよろしい。ここは貴方の夢の中なのだから」
冷めた声で道満は立香の手を離した。
手の中にあったはずのナイフはいつの間にか消えている。
解放された手を広げ、立香はもう血の流れていない道満の胸にその顔をうずめた。
――アラームの音で目が覚めた。
「疲れた……」
立香は大きく伸びをしてからため息をついた。眠る前より疲れている。随分長い夢を見てしまった。
「悪趣味」
隣でベッドの八割近くを占領するサーヴァントをねめつける。
「ハハハ、何を今更。マスターこそ、よっぽどですぞ」
呆れた声色で言いのけた男の額を、立香は黙って指で弾いたのだった。