ポニーテール 初夏のシティ繁華街は、今日も溶けそうなほどに暑かった。建物の影の間を縫うようにして、僕は中央の広場へと向かう。一応折り畳みの日傘を持ってきているのだが、それだけでは日光を防ぎきれなかったのだ。影に隠れるのは上半身だけで、長ズボンに覆われた僕の足には、容赦なく紫外線が襲いかかっていた。
広場の入り口を見つけると、僕は思いきって影から抜け出す。直射日光の降り注ぐ歩道を横切ると、駆け足で門の中へと足を踏み入れた。ベンチの並ぶエリアへと進んでいくと、傘を傾けて前方を窺う。目的の人物の姿がないと分かると、今度は反対側のベンチへと足を向けた。
「おい」
しばらくその辺りを歩いていると、背後から声が聞こえてくる。予想もしなかった方向にびっくりして、僕は小さく肩を震わせてしまった。傘をずらしながら振り返ると、見慣れたスニーカーが視界に入ってくる。子供に人気なブランドのロゴが縫い付けられたその靴は、僕がルチアーノにプレゼントしたものだった。
「なんで素通りするんだよ。さっきから、僕はずっとここにいただろ」
「えっ?」
沸き上がった不満をぶつけるように、彼は尖った声で言葉を紡ぐ。そんな彼の姿とは対照的に、僕は言葉を失ってしまった。目の前に立っていたルチアーノの姿は、いつもと雰囲気が違っていたのだ。服装は何一つ変わらないのに、髪型だけが見慣れないものへと変化している。
「なんだよ。そんな顔して。何か言いたいことでもあるのか?」
呆然と顔を見つめている僕を見て、彼は不満そうに言葉を重ねる。斜めに吊り上げられた眉を見る限り、機嫌を損ねているのは一目了然だった。ここで何かを答えないと、彼はさらに機嫌を損ねるだろう。日傘を傾けて視界を遮ると、僕は慌てて口を動かした。
「違うよ。ただ、ちょっとびっくりして…………」
慌てて言葉を返しながらも、僕は視界の隅から彼を見つめる。真っ直ぐに視線が吸い込まれていくのは、頭部から溢れる髪の毛だった。赤くて艶やかな美しい髪は、上の方でひとつに結ばれている。いわゆるポニーテールという髪型だった。
「何にびっくりしてるんだよ。もしかして、君は髪型を変えたくらいで恋人を見失う人間なのか?」
「違うよ! 違うけど、やっぱり見慣れなくて……」
鋭い声色で問い詰められて、僕は何も言い返せなくなってしまう。髪型の変化だけが原因ではないとはいえ、すぐに彼を見つけられなかったのは本当なのだ。ここでいくら弁明したとしても、彼は機嫌を損ねるだけだろう。僕が口籠っていると、ルチアーノは痺れを切らしたように鼻を鳴らした。
「目の前を素通りしたってことは、見失ってたってことだろ? もう、いいからさっさと行くぞ」
不機嫌を滲ませながら吐き捨てると、彼は僕の前を横切っていった。早い足取りで向かった先は、中央広場の出口である。置いていかれそうになって、僕は慌てて後を追った。真上から照りつける日差しに焼かれて、首筋から新しい汗が流れていく。
なんとか彼に追い付いた時には、全身が汗びっしょりになっていた。建物の影に身を潜めると、タオルで首回りの雫を拭う。走ったことで喉がカラカラになっていたが、水を飲んでいる暇などなかった。取り出したペットボトルで身体を冷やすと、ルチアーノの隣に肩を並べる。
彼が向かった先は、屋内型のデュエルコートだった。デュエルの練習をするために、予め予約しておいたものである。夏のシティはとんでもなく暑いから、そうでもしないとデュエルすらできないのだ。こんな灼熱の中で動き回っていたら、すぐに熱中症で倒れてしまうだろう。
目的の建物の中に入ると、ルチアーノはエレベーターのボタンを押す。目的の階に移動している間に、僕はペットボトルの水を流し込んだ。半分凍って薄まった麦茶が、僕の胃の中へと滑っていく。なんとか喉を潤すと、僕たちはフロアへと降り立った。
「ほら、とっととしろよ」
ルチアーノに促されて、僕は受付へと進んでいった。名前と予約時間を伝えると、カードキーを受け取って室内に入る。まだ不機嫌そうなオーラを放ちながらも、ルチアーノは後をついてきた。
予約していたエリアに辿り着くと、ストレッチをしてウォーミングアップを済ませる。怪我無くデュエルを済ませるためには、準備運動は必須だったのだ。室内は冷房が行き届いているから、身体を動かしても汗は出てこない。夏が来る度に実感するが、文明の利器の発展がありがたかった。
今日のデュエルは、別のタッグチームとの共同練習だった。僕たちが予約した時間の一時間後に、練習相手のチームがコートへとやって来ることになっている。相手チームも練習で忙しいらしく、その時間しか空きがなかったのだ。ただ待つだけでは時間が勿体ないから、彼らが来るまではルチアーノと対戦をすることになった。
しかし、今この状況でデュエルをするのには、大きな問題があったのだ。ルチアーノの結んでいるポニーテールが、気になって仕方なかったのである。彼が身体を揺らす度に、尻尾のような赤毛がゆらゆらと揺れているのだ。縦横無尽に跳ねるその姿は、蛇か何かのようだった。
「おい、何ボーッとしてるんだよ。もっと集中しろよ!」
そんな僕の姿に気を悪くしたのか、ルチアーノが尖った声で言う。さっき機嫌を損ねたばかりだったから、いつもよりも鋭い語調だった。これ以上怒らせるわけにはいかないから、僕は慌てて気を取り直す。頬を叩いて気合いを入れ直すと、再びルチアーノに向かい合った。
「ごめん……」
小さな声で答えると、僕は手札に指をかける。彼を視界に入れないように気をつけながら、丁寧にフィールドを確認していく。状況を把握すると、今度は反撃の手段を考えていった。
それから、必死の思いで反撃を続けていくうちに、なんとかそのデュエルは決着を迎えた。僕の動揺が反映されてしまったのか、勝敗はルチアーノの勝利である。とはいえ、僕も本気で戦っていたから、全くの敗北というわけでもない。僕の隣に歩み寄ると、ルチアーノはトゲを刺すように言った。
「どうしたんだよ。今日の君は、随分様子がおかしいようだな。もしかして、変なことでも考えてるのか?」
「違うよ!」
とんでもない言葉を投げかけられて、僕は慌てて否定の言葉を返す。本当は完全否定などできないのだけれど、今はそう言うしかなかったのだ。僕が邪なことを考えていたと知ったら、彼はさらに機嫌を損ねるだろう。そうなったら、この後のデュエルにまで影響が出るかもしれないのだ。
「ふん。どうだかな。……とにかく、次は絶対にしくじるなよ」
まだ不機嫌の残った声で言うと、彼は僕の隣から離れていく。そういうしているうちにも、コートに対戦相手のチームがやって来た。向かい合って挨拶を交わすと、お互いの位置につく。デュエルディスクを起動させると、ようやくデュエルが始まった。
ダイスロールで先攻と後攻を決めると、順番にターンを回していく。相手チームが先攻を勝ち取ったから、僕は一番最後になってしまった。めまぐるしく変わっていくフィールドを眺めながら、僕は次の手を考える。展開が半分くらいまで進んだ頃に、僕はあることに気づいてしまった。
「僕のターン!」
ターンを受け取ったルチアーノが、甲高い声で宣言する。彼が手札を掴み取ると、その背後で尻尾が大きく揺れた。左右に跳び跳ねる赤色の下から、真っ白な肌が覗いている。無防備に晒されているそのパーツは、普段なら隠れているうなじだった。
「っ……!?」
とんでもない事実に気づいてしまって、僕は小さく息を漏らす。心臓がドクンと音を立てて、視線がそちらへと吸い込まれてしまった。なんとか思考を切り替えようとするが、煩悩に染まった頭は簡単には落ち着いてくれない。目を閉じて深呼吸をすると、なんとか頭を切り替えた。
そうこうしているうちにも、デュエルはどんどん先へと進んでいく。まだ思考がまとまっていないというのに、あっという間に僕のターンが来てしまった。動揺を隠してターンを受け取ると、必死の思いでフィールドを睨み付ける。頭の中で展開ルートを確立させると、僕は手札に手を伸ばした。
しかし、こんな煩悩まみれの脳内で、まともにデュエルなどできるはずがない。僕にできたフィールド展開は、相手の展開を牽制するくらいのことだけだった。シンクロ召喚での反撃も試みたが、モンスター効果で簡単に防がれてしまう。相手にターンを渡してからも、相手の攻撃を防ぐだけで精一杯だった。
さらにターンが移ると、僕は横目でルチアーノの様子を窺う。視界の隅に映し出された彼は、鋭い視線で僕を睨んでいた。僕が冷静さを失っていることが、彼の目から見ても分かったのだろう。慌てて前に視線を戻すと、目の前のデュエルに集中する。
とはいえ、僕とルチアーノがタッグを組めば、難敵になるような相手はほとんどいない。今日の対戦相手とのデュエルも、ライフを半分以上残して勝利した。デュエルディスクの電源を落として挨拶を交わすと、僕はルチアーノに視線を向ける。相手タッグが立ち去ったことを確かめると、彼は不満そうにこちらへと詰め寄った。
「おい、どういうつもりだよ」
僕の姿を睨み付けると、ルチアーノは低い声で言う。僕の抱えていた煩悩など、始めからお見通しのようだった。弁明をする前から図星を突かれて、僕はおとなしく口を閉じる。足元に視線を落とすと、辛うじて小さな声で呟いた。
「ごめん……」
「ごめんじゃないだろ! 君の判断次第で、デュエルに負けてたかもしれないんだぞ! これが大会だったらどうするつもりだったんだ?」
「それは…………。さすがに、大会でよそ見したりはしないよ」
「どうだろうな。君のことだから、僕に気を取られてミスするかもしれないぜ。そうなったら、始末の対象は君になるかもしれないな」
「そんなことしないって! 信じてよ!」
必死に弁明を続けるが、彼に信じてくれる様子などなかった。デュエルディスクを光の中に溶け込ませると、踵を返して出口へと向かっていく。
「ほら、帰るぞ」
「え?」
彼の行動の意図が分からなくて、僕は間抜けな声を上げてしまう。そんな僕の姿を見て、ルチアーノは余計に眉を吊り上げた。
「当然だろ。今日の君は、全然やる気がないじゃないか。そんな状態で練習をしたって、大して上達なんかしないだろ」
鋭い声で吐き捨てると、彼はデュエルコートから出ていってしまう。一人で練習を続けるわけにもいかなかったから、僕も彼の後を追うことにした。二人並んで建物の外に出ると、黙ったまま大通りを歩いていく。再び炎天下に晒されて、僕は汗が止まらなくなってしまった。
さりげなく隣に視線を向けると、見慣れない髪型のルチアーノの姿が見える。大きく揺れる尻尾の下からは、真っ白なうなじが覗いていた。普段は見えない場所ということもあって、その姿は妙に扇情的である。慌ててそこから視線を逸らすと、僕は小さな声で呟いた。
「あのさ」
「なんだよ」
「ルチアーノは、あんまりうなじを見せない方がいいと思うよ」
思いきって言葉を口にすると、彼は鋭い視線でこちらを睨み付ける。大きく息を吸い込むと、いつもよりもさらに低い声で言った。
「お前、いい加減にしないとぶっ潰すぞ!」
彼の気迫に圧倒されて、僕は小さく息を飲む。僕にとっては何気ない言葉だったのだが、彼にとっては許しがたい発言だったようだ。こうなってしまっては、今さら何を言ったところで、彼の機嫌を直すことはできないだろう。肩を怒らせる彼の横顔を眺めながら、僕は一人で途方に暮れた。