愛と海ドライブでもするか、と誘ったのは雨彦の方からだった。
あまりに急な物言いすぎたと照れくさくなったのは声に出した後だった。それまで俯いていた古論は、その言葉に顔を上げて「いいですね」とだけ答えた。よし、と雨彦はハンドルを切る。目的地変更だ。
車は首都高へと入る。平日の深夜の道は空いていた。
普段明るく元気な人間が大人しくなるとこうも静かなのか、と助手席を気にしながら思う。
相変わらず古論は、この雨彦の車に乗り込んだ時から、その端正な美貌に静けさだけを乗せていた。
何かに落ち込んでいる、と気付いたのは、今日の現場に集合した時。
「クリスさん大丈夫?」
本人はいつも通りに振る舞っていたが、北村と雨彦には分かる。
これは何かあった。
滅多に落ち込んだり塞ぎ込んだりしない男だ。
だからと言って、根掘り葉掘り聞くほど、北村も雨彦も野暮ではない。
何か事情があるんだろう、言う必要のない事なのだろう。本人が話す事ができるまでフォローしつつ見守る。
自分達のユニットはそんな形が常だった。
ついさっきまでこの車に乗っていた北村も、素振りこそ見せないが心配しているらしく、珍しく車を降りる際に「帰り道気を付けて、無理しないでねー」と古論に声を掛けていった。
実を言うと雨彦は、古論が落ち込んでいる理由に見当がついている。
落ち込んでいる、というよりも心の整理をつけているように見える。
何かを考え込み、それこそ心の荒波が落ち着くのを、黙ってじっと見守っているようにも思える。
だから口数が少ないのだろう。彼はきっと、波や海底を眺める時にもこんな風に静かなのだと想像できた。
「昨日のオフは、しっかり休めたか?」
古論の腕に、時々可愛らしいブレスレットがぶら下がっているようになったのはここ最近のことだ。女だな、とすぐに分かった。それも妹が贈ったものとは思えない。男ものであるが細身のチェーンに、シルバーの飾り。間近で見たことはないが時々煌めいているので、小さなブルーの宝石かなにかがついているのかもしれない。明らかに、自分の存在を慎ましやかに誇示しながら古論本人がつけていても違和感のない、選び抜かれた品だとわかる。普段アクセサリーを付けない男にも似合う。
アイドルといっても男だから、同じ事務所内でも恋人がいるメンバーがいるのは知っていた。やれ付き合い始めただの、別れただの、そんな話はさすがに雨彦らのユニットにまで聞こえてくることは少なかったが、人生を謳歌しているのだなと思い微笑ましくなったのだった。週刊誌にすっぱ抜かれでもしない限りは、好きにさせている事務所の方針も頷ける。恋は人を深くする。アイドルとしても、男としても。
車は都内を抜けて横浜方面へ。特に行く宛は無かったが、助手席に古論を乗せているとつい海の方へ向かってしまう。そこまで考えて、ふと良い場所があるな、と雨彦はルートを変更する。今の古論は海よりももっと別の場所がいいかと思ったのだ。
「どこに行くのですか」
静かだった古論がふと呟いた。さぁ、俺も分からんと答えながら、アクセルを踏む。
「雨彦、今日は…」
「うん?」
「…すみませんでした、気を遣わせてしまったかと。想楽にも」
「お前さんが何となく本調子じゃないのは分かったがな、仕事に影響してないんだからいいのさ」
「影響、してなかったでしょうか?」
「ちゃんとやってただろう」
カメラを向けられると、しっかりいつもの顔になるのは流石だなと思った。それは本心だ。
「…結局、こういうところが良くないんですね」
遠い目をして息をつく。ため息というには軽く、しかし確信を持った語尾から、その言葉が古論の心の波をなだめる為に吐き出されたのだと分かる。
「何か言われたのか」
誰に、とは言わなかった。それが誰なのか知る必要も、誰であるかもどうでもいい。
「私は、ひとつだけの為に生きる事が出来なくなりました」
「お前さんが?」
つい、疑うような言葉が出た。常々、海のために生きているような男だ。
「確かに以前は、海さえあればと思っていました。私が帰る場所は海だとさえ。だから大学の人付き合いも、正直煩わしい時もありました。」
言われて、それはそうだろうなと思う。本人はあまり自覚がないが、古論には人が集まりやすい。見た目だけでなく、陽の雰囲気を持つ男に近付きたいと多くの人が自然に思っただろうと推測できる。
「でも今は、海だけでなくいろんなものが大切になったんです。事務所の皆さんや、プロデューサーや、想楽と…あなたと。大切なファンの皆さんも」
古論は口元に笑みを浮かべた。そういえば、今日初めて見るかもしれない。心の底からのあたたかい笑顔だ。
「オレもそうさ。もちろん北村もな」
大切なものが増えてしまった、というのは嬉しいことのようで複雑だ。守るものが増える。それでも、手放せなくなっている。
車が山道に入った。舗装はされているがガタつく道に、2人は自然と会話をやめた。
坂道を上っていくと、拓けた場所に出た。
小高い山の上だ。砂利の、駐車場といってもロープが張られただけの場所に車を止めエンジンを切った。
「降りよう」
「はい」
助手席から降りた古論は、その景色に目を見張ったようだった。駐車場の向こう側は斜面になっており、落ちないようロープが張られているが、古論はその手前まで走っていった。
「雨彦!この場所を知っていたのですか?」
「あぁ。この山の上が神社でな、そこの掃除の仕事の際に立ち寄ったんだ。」
視界の両脇に木々が生い茂り、一箇所だけ草木が低くなった場所から街を見下ろす事ができる。街の向こうは海だ。夜の海は暗い。ところどころに白い光が見えるのは、おそらく漁船。時々チラチラと瞬く光は、街の向こう岸の灯台の明かり。
そして夜空には満天の星だ。海と空の境界線は不確かで、海の黒と空の濃紺が溶け合うようだった。