未定男は生粋の軍人だった。父は軍部総督、母は医務局で働く看護軍人。いつも国とはなにか、戦うとはなにかを聞かされ、育ってきた。
15の時、士官学校に入った。幼い時から父自ら手解きを受けていたので、学校の平凡な訓練は退屈でしょうがなかった。17になった夏、士官学校の同級生と街に出かけた。士官学校は全寮制で、関東の田舎から出てきていた男にとって、東京という街で遊ぶのは刺激的だった。同級生は、東京出身だったから危ない遊びや男1人だけでは入れない場所まで精通していて、男を連れ出した。
ある時、言われた。「女を抱いたことはあるか?」ない。まだ純粋で、生粋の童貞だ。口付けを交わしたことすら無かった。女子の手を握るなどもってのほか。男にとって、女とは未知の生物だった。「それなら、練習しておいた方がいい」練習?「お前は士官学校でも1番の成績だ。おそらく首席で卒業するだろう。出世の道に、女と酒はつきものだから、今から練習しておけ」まさかこれから、遊郭にでも行くのか。女を抱きに?「そんなわけない、まだ士官学生のうちから女を抱いて、軍人になってからその女に子供が出来たなんて言われたらどうする。後の祭りだ。抱くのは女じゃない」じゃあなんだ。「男だよ男」
暗転。
行った場所は上野だった。江戸の終わりから、男娼の店──陰間茶屋が多く立ち並ぶ。遊郭と違うのは、着飾って微笑むのがすべて男だということ。平均年齢の低さに男は驚いた。「小さいうちから攫ってきて、仕込んでから店に出すのさ。女より妊娠の心配もなくて安全だ。病気にさえ気をつければなんてことはない。」日本には昔からある風習。男が男を買うなど造作もない。あの織田信長さえ男色だったという。
「ここだよ」ついた店は、この辺りでも1番大きな店構えをしていた。「好きなのを選べ、金は自分で出せよ」その代わり、遊郭に行くよりずっと安い。友人はさっさと店先に入って、馴染みの男娼を指名し奥に消えてしまった。男は悩む。男なんて抱いたことはない。好みさえも分からない。自分のブツがうまく働いてくれるかも分からない。そうやって突っ立っていると、店主らしき年嵩の男が声をかけてきた。「初めてかい?」そうだ。「なら、1番クセのないのをやろう。1番人気は今日は機嫌が悪い」クセのないの…。「腕はいいぞ。初めてのお前さんにはちょうどいい。」紹介されたのは、太い眉にぽってりした唇が特徴的な黒髪の男だった。年は男とほぼ同じように見えた。それ以外の陰間はみんな幼いか、男より年上の妖艶な者ばかりだったから、こんな人に相手をしてもらうのは、と少し怖気付いていた。男は、これでいいと頷いた。「じゃあ先に前金だ。」男は手巾から銭を出した。「あいよ。部屋は2階だ、お茶を運ばせよう」一応風俗とはいえ、お茶屋の体を崩さないらしい。「こっち」その陰間は、そう言って男の手を握った。色白でふっくらした指先が、柔らかく男の無骨な指を包む。名前は?「瀞(きよい)」そう。瀞さん、よろしく。言うと、瀞はクスッと笑った。「さん付けしなくてもいい」でも、初対面だ。「そうだね、じゃあ俺もあなたをさん付けで呼ぶ」山形だ。「山形さん」あっという間に2階についた。間仕切りの障子を締め切った4畳ほどの空間には、一組の敷布団と、体裁を保つための茶器が置かれている。店主の男は、先ほど言った通りすぐにお茶を運んできた。ごゆっくり、と言うのを忘れずに。瀞は慣れた手つきでお茶を注ぐ。「初めてですか?」うん。友人に連れられて。「軍人さん?」うん。「素敵。俺もそうなりたかった」そんないいものじゃないよ。瀞は微笑む。「それでも、ここよりはずっと良い」その横顔が悲しい影を負っている。スッと伸びた鼻筋に、部屋で唯一灯された時代錯誤な行灯の影が落ちる。綺麗な人だ。「あちっ」瀞が声を上げて、茶器から手を離した。大丈夫?思わず手を取ると、瀞がじっと見つめてくる。その真っ黒な、何もかも見透かすような瞳に吸い込まれて、男は瀞に口付けた。彼の吐息が漏れる。男にとっては初めての口付けだが、瀞の唇は柔らかくあたたかく男をつつんだ。静かに目を伏せた瀞に、男はたまらない気持ちになって肩を抱き寄せる。女ではないから想像よりがっしりしている。それでも肩周りは、男が知るような男(訓練で肩を組む時に触れる筋肉質な太い腕)のものではなくて、どこか頼りない。「いいですよ」その瀞の言葉に、男はハッとして、だけど確かに情欲が湧き起こるのを感じて、気持ちのまま布団の上に倒れ込んだ。
暗転。
場所は変わって士官学校。男と、あの日の友人が木刀を握っている。「どうだった昨日は、随分とお帰りが遅かったな」さぁ、帰り道が分からなくなって。「まさか、道は一本道だったはずだぞ。相当あれが良かったな」何を言ってる、俺はお前に付き合わされたから仕方なく。「ふん、でろでろの顔をしているな、締まりがないと教官に叱られるぞ」友人が男に向き合って攻めの姿勢を取る。男はなんなくそれをかわした。お前こそ、あの店にはよく行くのか?「まぁな、初めは兄に連れられて行ったんだ。お前も覚えておくといいと」なるほど。「瀞というのを付けたのか?見る目があるな、お前」店主に無理やり勧められたんだ。「俺が昨日買ったのは瀬(らい)といってな、店でも二番目に麗しいやつだ。その点、瀞は店でも特に人気でも不人気でもない。顔もそこそこで、技術はいいらしいが愛嬌がない。そうだっただろう。」さぁ、初めてだから分からない。「はは、まぁそうか。一定の客がつかないらしい。時々熱烈なのがいるが、瀞の方から拒否するらしく、店も困っていると言っていた。お前もそうなるなよ」まさか。俺はあの一度きりだ。「そうか、ならまた別の店を紹介してやろう。俺は詳しいんだ」また呑気なことを。それよりも、俺に一度でも成績で勝つ努力をしたらどうだ。「なにを言うか、次こそ俺が1番だ」木刀が打ち合う音が響く。
暗転。
陰間茶屋。2階。紙巻たばこを吸う瀞の後ろから、男が抱きしめている。「山形さん、帰らなくていいの?」いい。今日は外泊届を出している。「でも、どこに泊まるか書くんでしょう。そこにいないと大変じゃない?」誰もいちいち確認なんてしない。そんなことより瀞、たばこなんて吸わないでこっちにおいで。「もう、山形さんはせっかち。少し休ませて」久しぶりに会えたんだ、瀞は嬉しくないのか。「嬉しい。でもさっきから、なにか焦っているように見えて忙しない。何かあったの?」何もない。瀞が好きだから一緒にいたいだけ。「本当?」本当だよ。ほらおいで。
暗転。
士官学校卒業式。首席代表挨拶は、男が務めた。「国のため、天皇陛下のため、力を尽くすと…────」
本当にそうだろうか?男の頭に浮かぶのは、いつもたった1人、紙たばこの匂いをまとった彼だけだ。
暗転。