Good luck 2 イデアは、自分の立場をよく理解していた。
自分はシュラウド家の人間だということ。そして、遠くない未来、家を継がなければならないということ。
シュラウド家は、ブロットを浄化する「祝福」を血に宿した一族だ。ファントムを封じ管理する、冥府の番人という責務を担っている。
シュラウド家を継ぐ、ということは、外界から距離を置き、冥府の番人として一生を捧げる、ということであり、祝福を宿す血を後世に残す責任を負う、ということでもあった。
「お相手は多分、確実に炎の子が生まれるよう、ハズレくじを引いた、島に住む遠縁の誰か。これも、確定事項」
灯りを消したままのS.T.Y.X.の自室で、イデアは独り、ベッドに横たわっていた。S.T.Y.X.の制服に身を包み、一切の感情が抜け落ちた冷たい無表情で、薄暗い部屋の宙空を見つめながら、他人事のように呟く。元々整った顔立ちは、無表情になるとますます端正さが際立ち、近寄り難さすら感じさせた。
しかし次の瞬間、イデアはクワ、と目を見開くとベッドから飛び起きて、幼い子供のように大袈裟な身振り手振りで天に向かって吠えた。
「……いや確かに確定事項ですけど?! そうは言っても明日て! 急すぎんか?!」
悲痛な叫びを放った後、イデアは再び倒れ込むようにベッドへ突っ伏し顔面を枕に埋め、力なく呟いた。
「……ハイ、と喚いたところで、1、2年早まっただけの話。内部の結束を外部にアピールしなきゃって事になったのは、自業自得ですし。想定の範囲内ですわ……」
オルトと共にファントムの解放を企てた件の後始末で、イデアは実家に帰省していた。レテが機能しなくなったため、想定していたより外部への影響が大きくなってしまったからだ。内部の結束と、今後も変わりなく番人としての責務を果たすことを、対外的にアピールしなければならなくなった。そのためには、後継者であるイデアが、反省の意味も込め、早々に身を固め、管理体制を盤石にするのが最適解だろうと、他ならぬイデア自身が結論づけたのだ。あの日、オルトの手を取り冥府の門を開けた時、その結果がどうなろうと、責任を負う覚悟は出来ていた。だから、これは当然の結果だ。
イデアは力のない虚ろな目で、枕に頬をおしつけた。
「いつ終わりが来ても良いように、身の振り方には気をつけてきたし。欲を言えば、もう少し、学園でオルトと一緒に過ごして、色んなお願い聞いてあげたかったけど……」
幼い頃からずっと、こうなることはわかっていた。そして、もうとっくに諦めて、足掻くことをやめていた。
何も、今までと大きく変わることはない。推し活も、ネトゲも、好きな漫画の続きだって、引き続き嘆きの島で問題なく楽しむことができるだろう。
ただ、学園での生活が終わる。それだけのことだ。
イデアは、幾度となく己に言い聞かせた言葉を反芻した。今更、未練や心残りなんてないはずだ、と。
■ ■ ■
それから数時間後の、深夜0時頃。消灯の時間を疾うにすぎ、皆が寝静まったオクタヴィネル寮のアズールの寮室に、イデアの姿はあった。
照明の消えた薄暗い部屋の中で、大きな窓から差し込む海水越しの月明かりにゆらゆらと照らし出されるその姿は、S.T.Y.X.の制服を着込んだままだ。
イデアはそっとベッドに腰掛け、アズールの寝顔を覗きこんでいた。
アズールは、侵入者の気配に起きる様子もなく、大きめの枕にしがみつくようなうつ伏せの姿勢で眠っていた。
枕に押し付けて潰れた、やわらかそうな頬。そのせいで、唇を尖らせたような、小さな三角形を描く口。常は色気すら感じさせる口元の黒子も、今はあどけなく見える。すぅすぅと規則正しい寝息が、耳に心地よかった。伏せられた瞼は、銀色の長いまつ毛が影を落としていて、この下に、あの意志の強さが滲む青い瞳が隠れているのだと思うと、イデアはたまらない気持ちになった。
イデアは、湧き上がるその感情を、例えば犬猫の寝顔を愛で慈しむのと同じ類の、博愛にも似た好意や庇護欲だと捉えていた。その認識は、イデアが今、しようとしていることへの肯定と、実行への後押しとなった。この健やかさを守る為にも、正しい選択だったのだと。
イデアは、アズールに好意を抱いている自覚はあったものの、その意味や深さまでは、理解できていなかった。
無理もない。他者との交流自体経験が少ない、イデアにとって初めての恋だった。
アズールと共にある時の心地よさ。その健やかさを守りたいと自然に思う心。時にはそれに相反して、揶揄ってムキになる様子を楽しみたくなる、少し悪戯な気持ち。それらは確かに、イデアが猫に対して抱く感情とよく似ていた。
だから、イデアは気づかなかった。己がどれだけ深く、アズールを好きになってしまっていたか。そして己のした選択の意味を。
「アズール氏、起きて起きて」
ずっとその寝顔を眺めていたい欲求に駆られながら、イデアが優しく肩を揺すると、アズールはすぐに目を覚ました。
「んん……? イデアさん…?」
眠そうに細められた目に、寝起き特有の舌ったらずな声。やわらかそうな銀糸の髪が、ふわふわといつもより多く跳ねている。その無防備な姿に、イデアは思わず眉を下げて小さく笑った。
「起きてってのも、おかしな話か。これ、アズール氏の夢の中みたいな
ものですし」
そう。イデアが訪れていたのは、正確にはオクタヴィネル寮でも、アズールの寮室でもなかった。
外の世界で、やり残したことを叶えるため。イデアは、アズールの夢の中へ潜り込んでいた。
■ ■ ■
「結婚?! しかも明日?!」
二人は部屋の灯りもつけないまま、ベッドに並んで腰を掛けていた。事情を聞いたアズールは、想定外の事態に遭遇した際いつもそうしてしまうように、大きな声をあげて驚愕してみせた。
「部活を欠席、僕との持ち越し勝負をドタキャン。急遽帰省されたと
聞いたのに、何故か夕刻には唐突な寮経由での置き菓子の大口注文。一体どういうつもりかと思っていたら、そんな事になっていたんですか」
眉間の皺を揉みながら低く唸ったアズールに対し、イデアは明るくおどけたような、軽い口調で答えた。
「いや~、FF外から勝手に夢の中に失礼しちゃってスマソ。対オバブ用の技術を応用したもので、特に害はないんで」
深層意識への介入は、精神面の影響を強く受けるオーバーブロットの対処法として開発された技術のひとつだった。意思疎通が困難になるオーバーブロット直前の対象との対話を可能にするもので、距離の制約を受けず、時の流れも現実と比べゆるやかになるという特徴を持つ。それらは、今からイデアがしようとしている行為に都合が良い条件だった。
しかし、無断で意識に入り込むなど、本来なら許されることではない。少なくとも、イデアの倫理観には反する行為だ。そのため、敢えてなんでもないことのように明るい声で言い訳を連ねたのだが、当のアズールは初めから、気にした様子がなかった。
「そんなことより、本題に入りましょう」
「え?」
アズールはいつだってそうだ。イデアが常識外れな事をして見せても、すぐに受け入れ順応してしまう。科学に馴染みが薄かったらしい人魚の性質なのか、それとも、アズールがそうなのか。イデアは、アズールのそんなところに、救われることが幾度もあった。
逆に拍子抜けして戸惑うイデアに、アズールは訳知り顔で力強く頷いた。
「イグニハイド寮に置き菓子手配の大口発注。ポイントカード3枚分はくだらない額でした。わざわざこんな事前の仕込みを入れたのは、頼みにくく、難しく、しかし断られたくないご依頼がおありなんでしょう?」
イデアは息を呑んだ。その通りだったからだ。
今日を最後に、外の世界と別れを告げる。そう考えた時、イデアには思い浮かんだ顔があった。どうしても看過できない「やり残した事」があったのだ。モストロへ大口の注文を入れたのも、それを叶えるための布石だった。
「…………」
今までも、イデアはこんな風に、アズールには全てを見透かされていると感じることがあった。そして、それは決して不快ではなく、むしろ心地よいものだった。実際、多くの言葉を必要とせずとも、核心に触れ、理解してくれていると感じる瞬間が多くあった。S.T.Y.X.という秘密を抱え、他者からの理解に恵まれず、それが当たり前だったイデアにとって、アズールのそんな一面は、代え難い心地よいものだった。
「この僕が必ず! 叶えて差し上げます」
さぁ、あなたの願いを聞かせてください、と促すように、アズールの両手がイデアの両手を掬い上げた。イデアは熱いものに触れたかのようにびくりと体を硬直させたが、しかし、その手を振り払うこともできなかった。
目の前の青い瞳に、吸い込まれそうになる。願いをそのまま口にしてしまいそうになる。
真っ直ぐに見上げてくる力強い瞳と、己の言葉を待ってくれるアズールに、唇が震え、声が喉元まで出かかった。悪巧みを前にした時のような不適な笑みに、共犯者になって差し上げますよと囁かれた気がした。添えられた手を、握り返したい誘惑に駆られる。この手を取れば、確定したバッドエンドではなく、アズールの描く未来に共に行けるのではないかという錯覚すら覚える。
「いや~流石アズール氏! お見通しでしたか、話が早い!」
しかし、イデアはそうしなかった。湧いた欲をねじ伏せて、さりげなくアズールの手から離れると、先ほどと同じ、明るくおどけた調子で、用意していたタブレットを差し出してみせた。
「時間おしてるんで、細かい内容は契約書として
まとめてきました。こちらの締結をオナシャス!」
■ ■ ■
「ッフ、ちょっとぉアズール氏ィ! 商売人としてしちゃいけない顔になってますぞォ!」
契約内容を読み進めるにつれ、アズールの顔はみるみる歪み、最終的には苦虫を潰したかのような、思わずイデアが茶化してしまう程の酷い表情になった。
「……なんですか、この依頼内容は」
鼻の上に皺を寄せながら、それを隠そうともせずアズールが言った。
「何って……、あ~、その。拙者もレンタル彼氏をお願いしたく……」
声高にアズールを揶揄い笑っていたイデアは、問い詰められ一転、聞き取りにくい小さな声で、言い難そうに答えた。「折角契約内容に纏めてきたのに、そこ改めて言わせます?」と、目を逸らし、長い指をモジモジと遊ばせながら言い濁す。
「あなた、この期に及んで……」
「タッ、タイムタイム!早まって断らないで下され!」
今にも否と口にしそうなアズールに、イデアは慌てて言葉を遮った。どうしても、断られるわけにはいかなかったからだ。
やり残した事。その目的を果たすためには、なんとしても、アズールにこの契約を締結してもらう必要があった。
「条件の詳細見てくれた? 絶対アズール氏に損ないでしょ?」
宥めるような猫撫で声でイデアが言うと、アズールはため息をつき、指の背でタブレットをこづいた。
「……読みましたよ。なんですか、この『本件を履行するにあたり、乙は甲にかかる負担の最大限を取り除く』って?!」
責めるようなアズールの言葉に、イデアは両手を己の胸元で可愛らしく重ね合わせると、誇らしげにこう答えた。
「拙者の考えた最強のレンタル彼氏プランです!」
■ ■ ■
一、本件は甲の夢の中で完結するため、甲の心身が汚染されることはない。
一、本件は甲の記憶消去で完了とするため、以降甲の精神を苛むこともない。
「わざわざ夢を介したのは、こういうことなんですわ。夢は記憶定着しにくいから、消去もしやすいってわけ! アズール氏は僕なんかとデートごっこしても、その後気まずくなることはない」
一、さらに、認識、知覚、五感への介入プログラムにより、相手の姿と言動は、声、感触、香り、あらゆるレベルで、好ましい相手の姿に置換した形で認識される
「そこそこ! 外せない重要ポイントですぞ!」
「……でしょうね」
改めて契約内容を確認するアズールの傍らで、イデアは逐一合いの手を入れ、詳細を説明し、いかにアズールにとって都合が良い内容であるかをアピールした。
「これって要するに、相手が誰であっても、都合よく恋しい相手の姿として認識されるって話ですよね?」
タブレットに映し出された文言を凝視したまま、アズールが確認する。
「そう! 今更拙者なんか相手にどう演じろと? なんて心配はご無用! アバター使ってロールプレイチャット楽しんでると思えば抵抗感も薄れるでしょ? TRPGのVR版ですわ」
イデアは間髪いれず、得意げに肯定する。アズールにはなんとしても、その気になって貰わなければならない。
「アズール氏はただいつも通り、好きな子とデートしてるハッピーな夢見てればおしまいってワケ。不快感も不自然さも、認識介入プログラム走らせてるから完璧に置換されるし、黒歴史も、ログ……つまり記憶から消去するから、汚点は残らない。あ、追加条件も見てくれました?」
一、デートについての主導権と決定権は、甲にあるものとする。
「つまり、アズール氏は嫌なことひとつも強要されない」
一、以上、甲が本契約内容を承諾した場合、追加報酬として、甲がラウンジの運営を継続する限り、乙は今回事前発注した内容を倍額で自動更新、継続するものとする。
「君の大好きなローリスクハイリターンですぞ! ね? 悪くない取引きでしょ?」
畳み掛けるように言ったイデアにアズールは応えず、眉間に皺を刻んだ難しい顔のまま、タブレットを凝視しし続けていた。
「ささ! サクッと同意しちゃってくだされ!」
「ちょっと黙ってて下さい、今色々計算してるんです!」
急かすイデアに、アズールが思いのほか強い声音で一喝した。イデアはその剣幕に驚いて目を見開いたが、直ぐ大人しく口をつぐんだ。
いくらでも待とう。だって君は、絶対に承諾するんだから。
イデアには、確信があった。何故ならこの長ったらしい条件の数々は、アズールの思考パターンを解析し、拒絶に繋がる可能性の全てに対策を施したもの。いわばアズールにとってこの上なく都合の良い、名実ともに『最強のプラン』だったからだ。
今まで通りの業務をただこなすだけで、いとしのモストロへ利益を確保できる。しかも最大限、肉体的・精神的負担は取り除かれる。これほどの好条件に、強欲なアズールが食いつかない筈はない。アズールがこの契約に頷きさえすれば、イデアの目的はその時点でほぼ達成されたようなものだった。
論破し、責め立て、煽るのは得意だったが、アズールとは違い、口八丁で丸め込んだり、相手を上手くその気にさせる、という取り引きは向いていない。勝利を確信しているとはいえ長すぎる沈黙に、シミュレーションより反応が悪いなと、イデアは焦れはじめていた。
そんなに、自分とのデートごっこには抵抗があるのか、と。
いや、下手に毎日顔を合わせてる微妙な距離の相手とのデートごっこだ、やりにくくて当然だろう。むしろ、ドン引きされて、気持ち悪がられているのかもしれない。イデアにとっての「本来の目的」は別の所にあったため、客観的な印象にまで頭がまわっておらず、今更のように自覚して、少し傷つく。
難しい顔でタブレットを睨み、フリックで条件を吟味しているらしいアズールの横顔を見つめながら、イデアは思った。拒絶を回避する方法のひとつとして導き出された、「好きな相手の姿に置換する認識介入プログラム」を、組み込んでおいて正解だったな、と。この方法が前提なら、いくら髪がピンクに染まろうと、アズール曰く「ここまで念入りに準備してまで」の動機がアズールに向けられたものだとはバレずに済むからだ。イデアとしては、断じて邪な感情からではなく、あくまで庇護のため、という認識であったが、そもそもアズールは庇護されるなどという弱者を感じさせられる立場を良しとしない傾向があった。気持ちを知られた上でこの話持ちかけていた場合の契約締結失敗率は、80%超えていた。この反応からして、その数値が正しい予測だったと証明している。
大丈夫だ。現実ではなく夢の中である、という条件が、抵抗感を40%軽減しているはず。その上、認識置換と記憶消去によるフォローで、成功率は極限まで押し上げられているはずだ。
「……正直、なんというかガッカリです」
長い沈黙の後、ため息混じりにアズールが言った。
「ここまでご丁寧に、言い訳と保険を用意して……、僕に断られないよう、念入りに呆れるくらい条件を揃えてきて」
アズールの言葉に、イデアはぎくりと身を強ばらせた。また、見透かされてしまったと感じたからだ。その通り。イデアがここまで手の込んだ条件を揃えたのは、全て、アズールに絶対に断られないようにするためだった。
「そこまでしての依頼がこんな……、いや、バーチャルリアリティがお好きなあなたらしい発想といえば、そうかもしれませんけど。そんなに好きな娘との甘いひと時を疑似体験したいんですか?! 所詮はまやかしだってわかってます?!」
しかし、続いた言葉は的外れなものだった。アズールは、イデアが、かつてアズールに同じ望みを願ったその他大勢と同じように、色恋にうつつを抜かし、有用な他の望みを投げ打って、デートごっこに興じたがっている愚か者だと勘違いしているらしかった。
「全く、今日一番の想定外ですよ。学生の本分は学業だ、恋愛なんて実に愚かだと豪語していたあなたが……明日がリミットなら、最後のチャンスなのでは? それをこんなことに消費するんですか?!」
そうではなかった。確かに、恋愛作品を好んで嗜むイデアだ、好きな子とのデートってどんな感じなんだろう? と甘く夢見る気持ちがなかったとは言い切れない。しかし本当の目的は、もっと別のところ、むしろ、その逆にあった。
「……そうだよ」
後少しだ。イデアは確信した。ここで上手くアズールの自尊心をくすぐり、その慈悲に縋るフリをすれば、ミッションは確実に成功する。そう考えると、アズールの誤解は、むしろ好都合と言えた。色恋に狂い、正常な判断を失った、哀れで愚かな陸の雄を演じれば、そう言うものかとアズールも納得して、良い鴨だと判断を下し、その他大勢に対してそうしてきたように、この取り引きに応じることだろう。今更、どう思われても構わない。どうせ、もう二度と会うこともないのだから。アズールがイデアをどう思っていようと、目的を果たすにはなんの支障もない。他人に誤解されることにも慣れている。身体の内側に爪をたてられたような不快感には気づかないフリをして、イデアはアズールの言葉を肯定した。
続