罰の歌 古びた楽譜にのった歌へ声をのせたと思えば、あっという間に意識が乗っ取られた。家族の正気に戻るよう呼びかける声や、島民たちの悲痛な叫びが耳に突き刺さる。ウタだって止められるものなら止めたかった。
「シャンクス、助けて」
心の中で何度も繰り返した言葉が天に通じたのか、ようやく魔王がウタを手放し、彼女の足が地についた。意識の戻った彼女は気絶することなく、あたりの惨状を見回す。
「私が、私がやったんだ」
震えながら発した言葉を塞ぐようにシャンクスに抱きしめられたけれど、彼の肩越しに見える燃える景色は変わらない。血を流して倒れる人、焼け焦げた人、人、ヒト。
「私の歌が」
喉の奥は焼けそうなほど痛く、胸には穴があいてしまったようにびゅうびゅうと冷たい風が吹き込んでくる。それでもウタは自分には涙を流す権利はないと、泣くこともできなかった。ウタを赤髪海賊団の音楽家たらしめていた歌が、ウタの心を支えていたものが、アイデンティティが崩壊していく。
『お前のせいだ』
『あの子の歌は悪魔の力だ!』
『壁が崩れた! ここから出して!』
『あの少女こそが魔王だったんだ』
『お願い! 助けて!」
『化け物!!』
魔王と呼ばれるものの中で聞いたいくつもの言葉が頭の中をこだまする。あんなの悪夢だと思いたいのに、鼻をつく様々なものが焼け焦げる匂いがウタにこれは現実に起きたことなのだと知らしめる。
ぐらりと揺れる視界とこみ上げる吐き気にウタはシャンクスを突き飛ばした。
「おえっ…げぇっ」
突き飛ばしきれず逆にすがるような形でウタはシャンクスに手をついたまま地面に嘔吐する。シャンクスが『世界のすべての人たちを幸せにすることができる』と言ってくれた歌声で人を不幸の海の底へ沈めてしまった。
暗くなる視界にチカチカと光るものが見える。
水平線の向こうから現れた大量の軍艦にウタは「あ…」とひらめき、ろくに立たない足へ力を入れた。自分のような罪深い人間は海軍に拘束され、しかるべきところで裁かれなくてはならない。
光る海へ足を進めようとする娘をシャンクスは有無を言わせず担ぎ上げた。シャンクスは島の唯一の生き残りであるゴードンと何か言葉を交わしていたが、罪の意識に囚われたウタの耳には届かない。
「放して、シャンクス。私、行かなきゃ」
チカチカとウタを呼ぶ光の方へ行きたいのに、シャンクスは腕の力を強めるばかりで放してくれない。
「行くぞ! 野郎ども!」
シャンクスはそう怒号をあげると一気に駆け出した。ぐんぐんとゴードンから離れていくシャンクスがレッド・フォース号へ戻ろうとしているのだと気づき、ウタは「ここに置いて行ってよ!」と暴れる。
日頃どんな願いでも叶えてやりたいと思っている娘からの頼みであっても、その望みは赤髪海賊団の誰も聞き届けてやれない。たとえ罪の意識から心が潰れそうになっていたとしても、大切な娘を海軍などに渡してやるわけにはいかない。
沢山の人の未来を奪っただけでなく、こんなに罪深い人間を船に乗せて罪を背負おうとする大切な人たちの姿にウタは恐怖に震える。こんなことあっていいはずがない。
ゴードンを一人残し、燃え盛る島からレッド・フォース号は出港した。海軍から打ち込まれる弾を避けながら赤髪海賊団は海をひたすらに突き進む。
医務室の中では船医のホンゴウが暴れるウタを押さえつけていた。
「お前のせいじゃない!」
「そんなわけない!!」
手足が千切れそうなほど暴れ、血を吐くように叫ぶウタに負けないほどの強さでホンゴウも応戦するが、錯乱状態の人間には効いている気がしない。ウタが妙な気を起こさないよう、ヤソップは医務室の中にある切れ味のいいものを気配を殺して回収する。
シャンクスとベックマンは二人船長室にこもったきり出てこない。
ライムジュースがようやく医務室が静かになったのに気が付いたのは明け方になってからだった。ボンク・パンチと交代して部屋から出てきたホンゴウは腕や顔に引っかき傷を作っている。その有様が昨夜の嵐の激しさを物語っていた。
「ウタは」
「力尽きて寝ちまった。起きたときどうなってるか……」
少しは気を持ち直してくれてるといいがとホンゴウは言うが、相手は海賊にするには優しすぎるあの子だ。すぐには難しいだろうなとライムジュースは閉じられた医務室の扉を見る。
「そろそろお頭が来ると思ってたんだが」
「あの人はまだ二人で部屋にこもってる。結論は聞かなくても分かってるけどな。もうおれ達の腹は決まってる。お頭だってそうだろ」
ウタがどんなに罪に傷つき、海軍に出頭したいと願っていたとしても、たとえ死んでしまいたいと思ったとしても赤髪髪海賊団のクルーはウタのその願いを叶えてやるわけにはいかない。海軍がウタを差し出せというなら全面戦争も辞さないし、ウタが消えてしまいたいと胸にナイフを突き立てたって海に飛び込んだって何度でも救いあげる。
ウタがどんなに生きることを望んでいなくたってクルーたちには関係がなかった。今は笑えなくても、歌えなくても、生きて側にいてくれればいい。それが何よりも大切なことだった。
*
長かった髪は肩につかないほどの長さに切り揃えられ、鋭利なものは何もない部屋でウタは一人海を眺めている。家族たちはあの日のことをウタのせいでは無いと言うけれど、ウタにはどうしてもそう思うことができない。
シャンクスとベックマンは何も言わない。ただウタが自身を傷つけようとすると決まって手を握る力を黙って強める。
沢山の人を殺したのに、自分が今ここで息をしている理由がウタにはわからない。
あれほど自分の軸だと思っていた歌を歌う気にもならない。沢山の人の魂を奪った自分が歌うことなど許されるはずがない。
「たまには遊びに出かけるか」
そう言ってベックマンに連れ出された小さな街には、小さな小さな教会があった。そこには一人のシスターがおり、彼女は孤児やその日の食事もままならないような人のために日々炊き出しを行っている。決して教会は裕福なわけではないが、シスターは人を助けることを使命として日々生きていた。
彼女は断片的ながらもウタ自身から罪の話を聞くと、ウタへ教会に保管されていた『鎮魂歌』の譜面を差し出した。
「牢獄で罪を償うこともできるでしょう。しかし、罪の意識から自身を傷つけることは罪の償いとは言えないと私は考えます。貴女の歌は特別だと聞きました。それであれば、この歌を罪なき人々へ捧げることも、一つの償いになるのではないでしょうか」
考えてみてくださいと渡された譜面を受け取り、ウタは音符を目で追う。自分の身を切り取り人へ分け与えるような、許されない罪がいつか天上に登るときに許されるよう願う歌詞にウタは瞬く。
ベックマンは何も言わず教会の中にあるベンチへ腰掛けていた。歌詞の中身が知られないようウタはそれを両腕でぎゅっと抱きしめ、シスターへ「感謝します」と頭を下げる。彼女に与えられたこれがウタの罪の許しになるとは思わないが、出頭が許されない今、これが彼女にできる全てのことのように思えた。
ウタは足先を見つめたままベックマンの前に立つ。
「帰ろう」
歌で奪ったものは歌で償っていくんだ。そう決めてウタはシャンクスの待つ船へベックマンに手を引かれながら歩く。
彼女が自らに課した長い償いの人生はこうして幕を開けた。