恋を諦める為に一年間だけ✊兄に恋人になってもらった👙のホワイトデーの話。 明日は三月十四日、ホワイトデー。
期待していろと言っていた兄は数日前からVRCに収容されていた。
本人から十四日には出所するとは連絡があったが、果たしてどうなることやら。
まあ、あまり期待せずにいるのが良いだろうなと思いつつ、それでも期待する心が抑えきれなくて、そんな自分の浮かれ具合につい自嘲が漏れる。
(ホワイトデーか……)
チョコレートを渡したとはいえ、私も兄さんから花束をもらったことだし、この国独特の風習に倣ってやはり何かお返しを用意すべきだろうか?
どうやら、キャンディやマシュマロ、焼き菓子辺りが定番らしいのだが。
(ふむ、焼き菓子か……)
一口に焼き菓子と言ってもその種類は様々だ。
何が良いだろうと考えて、ふと脳裏に一つの記憶がよぎった。
それはまだ私が小さかった頃、月明かりの下で家族でピクニックをした時の記憶。
父が母を揶揄って、それに母が拗ねたように怒って、私はそんな二人を見て笑う兄の膝に抱かれて、母の手作りのお菓子を食べている。
そんな優しい記憶が。
「……………ああ、そうだ。アレにしようか。」
そうして迎えた三月十四日。
急に思い立った焼き菓子作りは中々納得いくものができなくて、試行錯誤するあまり気がつけば昼を徹してしまっていた。
軽く仮眠をとったものの寝不足で若干ふらつく頭をシャッキリさせようとシャワーを浴びて念入りにスキンケアを施し、なんとか納得いく出来になった焼き菓子とコーヒーセットを用意して兄さんを迎える準備をする。
「よ! 久しぶり」
そうして、準備が整ったところでタイミング良く予定通り出所できたらしい兄が、ヘラヘラと笑いながらホラーホスピタルオフィシャルグッズの可愛らしくデフォルメされたオバケ柄のエコバッグを片手に下僕に先導されリビングに現れた。
「よく予定通り出られたな」
「そりゃあね。初めて恋人と過ごすホワイトデーですからね。恙無く出所できるようにお利口にしてましたよ」
「恋人……」
どうしよう。兄さんに恋人と言われるだけで顔に熱が溜まる。
思わず言葉に詰まって赤面する私の姿に「本当にお前はいつまで経っても慣れねぇなあ」と兄さんは笑いながら手元のエコバッグを漁り小さな紙袋を取り出した。
「これ、ホワイトデーのプレゼント」
ほいっと差し出されたそれを礼を言って受け取る。
一体何が入っているのかと袋を開けてみると、中身は黒いリボンをかけられた、私が愛用しているコスメブランドのロゴの入った正方形の箱だった。
「これは……」
「ボディクリームな。吸血鬼用の血液成分入りのやつ。お前、ここのブランドの使ってただろ?」
「今シーズンの新作だろう? 今使っているクリームが無くなったら試してみようかと思っていたんだ。嬉しい。ありがとう、兄さん」
欲しかった物をプレゼントしてもらえた事も嬉しかったが、それ以上に兄さんが私が愛用している物をちゃんと知っていてくれたことが嬉しかった。
同時にこの人のこういう所がモテる所以なのだろうな、と少し複雑な気持ちにもなってしまったが。
「どういたしまして。あと、ちょっくら台所借りんぞ」
ぽんと私の肩を軽く叩くと、兄は勝手知ったるなんとやらでリビングを出てスタスタとキッキンへ向かって歩いて行く。
慌てて後を追いかけて「キッチンなんて、なにをする気だ?」と声をかけると、振り返った兄は片手に持っていた妙に膨らんでいるエコバッグを軽く持ち上げガサガサと揺らして、「いっちょホワイトデーのお返しを作ろうと思ってな」と笑った。
「ま、つってもそんな大したもんは作れねえけども」
「お返し?」
「そ。だからお前は大人しくリビングで待ってな。すぐ済むから」
「ほーい! できたぞー」
しばらく後、砂糖と小麦が焼けた良い匂いのする大きな皿を持って兄さんがキッチンからリビングに戻ってきた。
テーブルに置かれたその皿の上には薄い、クレープのような物が幾つも積み重なっていて、その横には白いクリームと赤いジャムが添えられている。
「……もしかして、これ、パンケーキ?」
「好きだったろ?」
この国でパンケーキと言うとスフレパンケーキのように高さのあるふわふわとした物や、小さくて薄めの物に大量のホイップクリームがトッピングされているハワイアンスタイルの物辺りが一般的だが、自分と兄にとって馴染みがあるのは今目の前に積まれているクレープの様に薄い、シンプルな姿をした物だった。
「ホワイトデーって言えば菓子だろ? 飴とかマシュマロ買うよりはどうせなら手作りしようって思って。でもレシピ無しで作れる菓子ってそれくらいしか思い浮かばなかったもんでな。まあ、味見もしたし大丈夫だとは思うんだが、何せ作るのが久しぶりすぎてな。お前の口に合えば良いんだけども。あ、でもリンゴンベリージャムは高いのにしたから美味いんじゃね? たぶん」
「お前、ブラッドジャムよりもリンゴンベリーの方が好きだったもんな」と言いながらテキパキとホイップクリームとジャムをパンケーキに乗せ、くるくると器用に巻いてゆく。
「ま、ご覧の通りいつもお前が作る菓子に比べたら何の洒落っ気も無い見た目だけどもな。これが俺の精一杯って事で。はい、どうぞ。召し上がれ」
「……うん、いただきます」
行儀が悪いと思いつつも、兄の手で口元に差し出されたパンケーキを受け取らずにそのまま大きく口を開けてかぶりつく。
口の中に小麦の香りと生クリームの甘さにジャムの甘酸っぱさが広がっていく。
行儀が悪いついでに唇に付いたクリームをペロリと舌で舐める。子供の頃はそんな事をしたら「みっともない」と母さんに叱られたなと懐かしい思い出とパンケーキの優しい甘さに思わず頬が緩んだ。
「おいしい……」
「……お、おお。そりゃ良かった。そいつはお前の物だからな。好きなだけ食えよ」
「透達の分は無いのか?」
たくさん有るからてっきり一部は包んで後で透達の所に持っていくものだと思ったのに。
「ホワイトデーのお返しなんだから透らの分が有るわけねぇだろ。それはお前の為だけのもんだよ」
「そうか……嬉しい。ありがとう、兄さん。大切に食べる」
「そんな大層がるもんでもねぇだろうが」
兄さんの言う『お前の為の物』は貰ったものに対する礼だから、と言う意味以外は何の他意もない言葉なんだろうけども、けれどもそう言われると特別な意味があるんじゃないかって勘違いしそうになる。
どうしよう? 勘違いついでに少し甘えてみようか。だって、今日はホワイトデーなんだし。少しくらい……。
「兄さん、もっと」
軽く目を伏せて口を「あ」の形に開けてパンケーキを持ったままの兄にもう一口を催促する。
いわゆる「あーん」のおねだりだ。
……うん、これは思ったより恥ずかしいな。恥ずかしくて兄さんの顔なんて見れそうにない。
バレンタインの時の兄さんはあんなに平気そうだったのに。やはり私が兄さんの事が好きで意識してしまうから恥ずかしいのだろうか?
少し躊躇うような気配の後、そっとパンケーキが口に差し込まれる。それを一口齧って、咀嚼して、また口を開けて、もう一口。
最後の一口の時にはすっかり小さくなったパンケーキだけでなく兄さんの指先も口の中に入ってきたから、バレンタインの時のお返しとばかりに勇気を出してチロリと舌で舐めてチュッと軽く吸ってから指先から口を離した。
食べ終わって恐る恐る視線を上げると、兄さんはひどく真剣な顔をしてこちらを見つめている。
「に、兄さん?」
じっと無言のまま食い入るように、と言うより鬼気迫るといった表現の方が合うような形相でこちらを見つめる兄に驚いて、思わず兄を呼ぶ声が震えてしまった。
どうしよう? 怒っている?もしかして機嫌を損ねてしまった?
ああ、やっぱりちょっと調子に乗りすぎただろうか。
「あ、いや、その……」
ハッと一瞬息を呑んで私から目線を逸らし、なにやらモゴモゴ呟いている兄の頬は微かに赤い。
……もしかして暖房が効き過ぎているのか?
「兄さん、室温暑くないか? 下げようか?」
「へ? 別に適温だけど。どうしたいきなり」
「え? いや、顔が赤いように見えたから暑いのかと……」
「ングッ……あー……気のせいだ。大丈夫。暑くない」
「そうなのか?」
だったら良いんだが……。
暦の上ではとうに春になっているとは言え三月は日によってはまだ冷える。
この屋敷はビキニ姿で適温になるように空調が調節されているから、人より厚着の兄さんにとってはやはり温度が高いかもしれない。
「……兄さん、良かったらビキニを着るか?」
「何がどうなってそこに着地したんだよ!? 本当に大丈夫なんでお構いなく!」
「そ、そうか?」
「ほら、遠慮せずに食え食え!あ、つーかこれ! さっきから気になってたんだけども、この菓子パン何? 食っていいやつ?」
……と、いけない! 忘れるところだった!
なんだか妙に勢い込んだ兄さんの指摘でテーブルの隅に置いてあったケーキドームの中の自作の焼き菓子のことを思い出して、慌てて皿を手元に引き寄せた。
「あの、ホワイトデーだから私も何か菓子を用意しようと思って……」
「へ? 俺に? お前が?」
「だって、チューリップくれただろう? だからお返しに」
「カーッ! 変なところ義理がたいよな、お前」
「兄さん、これ好きだっただろう? ……初めて作ったから口に合うかどうかわからないけれど」
ガラスのドームカバーを外し、「どうぞ」と昨夜苦心して作った焼き菓子———セムラを差し出しす。
スパイスの効いた丸いふわふわのパン生地の間にブラッドジャムとホイップクリームを挟んだだけのシンプルな菓子パンだ。
ヒョイっと一つ掴んでかぶりついた兄さんが「ひょっとしてコレ、セムラか?」と目を丸くする。
「ああ、懐かしいかと思って」
「確かにな。久しぶりに見たわ。ガキの頃は春になると食ってたよな」
パクパクとかぶりついては「美味い」と兄が笑う。
良かった。私の記憶の中の味を再現しきれなかったから心配したけれども、どうやら兄さんの口には合ったようだ。
「んー、でもやっぱ甘いモンは俺よりもお前の方が作るの上手いよな。先月のチョコもすごかったしこれもマジ美味いわ」
「そうだろうか? 私は兄さんのパンケーキの方が美味しいと思うがな。……きっとこれだって兄さんが作った方が美味しいと思う」
パンケーキもセムラも子供の頃よく食べた思い出の味だ。
けれども兄のパンケーキと違って私の作ったセムラはどこか物足りなかった。
別に不味いというわけでは無い。レシピ通りに作ったから味自体は問題ないと思う。けれでも何かが違う。
今時風に言い表すならそう。
『コレジャナイ』
「えー? んな事ねぇよ。そりゃ贔屓目が過ぎるってもんだぜ、お前」
「だって、兄さんのパンケーキの方が母さんの味に近いような気がする。懐かしくて、美味しい。レシピ通りにしか作れない私では出せない味だ」
どうしてだか、母はとても神経質なタチだったのに料理に関してだけはかなり大雑把な人だった。
きっとやろうと思えば繊細な料理だって作れたのだろうし、実際作っていたような気もする。
けれども今、朧げに思い出せる母の手料理は何故か大皿にドン! だとか、その辺りにある材料を行き当たりばったりに煮込んだり炒め合わせたりだとか、そんなよく言えば家庭的、悪く言えば適当と言った形容の似合うものばかりだ。
菓子類だって、どうやって分量を測っているんだろうと思うぐらい豪快な目分量で作っていた。
「母さんが作る料理も菓子も、あんなに適当な手つきで作られていたのに、一つとして不味いものはなかったのだからすごいと思う。とてもじゃないが私にはできない芸当だ」
もっとも、それは兄さんにも言える事だが。
兄さんの料理もいつだって大雑把で適当に作られているように見えるのに、それでも私が作る物よりはるかに美味なものばかりだ。
容姿や能力の方向性は私の方が母に似ているが、実際のところ母の持つ天才性を色濃く受け継いでいるのは兄の方だった。
「ほら、私が小さい頃は良く家族でピクニックに行っていただろう? 母さんが父さんのためにお菓子をたくさん作って。父さん甘い物好きだったから。……ホワイトデーのお返しに何を作ろうかと考えていた時に思い出したんだ。セムラは日本ではあまり見ないし、兄さんも懐かしいかと思って」
「喜んでもらえたら嬉しいと思って」と笑って、私はもう一度兄さんのパンケーキに手を伸ばす。
うん、やっぱり美味しい。
「……………」
「ん? どうしたんだ? 兄さん」
パンケーキに舌鼓を打っていると、やけに目を丸くして兄がこちらをじっと見つめている事に気がついた。
なんだろう? 美味しいからといって少々がっつきすぎただろうか?
「いや……お前、今、あの女の事……」
「え? ………………………あ」
ああ……なるほど。言われて初めて気がついた。自分でも気が付かないくらい普通に思い出せていたからわからなかった。
それは兄さんも鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見つめるはずだ。
私には母に関する記憶が無かった。
正確には母の事を思い出そうとするとトラウマに起因するストレスから嘔吐したり、酷い時には意識を失ってしまって思い出すことができなかった。
なのに、今私は母の事を思い出しても平常のままでいる。
「……ねぇ兄さん。私、どんな顔をしていた?」
「柔らかい顔してた。……幸せな思い出を懐かしむみたいな、そんな顔」
「そうか……」
目を閉じて、眼裏に映るありし日の残像を追いかける。
少女のように頬を膨らませてそっぽを向く母。
拗ねる母を宥める父の愛しげな声。
そんな二人を眺めて笑う兄の膝の上で頬張った菓子の甘さ。
唇に着いたクリームを舐めとると、見咎めた母が行儀が悪いと小言を言って、けれども咎める声の強さとは裏腹に私の口をナプキンで拭ってくれるその手つきは優しかった。
———嗚呼、そうだ。
そんな穏やかで幸せな日々だって確かに存在していたんだった。
「私、今何ともない。ちゃんと母さんの事を思い出せる……」
私の両頬に兄さんの大きな手がそっと添えられる。
その親指が私の目元を拭う感触で自分が今泣いている事に気がついた。
後から後からポロポロと涙の粒が落ちていく度に優しい指に拭われる。
その温もりに思わずホゥ……とため息を漏らすと、顔を上に向かされ目尻に何か柔らかな物が押し当てられチュウ……と軽く吸われた。
驚いて目を開くと兄さんの顔がキスができそうなほどすぐ近くにあって……と言うか、目元にキスをされている……?
びっくりしている間に今度は反対側の目尻に唇が落とされる。
ああ、そうだ。そうだった。
子供の頃、私が泣いているといつも兄さんはこうやって私をあやして泣き止ませてくれたんだった。
二度三度と羽根のような軽やかさで交互に目尻に唇が落とされて、その度に軽く吸われて、子供扱いされる悔しさや恥ずかしさよりも、くすぐったさが勝って思わず笑いが漏れた。
キスの後は抱きしめて、トントンと小さな子を寝かしつけるような動きで私の背を優しく叩く。
私が泣き止んだ後のこの流れも記憶にあるままだ。
幼い時から変わらない。兄さんの腕の中は暖かくて、幸せで、ほんの少しだけ怖くて何だか苦しい。
本音を言うと、子供扱いされるのは不本意だが不快ではない。
愛され、大切にされているのだと実感できるから。
背を叩く手のリズムと兄さんの体温が心地良くて、寝不足の体からトロリと意識が溶け出していく。
ああ、ダメ。せっかく兄さんが居てくれているのにこのままだと眠ってしまう。
眠りたくないのに、ろくに寝ていない体では兄さんから伝わる優しい温もりに抗いきれず、額に降りてきた柔らかな感触を最後にそこで私の意識は完全に溶けて流れていった。
目が覚めた時、寝室のベッドの上で兄さんに抱きしめられている状態に驚いて、眠る兄さんの顔に枕を力の限り押し付けてしまってあわや窒息死させるところだったのは大いに反省している。