ドキドキとモヤモヤと その日、約束していた時間よりだいぶ遅れて透の家にやってきた兄は最近では随分と珍しい格好をしていた。
グレーのベストに白のドレスシャツ、黒に近い濃いグレーのクロスタイと同色のスラックス。
首から上は手拭いを頭に巻き口元を覆面で覆っているいつもの姿なのに、首から下は何故かフォーマル寄りの装いだ。
(兄さん、かっこいい……っ!)
何故だかわからないけど兄さんが……兄さんがまともな格好をしている!
昔みたいな、ちゃんとした高等吸血鬼に相応しい服装を!!
この国に来てからはとんとお目にかかる機会なんて無かった盛装姿の兄を認めた私の頬にじんわりと熱が集まっていく。
興奮に速まる鼓動を持て余し、微動だに出来ず無言で食い入るように兄を見つめる私と違い、透とあっちゃんはこたつから兄さんの足元へと這い出して物珍しげにその姿を見上げて歓声を上げた。
「うわー! 拳兄どうしたの!? その格好!」
「やられたわー。してやられたわー。チクショウ!! あの姉ちゃん今度会ったら絶対リベンジしてやる!」
何でも来る道すがら野球拳を仕掛けた女性が「自分好みの服装で相手をスタイリングする能力」を持った吸血鬼だったらしく、じゃんけんに負けた愚兄はまんまと相手の能力の餌食になったらしい。愚かな。
透も「そもそも人と約束がある時に野球拳をするな」と説教をしている。全く同感だ。
「あ、でもこれ結構生地とか仕立てとか良いね。拳兄のそんな格好初めてみたけど似合ってるよ。馬子にも衣装ってやつ? 中身がクソすけべ野球拳ポンチとは思えないくらいかっこいいじゃん。褒めるの嫌だけど」
「かっ こ いい!」
「俺は普段からいつでもかっこいいだろうが」
「ハハッ! 万年どピンクじゃんけん着物がなんか言ってら」
キャッキャと兄と戯れながら透とあっちゃんが好奇心に満ちた目で兄さんを色んな角度から観察し、ペタペタと服を触っている。
ああ、そうか。透は兄さんのこう言った格好を見たことなかったのか。それではさぞ物珍しい事だろう。
滅多に見れない兄の貴重な姿に興奮して暴れる心臓を宥めるために深呼吸をする。
そうして落ち着いて改めて盛装に身を包んだ兄をじっくりと観察した。
ベストのシルエットで強調された厚みのある胸板から引き締まっているが決して細いわけではない腰元のライン。
体型のラインに合ったスラックスは形の良い尻から逞しい腿を美しく浮き上がらせ、足の長さがよく見てとれた。
いつもは美意識のかけらもない馬鹿みたいな柄の着物の下に野球拳の為などとふざけた理由で馬鹿みたいな量の服を着込んでいるから、着膨れしてわかりづらくなっている兄さんの本来のスタイルの良さを、体に沿った服のシルエットがより美しく際立たせている。
私のような、人に見せることを前提として作られた肉体とは違う。いわば「実用の美」とでも言うべきか。
生命力に溢れた逞しくも力強い、美しい体。
正直、認めるのは非常に癪だが、今の愚兄は文句無しにとてもかっこいい。
……本当に心の底から認めるのは癪だが、もしかしたら昔よりも今の方がずっと素敵かも知れない。
いつもこんな格好をしていたら良いのに。そうしたらきっと蒙昧な人間どもも兄さんに畏怖を覚えるはずだ。
ああ、すっかりポンチに成り下がったと思っていたけれども、やっぱり私の兄さんはかっこいいなぁ。あまりの素敵さに、せっかく落ち着かせた心臓がまたドキドキし始める。
でも何故だか兄さんの今の姿を見ると、胸がドキドキするのと同時にモヤモヤしたものもあって、自分でも理由のわからない相反する感覚にどうしてだろうと内心首を捻った。
なんと言うか、いつもの格好よりも今のふくの方が断然似合っていて格好良いけれども、いつもの服装の方が良いと言うか……。
最初に兄さんが部屋に入ってきた時は兄さんに相応しい姿だと思ったのに、どうしてだか今は普段の馬鹿みたいな姿の兄の方が良いと思った。
「なぁに? ミカちゃんたら。そんなに難しい顔しちゃって。この姿のお兄ちゃんかっこよくない?」
「かっこいいけどもいつもの格好の方がいい」
考え事をしていたせいで無意識にポロリとこぼれてしまった私の本音に、兄さんだけでなく透まで意外そうな顔をする。
「なんで? ミカ兄いつも拳兄にまともな格好しろって言ってんじゃん? ほら、まともな格好した拳兄だよ??」
「お前、こーゆー格好好きだろ? まあお前の好みからはややカジュアル寄りかもだけども」
二人の言うことは全くその通りなのだが、やっぱり今の兄さんを見ているとドキドキと同時にモヤモヤして、いつもの姿の兄さんに戻ってもらいたくなる。
なんでだろうどうしてだろうこんなに素敵なのにかっこいいのにどうして私はこんなにモヤモヤと。
……ああ、自分の感情のはずなのに自分で把握しきれない事が気持ち悪い。
どうしてどうしてどうしてど
「……なぁ、ミカエラ。この格好の俺は嫌か?」
感情の海に溺れそうになる寸前、暖かな感触に両手が包まれて荒れた思考の渦から引き上げられる。
いつの間にやら俯いていた顔を上げると、優しい顔をした兄が私の横に膝をつき私の両手を柔らかく握っていた。
昔から私は自分の思考や感情を整理して言語化するのが苦手で、上手く脳内で処理できなくて息もできないような心地になると、いつも兄さんはそんな私に気がついて整理しやすいように、あるいは私も気づいていない私の感情の自覚を促すように優しく手を握り目線を合わせて根気よく言葉をかけてくれた。
そう、ちょうど今のように。
考え込むあまり黙りこくる私に向かって兄さんがもう一度「この格好は嫌?」と優しく問いかけてきたから思わず「……嫌?」とおうむ返しで応える。
私は兄さんの今の格好が嫌なのだろうか?
こんなにもかっこよくて素敵なのに?
……ああ、でも、うん。嫌なのかも知れない。
けれども「嫌」と言う言葉は確かに私の胸中のモヤモヤを表すのに近いけれども、でも少し違うような気がした。
嫌、では無くて、これはどちらかと言うと……。
「嫌、と言うよりも……面白くない?」
「面白くない?」
聞き返す兄に頷きを返す。
うん、そうだ。今、私は面白くないと思っているんだ。
「面白くないって、俺がかっこいいのが?」
「自分でかっこいいと言うな。思い上がりも甚だしいぞ、愚兄」
「え〜かっこいいってミカエラさっき言ったじゃん。……好きだろ? かっこいい俺」
私の気持ちを見透かすように目をすがめ、兄さんが私の頬に手を伸ばす。
「自惚れるな、愚兄」
こんな風に優しく触れられるのは落ち着かなくて思わずペシリとその手をはたき落とした。
……こう言うのは、やめてほしい。何度されてもどうしてだか慣れなくてドキドキしてしまうから。
自然に染まる頬を隠したくて顔を背ける私に向かって、苦笑混じりの声音で兄さんが更に問いかける。
「で、お前は何が面白くねぇの?」
何が……?
確かに、一体どうして私は何がこんなに今の状況を面白くないと思うのか。
この服装は兄さんにすごく似合っているのに。
……いや、もしかして、似合っているからか?
「似合っているから、嫌なんだと思う」
そう、この服装は兄さんにすごく似合っている。カッコいい。でもそれが面白くないと私は思ったんだ。
「そっか。似合うとは思ってくれてんだ。カッコいいとも思ってくれてんだよな。でもそれが面白くない、と。どうしてだ?」
言われてみればどうしてだろう? 兄さんがかっこいいのはきっと良い事だ。嬉しいし誇らしい。
なのにどうして私はそれがこんなに気に食わないんだろう。
同じような服装で過ごしていた昔は兄さんに対して今みたいな風に思わなかった。盛装姿だって思わず見惚れてしまうくらい好きだったし、今だって見惚れてしまう。
なのに、同時に面白くないと思ってしまうのは何故か。
あの頃と今との違いは何処だろうかとしばらく考えて、そうして決定的な違いに思い当たった。
「……だって、その服は他人が選んだ服だから」
それが似合っていてカッコ良く見えるから嫌だ。面白くない。
……ああ、そうか! 私はどこの誰とも知れない女が選んだ服で着飾った兄さんがカッコいいという事が気に食わなかったのか!!
だからこの服装が兄さんの意思では無く他の誰かの趣味で着せられたものだとわかった瞬間からなんだか素直にかっこいいと思えなくなったんだ!
胸のモヤモヤはいまだ治らないけれども、明確な理由に思い至ればいくらか気分はすっきりする。
これがもし兄さん自身が選んだ服ならきっとそんな風には思わなかっただろう。きっと素直に喜んだはずだ。
———もしくは、私が選んだ物だったなら?
ああ、それならば私は兄を世界中に自慢して回るに違いない!
いいや、今の私ならこんなスーツよりも、もっと兄さんに相応しい素晴らしい礼装を用意できる!
そう、マイクロビキニと言う究極にして至高の礼装を!!
うん、考えているうちになんだか段々兄さんが大人しくこの服を着せられていることに腹が立ってきたな!
「よし、では今すぐビキニになれ愚兄!」
「嫌だよ! 着ねえよ! 一体何がどうなって最終結論がビキニになったんだよ!」
ム! 知らん女からの服は着るくせに、どうして私のビキニは拒絶するんだ!?
「いや、そうじゃなくてだな、ミカエラ。なんでお前は俺が他の奴が選んだ服着てたら嫌なんだよ?」
「なんでって……」
問いかけられてまた考える。
どうして兄さんが他人の選んだ服を着ているのが嫌なのか。
「俺が自分で進んでこの服を着てたら嫌に思わなかったんだよな?」
「もちろん」
「もしこの服がお前の選んだ物だったら?」
「きっとすごく嬉しくなったと思う」
「でも今のこの服は見ず知らずの他人の女が選んで俺に着せた服だ。お前はそれが面白くないんだろ?」
「……ああ、そうだな」
「じゃあ、そう思うのはなんでだ?」
なんでって、そんなの———……。
「私の選んだビキニは着てくれないのに他人の選んだ服は素直に着ているから?」
……ああ、うん。そうだ。私が勧めるビキニは一向に着てくれないくせに、何処の馬の骨とも知れない女の選んだ服をまんまと着せられてるのが私は面白くなかったんだ!
少し子供じみた理由で恥ずかしいが、これは頑なにビキニを着てくれない愚兄が悪い!
だって私が再三マイクロビキニを着てほしいって言っているのに、全然聞いてくれないのだから!
なのに他人にはあっさりと……。それは面白くないと思って当然じゃないか!
「そうきたかぁ〜」
導き出した私の結論を聞いて、パシリと手のひらで叩くように目を覆い、兄さんが天を仰ぐ。
さっきから黙って私達のやりとりを見ていた透がやや疲れたような顔で口を開いた。
「ねえ、拳兄。これ本当にミカ兄脈あるの?どう考えても無理じゃない??」
「うるせぇ! ちょっと不整脈なだけで脈自体はバッチリあるんだよ!」
なんだ? 不整脈? 私は別に心疾患なんて患っていないぞ?
なにせ美しいビキニ姿を維持するためにも人一倍健康には気を遣っているからな!
「愚兄、私は確かに時々愚兄と居ると動悸が激しくなったりするが、脈が飛んだ事はないぞ?」
そう、兄さんといると動悸が速くなったりソワソワしたり胸が苦しくなったりする事はあるけれども、でも、きっと病気では無いはずだ。
………………たぶん。
「違いますー! そう言う話じゃないんですぅー! なんでそれがわかっててそんなんなんだよ、お前は!」
ではどう言う話だと言うのだろう。全く意味がわからない。「そんな」とはいったいどんなだ。
「もー、早くちゃんと自覚してくんねぇかなぁ〜」
「本当になんの話をしているんだ?」
首を傾げる私に透と愚兄がなんとも言えない視線を寄越す。
「……ま、それでこそミカエラだしな。いいさ。お前がちゃんと自覚してくれるまで何百年でも付き合うさ。お前のことに関しては気が長いのよ、俺」
立ち上がりざまポンと一つ私の頭頂部を軽く叩いて「ちょっくら着替えてくらぁ」と兄が部屋から出ていく。
その後ろ姿を見送りつつ、一体なんなんだと首を捻った。
愚兄の言動は本当に意味がわからない。私に何を自覚して欲しいと言うのだろうか。
「ねえ、ミカ兄。あっちゃんお気に入りの少女マンガ貸そうか? 鈍感な女の子と一途な年上幼馴染の男の子の甘酸っぱい青春ラブストーリーが今人気のやつ」
「おべ ん きょお し よ!」
「え? あ、うん。ありがとう……?」
なんだかよくわからないが何故か困り顔をした透があっちゃんのオススメの本を貸してくれるというので礼を言う。
すると透は頭痛でも耐えるかのように額に手を当てて頭を振った。
「ミカ兄はもうちょっと自分のことをわかろうね。でないとさすがに拳兄が可哀想だから」
その言葉が意味するところがわからなくて軽く首を傾げてパチパチと無言で瞬きを繰り返すばかりの私を見て、「こりゃまだまだ先は長そうだね」と弟は義妹と顔を見合わせて苦笑した。