【まだ知らない、その名前】
「はい、司くん。あーん♡」
「あ……あーん」
中庭での昼食。甘ったるい声で類が差し出してきたのは、ちくわの磯辺揚げだ。目の前にあるそれにかじりつけば青のりの良い香りがふわんと口内に広がり、咀嚼すればちくわの甘みがそれに続く。うまい。しかしその間も熱い視線を投げかけてくる類に、嚥下したオレは──ひどく今更な事を──問うた。
「類。なぜオレ達はこんな事をしているんだ?」
「おや、僕の旦那様は健忘症かい?」
「ちがうわっ! あとその旦那様はやめろ!」
「ダーリンの方がお好みかな」
「それもアウトだーーー!!」
拳を震わせてひとしきり叫ぶと、類はくつくつ肩を揺らした。
「フフ、冗談だよ。でもこれが一番手っ取り早く『恋人』をイメージできるだろう?」
「う……」
ぐうの音も出ない。
そもそも、次のショーの内容を恋愛物にしてみようと言ったのはオレだ。だが恋愛をしたこともないせいか書いた脚本が仲間達、特に目の前の演出家からことごとくダメ出しを食らって遅々として進まず、頭を抱えていた。すると類が言ったのだ。『実際にロマンスを感じられることがあれば進むかもしれないね』と。
そこで、とりあえず恋人のような振る舞いをしてみるかという話になり……今に至る。
「だが、もっと他に方法がある気がしてだな」
「例えば?」
「あー……手を繋いだり、ハグをしたりとか」
「手をつないで、ハグ……ねぇ」
何やら意味深な笑みを浮かべた類は弁当と箸を脇へ置いて、空のオレの手をそっとすくいあげた。そのまま優しく握りしめ、木漏れ日に輝くシトリンの双眸で上目遣いにオレを見やる。
と。
どくん。
心臓が、跳ねた。それを皮切りに早鐘のように鼓動を打ち始める。ドキドキしすぎて痛いくらいだ。ふわふわした心地なのに、さっきまで欠片も無かったはずの強い気恥ずかしさで正面から類を見られない。じんわり汗ばむ手を気付かれたくなくて振り払いたい気持ちと、まだ繋いでいたい気持ちが、頭の中でせめぎあう。
それに何より──
胸の奥から温かい想いが沸き上がってくる。
ショーをする時の緊張感とも高揚感とも違う。楽しみにしていた舞台を観た時とも、もちろん違う……。これはなんなのだろう?
そんなオレの変調を尻目に、おもむろに手を離した類は今度は腕を回して抱き締めてきた。手を握った時と同じ、優しく包むような力加減だ。ほんの少しの抵抗で振りほどけるだろう──そうわかっているはずなのに、なぜかオレは息をつめるしか出来なくて。一層激しくなる心臓の音が聞こえてしまわないか、なんて心配までよぎった直後だった。
「──愛してるよ」
耳朶に落ちてきた、吐息混じりの甘い囁き。
刹那、今まで感じたことのないゾクゾクしたものが不意に腰から背中までをかけ上がった。それに押し出されて妙に高い小さい声までもれてしまったが──そのことに気付いたのかどうなのか──聞きなれた微笑が鼓膜を打ち、長い腕の戒めがするりと解けた。
「どうだい? 少しは脚本の役に立ちそうかな?」
至極上機嫌なその笑顔がどこか含みのあるものに見えた気がした。……が、内側からの熱で茹だっている頭ではうまく考えがまとまるわけもなく。オレは、まだバクバクしている心臓と、女性のような高い声を意図せず紡いでしまった自分の口元を押さえて、うめいた。
「…………ああ。もう、十分だ」
それは良かった、と答える声はいやに弾んでいた。