【我慢の限界】
「……は? あんた、今なんて?」
飲みかけの缶コーヒーを握りしめた彰人は、ぎぎぃっ、と音でも出そうな動きで隣に座るオレを見る。
ここは中庭の隅にある木陰だ。比較的、生徒の目につかなさそうな場所を選んで呼び出したとはいえ、誰かに聞かれる可能性を考えると二回も言うのは気が進まなかった。……が、聞き取れなかったのでは仕方がない。オレは未開封の自分の紅茶のペットボトルを両手で握り、心持ち声量を落としてもう一度繰り返した。
「だから、あれこれ理由をつけて類を拘束するから、その類の前でオレを寝とって欲しいのだが」
「……どっからつっこんだらいいんだよ、これ」
深々とため息をついたかと思うと、空いている片手で頭を抱えた。流れる沈黙。類のようにメッシュの入った鮮やかなオレンジの髪が、そよ風にふわふわ揺られる様を眺めて沈黙を享受していると、頭を下げた体勢のまま彰人の目がこちらを見た。
「とりあえず聞きますけど、二人はそのー……付き合ってるんっすよね」
「まあな」
「なんかケンカでもしたんっすか」
「いや、至って良好だ」
「じゃあどっちかにそんな性癖が」
「んん? い、いやいやちょっと待て、何か勘違いさせている気がするぞ!?」
慌てて頭を左右にぶんぶん振り立てると、再び大きなため息がもれた。よいせ、と頭を起こした彰人が首をかしげる。
「勘違いって……あんたが言ったんでしょう、寝とれって」
「そ、そうだがそうじゃないっ」
「あ?」
思いきり顔をしかめた彰人に──やはり勘違いしていたか──確信して、改めて説明する。
「後輩にこんな相談をするのも恥ずかしいが……類と恋人になってもう半年は経つのに、なかなか……手を出してくれなくて、な」
話しながら思い返しても、もどかしい。
類はキスに至るまでは一週間と早かったのに、それから先は全く進む様子を見せないのだ。もちろん、こちらからそういった雰囲気を作ろうと何度か試みた事もある。だが、いつも適当にはぐらかされ、挙げ句にキスの雨とハグで誤魔化されて失敗に終わった。お手上げだ。
いくらオレの性欲が薄い方(だと思っている)とはいっても、ここまで何もされないと──さすがに色々と溜まってくる。
「だから類の目の前で一芝居うてば、少しは危機感を持つのではないかと思ってな。どうか引き受けてはもらえんだろうか」
ペットボトルを脇へ置き、代わりに有名店で買ってきたベイクドチーズケーキ入りの紙袋を持ち上げて頭を下げる。
「頼む! この通りだ!」
「ぐっ……な、なんすかそれ」
「前にオレの弁当からチーズケーキをつまんでいただろう。好きなのかと思ってな、せめてもの礼になればと買ってきた」
「くそ、司センパイのくせに絵名みたいな事しやがる……」
苦虫を噛み潰したような顔で何やらごにょごにょ呟く、彰人。また何か勘違いをされていそうな気がしたが、あまり話の腰を折ると昼休みで話が終わらなくなりそうだ。そっとしておくことにする。
何もオレはスイーツで無理矢理に言うことをきかせようなどとは思っていなかった。芝居上とはいえ、恋愛の対象外である同性のオレを寝取れという無理な頼みをしているのだから、当然の対価として用意したのだ。もちろん彰人が頼みを断っても渡すつもりでいる。
だが彰人は──引き受けないと貰えない物──と認識しているらしい。紙袋と虚空の間を視線が行ったり来たりと忙しい。
「つか、そもそもショーキャストやってるセンパイらと一緒にされても」
「以前、チョコレートファクトリーで見た彰人の演技力であれば大丈夫だ! あれは素晴らしいものだったぞ!」
お世辞ではない。アドリブであそこまで自然に振る舞えた、あの胆力と演技力はなかなかのものだ。冬弥と一緒に音楽をやっていると聞いたが、もしそうでなければワンダーランズ×ショウタイムへ誘っていたかもしれない。
オレの熱弁に彰人は低くうめきはしたが、目元を少し染めた。まんざらでもないと言わんばかりの顔だ。
──これは引き受けてくれるのでは──
芽吹いた期待に思わず目を輝かせた。その時だった。
何かをぐっと飲み込んだ彰人が大きく天を仰ぎ、三回目のため息をついた。
「……あーいや、やっぱオレには無理です」
「う……どうしてもか?」
「例え演技だってわかっても、司センパイが関わると目の色変えそうですから、あの人。オレまだ死にたくないんで」
「ハッハッハ! いくら類でもそんな──」
そんなことはせんだろう、と言いかけたオレの口が、背後から突然回されてきた手で力強くふさがれた。力強い──が、覚えがありすぎる手の感触と、身体を動かす度にふわりと鼻腔をくすぐる、やはり覚えのある香りに凍りつく。
「フフッ。英断だよ、東雲くん」
「そりゃどーも」
「むぐごーっ!?」
肘まで袖をまくった長い腕がオレを抱き締めた。それが誰かなど見るまでもなかったが、表情を確かめるべく無理矢理身体をねじって肩越しに見やると──
そこには、口元の微笑とは裏腹に目が笑っていない類がいた。
「いけないね、司くん。恋人に隠れてよからぬ企てをするだなんて」
「あれ。神代センパイ、マジで聞かされてなかったんっすか。ここに呼び出された時にはもう木の上にドローンが飛んでたから、てっきり二人でオレを担ぎ上げてるのかとも思ったんですけどね」
「ほ、ほいぃぃぃ!?」
──な、なにぃぃぃ!?
はっきりと言葉にならない叫びに、翳りを帯びたシトリンの瞳がすっと細められた。
「たまたまだよ。まぁ、そのたまたまで恋人のイタズラの計画が発覚したわけだから、ドローンで校内観察も悪くないね」
「ったく……巻き込まれるこっちの身にもなってくださいよ。あー、あほらし」
彰人が弾みをつけて立ち上がる気配に、慌てて顔を前に戻す。お尻を軽くはたいた彰人の視線はもう校舎の方へと向けられていて、すぐにでも立ち去ってしまうのが知れた。
(はっ、いかん! 行ってしまう前に礼をせねば!)
オレは掲げっぱなしだった紙袋の口を握りしめ、類の腕の中で必死に声をあげる。
「ほひほー! ほぅま、まふまっは! むふへっほふへ!」
と、半眼がくるりとオレの方を振り返った。
「……なんつってるんっすか、これ」
「『彰人、今日は助かった。受け取ってくれ』……てところかな。それ、貰っていいみたいだよ」
「マジっすか。じゃあ有り難くもらっときますね、センパイ」
迷いなく紙袋を受け取るとにっかりと笑い、んじゃ、と一言残して──彰人は足早に校舎へ戻っていく。オレは無事に礼を出来た事でほっとひと安心し、空になった手をぶんぶん振ってその背中を見送った。
しかし、彰人の姿が完全に校舎内に入ったのを見計らってだろう。オレの口を押さえていた手がゆぅるり離れた。
「さて、司くん」
「………………あ……」
忘れていた。オレはいまピンチだった。
さっき見た類の表情からして、かなり怒っている。いや、決して悪いようにするつもりがなかったとはいえ、罠にはめる算段をしていたのだから面白くないのは当然だ。オレは再び類を振り返る度胸もなく、後ろから抱きすくめられたまま固まった。
「そ、その……る……類……?」
「話は全てドローンで聞かせてもらったよ。僕が君に手を出さないのが大層不服なようだね」
「いやその、不服というわけでは!」
「もう隠さなくていいんだよ。君の真意はさっきたっぷりと聞いた。……だから今度は、僕が吐露する番だ」
そう言うや否や腕の戒めがほどかれ、代わりに両肩を掴まれて強く振り向かされる。ターンを失敗した時のように視界が一瞬ぐらりとしたが、次の瞬間にはもう類と正面から向かい合っていて──大きく斜めに顔を傾けた類が深く口付けてきた。
今まで散々繰り返されてきた優しいそれではなく、獣が食らいつくのにも似たキスだった。
むせかえるような類の匂い。
オレをむさぼり尽くそうとする類の舌。
そして、荒々しい息遣い。
全てから伝わってくる熱に、頭がくらくらする。
「ん……ふ、…………は……」
息継ぎをしつつ、どれくらい必死に応えていたのか。やがて後頭部に手が回されて押し倒された。その最中にどこかぶつかったらしく、置きっぱなしだったペットボトルも倒れて、茂みまでごろごろ転がっていくのが目の端に見えた。驚いて思わず身体を硬直させると唇は離れたが、つうっと引いた透明な糸を舌で断ち切った類は、獣が舌なめずりをするがごとく自分の濡れた唇をぺろりと舐めた。
「ワンダーステージでのショーや宣伝大使で行うショー、日々の学校生活にエキストラのアルバイト。そんな風に毎日忙しい君に、無理をさせたくなかったんだ」
「……る、類……? あの、あのな……」
「だからこの半年、我慢に我慢に我慢を重ねて君を大事にしてきたのに。その気遣いが仇になるなんてね」
「わかった類っ。もうわかった、オレがわるか──」
類が再びキスでオレの言葉を奪う。
今度はふれあうだけのものだったが、それでも息を詰めたオレに、劣情の熱を隠そうともしない瞳がにたりと笑んだ。
「覚悟してね、司くん」
昼休み終了を告げるチャイムが鳴り響く。
オレは、はひ、と間の抜けた返事を返すしか出来なかった。