マッハ10を超えて…… 一週間の休暇を得たのだ。
何をしようかと浮き足立って、つい、マーヴェリックにそのことを言ってしまったから、今ここにいる。それはまあ、いいのだ。
問題は、今、自分を不信感いっぱいに見上げてくる小さな存在にある。
「まさか、本当にそんなことがあるなんてなぁ」
顔見知り程度の別部隊の隊長が、心底困った顔で笑っている。はあ、と気の抜けた声しか出ないのは許してほしい。そして、瞬きもせずに睨んでくる小さな人からは、必死に視線を逸らした。
「ウチの隊はこれから訓練で、他にコイツを任せられるのが思いつかなくて」
「ですが、サー。リモアには沢山いるでしょう、」
あの任務についた時のメンバーとか。口には出せなかったそれを読み取ってくれたのか、しっかりと大きく頷いているその顔。けれどちっとも晴れない顔のまま、困ったように眉が下がっていく。
「どこも合同だったり任務で、出払ってる」
部隊が、ではなく。おそらくはその個人が。
それは仕方のないことだけれど、こうもタイミング良く全員いないとかあり得るのか。思わず天を仰いで肩を落としたら、その肩を思い切り掴まれた。
「頼むルースター! ハング……ジェイク少年を一日、今日だけ、頼む!」
部屋を震わせるような声を久々に正面から浴びて、気が遠くなりそうになるのを必死に堪えながら、そうは言われても、と頭は考える。
折角の休暇。まだぎこちなさが残るマーヴェリックに少しは歩み寄ろうかと考えて西へ来て、それが突然リモアの基地に連れてこられて、逃げ出そうにもこの部屋の外にはマーヴェリックを含め、ヴィジランティスの面々が待機していて出られない。逃げ道を塞がれた状態での対話は、強制的に頷かせるつもりが見え見えだ。
断るの一択しかない。話しを聞いた瞬間からそう思っていたのに。
今の大声にびっくりして目をまん丸くしたその顔が、普段は見せない顔だったからか。
ルースターは首の力を抜いて、そのまま頷いてしまった。
「了解しました、サー」
「そうか! 助かる! 任せたぞ!」
意気揚々と顔を輝かせるのを半眼で見つめて小さく笑えば、すっかりと表情を元のやや不機嫌そうな顔に戻した小さな人が、やはり不満げに口を尖らせた。
これは大変そうだと、ぼんやりと思う。
戸口にある小さな窓から顔を覗かせたマーヴェリックが、よくやったとばかりにサムズアップしている姿が見え、吐き出した息が妙に重たく感じられたのは気のせいではないだろう。
一週間の休暇が、とんでもないスタートを切ったのがわかった。
マッハ10を超えると、それは不思議なことが起こるらしい。
曰く若返るだの、曰く記憶をなくすだの、曰く妙な体質になるだの。
曰く、子供の頃の自分と入れ替わる、など。
それは海軍の飛行士たちにまことしやかに噂されてきたことで、そして同時に誰もが眉唾物だと笑っていたものだ。
だって、誰もマッハ10を超えた人を見たことがないから。
けれど昨今は、その噂に幾ばくかの現実味を帯びてきたのもまた事実。どこかで極秘裏に作られている試作機がマッハ10を超えたと噂を耳にしたあとに、その機体を大破させて無傷で生還した男を目の当たりにすれば、そんなことも実際はあるのかもしれないと、信じたくなくても思えてしまう。
ただ果たして、現役のアビエイターがそんな試作機のような高速機体に乗ったのか。それはわからなくて、もちろん教えてももらえなくて。現実に起きてしまったというそれを、受け入れるしかなかった。
なんでもデブリーフィングの最中に起きたというそれは、多くの目撃者を作ったのだというから。
ぱっと切り替わるように、その場にいた男が子供になった。
それはもう、全員が驚きの声をあげたらしい。
その様子は見てみたかったなと。ルースターは素直に思った。
ジェイク・セレシン、八歳。
ポツリと告げられたプロフィールは、知っているものと知らないものとが組み合わさり、そうか、という平凡な返事しか返せなかった。
むすっと見上げてくる顔は見覚えのあるパーツと、見覚えのないパーツとが混在している。まだ丸みのある顔は、やはりどうしたって幼い。
こんな頃もあったんだなと、当たり前のことを思って少し笑った。そうしたら、また怪訝そうな顔が向けられるので、ゴメンと肩をすくめて椅子に座り直すことにする。
基地を出た二人がいるのは、隣接している街のカフェテラス。基地ができてから発展した街は飛び交う戦闘機の轟音に慣れたもので、強い振動と音が近付けば会話をする人同士もまた口と耳を寄せて話しを続けている。驚いたように空を見上げるのは、この街に来て日の浅い者たちだ。
「すごい」
肩をすくめて空を見上げた小さな顔が、それでも嬉しそうに空を駆ける戦闘機を追っている。さっきまでそれらが待機している場所にいたのだが、気付いていなかったのかもしれない。
純粋に、すごいかっこいいと口にする様子は、子供らしくて少し好感が持てた。
「戦闘機好きなのか」
空を見上げる丸い顎と、ちょこんと見えるまだ低い鼻に目を止めて尋ねれば、上を向いていたからではないだろう赤い顔を大慌てで正面に戻して来た。羞恥でも感じたのだろうか、少しだけ目の縁が赤く見えた。
「か、関係ないだろ!」
「まあ関係ないけど、好きなのかなぁって思ったんだよ」
空気を切り裂いて、細く雲を引いて。戦闘機は遥か上空を飛んでいく。
ルースターが見上げる先、美しく弧を描く機体がキラリと太陽光を反射した。
「……好きだけど、親はあんまり好きじゃないから」
音にかき消されそうな声に、意識が引き摺り下ろされる。瞬きをして見つめる先にいるのは、子供の頃のハングマン。その口から出てきた言葉に、ルースターは少なからず衝撃を覚えた。
──反対されてたのか。
軍に入りたいという子供の夢を、賛成してくれる親はもちろんいる。そして反対する親も当然、いる。
勝手な思い込みだが、ハングマンの親は軍への入隊希望を支えてくれていたと、そう思っていた。それがあの自信に繋がっているのだと。
でも今この子供の口から出た言葉は、明確にダメだと言われたわけではなさそうだが、嬉々として語る夢を、穏やかに聞いてもらえてはいないのだろうと察することができた。かつて自分も、母親から困ったような笑みを、何度も向けられた記憶があるからだ。
それでも。
ゆっくりと空を見上げる小さな顔は、明るいグリーンの瞳を輝かせている。
諦めないという、強い気持ちをのぞかせている。
小さくともやはりハングマンなのだな、とそう思って。ルースターはやんわりと笑みを浮かべた。
「説得は大変だろうけど、きみならきっと、やり遂げるよ」
自信と誇りを持って空を駆けるその姿が、キョトンとした顔を向ける少年にかぶる。
この先どれほど説得と喧嘩をするのかは知らないが、やり遂げて今がある。正確には今現在は非常事態ではあるが。
それでも、折れず曲がらず、その意思を貫き通した結果を、ルースターは知っている。
ぱちりと瞬きをした顔はまだまだあどけなくて、何を言っているのだろうというような顔をしている。誤魔化すようにまた小さく笑えば、人の近付く気配にルースターは視線を上げた。
「お待たせしましたー」
昼過ぎのテラス席は、その時間を狙ったランチを食べにきた人や、休憩のためのティータイムに当てている人たちで賑わっている。ルースターと小さなハングマンは少し遅いランチ側の人間で、ハンバーガーのセットがウエイトレスによって二つ運ばれてきた。
ルースターにとってはやや少ない量だが、小さなハングマンには多いだろうか。残すようならそれは食べると、メニューに顔を顰めていた際に言ってあるので、それを少年が覚えていれば渡してくるだろう。
まだ小さな口を精一杯開けて、綺麗な並びの歯で噛み付く。
──あ、歯がない。
何か違和感を感じて思わず凝視したのは、小さなハングマンの口。前歯の横の歯が、見当たらなかった。きっと乳歯が抜けたあとだろう。
思わず額を抑えて俯けば、頬張りながら眉を顰める少年の顔がルースターを見たけれど、当人は気付かない。
ただ、本当に、子供なのだなと突きつけられて。普段の様子との差に、嬉しいのか困惑しているのかわからない上に妙に恥ずかしくもあって、まともにその顔を見ることができなかった。
何とも形容しがたい気持ちを抱えながらの食事を終えたルースターは、まだ懸命に食べている小さなハングマンを待っている。焦らなくてもいいとは言ったけれど、一人食べる居心地の悪さは何となくわかる。
時折上空を飛んでいく戦闘機の音を聞きながら、賑やかなテラスに目を向けて、軍の関係者だとわかる人たちが当然ながら多いことに目を細めた。せっかくの休暇だったのに、大陸の反対側の基地の近くをうろつくことになるとは。引き受けた以上放りだしたりはしないけれど、とんでもないことをしてくれたなとは、いつものあの顔にそう思う。
「もう、お腹いっぱい」
「残ってるの食べていい?」
「ん」
意地汚いなどと言われたら、大きなハングマンからの言葉であればなんとでも言えと思えるけれど、この小さなハングマンからでは地味にダメージが入りそうだと思っていた。けれどそうは思わないのか、言わないのか。皿をずいっとルースターのほうに押したので、遠慮なくそれをいただくことにする。
八歳の食事量がどんなものかなんて当然覚えているわけもないので、結構食べたんだなと感心しながら、三分の一ほど残されているハンバーガーと副菜を口に運んだ。
それはルースターにとってみれば数口で終わってしまうものだが、小さなハングマンにとっては大変な工程だったのだろう。開けた口に入っていくバンズとパテの姿を、面白そうに目を細めている。
「父さんも大きい口で食べる」
「そのうち、きみも大きくなるよ」
「……うん」
「ん?」
少し沈んだ声に首を傾げたら、小さなハングマンはグラスの中の水を少し飲んで、それからルースターを見上げてきた。
もしかしたら、初めて、ちゃんと目を合わせたかもしれない。
「父さん、あなたよりずっと小さいと思う」
「……んー、」
「身長」
「ああ。……そうなの?」
「たぶん」
だから、と小さく呟く声を聞き零さないように集中したら、より小さくなった声が「大人になっても小さいと思う」とそう言った。
そう言われて、ハングマンの背丈を思い出す。確かに自分よりは少し身長は低かったとは思うが、気になるほどではない。体格も軍人らしくしっかりとしていて、特に彼自身も劣等感を抱いているような節は見当たらないと思う。
でもそれは、この少年が頑張った結果。それはまだ知らない事実。
「まあ遺伝の要素ってあるとは思うけど、どうなるのかやってみなきゃ始まらないだろ」
「……やってみる?」
「まだ成長期だろ。たくさん食べて、たくさん運動して、たくさん寝る。それでいい」
「それで、伸びなかったら?」
「体を鍛えることにシフトする。身長が低くても軍には入れる。なら、誰にも負けない体幹と体力を付ければいい」
自分は幸いにも父親譲りの身長があり、そこに筋肉を纏った。それでも、十代に入るまでは小さいほうだったから、やはり同じように心配して背が伸びなかったらどうしようと不安に思うこともあった。けれど、男性にしてみれば幾分小柄に分類されてしまうだろうマーヴェリックがそばにいた。彼はまさに、ずば抜けた体力と体幹を身に着けている。そういう人も確かにいるのだ。だから、何も気にしなくていいと付け加えれば、戸惑うような顔を見せた少年は逡巡して緩く首を縦に振ってくれる。
「……軍人なの?」
「俺?」
「うん」
「そうだよ。海軍のアビエイター」
「えっ」
「え、って」
心底驚いたという顔を見せるので、同じように驚けば。困った顔をする小さなハングマンは、少し机に身を乗り出してくる。これはたぶん周りに聞かれたくない類だとルースターも上体を倒せば、近付いた小さな顔の眉が下がったのが見えた。
「だって、アロハシャツだし、軍の人に見えない」
ぽそりと言われたその言葉に、思わずきょとんとすれば、ぱちりと瞬きする顔がすぐそばにあって。ルースターはニヤリと片笑むと、まだ片手で掴めてしまうその頭をかき混ぜて「言ったな!」と弾むような声を出してみせた。怒られると思ったのか一瞬肩をすくめた小さなハングマンの顔にはすぐに笑みが浮かんで、「やめろよ!」と、ようやく無邪気な声が飛び出してくる。
「あ、まって。ぼく、まだあなたの名前聞いてない」
「え、マジか」
「マジだよ」
「それは失礼した。……ルースターだ」
楽しそうに笑っていた小さなハングマンは動きを止めて、じっとルースターを見上げてくる。それは訝しんでいるわけではなく、口にされた呼び名に目を見張ったようだった。
「名前、じゃないよね」
「コールサイン」
「……名前は?」
間を空けて訊ねる声は、少し寂し気だ。でも、ルースターは教えるつもりはない。この少年には、まだ必要ない名前だから。
「覚えなくていいよ」
「……そう」
「大きくなったら呼んで」
「ええ?」
知らないのにどうやって。言いながらも笑う顔は、あのハングマンに当然ながら似通っている。まだ無邪気さが前面に出るこの頃はずいぶんと可愛らしいじゃないかと、そう本人に言ってやりたいと思って、なんだか少しだけ胸の奥が重たくなった。
「ぼくが軍に入る頃、ルースターは何才だろう」
「うーん、秘密かな」
「すごく偉くなってるんじゃないの」
「……もしそうだったら、ハンバーガーでも食べに行こうか坊や、って言ってやるよ」
何それ! と声を弾ませる小さなハングマン。
最初にあった突き放すような棘はもう成りを潜めていて、そうなるともう目の前にいるのは八歳の少年だった。
よく考えてみれば確かに、突然周囲の様子が一転し、周りは軍人だらけ。そんな中で無邪気に振舞えるほど幼くもなく、かといって事情を飲み込めるほど大人でもなく。ただ不機嫌な気持ちを抱えているしかなかったのだろうそれは、何となくルースターにも想像はついた。
綺麗に食べ終えた皿を見て、もっと食べれるようにならなきゃと口にするその顔が今はとても明るい。
それを良かったと思えて、少し照れくさそうにルースターは笑った。
元に戻るまでおおよそ一日。
一体どこからの情報なのかは不明だが、そう言われてしまっているので反論はせず、ルースターと小さなハングマンは海軍の官舎の一部屋にやってきている。
カフェで遅めの昼食を摂ったあとは、あまり周囲をうろうろせずに時間を潰した。主には公園で、レンタル品のグローブとボールでのキャッチボールから始まりサッカーやバドミントンなど、休日の父親体験のようなことを一通り空が暗くなるまで続けた。二十年以上も進んだ世界の余計なものを見せては、混乱を極めると思ったからだ。
汗だくにプラスして疲れ果てた二人だったけれど、それでも小さなハングマンが楽しんでくれて、その上、気持ちよく笑ってくれる様子が嬉しかったのは気のせいではないから。たとえ明日、全身筋肉痛になったとしても笑って乗り越えようと、ルースターは思った。
ヘトヘトの体を押し込んだこの部屋は、小さな戸建てタイプの官舎。隣の家はもちろんあるが、庭などがあるため建物自体が隣接はしていない。何か不測の事態が起きても、できるだけ周囲に悟られずに事を済まそうという上層部の考えが透けて見えるようだが、ルースターとしては今日一日とはいえ宿泊費が軍持ちになるのはありがたいことだと、あまり気にはしなかった。
小さなハングマンの自宅がどういうものかは知らないが、興味津々で部屋の中をうろうろしているところを見ると、特に嫌がっている様子は見受けられないのでそこにもホッとした。
「なんか、SFに出てくるテレビみたい」
「……あー」
「軍だから、最新なの?」
「あー、うん、そう」
壁にかかっている薄型のテレビは、近年は全く珍しいものではない。しかし、小さなハングマンには物珍しいだろう。二十年以上前の家電製品は一体どうだったか、と頭を働かせてもよく思い出せない。でもきっと、テレビはブラウン管とのせめぎ合いが始まった頃か。物珍しそうに見上げているので、小さなハングマンの自宅にはないのかもしれない。とりあえずテレビを点けられないようリモコンを背の高い棚の上に置き、ルースターはバスルームを指さした。
「あっちバスルーム。ひとまず今日はここで寝て、帰るのは明日。OK?」
「わかった」
少しも納得はしていないだろうが、小さなハングマンはそれでも頷いてきた。
帰りたくないわけがない。それなのに、全く知らないこの場所で全く知らない人と一緒にいて、泣き言ひとつ言わない。何かを我慢しているのは見ていればわかるけれど、それを緩めてやるのは自分の仕事ではないと息を吐き出した。自分がやるべきことは、彼を保護するという主だったことだから。
バスルームから水音が聞こえ出して、ポケットからセルフォンを取り出したルースターは、一度基地のほうへと電話をかけるとハングマンの上司とコンタクトを取った。一応、今日一日の報告だ。現在エースを失っているヴィジランティスは、それでも優秀なパイロットが揃っている。訓練は滞りなく進んだと、そちらの情報ももらってしまった。もちろん、ルースターが小さなハングマンの状態も説明すれば、その声色からそうかと神妙に頷く姿が簡単に想像できた。
「とりあえず、二十年以上進んだ機械系統には触れさせてませんが、明日も引き続きになると……なかなか厳しいですよ」
『それはわかっているが、基地に閉じ込めておくこともできないからな……』
「そうですけど……」
『きっと明日には戻る! そう、信じるしか我々にはできない』
そうだけど。でも、そうじゃない。
何を言いたいのか自分でもわからず、わかりましたと了解を口にすれば頼んだと告げて通話は切れる。思わずため息を吐いて無意味に時計を見上げたけれど、何が変わるわけでもない。
まだ聞こえる水音にバスルームへ目を向けて、それからルースターの指は別の連絡先を開いて電話をかけた。
『マーヴェリック』
「マーヴ」
『やあブラッドリー。突然の子守り、楽しんでるか?』
「怒るよ」
『ごめんごめん。でも、きみが適任だとみんな言うから』
「あいつと知り合いならマーヴでもよかっただろ。……いや、ダメか」
『それもみんなに言われた。お前には無理だって。……酷いよな』
困ったように憤慨するマーヴェリックの顔が頭に浮かんで、でもみんなのその反応は正しいものだと思うから、相手には見えないのに緩く頭を振った。
「酷くはないかな。経験者としては、無茶をやらかされて疲れ果てるか、何もできなくて部屋に閉じこもるかの二択になる気がするし」
『あの頃のお前、楽しんでただろ!』
「俺はね。マーヴにはうんと小さい頃から遊んでもらってたわけだし。でもそれを今のあいつにしたとして、知らない人にあれやるかこれやるかって聞かれても怖いだけでしょ」
『……そう、か』
「もしくはマーヴの人見知り発動して黙っちゃって、何もできない。このパターンが一番可哀そうだ」
そう言われて、本人も何となくわかっているのか。否定する言葉は聞こえなかった。
『でも、折角の休暇を、悪いな』
「マーヴが依頼してきたわけじゃないし。元に戻ったら本人に食事でもおごってもらうよ」
『そうか。……楽しめたか?』
「楽しくはないけど。でも、色々、新しい発見があって面白い、かな」
子供らしい無邪気な笑い方も。小さな体も、歯の抜けた口も。彼を現在取り巻いている環境も。知らないことを一気に伝えられて、少し混乱するほどたくさんのことを見せられている。
それは、面白いとは少し違ったけれど、マーヴェリックにはそう伝えた。
どう取ったのかはわからないが、『滅多にない経験だからな』と笑っていたので、同意はしておいた。
『明日には戻るだろうけど、あまり混乱はさせないようにな』
「その明日にはって情報どこから出てるんだよ。……ああ言わなくていいけど。気を張って頑張ってるのでご心配には及びません」
『まあ気を張りすぎないように』
「わかってる」
ふ、と笑って答えれば、電話の向こうでも笑う声が聞こえる。
ああこうして話すのも何だか久しぶりだと、温かいものを抱えた気分になれば、視線を感じた。振り返る先には、軍のほうで用意したのだろう子供用のパジャマを身に着けた小さなハングマンがいた。
「じゃあ切るよ」
『ああ、おやすみブラッドリー』
「おやすみマーヴ」
慌てて通話を切ったわけではないけれど、自分が出てきて終了となった電話に申し訳ないとでも思ったのだろうか。会った最初の頃によく見た不機嫌そうな顔がまたそこにある。
「邪魔されたわけじゃないぞ」
「……邪魔したつもりない」
「そうだな」
「もう寝る」
「そう? おやすみ」
「……おやすみ」
ちらりと見た時計はまだ寝るに早そうな時間だが、彼の生活のリズムは知らないし、今日一日見ず知らずの人と場所に振り回されて、更には何時間も遊んで疲れているだろう。そう思って、ルースターは小さなハングマンを引きとめはしなかった。
自分の部屋、と。この家に訪れた当初に、ここで寝ると嬉々とした顔で宣言していた部屋へ向かうその背中は、どこか寂し気だ。でも、それを引き留めてどうしたのかと問えないルースターは、ただ見送るだけ。
ソファに腰を下ろして、向かいの壁にかかっているテレビを見上げても当然画面は真っ暗で何も映しはしない。点ける気もない。セルフォンを操作して、緊急の連絡がないかは確認するけれど休暇を取っている身なのだから、よっぽどなことがない限りは連絡などない。
いつもならファンボーイに誘われて始めたゲームなんかをいじるけれど、どうしてもそんな気分になれなくて。座面にぽんと無造作にセルフォンを置いて、ローテーブルの横にあるマガジンラックにあった古い雑誌を徐に手に取った。
古いというのはその通りで、どこから見つけてきたのか、発行されたのは二十年以上も前。おそらく小さなハングマンに不信感を抱かせないためなのだろうが、経年劣化している紙ではバレバレじゃないかと思ってしまう。ある意味ビンテージの雑誌を捲れば、少し埃っぽい匂いが鼻をくすぐった。
子供向けの雑誌でも、海軍を取り扱った雑誌でもなく。なぜかグルメ雑誌。
古い写真に写る様々な料理は、果たして今現在も存在しているのかは不明だ。
それでも、ものすごく有名になったチェーン店の初期の姿があったり、テレビで見た覚えのある商品の広告を発見したり。なかなかに懐かしく、面白いなとページを捲ってしまう。
果たしてどれほど雑誌に集中していたのか。カチャリ、と静かに響いた音に顔を上げたら、廊下の影からゆっくりと小さなハングマンが姿を現した。
眠そうではあるけれど不機嫌そうでもあり、何とも形容しがたい表情を浮かべている。
「どうした?」
「……寝れない」
「まだ寝るに早かったかもな。……ここ座る?」
見上げた時計は、今ごろが丁度寝るのにいい頃合いかという時間を指している。先ほど彼が部屋に向かった頃から二時間にならないくらい、時間が経過していたようだ。
このままベッドに戻ればもしかしたら眠れるかもしれないが、どことなく気落ちしている小さなハングマンを突き放すことができなくて、ソファの隣を軽く叩いた。
来るのか来ないのかは自由だ。
どうするのかと見ていれば、戸惑ったように視線を揺らして、それからおずおずといったようにこちらへ歩いてくる。明るいリビングに体が全部出てきて、ルースターは少しだけ息を呑んだ。
小さなハングマンの目元と鼻先が、赤くなっている。
睫毛が数本まとまって、ライトが水分を煌めかせている。
どうしたのか、なんて聞かなくてもわかって。
素直に隣に腰を下ろしたその姿を、ただ優しく見つめるだけにした。
「見る? この辺りの店の特集だって」
「……なんか、紙、古くない?」
「置いてあったからかな」
「この辺のって、見てもわかんないし」
「だよな。俺も」
「……そうなの?」
「そう。俺の所属オシアナだから」
「え、反対側じゃん」
ギョッとしたように顔を上げた小さなハングマンに、そうなんだよと笑って見せれば、何でここにいるのと言うような顔だ。
最初にいた基地がリモアだということは、ちゃんと建物に書いてあるのを見ていたのだろう。突然の出来事でもパニックを起こさなかった冷静さはこの頃にはもう持っていたとは、優秀だと常々言うだけはあるなと妙に感心してしまう。
「え、観光?」
「まあ、そんなところ」
「……デートだ」
「……なんで?」
なんだマセガキめ。そう思って見下ろせば、雑誌を見るともなく見ている柔らかな横顔が見えた。でもそこに浮かんでいる表情は、揶揄うとかふざけているとか、そんなものではなかった。
少し寂しそうな、そんな顔だった。
「電話、楽しそうにしてたから」
「あー……楽しそう、だった?」
「うん」
「そっか」
「……姉ちゃんが、好きな人と話してるときの顔と、同じだった」
ぽつぽつとそう言って、小さな手がページを捲る。
節くれだった大きな手ではなく、まだ柔らかな丸みのある手。それでも、成長を始めている、昨日とも明日とも違う今日だけの手。器用に指先だけでページを捲るいつもの手は、今は少し不器用に動いている。
じっとその手を見つめて、ルースターは息を吐きながら少し笑った。
「まあ、好きな人……ではあるかもしれないけど」
「……ふぅん」
上手く捲れず、少しだけ強く紙が摘ままれた。まだ指先が乾燥するような年ごろではないだろうに、と思って見つめていれば、ほとんど読んでいないだろうペースでページが捲られていく。
「俺の、親代わり、みたいな人」
「……親代わり?」
「そ」
瞬きをして上がった顔は、言葉の真意を探そうとしているようだ。でも別に何か別の意味を含ませたつもりはない。そのままだよ、と笑えば聡明な頭はそのままを理解して困惑した表情を浮かべた。
「楽しんでるかとか聞かれたから、あんたとしたような悪いことは何もしてないって言い返してた」
そんな話しはしてないけれど、多少の嘘は構わないだろう。
そう思って肩をすくめたら、またゆっくりと瞬きをした小さなハングマンは、ふ、と表情を崩してくれる。
どこか緊張していたような顔が笑ってくれると、ルースターも嬉しく思って笑みが浮かんだ。
「悪いことって?」
「夕飯前にでっかいアイス食べたとか、宿題後回しにして夜まで一緒に遊んだとか」
「なにそれ、楽しそう」
「楽しかったよ。母親には怒られたけど」
笑って口にする言葉は嘘ではない。だから、ちゃんと伝わったのか。小さなハングマンは楽しそうに目を細めてくれる。
嬉しいなと、思う。
「そういう事しない?」
「んー……あ、姉ちゃんと一個」
「何したんだ?」
言ってしまえと体を寄せたら、くすくすと笑う温かい体がぶつかって、小さな声が聞こえた。
「父さんのお酒飲んだことある」
「うわ! それはかなり悪いやつだ」
「だって、父さんが毎日さ、美味しいって飲んでるから!」
美味しそうだったんだもんと言うその顔は、笑っている。姉と一緒にやったその悪いことは、果たして彼の中でどういう種類の悪いことなのだろう。笑っているから大したことではないのかと思っていれば、「でもね」と続く声に眉が上がった。
「美味しくなかったし、気持ち悪くなったし、頭痛くなって、いいことなかった」
なんであんなの美味しいって言うんだろう。
そう呟く少年に、ルースターは思わず肩を揺らして笑ってしまった。もちろん、じとりとした眼差しを貰ってしまったが。
「まだ子供だもんなぁ」
「子供扱いは腹立つけど、あれを美味しいとは思えないから今回は許す」
「そりゃどうも」
声には出さずに笑って、隣の顔も笑って。「大人になったら美味しいって思えるのかな」なんて、子供がよく口にするようなセリフを言うから「そうかも」と答えておく。酒を好きになるかならないかは、人それぞれだ。この小さなハングマンは大きくなって酒を飲むようになるし、ルースターは実のところあまり好きではないから嗜む程度だ。
「でも、もうするなよ」
「しないよ。きっとお酒飲まない」
嫌いだと言うその口が将来酒を普通に飲むのだと教えたら、どんな顔をするだろう。見てみたいと思ったけれど、それは耐えて我慢した。とりあえずはやってしまった悪いことは、もう二度とやらないと思うくらいに痛い目を見たようだ。そこには、少しだけホッとした。
そんな話しをしながらひとしきり笑った小さなハングマンは、ふーっと長く息を吐き出した。ほとんど見てもいなかった雑誌にまた目を向けて、でも恐らく内容は頭になど入っていないだろう。ゆっくりと、肩が落ちていく。
その様子をどうしたのだろうかと見ていれば、溌溂としていた表情がすっかりと萎んでしまっているのが見える。
これは何かまずいことを言ったか。自分の発言を思い返してみるけれど、どれが彼の弱い部分だったのかは全く分からない。
いつもの大人のハングマンであれば笑い飛ばしそうな言葉も、今の小さなハングマンにはクリーンヒットの可能性がある。
そろりと表情を窺えば、やけに目がキラキラしていると思って、あ、と思った時にはそれが溢れて零れ落ちた。
「え、えっと」
「──っぅ」
ぐいぐいと涙を拭う小さな手。それに負けないとばかりに零れてくる涙。
小さな体の死闘は、涙の圧勝のようで。拭いきれない雫が幾つも膝の上に落ちていく。
どうした、とか。大丈夫か、とか。かけたい言葉は山のようにあったけれど、どれも今の小さなハングマンにかけられるようなものではない気がして。触れるのも違うような気がしたけれど、ルースターはぎこちなくその背中に触れた。
温かくて、小さい背中。
この背中があんなに大きくなるのかと、感慨深いものを感じながら、ゆっくりと優しく撫ぜてみる。しゃくりあげながら、必死に涙を抑え込もうとする様子は見ていて心が痛い。思いきり泣いてしまえと思うけれど、この小さな少年のプライドが果たしてそれを許すのか。
「ジェイク」
「っ、ご、っめん」
「謝らなくていいよ。……俺が何か言ったことが原因なら、俺こそ、ごめん」
ルースターの言葉に、小さな顔がすぐさま横に振られた。違うという声も、途切れながら聞こえた。少しだけそれにほっとして、言葉や涙を促すように背中を撫ぜる。
そうしたら、もう止まらない涙を止めようとするのをやめたのか。目元を必死に拭っていた手が止まって、膝の上にぽすんと落ちていった。
落とされた手から顔へ視線を上げると、ぎゅっと力を入れて真っ赤になった顔が見える。
「ジェイク?」
「っい、たい」
「え、痛い?」
「んん、ぁ、ぃたいっ」
ふるふると頭が揺れて、涙がまた零れ落ちて。小さなハングマンが目を開けて、ゆっくりと視線を左右に振った。何かを確認するようなそのあと、また込み上げる涙が零れていく。
「と、っさんと、かぁさんっに、会いたいっ!」
何度も目を瞑って、目を開けては周りを見て。そのたびに涙を増やしていく。
それは、今この場にいない両親を探してのことだったのか。
──そうだよな、まだ、八歳だもんな。
自分から遊びに行ったとか、そういう事ならば泣くことなんてないだろう。でもこの小さなハングマンは事情が違うのだ。
いつも通りの毎日を過ごしていただけなのに、突然景色が一転してしまった。住んでいる場所とも違う。両親も姉もいない。知っている人は一人もいない。明らかに自分を取り巻く環境が違う。一気に突きつけられて、全く知らない男と一日を過ごして、知らない家で一人眠る。彼はあの部屋の中で、何を思ったのだろう。もう二度と家族に会えないと思ったのだろうか。
当たり前にあった毎日の光景が消えてしまって、不安に思わないわけがない。必死に耐えて隠していたから、気付かなかっただけで。小さなハングマンは、ずっとずっと不安だったのだろう。
眠れないと半分言い訳のようなことを口にしてここへ戻ってくるまで、きっと、泣いていたのだろうから。
会いたいと口にして、ルースターの前で恥じらいもせず涙するのは、もう耐えきれなくなった証拠だろう。
寂しく思って当然だ。
まだ小さいこの少年は、両親の庇護下で幸せを享受するのが当たり前なのだから。
「なんで、いなのっ、なんでっ」
「うん、そうだよな」
頭に浮かぶ幾つもの言葉はやはり口に出せない。ごめんは違うし大丈夫は軽々しく言えない。泣いている子供の涙を止める術がわからない。情けない自分に腹が立ちながら、撫ぜていた手を優しく叩くようにすれば、膝に落ちていた手が持ち上がってまた涙を拭い始めた。
「もうっ、悪いっこと、しないからっ」
「……ジェイクのせいじゃないよ」
この事態は大きなハングマンが引き起こしたことだけれど、それも不可抗力だ。何より、小さなハングマンのせいでは絶対にない。口にはしないけれど、きみのせいではないと気持ちを込めて体を包んでみたら、嫌がることもなく胸元に寄りかかって来た。ぐずぐずと鼻を鳴らして、相変わらず涙は零れ落ちている。それでも、僅かに生まれた信頼があるのだろうかと思って、しっかりと小さな背中を抱きしめた。
「ジェイクのせいじゃないから。だから、もう寝ちゃえ。難しいことは明日考えよう」
「……でもっ」
「大丈夫、俺がジェイクのそばにいる」
「ずっと?」
「んー、両親に会うまで?」
「なに、それ」
ふ、と。震えるように笑う声が聞こえた。
体の力を抜いてルースターに寄りかかっている小さなハングマンは、まだ涙は止まっていないけれど、それでも少しずつ呼吸が落ち着いている。背中を撫でてあやすように手を当てて。そうしたら、はあっと大きく息を吐く音がする。
呼吸が乱れるほどのしゃくりあげがなくなってきて、そのことに安堵を覚えた。
「ぼく、ルースター好き」
「はは、マジで。ありがと」
「うん。……ありがと」
胸元に顔を埋めて、少し弱々しく笑う顔。
ゆっくりと止まっていく涙の代わりに、赤くなった目元が少し痛々しい。
それでも、笑ってくれたことがやっぱり嬉しくて。ぎゅっと強く抱きしめたら、小さな手がルースターの体を抱きしめ返した。まだ回りきらない手が愛おしいと思えて、妙にくすぐったくて笑みが浮かんでしまう。
「もうここで寝ちゃおうぜ」
「……ここで?」
「そう。悪いことしよ」
「母さんに見つかったら、怒られちゃう」
「一緒に怒られるか」
少しだけジワリと浮かんだ涙が、笑う顔に負けて落ちていく。
ソファにそのまま横になれば、当然とても狭い。それでも背もたれ側にいるルースターは、小さなハングマンを落とさないようにしっかりと腕に力を入れたし、彼自身もしっかりとルースターの体に乗り上げた。
「……ありがと、ルースター」
「ん? 何もしてないよ」
首を傾げたら、眠たそうな目がゆっくりと瞬きをして、柔らかく笑ってくれる。
見たこともない表情なのに、見覚えがあるような気がして。
不思議な気持ちで、ルースターは柔らかな髪を撫でた。
「おやすみジェイク」
「おやすみ、ルースター」
背中に当たっているセルフォンが痛いと思ったけれど、もうあとでいいかと気にせず。
静かに息を吐いて、ゆっくりと眠りの世界に落ちていく小さな子供に、柔らかく目じりを下げた。
「ルースター!」
バンバン、と胸元が叩かれて、衝撃と共に聞こえる声に重たい瞼がゆっくりと持ち上がった。
目の前で揺れている明るいブラウンの髪は、眠る前に見たときよりもずっと短くなり、気持ち硬そうにも見える。
「おい! 寝ぼけてんのか! 起きろ!」
また叩かれる。かなり痛い。そして、重い。
「ルースター!!」
うるさいくらいの声に眉を顰めれば、その声もまたずいぶん低くなったなと思って。胸元に乗る重たいそれをようやくちゃんと見つめれば、可愛らしいサイズの小さなハングマンが、憎たらしくも大きなハングマンへと取って代わっていた。
「……重い」
「それでも床に足着いて、体重分散してるんだよ俺は!」
「なんで」
「お前が離してくれないからだろうな!」
「……ああ」
太陽光がリビングを満たしているのを逆さまに確認して、小さな背中を抱きしめていた腕を大きな背中から解放する。そうしたら、すぐさま跳ね起きるようにしてルースターの上から退いたハングマンは、はああ、と大きなため息を吐いて見せた。
逞しく鍛え上げられた軍人のハングマンが、そこにいる。
細く小さかった少年の面影など微塵もない。
少しだけ寂しく思いながら体を起こしたら、腰に手を当てたハングマンの目がじっと射抜いてきたのを感じる。眠いのを言い訳にするようにゆったりと見上げたら、少し苦い表情を浮かべた顔が見えた。
「子供の俺に何もしてないだろうな」
「失礼な奴だな。一日面倒見てやったってのに」
いうに事欠いてそれか。
口をへの字にして唸るように声を上げれば、「ああ、いや」と珍しく言い淀む声が聞こえてくる。じっと見続ければ、耐えきれなくなったかのように息を吐いたハングマンは両手を小さく上げて「悪かった」と続けた。
「助かった」
「……どういたしまして。無事に戻ってこれてよかったな、ハングマン」
「ああ本当にな。……なあ、なんか食うもんないか? 丸一日食ってないんだ」
「なんで」
「所持金ゼロ」
「……そうか、その恰好じゃ、そうだな」
ふ、と笑って見上げる先のハングマンは、フライトスーツだ。
当然それは基地内で、戦闘機に乗るために着ている服だ。つまりは勤務中で財布の類など持っていない。スクランブルがあればすぐさまGスーツを身に着けて飛び立つのだから、そんな余計なものを持っているわけがない。
ならば、その状態で入れ替わったのなら、当然ハングマンは無一文だ。
「冷凍庫にパンがあった気がする。あと、なんか色々」
「なんだよ色々って」
「外で食べてここに来たから、あんまり物色してない」
「なるほど。……お、オレンジ発見。食べていいやつだよな」
「この家の中にある物は、好きに使っていいとは言われてる」
キッチンを漁っているハングマンは頷いて、どうやらオレンジにナイフを入れたようだ。無臭に近かった室内に、オレンジの香りが漂った。
「なあ、一文無しで過去に行ったハングマン」
「なんだよ」
「向こうで何してたんだ?」
「何もしてない。できるわけがない。ただじっと時間過ぎるの待ってた」
「どこで」
「あちこち。人目に付かないよう移動しながら」
分厚い皮をむいて、中の薄皮もむいて。遠目にも瑞々しい橙色の実を口に放り込んでそう言うハングマンは、目を開けたその時に周囲の景色が一転していることにそれはもちろん驚いたとは口にした。でもそこは、常に優秀だと自負する男だ。すぐに事態を飲み込んで、ややこしくなることは避けたらしい。
「実家の近くなのはすぐにわかったから、とにかく家に戻りながら目立たないように行動して、夜になっても子供の俺が戻らないって大騒ぎになる様子見てた」
「滅多に見れるもんじゃないなーそれは」
「正直気分はよくなかったけどな。でもまあ、隙を見て自分の部屋に入り込んで隠れてたら、気が付いたらここだった」
「ああ、じゃあ、あの子は無事に自分の家に戻れたのか。それはよかった」
「機転を利かせたんでな」
「さすが、優秀だな」
「だろ?」
冷凍されていたロールパンを温めて、オレンジをもう一つとミネラルウォーターのペットボトルを手に戻ってきたハングマンは、それはもう疲れたようにソファに腰を下ろした。ルースターが投げ出していた足を引っ込めなかったら、遠慮なくその足の上に乗る勢いだったろう。
その事態にならなくてよかったと思いながらゆっくりと座り直せば、黙々と食事を口にしていくハングマンはオレンジを半分差し出して首を傾げている。いるか、と聞いているのだとは分かった。
「えー、むいてよ」
「はぁ?」
何言ってるんだ。そんな言葉を表すように歪めた表情を見せて、それでもハングマンの手は器用に一房のオレンジの薄い皮をむいて、橙の実を曝け出させている。そうして差し出してくるから、逆にルースターが驚いて動きを止めてしまった。
「なんだよ、いらねぇの」
「い、いる」
慌てて受け取れば、特に何を言うわけでもなく自分の食事に戻るハングマン。
ほんの一瞬、これをどうするかと考えてから。ぽい、と口の中に放り込んだそれは、瑞々しくて甘くて美味しい。
喉が渇いていたんだなと気付いて、ルースターもキッチンへと足を運んでミネラルウォーターを一本拝借した。口に流し込めば、爽やかな甘さが消えてなくなっていく。それを少し寂しく思いながらソファに戻ると、既にパンを完食し、パンくずだけが残る皿にキラキラと光を乱反射させるオレンジの実が皿の上に乗っていた。ハングマンの目の前ではなく横にずらされたその皿は、これをやるという事だろう。
何だかむず痒く感じながら「いいのか」と訊ねた声は、水を飲んだはずなのに掠れてしまった。
「いるなら」
「もらう」
一通り食べ終え、水を飲んでようやく落ち着いたのか、ハングマンはミネラルウォーターの蓋を締めながらソファに埋もれるように沈んでいる。
それを横目にオレンジを放り込んだら、また甘い果汁が口いっぱいに広がった。
「本当にこんなことが起きるんだなとか、何したんだとか、聞かないんだな」
「だって機密だろ」
「まあ、そうだが」
本音を言えばもちろん、何をしたのかは聞きたかった。
通常機体ではマッハ10なんて出るわけがないのだから。最新鋭の機体に乗ったのだろうと、それは想像はできる。けれどどんなに仲がよかろうが家族であろうが、軍の機密は口にはできない。仲がいいわけでも家族でもないルースターには、どうあがいてもその情報は知り得ない。
「俺が今知りたいのは……」
「なに」
「……小さなジェイク少年がどうなったのか、だな」
「どう、って。別になんも支障なかったから、ここに俺がいるんだろ」
「そうじゃないんだけど……まぁ、そうか」
「なんだよ、はっきりしねぇな」
ほっとけ。とそう言って。ルースターもまたソファの背もたれに寄りかかった。
重たい二人の男の体重を受け止めるソファは苦しそうな音を上げたけれど、それがお前の仕事だと抗議の声には無視をする。
ぼんやりと思うのは、眠ってしまう前に見た小さなハングマンの泣き顔。そして、嬉しそうに笑ってくれた顔。軍に入りたいのだと、目を輝かせて戦闘機を見つめていたその顔。
──あぁ、そっか、そっか。
ちらりと横を見ると、眠そうに瞼を擦る逞しい体がある。
その仕草はどこか小さなハングマンと似ていて、少しだけ笑みが零れた。
「なあハングマン」
退いた手の奥から、目だけがルースターを捉えてくる。子供の頃より少し深みを増したように見える瞳の色は、それでも朝の光りに溢れるリビングでキラリと輝くようだ。
手を伸ばして、届いたのは肩先。
細く柔らかだったそこは、逞しく分厚い筋肉に覆われている。
指先でその肩を軽く叩けば、当然眉が顰められた。
その顔がやはり、小さなハングマンとおんなじで。ルースターは楽しそうに目を細めた。
「お前、頑張ったんだなぁ」
顰められていた眉が、よりぎゅっと寄った。理解しがたいというようだ。
わからなくていいよと口にして、ルースターは踏みつけていたセルフォンを両手で持って。迷うことなく、連絡を待っているだろう相手へと電話をかけた。
無事に戻ってよかったと、大歓迎を受けているハングマンを遠巻きに見つめながら、ルースターは漸く解放されると長く息を吐き出した。
隣に立つマーヴェリックが、このあとモハーヴェ砂漠まで先を走るからと伝えてくるのをうんうんと頷きながら聞いて、ああやっと休暇が始まるなと立てられていく予定に苦笑を浮かべていたら、視線を感じたので顔を上げた。
ヴィジランティスの面々に囲まれているハングマンが、ルースターを見ていた。なんだろうかと小首を傾げると、その顔はふいと仲間のほうに向いてしまって真意がわからない。けれどそんなのいつものことだから、さして気にもせず。代わりの様に近付いてきた男を目で追った。
「ルースター! 今回は助かった、ありがとう」
「いいえ。お役に立ててよかったです」
光栄ですは違うなと思ってそう口にすれば、小さなハングマンを預かってくれと頼んできた隊長がほっとしたように笑みを浮かべて、綺麗に伸ばされた手を向けてきた。どこか既視感を感じるそれを笑って握りしめれば、強く握られる自分の手。軽く上下に振られて離れる仕草は温かくもくすぐったい。
昨日は悲壮感に溢れていたその顔が晴々としているのは、どれほどハングマンが大切な仲間なのかを教えてくれるようで。特に何かしたというわけでもないけれど、力になれたのなら良かったと、それくらいは思ってもいいだろうかとひっそり思う。
「中断させてしまったが、休暇、楽しんでくれ」
「ありがとうございます」
二の腕の辺りを力強く叩かれ、思わず苦笑が浮かぶ。それでも笑みを絶やさない隊長は、隣のマーヴェリックにも挨拶をして。そうして自分を待つ仲間の元へと大股で歩いていく。時折任務や訓練で会う程度の人たちが、ありがとうやらいい休暇をと声をかけて手を振る妙な温かさに、マーヴェリックと一緒になって笑ってしまえば、本当にようやく一仕事が終わったのだなと実感がわいた。
「それじゃあ」
隊長を先頭に、ぞろぞろと部屋を去っていく。恐らくこれから昨日の訓練の続きか。けれど戻って来たばかりのハングマンは、今日は強制的に休みにされるだろう。まともに寝てもいないようだったから。でもきっと、しっかり休んで明日には空を飛んでいるのだ。
それが嬉しいなと思って、去っていく背中をマーヴェリックと共に見送っていれば、そのハングマンは足を止めた。そしてキュッと踵を返すと、ツカツカと小気味よく歩いてルースターの前に立ちはだかってくる。
何か文句でもあるのかと、息を吸いこんでいなす準備を整えれば、ハングマンはどこか不満げな顔を見せて。徐に持ち上げた廂のような手を、自分の頭のてっぺん辺りで揺らした。
「ムカつく。身長は抜かせなかった」
思わずぱちりと瞬きをする顔を、憮然と見つめてくる顔。僅かな視線の交錯は、古い記憶ではないのに懐かしさを感じた。
それだけを口にし、じゃあなと背を向けるハングマン。
用事はもうないというように、少し、逃げるように。足早に戸口へと向かうから。
思わず、自然と浮かんだ笑みを乗せるように、弾んだ声が口から飛び出した。
「ハンバーガー食いに行こうぜ、坊や」
戸口に飲み込まれながら振り向いた顔は、不満げから一転して嬉しそうな、明るい表情を見せてくる。
ぼんやりと重なるのは、まだあどけない表情を見せていた少年の顔。
けれど開いた口から出るのは、間違いなく大人の声。
見えるのは、大人の顔。
「残念だったな、階級は同じだ!」
ハハハ、と楽しそうな声が戸口に消えて、去っていく足音。
同じように笑うルースターは、隣のマーヴェリックが不思議そうに首を傾げるのを感じながら、至極楽しそうに「さて、長旅に出ようか」と車のキーを揺らした。