世にも奇妙な夷陵老祖静かな夜だった。
藍忘機は己の古琴を奏でていた。始祖の藍安が還俗した後についた職業が楽師であったことから、藍氏は楽器を嗜み、仙術を扱うための手段とする。公子の模範であるようにと叔父から教えを受け、そうであろうと努めた彼はいわゆる同年代の子供が夢中になる鬼ごっこであったりかくれんぼであったり、そういった類の遊びをしたことがなかった。代わりに、修練の一つである音楽が数少ない娯楽であった。その幼さには似つかわしくない洗練された旋律は、曲譜通りに一つ一つ正確な動きで弦を弾き、作り出されていた。美しい調べを聴いていると、心が静まり水の中を揺蕩うような心地になる。安らぐそのひと時が、藍忘機には好ましかった。
ふと、凪いでいた藍忘機の心の水面に一つの石が放り投げられたように、波紋が拡がった。
(ーー笛の音?)
何処からか、笛の音が鳴り響く。けして音は大きくはないのに、藍忘機にははっきりと音色が聞き取れた。思わず自らの演奏の手を止めて、聴き入った。兄の藍曦臣も洞簫を吹くが、その音を聞き間違えるはずがない。藍忘機が今まで聴いたことのない音だった。音楽は藍忘機を落ち着かせるものであったはずなのに、その笛の美しい音色を聴いていると、不思議と心臓は高鳴り、逸る気持ちが湧き立った。
(誰が、奏でているのだろう)
演奏している人物を知りたいと、珍しく藍忘機の好奇心が刺激された。時間を確かめるとまだ戌の刻で、起きていても差し支えはない。私室を出ると、笛の鳴る方へと誘われるように足を運んだ。
気づけば、本堂とは離れた建物に辿り着いていた。周囲には赤い曼珠沙華が咲き乱れて、どこか侘しさが漂う。雲深不知処にこんな場所があるのを、藍忘機は知らなかった。笛の音は続いているが、ひっそりと存在する建物の中は灯りは付けられておらず、人の姿は見えない。窓から中を覗けないだろうかと、藍忘機は建物の外をぐるりと回る。
「ーーっ」
藍忘機は、息を詰めた。進んだ先に、窓枠に腰掛けて笛を吹く青年の姿が煌々と月明かりに照らされていた。彼の全身は血のような赤があしらわれた黒衣に包まれており、藍家の者ではないと一目でわかる。整った顔立ちは少し憂いを帯び、長い黒髪は夜風に靡いて、緩く結われている緋色の髪紐を揺らした。その様に、藍忘機は目を奪われていた。
藍忘機の足音が聞こえていたのだろう、青年は笛から唇を離して、演奏を止めた。
「ーー随分、可愛らしいお客さんが来たな」
藍忘機を見つめながら、彼は妖艶に微笑むと、そう声をかけてきたのだった。
「……あなたは?」
一体どこの誰なのか。訊ねてみると、うーんと指先を口元で遊ばせて、どう答えるか考えあぐねた。
「そうだな……俺はね、おまえの叔父上のいう奸邪ってやつだよ」
「……奸邪?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「ああ、まだ小さいから難しかったか。悪い人ってことさ」
悪い人。予想もしていなかった返事に、藍忘機は戸惑う。
「何か悪いことをして、罰せられているのか?」
「うーん、そうとも言えるし、そうとも言い難い」
「……巫山戯ないでください」
「巫山戯てないぜ?大真面目に答えているんだ。正確に言えば、俺があんまりにも魅力的過ぎるから、ここから出られないんだ」
大仰に語る彼を見て、藍忘機は柳眉を眉間に寄せた。
「……くだらない」
「ハハハッ、品行方正、雅正を謳う藍家の第二公子にはまだ早い話だったかな?」
手にしていた黒い笛を器用にくるくると手の内で回しながら、彼は告げた。
「私を……知っているのか」
「もちろん、知っているさ。可愛い藍湛」
突然名前を呼ばれて、藍忘機は彼との距離を取る。
「っ……そういえば叔父上を知っていた。あなたを閉じ込めているのは叔父上なのか?」
その問いかけに、彼は答えなかった。唇を三日月に形取るだけだった。
「何を企んでいる」
藍忘機は、琴を持参してこなかったことを悔やんだ。まだ幼い彼は剣を佩いておらず、この得体の知れない青年に対抗する手段を持ち合わせていなかった。青年は窓枠から降りることはなかったが、身を乗り出して愉しげに藍忘機を見つめた。
「そうそう、警戒を怠らない姿勢は大事だ。自分の家の敷地内だからといって、どこも安全とは限らない。優秀なおまえなら、今回で身に染みただろう」
藍忘機は背後を見せないよう、後ずさってその場から離れる。青年は立ち去ろうとする藍忘機のあとを追うことはなく、笑みを貼りつけたまま眺めているだけだった。青年の姿が見えなくなると、素早く藍忘機は駆け出した。その間、振り返ることはなかった。
「いい子の藍湛。ここに近づいてはいけないよ」
一人残された青年がぽつりと零した言葉は、藍忘機の耳には届かなかった。
夢中で走っていたせいで、どのようにして己が自室に戻ってこられたのかが良く思い出せない。固く部屋の戸を閉めきると、張り詰めていた全身の力が抜けてそのまま藍忘機は蹲った。
ばくばくとけたたましく心臓が脈打つ。底の知れない青年に畏怖を抱いたせいであろう。急速に送られる血潮でとにかく身体が熱い。はあ、と何度も息を整えて、やっとのことで人心地がついた。つうと頬を伝う汗には気づかない振りをした。
(彼は……何だ)
邪崇の類であれば、陰の気で分かるはずだ。藍忘機がまだ未熟であるゆえに、気配を感じ取れなかっただけなのか。魔なのか鬼なのか、もしかしたら妖や怪かもしれない。その判断さえもつかない状況に困惑する。先程の出来事をすぐに叔父か兄に報告をしたかったが、時は既に亥の刻になってしまっていた。彼とはただ会話をしただけで、危害を加えられたわけでもなく、早急な対処が必要とは言い難い。藍忘機は、明日の朝一番に相談しようと決める。
床に就いて目を閉じたが、笛を吹くあの青年の姿が焼きついて離れず、なかなか寝つけることが出来なかった。
「おはよう、忘機」
「兄上、おはようございます」
藍忘機は普段通りに卯の刻に起床した。身支度をし部屋を出たところで、藍㬢臣に遭遇したため拱手し挨拶をする。
「おや、あまり顔色が良くないようだ。昨日は眠れなかったのかい?」
聡い兄は、表情がほとんど変わらない藍忘機の異変にすぐに気がつく。
「兄上、今お時間はありますか」
「大丈夫だよ。何か相談かな」
「はい。昨夜のことなのですが……」
藍忘機は昨日の出来事を事細かに、しかし簡潔に藍㬢臣へ報告した。
笛の音を聞き、それを辿ると知らない建物があり、笛を吹く藍氏ではない青年がいたこと。自らを奸邪だと告げていたこと。相手は藍忘機や藍啓仁を知っていたこと。
一通り伝えると、穏やかだった藍㬢臣の表情は険しいものに変わった。少しの思案ののち、口を開く。
「……忘機、その青年がいたという離れに私を案内してもらえないだろうか?」
「分かりました」
藍忘機は昨日の記憶を遡り、兄を連れて案内する。夜道ではあったが、視力の良い藍忘機は自分が歩いた道順を違えたりはしなかった。そのはずなのに。
「っ、なぜ……」
青年はおろか、彼がいた建物やその周りに生えていた曼珠沙華は存在しておらず、ただ青々と草木が茂った場所に辿り着いた。藍忘機が昨日目撃したものは、何一つとして残ってはいなかった。
「私はけして嘘を吐いたわけでは……確かに、ここで遭遇したのです」
「ああ、分かっているよ忘機。君が虚言を述べて軽率に家規を破っただなんて疑ってはいないよ。そんなことをする理由がないしね。……ただ、ここに何か痕跡があればと一縷の望みをかけたけれど、残念ながら気も掴めそうもない」
藍忘機の動揺を汲み、宥めながらも冷静に状況を把握する。
「確たる証拠は何もないけれど、笛を吹く青年の邪崇ならば、心当たりはある。……夷陵老祖を知っているかい?」
「!鬼道の創始者といわれる、あの夷陵老祖ですか」
その呼び名は、仙門にいれば誰しもが知るものだった。
「そう、彼はもともとは才能ある若き仙師の一人であったけれど、仙門同士の激しい戦いの渦中で鬼道を編み出した。笛で怨念と屍を自在に操り、正道から外れた者。あまりに桁違いの力を持っていたために多くの人々に恐れられた。ある大虐殺事件をきっかけに、最期は仙門百家に討伐されたとも、力の制御が出来ずに命を落としたとも、諸説ある。彼の魂は、門霊に応えることはなく消滅したものだと言われているけれど……なにせ昔の話だからね、真偽は分からない。邪崇になっていても、おかしくはない」
夷陵老祖の伝承は数えきれない程にある。それだけ、力を有し、名を馳せたということだ。事実無根の誇張された噂話も混じり、それらの伝承から夷陵老祖の人物像を思い描くのは困難を極める。直接面識がないのであれば、尚更だ。
「……けれど、腑に落ちない点があります。彼が夷陵老祖だったとしてーーなぜこの雲深不知処に?」
彼が拠点としていた夷陵と姑蘇まではかなりの距離がある。それに夷陵老祖の出身は確か雲夢で、藍氏の血縁でもなく、この地に縁もゆかりもないはずなのだ。
「そこも気になるけれどね。実は忘機が聞いたという笛の音を、私は昨日聞いてはいないんだ」
「……私だけ……?」
あんなに明確に鳴り響いていた音色を、兄が聞き逃すとは思えなかった。
「この地というより……もしかすると、忘機、君に何か関わりがあるのかもしれない」
「…………」
夷陵老祖は、藍忘機自身が生まれる以前に歴史から姿を消した人物だ。彼との関係と言われても何も思い当たらない。しかし、藍忘機を『藍湛』と呼んだからには、夷陵老祖がある程度藍忘機のことを知っているのは確実だ。
「私から言えるのは、これ以上深入りをしない事、かな。彼との関わりが何なのか、君自身が一番気掛かりだとは百も承知だけれど、踏み込むべきではないと思う」
「…………はい」
「叔父上には、私の方から伝えておく。では、先に失礼するよ」
藍㬢臣がその場を立ち去る。後ろ姿を見送った後、藍忘機はもう一度辺りを見回した。
昨日見かけた青年も建物も景色も、欠けらもここに存在していた証がない。笛の音に惑わされ、一人で幻覚でもみていたのだろうか。それにしては、あまりにも強烈な印象を藍忘機に残していた。
兄の意見は正しい。藍忘機自身の因縁であるのなら、接触を図れば何某かの干渉が起こるだろうと予測出来る。まさに触らぬ神に祟りなし、だ。ただ、藍忘機からすれば何も解決出来ておらず、喉元に小骨が引っかかったようなすっきりしない心地なのは否めない。それを胸の内に押し込めつつ、今日も修練に励むため今日一日の予定を思い巡らせた。
それ以来、戌の刻頃になると笛の音が奏でられた。兄以外にも訊ねてみたが、他の誰にもやはりこの音色は聞こえないようだった。耳を塞いでも、笛の音は聞こえてくる。この音を聴くと、どうしても心臓の鼓動が速まり、居ても立っても居られなくなる。それを落ち着けるために、古琴に触れて精神を落ち着かせるのが、藍忘機の習慣になりつつあった。亥の刻になると、自然と笛の音は止むのだった。
そんな状況が一週間続いていた。藍忘機は我慢強い性質ではあったが、何も改善の余地もないまま無為に過ごすことに段々と耐えきれなくなっていた。打つ手がないのであれば、行動に移すしかない。そう決意をし、古琴を
手に笛の鳴る方へと向かった。
「ここには近寄るなと、叔父上や兄上に言いつけられなかったのか?藍湛」
やはり、いた。初めて会った時と同様に、曼珠沙華に囲まれた建物の窓枠に腰掛けて青年は笛を吹いていた。藍忘機の姿を認めて、彼は演奏を止め話しかけてきた。
「笛の音が煩い。だから、止めさせにきた」
「おまえのとこの家規に、笛を吹くの禁止なんてなかったはず……いや、もしかしたらあるのか?ここの家規は鼠のようにどんどんと増えていくしな。まあ、俺がそれに従う道理はないが」
くつくつと喉で笑うと、両足をぶらぶらとばたつかせた。藍忘機からみれば年上ではあるが、落ち着きのない子供のような仕草をする。
「俺の笛、下手だったか?藍氏にも勝るとも劣らない腕前だと自負していたんだが」
「巧拙の問題じゃない。止めることは出来ないのか」
「どうして、やめなければいけないんだ?」
不思議そうに彼は訊ねてくる。あまりにも邪気がない表情をするものだから、藍忘機も拍子抜けしそうになるが、気丈に振る舞い言い返す。
「……笛を止めないということは、何かをするつもりなのか、夷陵老祖」
「……驚いた。俺が誰なのか、解ったんだな」
特に否定もせず、すんなりと彼は己の正体を認めた。
「しかし、俺を夷陵老祖と知った上でここに来るなんて、度胸があるなぁ。若さ故の無謀というべきか。下手をしたら殺されるかもって、怖くないのか?」
「……そちらがそのつもりなら、こちらも手段はある」
背にした忘機琴に手を伸ばし、何かがあればすぐに鎮圧は出来るのだと態度で示す。
「うん、今日はちゃんと琴を持ってきているんだな。偉い偉い。避塵は……まだ佩いてないか。まあ、琴だけでもただの邪崇であれば、問題なく退治出来るんだろうな。よく修練してる」
藍忘機が張り詰めた空気を醸し出していても、夷陵老祖はものともせずにのんびりとよく回る口で藍忘機の評価をする。
「だが、俺はただの邪崇じゃ片付かないしーーそもそも邪崇でもないんだ。そこを勘違いしてもらうと困る」
「ーー邪崇でない?」
藍忘機の疑問に、夷陵老祖は含んだ笑みで続ける。
「おまえだって、何となくは感じているだろう?俺から陰の気は発せられてない。つまりは、そういうことさ」
藍忘機も、最初の邂逅で気がついてはいた。けれど、そうなると目の前にいる彼はーー死者ではなく、生者の可能性が残る。
「だが……そうなると、伝承と齟齬が生じる」
「少年よ。伝承なんてものはな、結構改竄するのは容易いもんなんだよ。だから、人の話なんて鵜呑みにするんじゃないぞ。誰かがとやかく言ってきたとしても、おまえの目で見て感じたものが、真実だ」
訝しむ藍忘機をよそに、夷陵老祖は窓枠の横に頭を預けて、ぶら下げていた足を行儀悪く窓枠の上に乗せた。手にしていた笛は腰に刺し、長い黒髪の後ろに両腕を組み、そのまま午睡でもするような体勢だった。
「さてと。年長者らしいことをくどくどと言ったついでに教えるけど、おまえはもうここには来るなよ、藍湛」
「……なぜ?」
「どうしても。……それじゃあ、理由にはならない?」
夷陵老祖はこれまでずっと余裕ぶった笑みを浮かべていたが、そこで初めて眉を下げて困った表情を作った。
「ない」
「ハハハッ、この頑固ちゃんめ。そこはもっと素直になってくれよ」
気安く藍忘機に話しかけたかと思えば、途端に突き放そうとする。彼のちぐはぐな態度に、藍忘機はこれまで感じたことのない苛立ちが募った。安全のために一定の距離を保っていたが、そこを踏み出して夷陵老祖との距離を一気に縮めた。藍忘機の動きを察知するも、崩した体勢でいた夷陵老祖は行動が一足出遅れた。
「あっ……!」
逃げようとした夷陵老祖の腕を捕まえると、まるで蜜のような甘い声が彼の口からついて出た。予想もしていなかった反応に、思わず藍忘機の方が固まってしまう。夷陵老祖は咄嗟に口元を手で押さえていたが、じっとしたまま動くことのない藍忘機の様子に、しめたとばかりににやついた。
「大胆だなぁ、急に触るなんて。びっくりしちゃっただろ?君子がやることじゃないな」
「っ……、あなたに指図される謂れはない」
「他人に触れられるのは嫌がる癖に、自分からは強引に触れてくるなんて……このすけべ」
「なっ!」
夷陵老祖に揶揄われて掴む腕を緩めかけたが、その隙に藍忘機を振り払おうとするので、咎めるように掴む力を一層強めた。
「いっ、痛い痛い痛い!!こら、馬鹿力はやめろ、本当に腕が折れちゃいそうだ!!」
「だったら、おとなしくしなさい」
喚き散らす夷陵老祖を諌めながら、僅かに掴む力を弱めてやった。掴んだ腕は温かい。非業の死を遂げたと伝えられる夷陵老祖がどうして生きているのか。どうしてここにいて己と巡り会うことになったのかーー藍忘機は、知りたくなった。
藍忘機が離してくれる気がないと悟ると、夷陵老祖を悪あがきをやめて大仰に溜息をついた。
「はぁ……ほら藍湛、いい子だから……」
「私を遠ざけようとするのは、あなたがここにいることと関係があるのですか」
「…………」
「ならば尚更、理由を隠されるのは納得がいかない」
「……わかった、教えるよ。もう、この真面目ちゃんは……」
ぶつぶつと文句を垂れながらも、やっと観念したようだ。寝転がった姿勢から窓枠に座る姿勢に戻ると、つっと視線を藍忘機の手へと注ぐ。
「逃げないからさあ、この手を離してはくれないか?」
「駄目」
「……」
「それでは、どうしてあなたはここに?」
夷陵老祖の提案は却下し、藍忘機は質問を始める。
「……最初に会った時に言った通りさ。俺はここに閉じ込められて、出られない。結界が張られているのさ」
「ーー結界?」
「ちょっと降りるから、少し退いてな」
窓枠の前を空けてやると、器用に自由な片手で身体を支えて夷陵老祖は地に足を着けた。そこから腕を少し伸ばすと、夷陵老祖の手が途中で透明な壁に阻まれて進めなくなった。
「な?この建物と周囲は結界が張られていて、その外に俺は出る事は出来ない。この中が俺の居場所なんだ」
「……」
「だから、おまえが心配してるような、俺が好き勝手して世の中を荒らしてやろう〜なんてことは俺には出来ない。この笛ーー陳情も、鳴らすことは出来ても大量の屍を操れはしない。それは許されてないから」
黒い笛を指先で弄りながら、夷陵老祖の語りは続く。
「ただこの結界を作るのに、まあ無理を強いたもんだからーー色々と歪みが生じてな。そのせいで、今まで長いこと気づかれないように存在していたここが、おまえに見つかっちゃった訳だ」
「あなたは、ここから出たい?」
「ーーどうして、そんなことを訊くんだ?」
「……悲しそうな顔をしている、から」
泣き出しそうだと、藍忘機は思った。涙が流れるのであれば、拭ってやりたいとも思ったが、溢れ落ちることはなかった。
「そう、か。優しいなぁ藍湛。けど、そんな心配はしなくていい。俺はね、ここにいたくているんだ」
「……どうして」
「ここは、面白いものは何もない退屈な場所で、酒を飲むか、月を眺めながら笛を吹くくらいしか出来ないがーー大事な人が用意してくれた、俺を守るための場所だから」
夷陵老祖は、ゆっくりと口角を上げた。優しく微笑む様は、初めて彼を見かけた時の姿と重なった。凛としているのに、どこか儚げで、美しい。そう、藍忘機はあの時、彼に見惚れていたのだと自覚した。
「あとおまえの懸念としては、笛の音があるが……そろそろ聞くことはなくなるから安心してくれ」
「え?」
「歪みのせいで俺は今一人だけれど、本来ここの主はもう一人いる。そいつに俺の場所を気づいてもらえるように笛を鳴らしていたんだけれどーー多分、そろそろ、逢える。その時には笛の音は止むから、もう少しだけ煩いのは辛抱してくれ」
「…………」
夷陵老祖を閉じ込めているという人物と彼が無事に合流出来れば、藍忘機を悩ませる種であった笛の音はもう聞けなくなるのだろう。同時に、夷陵老祖と二度と逢えなくなるということも、理解した。
「ま、悪名高い俺の口から出た言葉なんて、信じられないだろうけど……藍湛?」
知らずのうちに、握ったままにしていた手の力が強くなっていた。きょとんと、怪訝な様子で夷陵老祖は藍忘機の顔を覗く。
「あなたの待ち人は、誰?」
一番気になっていたのは、それだった。藍忘機を遠ざけようとするのは、きっと相手が藍忘機の知る人物だからだ。彼は、なぜかそれを知られたくないようだった。
「それは……ちょっと耳を貸してくれ、藍湛」
ちょいちょいと手招かれるので、藍忘機は片耳を彼の方へと寄せた。すると、片手をあてて口元を近づけた夷陵老祖は、ふっ、と藍忘機の耳の中に温かな吐息を吹きかけた。
「っ!?」
思わず両手で耳を押さえた。藍忘機の手から解放されると、夷陵老祖はばっと素早く窓枠の上へ飛び乗って、慌てる藍忘機を眺めながら腹を抱えて笑った。
「っーーあなたは!!」
「アハハハハッ、それだけは秘密だ!さてと、いい子のおまえは、そろそろ部屋に帰らないといけないんじゃないか?」
夷陵老祖に指摘をされて、気がつく。亥の刻が近い。藍忘機としては揶揄われた上に最後の質問をはぐらかされて、非常に不本意であった。けれど、規則を遵守するために渋々ながらに立ち去るしかなかった。
ひらひらと幼子を見送るように夷陵老祖は手を振る。手を振り返すことはせず身を翻すと、まっすぐ自室へと戻っていった。その後ろ姿にふっと笑みを零して、夷陵老祖はひとりごちる。
「世の中、知らない方がいいこともあるんだよ。藍湛」
それから、三日が経った。
それまで夜の笛の音は続いていたが、遂に今日、戌の刻を過ぎても笛の音は聞こえてこなかった。
(……逢えたの、だろうか)
夷陵老祖はこのまま立つ鳥のように跡を濁さず、ここにいた証を何も残さずに、忽然と消えてしまうのだろう。それが自然であるし、引き止める術は藍忘機にはない。そもそも彼にこのままいて欲しいなどと望むこと自体、間違っている。手を伸ばしたとて、叶わない願いであることは明白だった。
けれど、それでも。最後に一目だけでも。
理性は置き去りに、藍忘機は衝動に突き動かされて夷陵老祖の籠る建物へと向かっていた。
建物は、まだ存在していた。彼を見つけた窓枠を見に行くも、そこに姿は見当たらなかった。夷陵老祖は、結界のためこの外には出られない。つまり、灯りもついてない真っ暗な建物の中にいるはずだった。
幸いともいうべきか、今宵は満月で月明かりが部屋の中を照らしてくれる。
夷陵老祖にはここに来るなと忠告されていた手前、見つからないようこっそりと様子を窺うことにする。
彼は、部屋の中にいた。藍忘機のいる窓の方に背中を向けているため、顔は見えない。そしてもう一人、彼と向かい合うように座る人が見えた。夷陵老祖の身体で隠れてこちらも顔も確認は出来なかった。だが、夷陵老祖よりも体格は良いようで、身につけた装束が垣間見える。彼が纏う闇に紛れる黒衣とは正反対の、目が醒めるような真っ白な服。それは、藍氏のものだとすぐに分かった。
白服から伸びた大きな手が案外細い夷陵老祖の腰を抱き寄せた。抵抗することなく受け入れて、彼からも自らの両腕を相手の首元に回した。
「……んっ」
一度だけ偶然聞いたあの甘い声を漏らす。ぞわりと背筋を擽る感覚に、藍忘機は息を詰めた。
「……っ、はぁ、ん……ぅ」
段々と彼の息は上がり、ぴちゃりとやらしい水音が増している。彼らは一体、何をしているのか。知りたい気持ちと知りたくない気持ちで板挟みになり、藍忘機の身体を硬直させる。
「なぁ、久しぶりの再会だっていうのに、随分とおとなしいじゃないか。……俺のこと、もっと欲しくないのか?」
「……君は」
ぼそりと低い声が諌めたかと思うと、白服の腕が夷陵老祖の両腕を掴んでそのまま彼を床に押し倒した。だん、と勢いよく寝かせられた彼の長い黒髪が床に広がる。その音に驚いて、藍忘機が思わず一歩後退ると、足下の草を踏んでしまってがさりと音を立ててしまった。
互いを見つめていた二人が、同時に藍忘機の方へと顔を向けた。
上気しやや目元を潤ませて艶やかな夷陵老祖の表情にドキリとさせられるがーーそれ以上に、彼を押し倒す男の顔を見て愕然とする。抹額を巻き、その表情は固く乏しい。けれど、確かに薄い玻璃色の双眸に怒りを宿らせて、こちらをじっと睨みつけてくる。見間違えるはずがない。『彼』は、藍忘機が一番よく知る人だ。
「っーー」
「……どうして来ちゃったのかな。こんな悪いことをしてるところを、おまえにだけは見られたくなかったのに」
夷陵老祖は倒された体勢のまま、苦笑混じりに藍忘機へ声をかけた。
「もう来てしまったなら仕方がない。後学のために、いっそこのまま見ていくか?けど流石に、教育的に問題あるか。初めて見るのが龍陽ものっていうのもな……」
「魏嬰」
「ん?……んぅっ!」
夷陵老祖をそう呼ぶと、その頬を手で捕らえ、『彼』は唇を塞いだ。先程彼らがしていたのは、口づけだったのだと知る。貪るという表現が合うくらいに、噛みついて唾液が溢れるのも気にせずに舌を絡ませている。まさに獣のような交わりを見せつけられて、藍忘機は羞恥で全身が燃えるように熱くなった。長い口づけをやめると、二人の間には銀糸が紡がれていた。
「私を見て」
「ハハッ、今まさに、見てるだろう?」
「余所見をしてはいけない」
「本当に、おまえは嫉妬深いな?しょうがないだろう、あの子は可愛くて仕方がないんだから」
「……それでも」
「はいはい、これ以上は見せたくないってことね。わかったよ。なら、少しだけ退いてくれないか?」
「……うん」
『彼』は夷陵老祖のお願いを聞き入れて、覆い被さっていた身体を退けた。仰向け状態だった夷陵老祖は、床に座りこんだ体勢に直り、藍忘機へ顔を向けた。
「……早く行きな。けれどもう、知らなかった頃には戻れないよ。だから言ったのに、かわいい藍湛」
その声で、藍忘機は弾けるようにその場から逃げ出した。苦しい、痛い、胸が酷く軋んで止まない。ごちゃごちゃと感情が綯交ぜになり、整理がつかない。真実を知ったというのに、混乱は深まるばかりだった。
しかしこれは、誰にも言うことなど出来ない。親しい兄や尊敬する叔父にも。これからずっと、藍忘機が一人で抱えていかなければならないものだ。
果たしてあの部屋に囚われているのは、どちらなのだろうか。