イザ武がベットを買うまでの話カラン、カラン
朝のまだ早い時間にも関わらず来客を告げる
ベルの音が響きドアの方を見る。
今日の天気は曇りで、どんより空気が重たい。
開けられたドアの隙間から見えた空は仄暗い灰色でお世辞にも"天気が良い"とは言えなかった。
"あ、またあの人だ"
武道は静かにそう思いながら笑顔で挨拶する。
「いらっしゃいませ」
天気が悪い日や雨の日、気圧の重い日など決まって天候の悪い日のみにやってくる整った容姿のお客さん。
平均的なサイズより大きいであろう目と、薄い唇にバランスの良い小さい鼻。 肌は異国の血も流れているのか薄い褐色で、透き通るような美しい銀髪がよく映える。おまけに瞳の色は朝焼けを思わせる薄紫。
どこを取っても美しく、正しく美男子。
気を抜けば見惚れてしまいそうなので、
慌てて仕事モードに切り替える。
「おはようございます!今日もテイクアウト
ですよね?何にします?」
「…ホットコーヒーのS。フレッシュ2つ」
美男子には似つかわしくないいかにも"不機嫌だ"と言うような声で注文を伝え、眉間にシワを寄せている彼に最初こそビビっていたものの、何度か接客する内に分かったことがある。
店に初めて来た時から今日まで不機嫌を隠さない声で注文する割にはお会計までの所作はとても丁寧で、横柄な態度を取ることはない。
また、フレッシュはコーヒーに入れて手渡しするのか、別でつけてドリンクと一緒に紙袋に入れて渡すのか、砂糖はいるのかいらないのか。俺が注文を覚えるまで毎回きっちり伝えてくれた。
おかげで、今となってはドリンクと今日のフレッシュの数を聞くだけで持ち帰り方法まで聞かずとも用意ができるようになったし、怖くもなくなった!
「今日は二つなんですね、お仕事頑張ってください!」
少しでも元気が出るように、精一杯の笑顔で
接客をする。
少し和らいだ気がする表情で「ん、」とだけ短く返事をしてドリンクとフレッシュの入った紙袋を受け取った後、急いでいたのか早足で店を出て行った。
今日も機嫌悪そうだったけど綺麗だったなぁ〜ぼんやりと考えていたらカウンター前の荷物置きに置かれた忘れ物に気づく。
「あ!財布!」
まだ他にお客さんのいない店内で声を上げ、
財布を引っ掴んで追いかけるも車で来ているのか既に姿はなかった。
うちの店は今時にしては珍しく現金支払いのみの為、こうして財布を忘れる人がちらほらいたりする。
どんより湿った空気が広がる外から除湿の効いた店内に戻り忘れ物があった時のマニュアル通りの対応をしていく。
「まずは、氏名の確認…」
財布を開こうとして数秒だけ躊躇した。
置いていかれた財布はいかにも高級そうだ…
財布の素材は、ファッションやブランドに疎い俺でも分かる所謂クロコダイルで、色は珍しい深緑。皮も拘っているのか洗練された渋い輝きを放つ見事な斑だった。
こんな高級品を手にしたことの無い俺は、
いけない事をしている気分になり思わず小声で
「失礼しま〜す」と断りを入れて開いた……にも関わらずまた手が止まる。
なんと、カードポケットの中段とコインポケットの蓋部分にも同じ皮が使われていた。
「…いくらすんの、これ?」
驚きすぎてもはや呆れに近い声が漏れる。
カードポケットの下段にロゴが刻印されていたが、俺程度では存在すら知ることのなかったであろうブランド名だった。
それより名前見ないと!
やる事を思い出してカードポケットを見ると免許証の名前が見えていた。
「くろかわいざな…イザナかぁ…。イケメンは名前もイケメンなんだ」
勝手に一人で感心しながら作業を進める。
うちの店は忘れ物があった際、お店のSNSでお知らせする決まりになっている。
当然、現物の写真を載せたりはせず忘れ物があった旨と時間帯、取りに来る際の注意を記載して情報を流す。
店内のPCを立ち上げてSNSを開き、何度か書いた事のある定型文を打ち込んでいく。
本日、朝7:30頃に財布の忘れ物がありました。
カウンター前の荷物置きに置かれていたので
お心当たりのある方は、当店カウンターにて
従業員にお声がけ下さい。
また、お引き取りの際に氏名を確認させて頂き
ますので必ず名乗るようにお願い致します。
氏名の確認ができない忘れ物につきましては、
店員に忘れ物の特徴をお伝えください。
「該当するものがあればお返しします…っと」
トンッと文章の最後に句点を打って入力作業を終え、忘れ物用の金庫に財布を仕舞う。
「美男子…じゃなくて、黒川さんが気づいて
取りに来てくれますように」
胸の前で軽く両手を合わせ、目を瞑り呟く。
黒川さんが綺麗だから〜とか、会いたい〜とかそういった下心ではなく、忘れ物は3日以内に引き取りがなければ近くの交番に持って行くことになっている。
そうなればこちら側としても面倒だし、お客さんの手間も増える。
だから極力取りに来てほしいというのが本音だ。
カラン、カラン
願って数分後にベルが鳴った。
黒川さんか!?と思いドアの方を見るも、来ていたのは黒川さんでもお客さんでもなくこの喫茶店のマスター。
「マスター!おはようございます」
「おはよう、武道くん。今日も早くからありがとね」
老いを感じさせる深い皺の刻まれた顔で朗らかに微笑んで挨拶を返してくれたマスターの手には、雨で濡れたであろう傘が握られている。
「雨、降ってきちゃいました?」
「うん?かなり降ってるけど気づかなかった?
悪いけど、外に傘立て出しといて欲しいな」
言われてようやく、ザァーっと激しい雨音と窓に絶え間なく打ち付けられるいくつもの雫に気づき、マスターにお願いされたことを実行すべく、バックヤードに傘立てを取りに行き店先に置く。
この天気だと黒川さんも多分取りには来ないだろうな…
「マスター、傘立て出せました!あと、今朝カウンター前に財布の忘れ物があったのでSNSでお知らせして、物は金庫に入れておきました」
マスターが来るまでに起こったことを報告して業務連絡も済ませる。
「そっか、でも今日は来ないかもね…この雨じゃあ今日は暇そうだし。のんびりやろう、武道くん」
マスターも少し前の俺と同じことを思ったらしく「ですね」と小さく返事をした。
それからしばらくして多少の客足はあったものの、忙しくなる事もなく夜を迎えた。
この時間になっても、やはり黒川さんが来る気配はない。
「武道くん、そろそろ閉店作業しようか」
マスターからの声掛けに、もうそんな時間かと思いつつ「はーい」と返事をしようとした瞬間
カラン、カランと来客を告げるベルが鳴った。
もう閉店なんだけどな…
棚に食器を戻す手を止め、振り返るとそこには雨に濡れた黒川さんが居た。
「!!…黒川さん!」
俺は思わず声を上げてしまった。
「は?」と困惑した声を出し軽く目を見開く黒川さんと、「武道くん知り合いなのかい?」と問うマスターの声で自分の恥態に気づき、一気に顔が熱くなる。
「いやっ、違くて、その〜忘れ物!そう!忘れ物したのその人なんです!!」
あまりの恥ずかしさに黒川さんの顔は見ず、
マスターの方を見て答えると俺の慌てっぷりに少し驚きつつも納得した顔をして「あぁ、このお客様なんだね」と返してくれた。
「じゃあ武道くん、名前を確認して財布をお返しする前に、温かいコーヒーと新品のタオルを出してあげて」
「たしかバックヤードにどこかの粗品で貰ったタオルがあったはず…コーヒーは僕が出すね」と言いながら微笑み「すぐ出るからいい」と断る黒川さんの背中を少し強引に押して、半ば無理矢理カウンターに座らせた。
げんなりした顔の黒川さんを確認した後、バックヤードに潜ってタオルを探す。
マスターの言った通り、奥に新品のタオルが置いてあったのですぐ使えるよう袋を開けて店内に戻ると、マスターが黒川さんのコーヒーを淹れているところだった。
挽きたてのコーヒー粉に熱湯が注がれ、独特の香りが広がり鼻腔を擽る。既に嗅ぎ慣れた香りではあるが、何度嗅いでも飽きない素晴らしい香りだ。
「はぁ…いいって言ったのに。じじぃってのはどいつもお節介だな。オレ、じぃさんになんもしてねぇけど?」
少し棘のある言葉でマスターに話しかけるも、大人しくコーヒーを待っている辺りは見かけによらずかわいいと思った。
「ふふっ、そんなのはねぇ、このお店に来てくれたってだけで理由は充分なんだよ」と優しく語りかけるマスターに続いて「これ、使ってください」とタオルを渡すと、受け取った黒川さんが濡れた髪と服を雑に拭き始めた。
「こらこら、タオルもコーヒーも逃げないから綺麗なその髪は優しく拭く。スーツも、せっかく良いものなんだから丁寧にね」
「…」
返事こそなかったものの、ガシガシと乱暴だった手つきは明らかに優しい動きへと変化する。
意外と素直なのか…?そんな風に考えていたらコーヒーの抽出が終わったらしく、マスターが黒川さんにミルクの有無を確かめたのだが
「いらない」と即答だった。
確か今朝はミルク2個だったけど…
「なぁ、オマエ。そろそろ財布返せよ」
ぼんやり考えていたら急に声を掛けられてハッとする。慌てて金庫から財布を取り出し、引き渡しの為の質問をした。
「ですよね!すいませんでした。お名前を伺ってもいいですか?」
「黒川イザナ」
改めて本人の口から聞いてもカッコいい響きだ
「はいっ…確認できました。とても素敵なお財布ですね!お返しします」
「…ありがとう」
返したことに対するありがとうなのか、財布を褒めたことに対するありがとうなのか…どちらか判断は出来なかったけれど、珍しく少し照れたような顔をする黒川さんを見れたことと、お礼を言われたことが嬉しくて思わず微笑む。
「じぃさん、体あったまったし帰る。タオルは新品返すから」
そう言って立ち上がった黒川さんは、返したばかりの財布から小銭を取り出し、マスターの好意だったコーヒーの代金を支払い帰っていった。
ふと、まだ雨は降っているのに傘はなくて大丈夫なのか?と思ったが、外から微かに聞こえたエンジン音に安心する。
「いい子だね、彼」
マスターの優しい声に、朝にはなかった黒川さんに対する穏やかな気持ちを込めて「はい」と答えた。
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side.イザナ
最近、頭が痛い日だけ利用している喫茶店がある。
その喫茶店は、都内一等地から少し離れた場所にあるおかげで通勤時間であっても人が少なく、常に落ち着いた雰囲気が漂っているため気に入っている。あとは、周辺のカフェや飲食店より営業開始が早い点が便利だ。