瓶、缶、瓶、瓶、瓶。ぬるい風に乗ってやってきたカイトは、下げていた袋から重量のある手土産を出し終えて「さあ」とこちらに向き直った。
「飲もう、クリス」
「待て。それは……酒だろう」
種類も産地も異なるがすべてに未成年の飲用を禁ずる警告文が記載されており、卓上のそれらは未成年者(肉体年齢も含む)のほうが多いこの家にあるアルコール量を優に上回っている。
カイトは理解不能といった表情で首を傾げた。
「酒だ。オレもあんたも成人している、一体何の問題がある?」
そういえば、と瞬いた。しばらく会っていないうちに彼も年を重ねている。追い越されることはないが、同じように年は取る。
弟子と酌み交わす日が来るのはさすがに感慨深い。
「いいだろう。私もそう飲むほうではないが付き合おう。しかし、持ってきたのは酒だけか?」
「ああ。最初に酒量の限界を知っておいたほうがいいのだろう? ゴーシュが言っていた」
「そうだが、酒だけを体に入れるのは良くないという話だ。水と何か食べるものも取ってくるから、少し待っていてくれ」
「ゴーシュたちとは飲まないのか」
目尻を赤くした様子はD・ゲイザーによる装飾を思い出させる。しかしやわらかく崩れ始めている表情は、着用時とはまったく違う。
「誘われはした。が、断った」
「なぜ?」
「……同僚と飲むのはいつでもできるが、師はそうではないだろう」
「私も誘われたら、いつでもとは言えないが付き合おう」
む、と眉間にしわが寄る。本心だが、からかいと取られただろうか。カイトは空のグラスに手近な瓶の中身を注ぐと、氷も入れずに呷った。
「クリスは、いついなくなるかわからない」
「それは……」
過去を持ち出されて言葉に詰まる。降りしきる雨の中を傘も持たずに追いかけてきた、カイトはあの夜のことを忘れはしないのだろう。自分だって、当時とは違う痛みも伴う深く残る記憶になっている。
けれども今夜のそれは彼なりの軽口だったようで、気にした様子もなくにやりと笑んだ。
「それに、酔い潰れたクリスを見るのは面白そうだからな」
「……お前が私より強いと確信してから言うべき台詞だったぞ」
水を注いだグラスを手渡してやるとカイトはおとなしく飲み干した。
まだ座れてはいるがかなり姿勢が崩れてきた。ソファの隅に埋まるように体を預ける彼を見られるとは珍しい。
「そろそろお開きにしようか」
カイトは緩く首を振る。とはいえもう遅い時間だから、泊まるにせよ帰るにせよこの後のことを決めたほうがいいだろう。
オービタル7を呼べば回収してくれるのだろうが、彼が飲んだ量を考えると動かすのは不安である。カイトのことだ、時間短縮を求めて空でも飛んだら彼も街も大惨事になりかねない。
泊めるなら部屋とベッドをどうしたものか……思案していると、ついと袖を引かれた。ぼそぼそと何か言っている。
「聞こえないな。どうした?」
耳を寄せるとカイトが息を呑んだのがわかった。息が、紅潮した顔と同じくらい熱い。距離を取ろうとしてソファにめり込んでいくさまは、出会った頃にときどき見せた余裕のなさを彷彿とさせる。
待っても言い直してくれないので諦めて身を引いた。と、もう呼ぶ人の少ない名前が囁かれる。
「……クリスの」
眠たげな、焦点の定まらない目はこちらを見ているようで見えているのかわからない。すんと鼻を鳴らし、自分の肩に手を伸ばす──滝のようにかかった、薄色の師の髪に。
「これに、ずっと触りたかった」
壊れ物のように、あるいはか弱い動物に触れるかのようにそっと指を沿わせる。
「きっといい手触りなのだろうと……冷たくて、滑らかで、いい匂いがするんだと思っていた」
「実際はどうだった?」
「ああ、そうだな……悪くない」
そっけなく答えながらも撫でることをやめない。触って大丈夫だと悟ったのか、摘まみ、眺め、指を通し、顔を埋める。
「……匂いを嗅ぐのは勘弁してくれないか?」
「なぜだ。臭くないからいいだろう」
男の髪なんて嗅いで楽しいものではなかろうに、カイトは髪を放そうとしない。顔を隠しているつもりなのかも知れない、と思ったのは、そのままの体勢で自分のことを語り始めてからだ。
「オレは、フェイカーが……親父が、家で酒を飲むのは見たことがなかった。だからどんなものかわからなくて、飲めるようになったからには、人と飲んでみたかった」
「そうか。私の父はときどき晩酌に誘ってくれたよ」
「……飲んだのか、あんたも」
「まさか! 私はお茶だ。研究の話をしたり……弟たちに正しい飲み方を教えてほしいとも言っていたな」
自分で教えられないことになる、とバイロンが予期していたわけではあるまいが。そしてその教えが弟子に一番に伝えられることになるとは、自分も思っていなかった。
「いつもはひとりで飲んでいるのか」
「トロンに見つかったら面倒だからな。だが頻度はそう多くない」
「……こんなに、ふらふらになったことは?」
「私は量を加減しているから」
「ない」と正直に答えたら拗ねるだろうと思い少々ぼかしたが、通じてしまったようだ。盛大なため息で手の中の髪がはらはらと落ちる。
減ってしまった髪の束を、カイトは逃すまいと握り直した。
「初めての酒で潰れて介抱されるなら、クリスがいいと思っていた」
だからゴーシュたちは断った……あいつらは遠慮なく潰しにきそうだから。気心知れた仲間をそう評するのが、弟しかいない世界で生きていた彼の変化に感じられて頬が緩む。
「それは光栄だ。だが私がキミを介抱したことなんてあったかい?」
「……フッ。なかったな」
自分がやったのは手を差し伸べることだけだ。カイトはそれだけで立ち上がり、前を向いて進み続けた。
あの頃の指導方法を悔やんではいないものの、ついてこれたのが彼と弟たちだけであることを考えると改めるべき点はあったのかもしれない。気づくのが遅いと方々から文句が出そうな内省をしていると、再び酔客の呼気を感じた。
「……クリス」
「なんだ。寝るなら部屋を用意するから、待っていなさい」
カイトの顔が髪を離れていた。少ない明かりの中でもわかるほどまだ赤く、息は浅く、据わった目でこちらを見上げている。
カイトは握りっぱなしの髪を口元に持ってくると、宝物を愛でるようにやさしく、悪戯がばれないように控えめに唇をつけた。
「また、あなたを誘ってもいいか」
あっさりと眠りに落ちたカイトはソファに転がしておくことにした。
水差しとグラスを一つ置いて部屋を後にする。それからクリスは、やや湿り、癖のついた髪の一部をそっと撫でた。