我儘に恋して「……じゃあ、帰って来るのは明後日になるってことか」
『……おぉ、悪い。その声色じゃ、相当怒ってんな?』
「別に、怒っちゃいないよ。全然。ほんとに……ただ……」
『ただ?』
「……何でもねえよ」
おい、ネロ、と珍しく焦りを含んだ声で呼ばわれるのを無視して、端末に表示されている赤いボタンを押す。
これで簡単に繋がっていた相手と途切れることが出来るのだから、便利で残酷な代物だと思う。
ネロは携帯端末をベッドの上に放り投げ、今手元でコトコトと揺れている鍋を見やった。ブラッドリーが首都から戻って来るのに合わせて調整し、そして今し方完成した牛の煮込みである。
味見をして「完璧だな。あいつ喜ぶだろこれは」とひとりでほくそ笑んでいたところで先程の電話。
対象人物の予定が延期されてしまったため、警護担当であるブラッドリーの任期も自動的に延びたということだ。
ブラッドリーのせいではないし、彼も心底面倒そうな声色をしていた。
されど、責任を放棄して逃げる男ではない。
勤め上げて、悪態を吐きながら戻って来るのだろう。明後日に。
冷蔵庫の中には、今日のために作った品が四つ鎮座している。
最近ブラッドリーが気に入ってくれたチキン入りのスパイシーサラダに、自家製のハーブを入れたミートパイ、そら豆の冷製ポタージュだってある。
最後に、念入りに仕込んだ、まだ揚げる前のフライドチキンたち。
流石に二日後だとどれも傷むだろうが、さりとてネロ一人で消費出来る量でもない。
「……店で出せる量でもないしなぁ」
いつまでも開けているわけにもいかず一旦扉を閉めて、もう一度開けては閉めて。
はぁ、と心の底から溜息を吐いた。喜んでくれる顔が見たかったし、何より、二週間ぶりに会えるという幸せを享受したかった。
コンロの火を止めて、すっかりしょげてしまった気持ちのままベッドへ行く。
読みかけの本の隣に置いていた温いペリエを手に取ったところで携帯端末が震えた。
先程無理矢理切ったから、ブラッドリーからだろう。
何も見ずに通話ボタンを押して「だから怒ってねえって言ってるんだけど」と、あからさまに怒った声が出て自己嫌悪に陥った。
だが向こうから反応はない。やばいなぁ、ちょっと怒らせたかな、と思わず画面を見て、表示されている名前を視界に入れた。
真白い見慣れたゴシック体で『ファウスト』とある。
「……ファウスト?」
『そうだけど……僕たち、喧嘩してた?』
「あ、あぁ、ごめん、ごめん。してないしてない。悪い……ちょっと色々あって……」
ペリエを床に置いて姿勢を正しておく。だらだらしながら話すと叱られるからだ。
「で、どうかしたか?」
『あぁ、いや。本当は店の電話にかけるべきだったんだけど、きみの声も聴きたかったからこちらにかけてしまった。席の予約をお願いしたくて』
「いい、いい。俺の個人経営なんだから好きにして。二席分でいい?」
『……察しが良いね。お願いする。日時は——』
活舌の良い声で話し、しかもこちらがメモを取るタイミングを待ってくれ、ネロが復唱すると間違いないよ、と優しく言ってくれる。何て優しい客だろう。
「じゃあ当日は張り切らなきゃなぁ。良いラクレット仕入れとくよ。ガレットにも使う。……にしても珍しいな。こっちまで出てくるの」
『友人の顔が見たいのと、きみの作る料理を堪能したいだけだよ。ちょうど牧場も落ち着いているし、僕の仕事も一段落した』
「そっかそっか。お疲れさん。本屋で平積みされてるの見たよ。サイン会とかやらねえの?」
『やると思う?』
「やらないって分かって言った」
互いに笑って、その後は軽く近状報告を済ませる。
とは言っても何ら変わりない日常なので、霧が晴れない日があるとか、ハーブが繁茂して困ってるとかそんなことばかりだ。
そして不誠実なことにも、こうして話している間にも、ふとブラッドリーのことを考えてしまっている。怪我してないか、とか、あっちの料理に浮気してないか、とか、飯、どうしようとか。諸々。
『ネロ?』
「へ? あぁ、ごめん何処まで話したっけ」
『いやそれは良いんだけど……彼と何かあったのか?』
冷や汗がぶわりと噴き出た。あれ、俺ってそんなに分かりやすかったっけ。
魔法舎じゃ結構クールにやり過ごせてた気がするんだけど……いや、そんなこともないのか? よく心配されてたっけか。
「………………えっと」
『あったんだな。きみは溜め込むと厄介なことになることは知っている。話しなさい』
「いや、あの本当に大したことじゃなくて……」
『いいから。早く』
「怖……分かったよ。実はさ……」
しどろもどろに話していたはずなのに、途中からはつらつらと淀みなく言葉が出ていく。これはファウストの相槌が良いせいだ。
加えて話す内に段々もやもやしているものが薄れていくのが分かる。
ふと壁時計を見て「話し過ぎだな」と言葉を止めた。
「ありがと、先生。結構楽になったよ。まぁ、料理は冷凍できる分だけして、あとは頑張って消費——」
『来ると良い』
「……ん?」
『料理を持って、うちに来ると良い。昼営業までで、月曜までは休みだったな』
「そうだけど……」
『うちに泊まりに来なさい。部屋も用意しておくから』
「ちょ、ちょっと先生話が早すぎてびっくりしてんだけど……」
『きみは選択する時間を与えるとずっとじめじめしているから。早く準備しなさい。バスの時間も今調べる』
怒涛のように押し付けられる言葉をなんとか理解して、若干の間は置いてしまったものの、ネロは「うん、そうだな」と返答した。
別に、この家であいつのことを寂しく待っている必要はない。料理たちだって、美味しく食べてもらえる方が嬉しいはず……なのだが、ちょっとだけ胸に引っかかっているこれは、何だろう。
——いや、いいや。とりあえず詰めねえと。
兎角、今は気にしないことにしてファウストが読み上げるバスの時刻を頭に叩き込み、ネロは料理らに向かい合った。台所にある保存容器を駆使すれば、なんとかすべて収まる。
あとは何が必要だろう。酒も持って行った方がいいのか。
いや、もっと気の利いたものを、等々、諸々考えている間に先程の引っかかりは胸の奥へ仕舞われていった。
**
「……懐かし」
「何を立ち尽くしているんだ。早く入りなさい」
「あ、はい……じゃ、お邪魔します」
あの遭難以来だな、と噛み締めていたネロの背後から飛んでくるのは、ファウストのあまり優しくない声だ。
バスから降りた折にはレノックスが車で迎えに来ており、揺られて十分後にはファウストと出会うことが出来た。
が、すぐさま顔色を検分されて「元気がない」とはっきりと言われてしまった。
「あの会話の後で元気だったら怖くないか?」とふざけて問うてみたが、容赦なく「喧しい」と言われ、こうして手引かれてお邪魔することになっている。
何だか怒ったような背で茶を準備している細い背を眺めつつ、先程レノックスとしていた会話を思い出した。
「ファウストさ……ファウストは、ネロをとても心配していた。……また、何処かに消えてしまっては面倒だと」
「め、面倒って……まぁ、心配してくれんのはありがてえけど、素直じゃないなぁ」
「俺もそう思う。……だが、話を聞いた俺も心配していた。大丈夫か、ネロ」
「……うん、大丈夫。あんたら、相変わらず優しいなぁ」
幸せ者だよ、俺。先程レノックスに言った言葉を、もう一度口中で繰り返す。
手際よく茶菓子と二人分の茶器を用意したファウストが、席を軽く叩いている。
こちらへ来なさい、ということなのだろう。彼の厳しい振りをして、こちらを気遣っている表情も、席を叩く手つきも、何だか愛しくて仕方ない。
「……何をデレデレした顔をしている」
「ひど。嬉しいだけなんだけどな。……ていうか二人分だけ?」
「レノは羊たちを厩舎に入れてから来るよ。茶器も温めてある。まずは座りなさい」
「はいはい。……な、先生。初対面の頃より顔色いいじゃん。ほんと、元気そうで良かった」
「僕のことは良い。きみの話だ。食べて、飲んで、溜め込んでいたものをすべて話すといい」
ずい、と差し出されるのは大きなクッキーだ。あまりにも大きくて、細身のファウストにはあまりにも似合わない。
「……え、これ、普段食べてるの?」
「普段は半分にして食べている。けど、きみの場合は贅沢をしても構わない」
ぼくはレノと分けるけど、と残され、何となく。そう、何となく若干のイチャつきを見せられた心地になる。無意識に「やるじゃん」と呟いてしまったが最後、説教が始まってしまい、ネロは大きなクッキーを手に持ったままひどく後悔した。
「……前から思っていたんだけど」
説教と茶会が終わり、ネロが持参した料理を温めている最中。ファウストが隣に立ちワインを取り出しながら問うてきた。
ごく自然な動作で、ことのついでのように訊いていますよ、という体勢だ。
油の温度を確かめながら、少し笑って返してやる。
「なに?」
「きみのパートナーは、聞く限りでは乱暴な男だということだけど」
「え? あぁ~……そういやそんな紹介の仕方したっけか……それだけじゃないよ。ちゃんと気遣えるやつだし、普段は優しい」
「……本当に?」
「うわーすげー疑われてる……考えてもみてよ先生。こんな面倒な性分してる俺と長く付き合える男だぜ? 良い奴に決まってんだろ」
まぁ、確かに(犯人相手には)乱暴だし楽しそうに制圧してるし、やべえ事件起きねえかなとか治安最悪な発言だって飛び出すので、どうかと思う部分はあるのだが。
「……僕が見る限り、きみは面倒な性分をしているけども、良い人間だ。繊細で愛情深い。ぐるぐると一人で考えて自爆するところはあるけど、それはきみが他人のことをよく想うからだと思っている」
「自爆って……褒められてる?」
「だからこそ、心配だった。僕は友人がないがしろにされるのが大嫌いでね。きみがパートナーの男に粗雑に扱われているようなら、無理矢理でも引き剥がそうと思っている」
ワインとグラスを三脚器用に持って、ファウストは真っすぐにこちらを見た。
「本当に、大丈夫なんだな? ネロ」
「……男前すぎてびっくりしてるわ、俺」
「ふざけているのか?」
凄まれると普通に怖い。ごめんなさい、と両手を上げて「大丈夫だよ」と笑っておく。
「俺の方がすげーあいつのこと好きで、ちっと重たくなってるくらい」
適温になった油に下拵え済みの鶏肉をそっと入れた。しゅわ、と細かい気泡が立ったのを見つつ、続けて幾本か鶏肉を投入する。
うめえじゃねえか、流石だな! と豪快に褒めてくれるでかい笑顔が見たかった。
いや、別に、見られるんだけど、二人きりでの飯は約束しない限り結構先延ばしになってしまう。
セックスできるのだって、いつになるのだか。……駄目だ駄目だ、不純だ。
「だから大丈夫。ほら、もう他の飯の準備は出来てんだから卓行って始めててよ先生。レノも待ってるし」
「……ネロ」
ファウストはその場から一歩も動いてくれなかった。ネロは鶏肉の面倒を見ながら「は、はい」と焦りつつ返答を寄越す。
「きみが気晴らししたければ、いつだって来ればいい。必要なら迎えに行く。……今友人になってから思うけど、ぼくはきみのあんな顔を二度と見たくない。その場で掻き消えてしまいそうな人間の顔をね」
「ファウスト……」
「だから、またそんな顔をさせる奴がいたら、呪ってやる」
思わずまた「男前……」と漏れ出た声を、ファウストは聞き逃してくれなかった。
レノックスが心配してきてくれなければ、再度長い説教が始まっていたことだろう。
相も変わらず優しいな、とネロが笑えば、ファウストは「きみが知っている魔法使いの僕は知らないが」と前置きした上で、若干頬を染めながら言った。
「どちらの僕も優しいんじゃない。ただ、きみが心配なだけだ」
**
ほとんどの料理が空になり、時刻も日付を跨いだころ。
風呂を借りて出て来たネロは、窓辺で白ワインらしきものを傾けているファウストの元へ歩み寄った。
「呑み足りなかった?」
「これはアルコールなしだよ。ただのジュース」
飲む? と杯を差し出されるので受け取る。火照った身体に冷えた甘いジュースがよく染みた。
「美味いなぁ……うちの店でも出そうかな。夜、ドルチェと酒だけ出してるんだけど、飲めない奴が悲しそうな顔してドアに張り付いてることがあって。珈琲もあるって言っても、この店では恰好がつかないからって遠慮されちまう」
「それは気の毒だから出してあげたら? シャンパングラスで出せばいい。近所の農園が出しているものだから口利きも出来る」
「ありがと。お願いするよ」
対面の席に座りつつ、そういえばと放置していた端末を取り出した。
ぱっと表示されるのは、ブラッドリーがふざけて撮った写真だ。
完全に戸惑っているネロと、撮り慣れているブラッドリーの笑顔が光る一枚で、恥ずかしいから解除しようとしても方法が分からないので放置している。
偶然目に入ってしまったのだろう。ファウストがブラッドリーの方を指して「彼?」と問うてきた。
「そ。可愛い顔してんだろ?」
「可愛いと思うのはきみだけだと思うけどね。……どんな人間か、もう一度聞いても?」
「えぇ……恥ず。良いけど」
つらつらと、過去にあったエピソードを話してみる。
大型バイクで祝祭に毎年行っていることや、ジェラート屋の婆さんのこと。
マクミランのことも話しておいた。
ただ流石に、前歴のことは伏せておいた。複雑すぎるし、自分が話すことでもない。
交友関係が広くて、誰にも彼にも好かれている。
責任感が強く、リーダーシップに溢れている。愛情深くて、優しい。
広い視野を持っていて、強い意志も持っている。何処にいても自由に生きていける力があって——その腕をネロが掴んでしまっている。
「……俺なんかが、傍に留めて置いていいのかなって思うんだよな、時々」
机に軽く伏せて言う。ファウストは何も言わない。
「あいつ、俺の飯が食えるから此処にいるんだって言ってくれたこともあって。帰って来て欲しい、俺の飯を食って欲しいって願うのは俺の勝手なんだけど、それであいつを拘束しちまってたらどうしよう」
でも、飯は、どうしたって食って欲しい。時々、いや、出来れば、毎日。
引っかかっていたのは、これだ。皆で食えたのは嬉しいけど、どうしてもあいつの口に入れたかった。何となく、家の冷凍庫に残して来たフライドチキン用の鶏肉を思う。
悶々としている間に、眠気が来てしまい「先生」とだけ言った。
「なに?」
「俺さ、過去——まだ魔法使いだった頃、あいつから自由奪っちまって」
「……うん」
「また、同じことしてんのかな……寂しがり屋な顔して、欲深で、嫌になっちまう」
最後は、言葉になっていたのか定かではない。
レノを呼ばないとな、と呆れたようなファウストの声と、遠くでエンジン音が聞こえた気はした。
**
「よぉ、てめえがファウストか?」
「……きみがブラッドリーだね。よくもまぁ此処が分かったものだ」
派手派手しい赤の車から降りて来たのは、自分よりも遥かに上背のある男だった。
鼻梁上の傷跡が痛々しいが、成程、確かに派手な顔でモテそうだ。態度は最悪だが。
こちらが睨んでも何ら気にした様子もなく、ブラッドリーは軽く首を傾げて言う。
「散々そいつから話は聞いてたからな。住所までは知らなかったが、ラム牧場つったらここしかねえし……よぉ、レノックス。あんときの羊肉美味かったぜ」
「ブラッドリー。久しいな」
「……きみたち、対面したことがあるのか」
ネロを部屋に運んでいたレノックスが「ええ」と頷く。
「あの日の後、街で何度か。騎馬警官が珍しくて遠くから眺めていたら声をかけられました。でかいな、と」
「……他になにかあるだろう」
「はは、いいじゃねえか、めでてえ事実だ。で、ネロはいんのか?」
「……分かって訊いているのだろう? 連れ戻しに?」
「だとしたら、どうする?」
ブラッドリーは楽しそうだ。完全に遊ばれている。
ファウストは嘆息し、屋内を指示した。
「とりあえず、近所迷惑だから入りなさい」
「近所つったって、この周りに家なんてねえじゃねえか」
「いいから」
肩を竦めてブラッドリーが入る。レノックスが茶器を準備するのを止め「もう休んでいい。明日も早いだろう」と部屋へ返した。
代わりに器を持って、珈琲を淹れてブラッドリーの前に置く。
「丁寧なこった。構いやしねえのに」
「僕が構う」
自分の分も淹れ、対面に座った。
ブラッドリーは興味深そうにこちらをじっと見ている。
狼が獲物を眺めているような視線だ。敵意はないのだろうが、気分がいいものではない。なので早々に打ち切ることにした。
「ネロから帰って来るのは明後日だと聞いたけど」
「んだよ、あいつどこまで話してんだ? まぁ、俺の話術でお偉いさんを動かしてやったんだよ。こればっかりは得意技でね。くだらねえ理由で延期されてたのを縮めただけだ」
「どうして」
「どうしてって、早くネロに会いてえからに決まってんだろ」
淀みなく、あっさりとそう言ってのける。
ブラッドリーはカップに口をつけつつ、笑って見せた。こちらの驚いた顔を見止めたからだろう。
「ネロが何言ったかしらねえが、俺はあいつのことが心底好きだし、あいつだって俺のことが大好きだぜ。……まぁよ、あいつは色んな事があったみてえだし、俺も全部は知らねえが」
「……ブラッドリー」
「あ? なんだよ。説教ならいらねえぜ」
「聞きなさい。ネロは、自分がきみのことを拘束しているのではないかと不安がっていた。どこでも自由に生きられるのに、と」
ブラッドリーは少しだけぽかんとした顔をして、小さく鼻で笑った。
「俺が選んであいつのそばにいるって決めてんだよ。そりゃあ、上に扱き使われてんのは気に食わねえけどな。些細なこった、んなことは。大体よ。知ってっか? あいつ、俺と同じ顔した男のことをずっと好いてたんだぜ? 随分長い間、一緒に生きたっつってたな」
「……聞いたよ」
「おぉ、話しが早えな。だから負けてられねえんだよ。云百年一緒に過ごした分以上にあいつに愛情を注いでやれんのは俺様だけだぜ。傍から離しちまったら、足りなくなっちまう。あいつの欲なんて些細なもんだ。俺に比べりゃな」
あぁ、それこそ溺れちまうくらいがちょうどいい、と不敵に男は笑う。
「……彼には、それくらい必要かもしれないね。人より長く生きてきた記憶がある分」
「だろ? ま、今日はあいつが此処にいることがわかりゃそれでいい。無理に連れて帰るつもりもねえが……帰りたくねえつってんのか?」
「いや、何も。酔っ払って寝てるだけだよ」
「はぁ? 人が必死こいて帰ってきてやったのにあいつ……」
部屋に案内してやると、ブラッドリーは眠っているネロの元へ歩み寄って「よぉ、ネロ。良い御身分だな」と自然に口づけを落としている。
ネロは腕を伸ばして彼に抱きつき、心底愛しそうに「おかえり」と返した。
ブラッドリーは呆れたように「寝てんのに、よく言うぜ」と笑い、ネロを軽々と抱き上げている。起きる気配は、皆無らしい。
「これで翌朝俺の家だったらこいつ絶対に混乱すんだろうな」
「……その時は、きみの愛情をもって混乱を鎮めてやるといい。すぐに現実だと気づくよ」
「お? 多少は信頼されたか?」
「調子に乗らない方がいい。僕はいつだって傷ついたネロを匿うことが出来るし、ネロの味方になる。そうなった場合は、きみには引き渡さない」
「言うじゃねえか。随分良い友人を持ったもんだな、こいつは。良かったな、ネロ」
なぁ、と腕の中で——しっかりと抱き着いて熟睡しているネロへ、ブラッドリーが言う。その声色は優しく、柔らかなものだった。
「……はぁ。だからそうならないように、しっかりと彼を見ておきなさい」
「溜息つくんじゃねえよ。てめえに言われなくてもそうしてやる」
助手席へ、ネロが離さないものだから悪戦苦闘しながら下ろしている背を見つつ、もう一つ息を吐いた。
「今度は二人で来ると良い。泊まりなら、きみもワインが飲めるだろう。此処のは美味しいから」
「へえ」
振り返った男の笑みは、なるほど、他人を好かせる最上のものだった。
「いいじゃねえか、てめえとはまだ話し足りねえしな」
そう言い残して、ネロの荷を積み、ブラッドリーは夜道を去っていった。
あの態度とは裏腹に、運転はごく丁寧なものだ。あれならネロは帰るまで起きまい。
「無事に帰りましたか」
「……まだ起きていたの。すまない。色々と騒がしくしてしまって」
「……いいえ、俺は何も。……俺は、ネロがブラッドリーといられて良かったと思います」
「そう……。悔しいけど、僕もだよ。お似合いだね、あの二人は」
「ええ」
大きな手が、こちらの手を包み込んで来る。見上げると、優しい笑顔があった。
「俺も、あなたといられて幸せです。冷えますし、入りましょう」
「あぁ」
肩を抱かれて、家に入る。
ふと、片づけを行っている時に、ネロがこっそりと告げてきた言葉を思い出した。
「あんたたち、ほんとお似合いだよ。よかったよ、一緒にいてくれて」
あの時は急になんだと思ったが、恐らく、そう言われて嬉しかったから先の言葉が自然に出てきたのだろうと思った。
「……次に彼らが来るときは、もっと良いワインを用意しよう」
言った言葉には、優しく、愛情深い「はい」という返答がある。
なんとも幸せなものだと笑んで、リビングの電灯を消した。