これ以上ない程の愛を込めて〈月曜日、空いてるか?〉
穏やかな昼下がり、使い慣れない携帯端末に表示されたのは、そんな短い単語だった。
ネロは「月曜日」と単語を繰り返し、アプリコットを焚く手を止めてカレンダーを見やる。
二月十四日。はて、と首を傾げる。ええと、何かあったよなぁ、この日。何だっけ。
安物のカレンダーをじっと見つめるも、最低限の祭事しか書かれておらず、答えはない。
兎角、月曜日は麦穂も休みである。
土曜の夜から日曜にかけてはブラッドリーの家で過ごしてはいるものの、月曜はネロにとっては空いた休暇に過ぎない。
掃除か苦手な帳簿付けくらいしかやることもなかった。あまり深く考えずに返答を寄越すことにする。
〈空いてるよ〉と、爺かよと揶揄されるレベルで遅い打ち込みを以て送ったメッセージには、〈じゃあ夜に行くから、そのまま予定空けとけ〉と即座に返って来た。
また四苦八苦しながら〈分かった。待ってる〉と返し、やり取りは終わる。
じゅくじゅくと文句を言い始めているアプリコットをあやしつつ、ネロはまた考えた。
ブラッドリーが仕事の日にわざわざ訪れると言うのだから、きっと何か特別な日に違いない。
ふと苦く蘇るのはこの間の聖夜の失態だ。
不審物と言い放ったコートと手袋は今も大事にクローゼットにしまわれている。少し重いが暖かくて、寸法もぴったりだった。
その返礼は、豪華に作った飯と自分のケツ。
そも、返礼というのがおかしな話なのだ。
本来であればネロも何かプレゼントを用意してブラッドリーに贈らねばならなかった。その上で飯とケツをくれてやるのが大正解だったのだろう。
ブラッドリーは何だかへこんでいるネロに対して「気にすんな」と幾度か言ってくれたし、その日のセックスは最高だった。
いや、違う違う。
別にあの時の夜のことを思い出したかったわけじゃない。
二月十四日が一体何の日だったのかを思い出さねばならない。
常頃のヒントとなる街の飾りつけは、今は大変大人しいもので、路上を吹き荒れる寒風と、舞い上がる木の葉に皆がぶつくさ文句を言っている光景しか見られない。
あぁ、そういや、こんな時期には魔法舎が甘い匂いで包まれたっけか。
寒々しい空気にとろりと溶けるような甘い香りを楽しんで、チョコレート菓子で感謝を伝える日があった。
賢者の発案であったが、それなりに楽しく過ごしたし、甘さを控えめにして洋酒をたっぷりと効かせたブラウニーを誰かさんに焼いてやったことも思い出す。
む、待てよ?
「あ」とネロはひとり呟いた。これだ、多分。
チョコレートだ。甘い菓子の祭典があったのが、ちょうど二月十四日のはず。
ネロは心中で賢者に感謝をしておいた。これで今回はクリアできそうだ。チョコレートだけでは惜しかろう。此処は腕によりをかけて彼の好物も作っておかねば。
ちょうど出来上がったアプリコットのジャムを味見し、ネロは頷いた。
よく出来ている。艶々としていて、程よく甘くて酸味もある。そうだ。これを使ったケーキでも焼くか。
当日のメニューを練り、ネロはふふん、と一人満足げに笑った。
ここで、調べておけば良かったのだ。
手元にはありとあらゆる情報を検索できる文明の利器があり、隣家には流行に聡いデザイナーが住んでいたのだから。
悲しいかな、ネロは文明の利器こと携帯端末と仲が悪く、これで正解だろうと思い込んでいたので、隣人に尋ねることもしなかった。
恐らく、賢者も謝っただろう。それ、東洋の島国だけの特異な祭典なんです、と。
「へ?」
いつものノックで、住居側の扉を開けたネロはぽかんとした。
「お、此処まで美味そうな匂いすんじゃねえか。張り切ったなぁ、てめえも」
「え、あぁ、うん……」
破顔する恋人に対し、ネロはするすると自分の格好に目を落とす。
いつものカットソーと白のシャツに、何の面白みもない紺色のエプロンだ。
まぁいつものことだし、これでいいか、と思ったが故の緩いファッション。
対してブラッドリーは、しっかりとフォーマルな恰好をしていた。
彼にしか似合わないとさえ思うダークブラウンのスーツに、臙脂のシャツ。長い足の先には明らかに高級そうな革靴。そして、その手には。
「……は、なたば?」
大きな大きな赤い薔薇の花束がある。あとはそこにそぐわないフルフェイスのヘルメットも引っかかっていた。まさか、あんた、それ担いでバイク乗って来たのか?
「おう。今日はそういう日だからな」
くれてやるよとどすりと手に花束が渡された。
重くて、噎せ返るように濃い花の香りがする。薔薇で埋もれてブラッドリーの姿が見えやしない。
「……なんで?」
「あ? 何がだよ。あぁ、良い匂いだな。肉料理だなこりゃ」
ネロを追い越して階段を上がっていくブラッドリーを慌てて追いかける。
薔薇が重くてあっちこっちに肩をぶつけて、やっと彼に追いつくことが出来た。
贈り物を慎重にシンクに下ろして、ネロはブラッドリーに向き直る。
「なぁ、今日は、俺があんたにチョコレートとか贈る日なんじゃねえの……?」
「チョコレートぉ? あぁ、だからでっけえのが真ん中に居座ってんのか。……いや、聞いた事ねえけど」
曰く、パートナーに愛を伝えるための祭典であり、贈るものは花束である。
街に繰り出してみればあちこちで薔薇の花束を買い込む連中がおり、法外な値段で売っている花屋もあるとかなんとか。
ネロは眉間を押さえた。そういや、いたな。道理で露店の花屋が多かったはずだ。
「……あぁ~」
ネロはなんとも情けない声を出してその場にしゃがみこんだ。
また、間違えたのか俺。
いい加減この世の祭事という祭事を学ばねば、いつまで経ってもブラッドリーにきょとんとされてしまう。
可愛い面だから偶には見たいが、呆れられるのはちと避けたい。
「また何か勘違いしてやがったか。はは、まぁいいじゃねえか。花束渡しにきただけだがよ、こうやって美味い飯にありつけんだから、俺にとっちゃ損な話じゃねえし。それにな、ネロ」
目の前の赤い目が嬉しそうに細められる。
「今回は俺がお前に贈って良い気になる日だったんだ。でも、お前も俺に何か用意してくれたんだろ? なら、俺はそれを受け取る。てめえも良い気なればいい」
「んな無理矢理な……」
「良いんだよ、祭事なんてそんなもんだ。ほら、冷めちまう。食おうぜ」
促されて引っ張り込まれて。ネロは気を取り直し、彼と細やかな宴を始めた。
と、言っても豪快に食われていく食事をちまちまと掠め取りながら眺めることしか出来ないのだが、それでも十分、胸は空いていった。
贈って贈られて、良い気になる。
それで彼が良いというのなら、それで構うまい。
——それにしても。シンクをこんもりと埋めている薔薇の花束を見やる。
「なぁ、何本あんの、あれ」
「ん? 数えてみな。ま、ほんとは千本近く用意してやりたかったがよ、流石にバイクじゃ事故る」
彼は飄々と言い、最後の肉片を口に放り込んだ。
「てめえが来年何本用意するか、楽しみにしといてやるよ」
翌朝、ネロは贈られた薔薇の本数を律儀に数え上げ、百一本あることを把握した。
「ふうん、高かっただろうなぁ」と呟き、そのまま何の気まぐれか、仲の悪い携帯端末を取り出して、本数の意味合いを調べることにした。昨日の彼の言葉がひっかかっていたからだ。
細々と現れる言葉に笑いつつ、スクロールして三秒後。ネロは腰が痛いのも忘れ、その場で崩れた。
その日、常と変わらずランチを食べに訪れた恋人の顔を、まともに見ることなど出来るはずもなく。
聖夜の折と同様、ネロは来年こそはとリベンジを誓うのだった。