冬に添う 一《出会い》 冬猟の季節に、自分は生まれたのだと言う。
毛皮や脂肪を蓄えた獲物を狩る、猟師たちの季節のことだ。
生誕してから約五十年。
長じたブラッドリーが与えられた土地は、厳しい地にあっても雄々しく生きる者達が台頭する、冬の国の中でもとりわけ深い山野だった。
主な住民は猟を生業とする人間達で、彼らは冬国に育つ獲物を狩って糧としている。
獲物と云っても、ただの鹿や猪ではない。厳寒に生きる生物は、他国のそれと比較するまでもなく巨大で、凶暴だ。そんな生き物を相手にするのだから、山野の住民達は皆逞しかった。
「冬猟の主人」
いつしか、彼らがそう呼び始めたのをきっかけにブラッドリーの称号はそれに固定された。
その冬猟の主人にも、負わされた役目というものがある。まずは住民である彼らの庇護。加えて、森が荒れる原因となる草食動物の繁殖過多を、部下を使って管理、調整することだ。
その部下は口を利く巨狼どもである。体長が人の背丈ほどもあり、容易に呪物を噛み砕く能力がある。元より山野に居着いていたのを、ブラッドリーが実力行使で頭を抑え込んだのだ。
司る畏怖の気質を存分に表し「誰がボスが言ってみろ」と銃口を突きつけて脅したところ、彼らは尻尾を股に挟んで怯えてみせた。以降はこの山野の狼皆がブラッドリーの従僕となっている。
冬猟の主人の印はその巨狼達と、無骨な王冠。それに巨大な宝石の埋まった長銃。
これらを揃えた人物を見たならば、畏れ、従え。
決して狼を狩るな。厳寒の庇護を乞うならば。
いつしかそれが冬の国、北の山野に生きる人々の掟となっていた。
「あ? んだよこの手紙は」
『白い蝶が玄関先に持って来てたんです』
冬の色が濃くなった大寒のことである。
私領の館で猟銃の手入れをしていた折、灰毛の狼が、歯でズタボロにした手紙を咥えてやって来た。読めるかどうか心配になる負傷具合だ。
ブラッドリーは嘆息した。従僕どもは勇猛果敢で、集団行動に長けているがあまり頭はよろしくない。狼は獣ゆえに致し方ないとは思うのだが。
ちょうどよく灰毛が背後に回ってきたので伏せさせて背もたれ代わりにしつつ、手紙の封を切る。
ぽつぽつと歯形のついた便箋がおっかなびっくり現れて、ブラッドリーの手中に収まった。
濃い花の香りが、一寸漂う。匂いの元は手中の便箋だ。
灰毛が伏せていた顔を上げて、ブラッドリーを見やった。太い尻尾が左右にぱさぱさと振られている。
『ボス、何の匂いです?』
「花。つうことはシャイロックか……あぁ? 依頼だ?」
綴られた字面を見て、ブラッドリーは眉を顰めた。
シャイロックは山野から遥か遠方の、春の国を治める領主であり、その身で酒宴を司っている。
何処でブラッドリーの名を知ったのかは定かではないが、彼からは時折蝶を通じてこうして手紙が届けられていた。内容は、万年氷土の冬の国にしかないハーブの採取願いであったり、酒宴の誘いであったりと、多岐に渡る。
頻度はあまり高くはなく、百年に二、三度程度だ。寧ろ直属の長である双子からの手紙の方が頻度が高く内容も鬱陶しいため、花の香りがした時点で多少は安堵したのだが。
「……至宝と引換に我が弟の奪還を乞う、だとよ」
二十年かそこらか前に、彼に弟が生まれたとかいう話を聞いた。酒宴に続き、豊穣を司る子だとか、何とか。双子が顔を見てきたそうだが、さして興味もなかったブラッドリーは兄達と同じく聞き流していた。
それが、半年前に攫われた。それも、人に。
ただの人ではなく、呪を得意とする魔導士らしく、寿ぎを司る春の国とは特に相性が悪い。懸命に努力はしたが、悔しくも敵わなかったという。
故に、呪に耐性があり、兄達よりも多少交渉の余地がある冬猟の主人に手紙を寄越したというわけだ。
『奪還、というのは?』
「他所様に奪われちまった奴を取り戻してくれって話だろ。至宝、ねぇ。春の国のもんなら、蜜の滝壺か、銀織の檻か……悪い話じゃねえが」
なんで俺様が、んな面倒なことを。
便箋を片手で折って丸めて、暖炉に投じた。ぱっと金の火が燃え移ってすぐさま灰になる。
冬毛の狼の背にもたれながら、ぱちんと指を鳴らして宙から酒を取り出した。ついでに骨つきの生肉も出して、背もたれにくれてやる。だが少しばかり後悔した。嬉しいからって小刻みに揺れるんじゃねえよ、酒が溢れる。
それから数十分。揺れる琥珀色の蜜混じりの蒸留酒を舐めながら、ブラッドリーは思案した。
冬の大地において至宝は奪うもの。
与えられるものではない。
交渉の材料くらいにはするが、強い者が全てを取る、つまり総取りが冬の国に生きる者達の信条だ。
ならば、と思った。その豊穣を司る奴も、至宝も両方いただいちまえば良い。
冬の国に豊穣は不可欠だ。脅し尽くして、貰っちまうか。
魔力ならともかく、純粋な力ならこっちの方が上だ。また双子がうるさいかもしれないが、その際は兄二人を口車に乗せて担ぎ出せば良い話だ。
「シグ。食ったらお前の兄貴達呼んで来い」
『んぁ? 狩りですか?』
ばりぼりと骨を噛み砕きつつ灰毛のシグが問うて来る。間抜けなその顔を乱暴に撫でてやりながら、ブラッドリーは口の端を吊り上げた。
「おう。総取りの前夜祭だ。行って、奪って、宴としようや」
『じゃあ、人がいたら食って良いですか』
「構わねえよ。新鮮な人肉だ。楽しみやがれ」
やった、と嬉しそうに尾を振りながらシグはブラットリーの背もたれから、血肉を好む狼に転じて野に駆けて行った。すぐに遠吠えが聞こえる。
血と争いに飢えているのは、彼らだけではない。
平和呆けした人間にはちょうどいい薬になる。
それに、人の身でありながら精霊を飼おうとしている馬鹿など、狼達が食っちまう方が良いに違いない。
『ボス、この子ですか』
口周りを赤黒い血で汚した巨狼が、ブラッドリーの腕を押し上げるようにして顔を出す。
「……ぼす?」
助け出した子から漏れたのは、あまりにもか細い声だった。
痩せて、薄汚れて、弱りきった幼児はブラッドリーの背丈の半分にも満たない。巨狼達なら一飲みできそうなくらいに、小さかった。
ブラッドリーは空いている方の手で顔を覆っていた。長年生きていると所々で常識を忘れてしまう。
寿命がないに等しい精霊は成長が著しく遅い。
力が物を言う冬の国だけは例外的に成長が早いが、平穏で豊かな国ほど、速度は落ちる。急ぐ必要など何もないからだ。
つまり、その平穏の象徴である春の国生まれの児ともなると、二十年かそこらではまだほんの幼児程度にしかならない。完全に、失念していた。
(こんな子供を強請りの材料にするってか)
児は、ふんふんと匂いを嗅ぎに行っている巨狼を怯えるでもなくきょとんと見つめている。
外傷は、多過ぎるほどだった。擦過傷に、打撲痕。
拘束していた手錠や足枷は先程狼どもが噛み砕いているが、残された赤い痕がまた痛々しい。
「ちび、こっち来い」
ブラッドリーは外套を脱ぎ、それを広げて待った。
幼児は狼からブラッドリーに視線を移して、こくんと頷く。
狼がその背を支えて起こしたが、立てもしないのか、すぐにへたり込みそうになっていた。
致し方なく、ブラッドリーの方から近づいて外套で包んで抱き上げてやる。布越しに薄く骨の感触が指にある。予想通り凄まじく軽かった。
「はー……まず飯だな。おまえ、何食えんの? 春の国生まれなら花か?」
「……ご飯?」
外套の中で幼児は首を傾げた。
「ここの人達は土塊とか、雑草で十分だって」
あれ、と隅に置かれた陶器の皿を示した。
言葉通り、枯れた草と土が盛られている。
「……チッ、糞どもが」
「くそ?」
「あー繰り返さなくていい。とりあえず、俺の国に連れて帰るから、目閉じとけ」
灰青色の髪を撫でて懐中に押し込むと、幼児はまたこっくりと素直に頷いた。小さな手でしがみついてくる幼な子はほのかに暖かく、埃臭い。
背を撫でる間に寝落ちたのか、僅かに重みを増した。呆けているように見えたが、疲れ切っていたらしい。寒くないように外套の毛皮の部分を寄せて、隙間を埋めてやる。
「ザウエル、半殺し一人以外に生き残りはいねえな?」
『はい。全て喉笛裂いて殺してます』
「よし。なら食っちまえ。血一滴残すんじゃねえぞ。おまえが統括しな」
『承知しました』
ザウエルと呼んだ赤毛色の狼が駆けていく。
四肢が駆けていく度にびちゃんびちゃんと床が鳴って、やがてそれは漣のように数を増した。ザウエルが指示通り狼達を集めているのだろう。
音源は全て人が流した血溜まりで、この大広間すべてに広がっている。ブラッドリーはその床を踏み越して歩き出した。
(冬猟の主人様が、誰かを抱えて歩くだなんてな)
そう思いつつ、ブラッドリーは心中で苦く笑う。
何も知らずにすやすやと眠っている幼児の後頭部をまた撫でてやり、事のついでのように眼前に転がっていた物言わなくなった肉片を蹴飛ばした。