冬に添う 思えばこそ(前編) 厳冬の最中。北方から吹き下ろす風は、常ごろは人々の肺を凍てつかせるだけのものである。
僅かな作物を凍りつかせ、なぎ倒し、恵みなんてものは何一つ齎さない。冬の国で逞しく生きる人間たちも、この風の容赦のなさには閉口していた。
折に、その風が止むことがあった。それどころか、一時のみではあるが柔く、暖かく感じさえすることもある。冬の間は分厚い灰色の雲で包まれる空も、その風が吹く時だけは日差しを大地に向けた。
こんな現象は初めてのことで、谷の近くに住まう人々は顔を見合わせて彼方の山麓を見やった。
伝承に確かな者は、そんな彼らに訳知り顔で話す。
曰く、我らを加護する冬猟の主人が春の精霊を娶ったのだと。この風は、その精霊が齎しているのだ、と。
その春の精霊であるネロであるが、彼は馴染みの狼を抱き締め、自室に寝転がっている。
抱き締められているのは、ネロの近衛を命じられている灰毛のシグである。大きな身体をネロに沿わせて自らも横になり、太い尾をゆるゆると振っていた。
『ねぇネロさん……』
「……あの馬鹿」
『機嫌直してくださいよぉ、ネロさん……』
ネロとて、シグを困らせたいわけではない。ふわふわの灰色の毛並みは暖かくて、日の香りがした。
本当は彼が満足するまで撫で回してやりたいのだが、この心境ではその気も失せてしまう。
「シグ」
『は、はい……』
「俺って……まだガキに見えるか」
『……見た目の年嵩で言えばボスと同じくらいだと思いますけども』
「中身は?」
『ええ……?』
シグが大きな口をはたと閉じて、ネロを横目で見ている。散々答え方を逡巡した挙句、彼はしどろもどろと言葉を紡ぎ始めた。耳は倒れきっている。
『ネロさんは優しいし、ガキじゃないと思うんですけど』
「……あー……ごめんな。困らせて」
こういうところもガキなんだよなぁと思いながら、ネロはシグの頭を撫でた。はたはたと尾を振り返して、ぐいと身体を捻って頬を舐めてくれる。
『さっきのだって、ボスはネロさんのことが心配なだけだと思いますよ』
「分かってんだよ。分かってんだけど……」
理解するのと、納得するのは少し具合が異なる。
ネロは重い溜息をついて再びシグの毛皮に顔を埋めた。頭の上でくぅ、と困ったように鳴く彼に申し訳なさを感じながら。
冬猟の主人に伴侶が添って数ヶ月。
谷の奥にある館に迎え入れられたネロは、そのたった三日後に高熱に見舞われることになる。
押しかけて三日で高熱とは。
ネロは分厚い布団に埋まりながら恥じることしか出来なかった。
ネロが再訪したのが冬の終わりの頃で、一段と寒さが厳しくなる折であったという。いくらブラッドリーの加護があったからといって無事では済まなかったらしい。折角用意されたネロ専用の部屋は病室になり、再訪を喜んでいた狼たちは部屋の前でしょぼくれていた。
ブラッドリーとて暇を持て余すような身ではない。なのに時折部屋を訪れては、手折った花をくれたり、言葉を交わしてくれる。
でかくなったのに足引っ張ってばっかりじゃねえかとネロが悔しがる最中、ブラッドリーもまた考えていたのだろうか。
冬の国に細やかな春が訪れた頃にようやくベッドから起き上がることが叶った後、ネロは部屋に呼ばれた。座れと目の前の椅子を示し、ブラッドリーは静かにこう言い放った。
「おまえは一旦、春の国に帰れ」
そこからは「帰らない」と「帰れ」の応酬となった。幸い、この館にはブラッドリーとネロ以外に精霊はおらず、世話役と呼べる存在はいない。故に他者に知られる事象ではなかったものの、共に暮らす狼たちにとってはとばっちりもいいところだろう。
それを悪いと思いながら、ネロは「どうして」と口にしてしまう。
対するブラッドリーの言は、明瞭で、理解できるものでしかなかった。
身体が萎えてしまっている今、冬の国の寒さはネロの体には毒だと言うのだ。口を噤んだネロに対して、ブラッドリーは溜息を吐きつつ言う。
「なぁ、ネロ。てめえは何年生きた」
「……百二十か、そこらだと思う」
「だろ? 百年と少しじゃ、精霊は成熟しやしねえ。相性がそもそもよくねえ土地にいりゃあ、その地の魔力に身体を蝕まれて消えちまうやつだっている」
知ってるか、と言葉が続く。
「他国の弱小精霊にとって一番の拷問は、他の国に連れ込むことだ。ほっときゃ勝手に身体が瓦解していくからな。足でも括っときゃ、消えちまうさ」
得られる防護策はその地の精霊の加護を乞うか、長い時を経て順応するか、行き来をして身体を慣れさせるか、だと。今回は三択目に当たる。
幼い頃のネロが生き延びられたのは、ブラッドリーの強固な加護があったからだと、重ねて説明された。
「まぁ焦る必要はねえだろ。俺たちには寿命なんてもんはねえし……」
「……ガキだからか」
「あ?」
「あんたにとって、俺はまだ子どもだから。弱えし、自分の身を守る術だって覚束ない。現に熱出して、情けなく体弱らせてたしよ」
分かってんだよ、と呟く声は情けないことに震えている。
「おい、ネロ……」
「俺が我儘ぶっこいてまで離れたくねえのは、あの百年間、痛い程にあんたが恋しかったからだよ。死んだかもって思った時、心が割れるかと思った。……でも、いい」
あんたが守んなきゃいけないなら、並び立つ価値がないなら、良い。
ネロは椅子を蹴倒して立ち上がり、ザウエルの尾を踏みかけながらブラッドリーの部屋から飛び出た。館の中なのに廊下は冷たく、一瞬立ち竦んでしまった。それがまた悔しくて、ネロは一度も振り返らずに自室へ戻った。
『ボス』
腕を押し上げる鼻面の感覚で、ブラッドリーはようやく自分が物思いに耽っていたことを思い出した。
思いは何が拙かったんだか、ということに終始しており、結局のところ答えは出ていない。
ガキだからか、とネロは怒っていた。
ガキだとは、そりゃあ昔は思っていた。今もそうかと言われれば、それは違うだろうと思う。
事実、彼は離れていた百年間で随分と成長していた。こちらに来て即身を変貌させるなど、並の精霊なら自殺行為のはず。やってのけて、此処までたどり着いたのだから、彼はもう一人前の高位精霊だろう。
ただ、その反動がひどかった。相反する魔力が体内にこもって、結果があの大熱。
その熱に苦しむ中で、何度も何度も謝るネロを見て、ブラッドリーは思案せざるを得なかった。
孤高であれと願われ、自らの領地では他者の介在を許さなかったブラッドリーにとって、あの時の心中の惑いは言い表すことの出来ない代物だ。
傍に置こうと決めた。手放さないと決めた。
その存在がいま、こうして苦しんでいる。なら、自分が為すべきはこいつをーー。
先程言ったことは全て事実で、自分に理があるとは思っている。ネロもそれについては反論して来なかった。だから理解させることは出来たのだろう。
ただ、あんな顔をさせるつもりはなかった。
『ボス、ちゃんと言わなくていいんですか?』
脇の下からザウエルが言う。
ネロが飛び出して行ったの見、部屋前で待機していたシグに追えと命じたのはこいつだ。思わぬ反撃を喰らって言葉が出て来なかった先程の出来事を思い出し、ブラッドリーは重く溜息を吐いた。
「ネロが怒った理由がてめえには分かるって?」
『分かりません。狼なので』
「……てめえなぁ」
『でも、俺はボスに頼りにされないのは嫌です。守ってもらうばかりじゃ、いつまで経ってもボスの背中に隠れてないといけない』
弱い者として見なされるのは癪なのだと、一番付き合いの長い狼はブラッドリーを見上げながら続ける。
『ネロさんを育てたのはボスです。ボスだって弱いからって匿われたら、怒るじゃないですか』
「あ? ったりめえだろ」
『だからだと思いますよ。怒ったのは』
ブラッドリーはザウエルの顔を見やったまま、口を閉じた。育て親に似たから、あぁなったとでも言いたいのか。
『ネロさんはボスのつがいなんですよね?』
「……おう」
そのつがいを守りたいのは、弱いからか。それとも。
知らねえよそんな感情も、心持ちも。
何しろいるのは狼ばかりで、ずっと一人だったからなぁ、と赤毛の背を枕に考える。
それにしても、ザウエルは普段は反論などもせずに粛々と任務をこなす存在であるのに、何故こうも呆れ返った顔をして説教を垂れてくれるのか。
意図を察したのか、ザウエルははたりと耳を動かした。
『ボスのつがいなら、ネロさんは俺たちにとっても至上の存在ですから。口は出します』
「……言うじゃねえか」
ひと抱えほどある頭を乱雑に撫でて、ブラッドリーは立ち上がった。その言で、ひとつ結論が出た。
「あいつのことはガキだとも弱えとも思ってねえ。冬猟の主人様の至宝だってことを、分からせてやらねえとな」
『最初からそう言えばよろしいのに……』
「うるせえな」
ネロが帰ったのは方角的には自室のはず。シグが追って行ったのなら見張ってはいるのだろう。
ブラッドリーは廊下を歩み、さてどうやって機嫌を直させるかと思案する。折にふと、窓辺を見やった。
「……あ?」
何故、雪深い景色の最中に、春の国の衣装を纏ったネロがいるのだろうか。
そばには灰毛の狼がいる。シグだろう。彼は必死に止めようとはしているようだが、最終的には先に姿を消したネロを追うように駆けて行ってしまった。
隣にいたザウエルもぽかんとしている。
「……はー……あの馬鹿」
先にネロに吐かれた台詞を繰り返し、ブラッドリーは頭上の王冠を摘み、宙に放り投げた。