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    @haguyineko

    HQ 夜久|黒夜久
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    一度お別れする黒夜久
    〜2022年(スペシャルマッチ)まで
    ⚠️ハイキューマガジンのネタバレ含みます

    #黒夜久

    黒尾鉄朗の悪夢(前編)「じゃあ、俺は、明日仕事あるから」
     海が帰るというので、宴もたけなわに同期会はお開きになった。俺と夜久が言い合いしてる間も淡々とペース変えずに飲み続けてたから、三人の中で一番飲んでたはずなのに、名前の通り包容力のある穏やかな笑顔だった。
     高校最後の春高。ゴミ捨て場の決戦。
     バレーボールは高校までと決めてたという海にとっては、文字通り最後の試合。大学まで続けた俺にとっても特別な一戦だった。そして現在に至るまでプロとして活躍している夜久にとってもそうなのか、それは直接聞いたことはない。だけど、こうして高校を卒業して10年以上経った今でも、元チームメイトとして三人で集まれるんだから、過去を懐かしむことが似合わない夜久だって、多少は思うところはあるのだと思いたい。
     俺と夜久の関係は、元クラスメイトで元チームメイト。その他にもう一つ過去形になってしまった肩書きがある。元恋人だ。
     


    ***

     中学一年生から片想いしていた俺の粘り勝ちで、高校3年の夏からようやく付き合い始めたはいいけれど、全国制覇の目標達成のために部活優先なのははっきり二人の共通認識だったし、春高が終わってからは俺の一般受験が本格化したこともあって、高校時代には恋人らしいことはほとんどしなかった。そりゃあ、人目がないところで抱きしめたり、キスくらいはしたけど、普段はせいぜい仲の良い友人がいいところで。
     受験を終えたニ月中旬に、自由登校を利用して青春の駆け込みみたいにデートしてみたりはしたけど、お互い進学後もバレーを続ける予定だったことと、主には後輩が気になって、結局週三で部活に顔を出してた気がする。
     だから夜久を初めて抱いたのは、俺の合格が決まってからだった。
     
     卒業してからは、お互い都内の大学だったから実家を出る理由づけみたいにルームシェアだと親を説得して同棲を始めた。
     夜久と俺の得意不得意が上手いこと噛み合った結果家事の分担もそれなりにスムーズで、些細なことで言い争いになることは高校と同じようにあったけど、二人暮らしは概ね上手くいっていた。何より、好きな人と毎日一緒にいられることに俺は完全に浮かれていたし、夜久だってなんだかんだ満更でもなさそうだった(これを研磨にいうと、これ以上ないくらい眉間と顎に皺を寄せる)。
     夜久のプロ入りは在学中で、当然俺の就職よりも早く決まっていて、それでも同棲を解消する話は出ることはなかった。俺がJVAの就職を勝ち取ったときも我が事のように喜んでくれたし、その日の夜は大いに燃えた。生活リズムが変わってお互い忙しくなってからも、相も変わらず俺たちは喧嘩しては仲直りすることを繰り返して、それが俺たちにとっての日常だった。
     そばにいることが当たり前になっていく中で、このまま法律が変われば結婚だってできるんだろうなと、俺にしては楽観的に思っていた。のに。
     
     

     *

    「別れよう」
     そう告げたのは、俺からだった。
     
     夜久がロシアのプロリーグに行くと聞いて、足元から地面が崩れ落ちる気がした。
     夜久からは事前に海外リーグへ挑戦する話は聞いていたし、どこがいいと思うかなんて、交渉の相談をされたこともあった。そのとき俺は「夜久がやりたいようにするのが一番だろ」と背中を押した。夜久がどんな選択をしようとも、これからも一緒に支えたいと思っていたことは嘘じゃない。
     俺が小柄に分類されるくらい長身の選手が多い海外に夜久が挑戦することは不思議じゃなかった。そこでどこまで通用するのかより高みを目指す姿は眩しかったし、それは俺が惚れ込んだ夜久衛輔そのものだった。全国制覇どころかいよいよ「世界制覇」に乗り出すのかよと、バレーボールファンとしては頼もしく誇らしくもあった。
     だけど、恋人としてはまったく事情が異なる。新天地に進もうとする夜久を祝い、喜びを分かち合うよりも先に、せめて他の国ならと思うだけならともかく思わず口に出してしまった。なんで、なんでよりによってロシアなんだ、と。
     同性婚ができる国が増えている中、その真逆に、〝伝統的な家族観〟を重視するという言葉で、同性を愛すること自体を罰しようとする国に恋人が行ってしまうことに、俺は絶望した。物理的な距離以上に、気軽に会いにいくことができるかわからない。それだけならまだしも、自国民でさえ罰せられるのに、後ろ盾がない外国人ならなおさら、俺の存在が夜久のキャリアを潰すことになりかねない。海外移籍の話を聞いたときに、ちょっと考えれば思い当たったはずの懸念なのに、俺は突きつけられた現実にまったくの無防備だった。
     夜久を責めるつもりは誓ってなかったが、俺の切羽詰まった声を聞いた夜久はそれだけで意味を汲んでくれたらしく、漏れ出た本音に二の句が告げない俺をジッと大きな猫目で観察していた。
     情けない動揺を射抜くようなその眼差しに耐えられなくて、「夜久が心配なんだ」と紡ぐ俺の声は、普段胡散臭いなんて言われてるのが嘘みたいに取り繕えずにガタガタだったと思う。夜久はそんな俺を揶揄うでもなく、黙って聞いていた。
     何より情けなかったのは、そうまでしても「行かないで欲しい」なんて本音は言えなかったことだ。「夜久を守りたい」なんて心配を装って、そのくせ守れる自信なんてなくて、子ども染みてるけど何より切実な「そばに居たい」ことを伝えられなかった。
     いや、本音とも少し違う。離れること自体が不安なんじゃなかった。もちろん、片時も離れたくないと思っているのに、それが数年も離れ離れになることになったら淋しいに決まってる。でもそれは、お互い我慢すれば済む話で。
     俺は、俺がそばにいることで夜久からバレーボールを奪う可能性がにわかに現実になったことが、怖かった。
     
    「黒尾はどうしたい?」
     俺の呻きみたいな言葉が途切れたところで、夜久が口を開いた。聞こえた声はやけに静かだったのに、俺の鼓膜にこれでもかと刻みついた。テレビもついていなくて、互いの呼吸音しかしない室内に沈黙が落ちて、耳鳴りがした。言いたいことは山ほどあるのに、常ならよく回る頭も口もさっぱり動かず、言えたのは別れを切り出す一言だけだった。それが夜久のためだと思った。
     たぶん俺は、この期に及んで、いやむしろこんなときだからこそなのかもしれないけれど、夜久に甘えてたんだと思う。「なに馬鹿なこと言ってんだ」って鼻で笑って、「俺を、勝手に諦めんじゃねえ」って、マイナス思考の黒い泥に捕まった俺を、夜久なら簡単に掬い出してくれると思ってた。いつもみたいに。
     
    「わかった」
     だけど、夜久は瞬きもせずに俺を見つめて、俺の目を捉えたままシンプルに返した。
     それで俺たちの恋人関係は終わりだった。自分で言い出したくせに、奈落の底に落っこちたその後のことはよく覚えていない。
    「さすがに、このまま寝食共にできるほど、俺も神経太くねえから」
     そう言って、夜久がふたりの部屋を出て行ったのは翌日だった。
     
     

     それからしばらくして、夜久がロシアに立つ週に送別会が開かれた。大人になっても先輩思いの山本が主催して、研磨の家で俺らが3年だったころのメンツで集まることになった。
     別れてから久しぶりに会った夜久は「よー、元気か?」なんて拍子抜けするくらいいつも通りで、俺も精一杯いつも通りを演じて戯けて見せたけど、研磨と、たぶん海にはお見通しだった。
    「そんなに未練があるなら、夜久くんが行っちゃう前に、今からでも話し合えばいいのに」
     会場の片付けを申し出て、一人残ったときに呆れたように家主に言われた。
     未練なんて、ないわけがない。少なくとも俺は、夜久のことがまだ好きだった。でも、自分から手を離しておいて今更縋るなんてできない、なんてちっぽけなプライド以上に、何より夜久の手を離さないことが夜久のスキャンダルになる可能性を考えずにはいられなくて、俺は何も言えなかった。苦虫を噛み潰したように黙りこくる俺に、研磨はそれ以上何も言わなかった。
     
     ロシアのプロリーグが日本でテレビ放映されることなんてまずないから、私情と仕事半々で、夜久の動向はインターネットで追っていた。舞台を変えても夜久は巨人たちに紛れることなく相変わらず俺の視界を奪った。ロシア語なんてほとんどわからなかったけど、夜久がAパスを決めるたびに実況される「ヤク」の音は聞き逃さなかった。
     移籍後最初のシーズンは、残念ながら優勝は逃したものの、チームに貢献していたのは贔屓目ではなくて、勝利インタビューで揉みくちゃにされるのがシーズン後半は恒例になっていた。夜久がロシアで活躍する姿を見届けて、俺は誇らしい気持ちとともに、「これでよかった」と思い込もうとした。
     それから、次の更新を待って、俺も二人で暮らした思い出が詰まった部屋を引っ越した。現実的には二人暮らし用の家賃はしがないサラリーマンには重かったし、精神的にももういない夜久の面影と暮らすのはつらかったからだ。だけど、それくらいで断ち切れる未練なら、未練にはならないのかもしれない。
     
     

     *
     
     相変わらず夜久に心を奪われたまま、気づけば高校生活と同じだけの時間を会わずにいることを、いや、俺が会えなくしてしまったことを、俺は仕事に没頭することで忘れようとした。
     念願だった競技普及事業部に配属されてからは、ますますそれが加熱した。引っ越してから俺以外待つ人のいない部屋は寝るための場所と化して、生活感なんてまるでなかった。
     夜久と別れて以来、特定の恋人をつくれない程度には未練を特盛に抱えたまま、オフはジムに通って、現役時代と変わらないくらい自分を追い込んでいた。そうでもしないと際限なく別れの瞬間を考えてしまいそうだった。
     
     その次に夜久に会ったのは、日本代表として招集された夜久が帰国したときだった。
     夜久の帰国直後に、研磨の家で音駒メンバーで鍋をやるという連絡とともに、「来るよね」という念押し。急な予定を何とか擦り合わせて、それでも開始時間には遅れる旨を返信すると、「了解」とそっけない返事が返ってきた。
     それが出国以来初めての帰国になると、そのときに研磨から聞いた。すっかり移籍先にも馴染んでなかなか帰ってこない夜久の代わりに、研磨やリエーフがロシアに会いに行っていたらしい。プロ選手が出没することで、バレーファンの間でも人気になっていたkodzukenの配信で、久しぶりに見たユニフォーム以外の夜久は眩しかった。
     
    「しばらく見ない間に、随分とまあ、お高そうなスーツをお召しで」
    「これブリオーニ」
    「007かよ」
    「お前は草臥れてんな」
    「お陰さまで、忙しくさせてもらってます」
     仕事を終え、いつもよりもだいぶん賑やかな研磨の家に足を踏み入れて、真っ先に目に入るのは焦がれ続けていた恋しい人で。その瞬間に日中の疲れが吹き飛ぶ気がするのだから、俺も救えない。
     俺にはまだ手が届かないような高級ブランドスーツで全身固めて、おまけにサングラスまでバチバチに決めていたらしいが、サングラスを外して挑発的に笑う姿は俺がよく知る夜久だった。それに俺は胸を撫で下ろすと同時に、ぎゅうと絞られた心臓が悲鳴をあげていた。
     とはいえ画面越しじゃなく実際に俺と顔を合わせたところで、夜久の態度はやっぱり変わらなかったし、俺も表面的には取り繕えていたと思う。日本にいた頃より伸びた前髪がセットされたことで、余計に形のいいまるい額に目がいくのはもはや不可抗力だった。触れたくなった衝動は噯にも出さず、差し障りのない挨拶を交わす。
     気軽に会えなくなってしまった鬼先輩は当然話題の中心で、芝山や山本ら現役選手以外にも熱心に話を聞く後輩たちを前にご機嫌な夜久は、俺との会話もそこそこに後輩たちとの会話に戻ってしまった。
     それが淋しくないと言えば嘘になる。だけど、今の俺が夜久を独占できるわけもなくて、夜久とは反対側のこたつに入った俺は、出汁に具沢山の名残を感じる鍋と取り分けられていたパエリアをつつきながら賑やかな向かい側をぼんやり眺めていた。
    「お疲れ」
    「おー、海もな」
    「鍋も上出来だったけど、福永作のパエリアもなかなか美味いよな」
    「えっ、これテイクアウトじゃねえの? すげえ本格的だし美味いけど、手作り?」
     驚く俺に、福永が無言でサムズアップをする。
    「それ、さっき夜久も言ってたよ」
     ビールを注ぎながらふふ、と穏やかに笑う海を見て、張り詰めていた緊張が少しだけ緩む。
    「夜久、元気そうだな」
    「それは俺じゃなくて、本人に言うべきだな」
    「あー…、そうしたいのは山々だけど、パイセン大人気なんでね」
    「そもそも夜久くんは、俺たちには弱ってるとこなんて見せないでしょ」
     ゲーム部屋から居間に戻って早々、こたつに身を沈めながら口を尖らせた研磨は、仕事を終えて駆けつけた俺を労う前に、俺が見ないふりをしている痛いところを的確に突いてくる。
     そう、夜久にはいま、誰か甘える相手ができたのだろうか。どんなときも大胆不敵な夜久にだって、気を張らずに安らげる場所があることは望ましいが、それが俺の隣でないことにはやっぱり耐えられない。だけれど、夜久がそれを望まない以上、俺が無理強いすることはできない。どうしようもないって、わかっているから不毛なんだ。
     夜久を視界の端にとらえながら苦笑するしかない俺に、研磨の眉間の皺が深くなった。
    「俺に言わせれば、クロが何をそんなに遠慮してるのかがわかんない」
     俺だってどうしたらいいかわかってねえよ、と思いながらも口には出さず、薄く笑って見せれば、それでも研磨には伝わっていたようで、苦々しさを隠そうともせず顔を顰められた。
     
     鍋がすっかり空になって持ち寄った酒類もなくなったところで、集まった全員で片付けをしてその日は解散になった。家主はこれからゲームの耐久イベントがあるだとかで、玄関先で別れた。
     結局俺は夜久とまともに話すこともできず、帰り道でも後輩たちに囲まれた夜久を眺めながら最後尾を歩いた。会えなかった分、話したいことは山積みだと思っていたけれど、いざ本人を前にして何からどう話せばいいのか、わからなかった。
    「今度は、俺ら三人水入らずで飲まないか?」
     だというのに、最寄駅のロータリーまで来たところで、夜久と二人呼び止められ、俺が避けようとしていた現実を海に突きつけられた。即答できない俺の葛藤を知る由もない夜久は、躊躇ない笑顔で軽く了承していた。
    「こっちいる間に、日本の美味い飯食っときたいし」
    「大舞台を前にしたアスリートがそんなこと言ってていいんですかあ?」
    「いーんだよ、ちゃんと調整してるからな」
    「よかった。実は、もう三人では集まれないかと思ってたから」
     海は菩薩顔なんて言われるけど、苦楽を共にしてきた分、容赦はない。それこそ愛別離苦とか求不得苦とか、俺が囚われてる煩悩をまるごとまとめて成仏させる気なのかもしれない。
    「あー、海にまでそんな気ぃ遣わせて、悪かったな」
     流石の夜久も、そこまで言われて苦笑していた。海には夜久が出立したあとに俺から顛末を伝えていた。だけどたぶん、夜久からも海には話していたんだろう。
    「二人きりにでもならねえ限り、俺は問題ねえよ」
     黒尾はどうか知らねえけど。そう言って俺がよく知る勝気な瞳に見つめられて、俺の心の裡まで見透かされそうで息が詰まった。
    「俺は、海がいてくれると助かるかな」
    「他力本願かよ」
     不自然にならないように軽口を絞り出して、でも内心はパニックに近かった。
     二人きりで会いたくないって、どういうことだ。
     普通に気まずいだけなら、夜久は隠さずそう言うはずだし、別れてから久しぶりに俺と顔を合わせたというのに微塵も動揺を見せないから、夜久のほうはもう綺麗さっぱり未練なんてなくて、俺のことは過去として精算してるんだと思っていたのに。
     夜久は駆け引きを好まないし、言うことに裏表も少ない。夜久がしたくないと言うことは、本当にしたくないことのはずだった。俺と会うことには問題ないが、二人きりは問題がある。それを俺の願望のままに解釈すればまだ、夜久もまだ俺のこと意識してくれてると思ってもいい、のか。それとも、触れたくない過去として夜久の中では俺との時間はなかったことにしたいのか。
     夜久の答えを喉から手が出るほど確かめたくても、夜久は気まぐれな猫のように懐に入ったかと思うとすぐに俺から離れて、「新しい広告決まったんですよ!」と嬉しそうに報告するリエーフに「何回言うんだよ」と爆笑していた。
     ろくに話もできない中で、いくら俺が考えたって掴みようのない夜久の気持ちはどうあれ、一つだけ確かなのは、夜久の言葉だけで。未だに焦がれてやまない笑顔を目前にして、俺は心臓を掻きむしられる気がした。
     
     

    「えっ!!!!」
    「うるせえ。耳元で大声出すな」
    「だって! えっ、やっくん黒尾と別れたの?!」
     代表メンバーの親睦会も兼ねた梟谷グループの集まりで、久しぶりに会う夜久の隣に陣取った木兎から馬鹿でかい声で爆弾発言が落とされたことで、賑やかだったはずの空間が一瞬静まり返った。
     俺と夜久が付き合っていたことは当時は隠してなかったし、音駒はもちろん大学やプロでも繋がりがあった木兎をはじめ梟谷グループの連中のほとんどが知っていた。
     だから、これまでも気心知れた集まりがあれば、俺たちはほとんど確定事項のように隣同士に配置されてた。そんな夜久と俺が、その日は隣に座らなかったことで違和感を持った奴もいただろう。俺たちの関係の変化を薄々察して触れないようにしていた空気は、無邪気な梟の襲来でものの見事に粉砕された。
     見開いた瞳に純粋な驚きを露わにした木兎を前に、どうしたもんかなと俺が思考を巡らそうとしたところで、わははと豪快な笑い声が響いた。
    「何かと思えば、何年前の話してんだよ」
    「えっ、そんな前?! なんで言ってくれねーの?! ! 知らないの、俺だけ?!」
    「うるせえ木兎。別に騒ぐことじゃねえだろ」
    「木兎さん。今掘り下げるべき話題じゃないです」
    「そーそー、そうやって大騒ぎされるとお店にも迷惑でしょーよ」
     なんでもないように言う夜久と、すかさず木兎を止めに入った赤葦に乗っかって、俺もズキズキ痛む胸を知らないふりをしてなんでもないようにニヤニヤ笑って木兎に声を掛ける。
    「やっくんに振られたから、このところの黒尾、元気なかったのか」
    「さっきから大声で傷に塩塗るのやめてくれます?」
    「いや、振られたの俺だから」
    「えっ!!!!」
    「だからうるせえよ。この話、もー終わりな」
     夜久は笑いながらあっさりと、でも有無を言わさず言い切ったけれど、叫びたいのは俺も同じだった。それは、確かに。俺が別れを切り出したのだけど。
     名前の通り猛禽類のような目玉を見開いて、穴が開くほどまじまじと、夜久と俺を交互に見る木兎はなおも何か言いたげだったが、それ以上その口は開かれなかった。
     そんな俺たちのやりとりを聞いて、一部を除いて凍っていた場に再び活気が戻った。俺に突き刺さる複数の視線が気にならないでもなかったが、なんだかんだで俺は幹事として忙しく、役割に没頭することで気にしないふりをした。夜久と話したがる奴も多くて、結局俺たちが落ち着いて隣に座ることはなかったけれど、それでも雑談に埋もれる形で夜久から俺に話しかけて来たし、俺も憎まれ口を挟みながら努めて「いつも通り」に応えた。いつも、なんて。もうしばらく、画面越しでさえまともに話していなかったのに。
     
     酒が入ると桜色に火照る白い肌。中でも一際目立つ赤く染まる目尻と、その中であまく溶けるような胡桃色は変わらなくて、遠目にも目の毒だった。ハイブランドスーツではなくてカジュアルな私服になったことで、身体つきは余計に露わになっていた。以前よりも筋肉質になったようだったけれど、きっとあの胸板も形のいい尻もハリのある太ももも、触れば滑らかでふかふかとして、いつまでも撫でていたくなるんだろう。上機嫌に踊る高めの声は耳に心地よくて、喧騒の中でも夜久の声だけを拾ってしまう。
     懐かしさに錯覚を感じるくらい夜久は記憶の通りで、朗らかに笑う姿は一瞬流れた気まずさを周囲に忘れさせるものだった。思い出の中の夜久との共通点を見つける度、俺の胸は切なさにキリキリと締め付つけられると同時に、腹の底に気づきたくなかった身に覚えのある熱が巡るのを感じてしまった。それら全部を誤魔化すように、その日は俺も大いに飲んだ。
     
     それなのに、会計を済ませて領収書をもらっている俺に「お疲れ」と声を掛けてきた通りすがりの夜久から俺の知らない香りがしたことで、俺の酔いは一気に覚めた。
    「やっくん、なんか香水つけてんの?」
    「ん? あー、まあな」
    「いつの間にそんな小洒落たことするようになったのよ」
    「いいだろ別に。俺にもいろいろあんだよ」
     何事も白黒つけたがる夜久にしては、煮え切らない曖昧な返事に、咄嗟に俺はヘラヘラ笑って見せた。だけど内心は、夜久の言う「いろいろ」を暴きたくて仕方なかった。その権利は自ら捨てたくせに。
     いつから? ロシアで? 何のために? ロシアでは私服だとやたら子ども料金にされるとボヤいていたから、それで? いや、でも音駒で集まったときは気づかなかった。じゃあ、日本に帰ってから? そもそも、夜久が自分から香水なんてつけるだろうか。つけるかもしれない。でも、もしかしたら――誰かのために?
     そこまで考えて、会計時まで匂いに気づかないくらい、今日も夜久と距離があったことに改めて気づいて、胃を冷たいものがぞわりと撫でるのを感じた。
     夜久がいくら現役アスリートだと言っても、上背のあるこちらのほうが何かと有利だ。自由を奪う方法なんていくらでもある。抵抗できなくしてから問い詰めて、余計なものをすべて剥いで暴いて、剥き出しになった夜久の肌に見知らぬ所有印を見つけでもしたら、自分がどうなるかわからなかった。
     黙り込む俺に不審な顔を隠そうともしない夜久を前にして、瞬時に駆け巡った凶暴な思考に溺れそうになる。酒精が滲んでほんのり上気した頬と、普段の力強さが若干鳴りを潜めた代わりに少しだけ潤んで見える猫目を目の前にして、思わず喉が鳴る。そんな自分をなんとか飲み込んで、にこりと笑みを貼り付けた。夜久に通用するとは思わなかったし、案の定夜久は薄いくちびるを開いて何か言いかけたが、運良くそこに二次会の誘いが来たことで俺は追及を逃れた。
     
     そのあと二次会では敢えて夜久とは別のグループに分かれて、そこでもかなり飲んだ。そんな資格はもうないというのに、暗くて重たい嫉妬がまとわりついて、飲まないとやっていられなかった。何を話したか正直覚えていないけど、俺の明らかなやけ酒に木兎も赤葦も何も言わず、付き合ってくれたんだと思う。
     足下はふらつきながら、それでもなんとか自力で自宅にたどり着いたあとは、何も考えず泥のように眠りたかった。けれど、久しぶりに対面した夜久の精悍さを増しても変わらずどうしようもなく可愛らしい顔も、それに反してちょっとがさつな一挙手一投足も、耳に心地よい闊達な声も、それから俺が知らない香りさえも。
     夜久を構成するすべてが俺を逃してくれなくて、右手を汚しながら、俺はわかっているつもりだった自分の未練を突きつけられて笑うしかなかった。
     

     
     *
     
     夜久は前に進み始めているかもしれないのに、俺だけが過去に取り残されている。そんな感覚への焦燥と、簡単には消えてくれない執着からの逃避先は仕事だった。その意味では幸いなことに、競技普及事業部でやるべきこともやりたいことも山のようにあって、残業も珍しくなかった。
    「また拾った――! これぞ日本の守護神! 夜久衛輔!!」
     だけど、俺の仕事はバレーボールで、そしてバレーボールにかかわる限り、個人的なことを抜きにしても夜久のことを意識しないわけにはいかなかった。
     特に東京五輪期間は、職場でも天照ジャパンの活躍を見ないことはそもそも選択肢になかったし、一度試合を見てしまえばバレーをしている夜久から目を逸らすなんて、それこそ中学1年生の頃から俺にはできないことだった。
     仕事柄テレビ中継どころか試合会場に直接出向くこともしばしばあった。そんなときは、画面越しではなくコートに立つ夜久の一挙手一投足を追ってしまうことを自覚しながら、やめられなかった。
     夜久に背中を預けた高校時代と比べて、格段に精度の上がったレシーブ技術は世界相手にも遜色なく、夜久が拾うたび誇らしさで胸がいっぱいになる。同時に、コートと観客席を分けるたった数メートルが、越え難い溝のように思えて歯痒かった。
     
     

     夜久が帰国するたび、研磨の家に集まることが恒例になり、よく食う男どもが集まって腹を満たすために持ち寄りしやすい鍋が定番化していた。ただでさえ普段から居座る奴が多くて、ひとの家をたまり場にしないで欲しいとボヤいていた研磨も、夜久が来るときは心なしか嬉しそうだった。
     夜久はオフシーズンでもプライベートで帰ってくることはなかったけれど、代表選手として世界選手権や選考会に出場するため滞在期間は比較的長く、音駒会だけでなく海との同期会も誘えばいつかの宣言通り二つ返事で来てくれた。帰国頻度は年に一回あればいいほうだったけれど、それでもこれまでまったく帰ってこなかったことを考えれば、夜久に会う機会は増えた。
     代表選手として仕事で会う夜久は、嫌味なくらい完璧に、ジェームズ・ボンド御用達の高級スーツを着こなしてサングラスまで隙がなく、近寄り難ささえ醸し出していたけれど、海を交えて三人で話すときの私服の夜久は俺のよく知る夜久だった。馬鹿なことを言い合って笑うかつてのチームメイトの距離感は、純粋に懐かしさだけを感じられない俺を苛んだけれど、夜久とまた笑いながら会えるのが嬉しかったのも嘘じゃなかった。
     
     ただし、これもまた最初の宣言通り、夜久は決して俺と二人きりになろうとはしなかった。
     たとえば同期会で海が手洗いに立てば、自然に夜久も電話や手洗いなど思いついたように席を立つくらい徹底していて、俺は一人残されることも多くなった。
     一人残されてしまえば、俺を捕えるのは会うたび変わっている夜久の香水だった。スーツ姿ならまだしも、見知った夜久がまとう、俺が知らない強烈な違和感。一度意識してしまえば、どうしても意識はそこから逃れられなくて、姿はなくともさっきまでそこにいた面影を辿ってしまう。
    「やっくん、また香水変えた?」
     海よりも少しだけ早く戻ってきた夜久におもむろに聞けば、アーモンド型の瞳がまるく開かれた。
    「……変えたけど、よく気づいたな」
     驚いたその顔が少し嬉しそうで、香水にまつわる話を聞いてもらいたそうにくちびるがほころぶのを見たくなくて、俺は話題をすり替えた。知りたくてたまらない一方で、夜久からいまのパートナーの話を聞くだけの余裕は俺にはまだなかった。この先一生、そんな日が来るとも思えなかったけれど。
    「こっち帰ってくるたび変えてるみたいだし、〝東京オリンピックでも大活躍! 日本の守護神・夜久選手の愛用品〟ってコピーでPRにできそう」
    「なんだそれ、俺を勝手に使うな。つーか、少しは仕事から離れろよ」
    「ワーカーホリックなもんで、すいませんね」
     おかげさまで。なんて余計な一言は口に出さず、ニヤニヤと笑ってやれば、切り替えすんのも立派な仕事だろ、と呆れたように言われた。
    「何の話?」
    「黒尾がまた仕事の話してる」
     間もなく戻ってきた海が、穏やかに会話に加われば、うんざりしたように夜久が答えた。
    「黒尾は好きなものに一途だからなあ」
    「ほんと、バレー馬鹿」
    「現役プロに言われたくないんですけどォ」
    「俺はちゃんとオンオフ切り替えてるし」
     お前とは違う、と舌を出す仕草はアラサー男がやるには幼過ぎるはずなのに、夜久には似合い過ぎて困る。子ども料金にされるの、そういうところだぞ、と思うけれど、夜久が子ども染みた振る舞いをするのは俺たちの前だけだとも知っていた。もっと言うなら、その舌の熱さも甘さも、やわらかさだって。ともすれば凝視しそうになる視線を無理やり逸らしたところで、そろそろお開きにしようか、と海が楽しい時間の終わりを告げた。
     
     そうして、海が帰ればその日は解散になるのも当然の流れとして、俺たちの暗黙の了解になっていた。
     
    「もーちょっと話したいことあるんだけど、夜久選手の都合がつくならこのあと少し付き合ってくれません?」
     最初の同期会で、海が帰った後に夜久の真意を探るべく、下心というよりはなけなしの勇気を振り絞って、でも表面上は軽薄に誘ってみた。結果は見事に撃沈。
     それでも諦めきれなくて、2回目となる本日もお誘いをかけてみる。下心がないといえば嘘になるが、話したいことがあるのは本当だった。来年、計画しているスペシャルマッチ。まだ正式なゴーサインは出ていない企画だったけれど、正式な出場交渉の前に選手である夜久の感想を知りたかった。
     夜久からすれば懲りない俺からの誘いに、夜久は少しだけ目を瞠って射抜くみたいに俺の目をじっと見つめてきた。じっくり観察することを隠さない視線に、夜久の大きな瞳も相まって飲まれそうになる。俺の真意を探る夜久の瞳から目を逸らしたら負けの気がして、しばし見つめ合った。時間にしたらほんの数秒だけど、別れて以来そんなに直接夜久と対峙することなんてなかったから、俺の心臓は早鐘のようにうるさかった。
    「仕事の話なら営業時間内に言え」
    「あー、仕事の話、でもあるけど、俺が個人的に夜久と話したい、こともあるというか」
    「言いたいことがあるなら、ここで言えよ」
    「いや、機密情報もあるからここだとちょっと」
     個人的な話にすると部が悪い気がして、あくまで仕事の話として二次会を提案した。機密対策なら個室か部屋飲みになるのは、もちろん盛り込み済みだった。
    「お前と二人では、飲まねえって言っただろ」
     だけど俺の緊張を断ち切るように、俺から目を逸らさないまま夜久は平坦な声で言い放った。夜久は相変わらず嘘を吐かないし、有言実行を貫く男で、俺の二回目の勇気もイカロスのごとく儚く散った。
     

     
     夜久が帰国するようになって、元チームメイト兼現仕事仲間として、第三者を交えてなら飲みに行くような関係に戻ってからも、通話はもちろん夜久と個人的な連絡は取っていなかった。
     俺から連絡できなかっただけでなく、夜久からも連絡はなかった。これは俺の自意識過剰というよりは、仕事では社用メールを使っていたことや、競技普及事業部の一職員と選手が直接電話でやり取りするようなことはほとんどなかったからだ。
     ――のは、通常業務での話で。俺は自ら企画・立案したスペシャルマッチ実現のため、岐路に立たされていた。
     一応メールでも概要は送ってあるし、そもそもこれは本当に仕事の話だし、俺から電話をしても不自然じゃない。そう自分に言い聞かせて何度も時差を確認してから、着信拒否されていたら心が折れると最悪の状況が頭を過ぎったけれど、覚悟を決めて未だにショートカット登録してある番号を呼び出した。
    『なんだよ』
     数コールで出た夜久は、構えた俺が馬鹿みたいに思えるくらい記憶と違わず問答無用で、少しだけ安心した。「もしもし」でも誰何でもなく、何の用だと開口一番聞くのが夜久らしい。それに、俺の番号をまだちゃんと登録してくれているとわかったことは、俺を勇気付けた。
    「あ、夜久選手? いま大丈夫?」
    『おう』
    「あのさ、この前話したかったことなんだけど、来年の8月のご予定いかがですか」
     電話越しだとぶっきらぼうにも聞こえる夜久の声を、鼓膜が喜んで拾うのを実感しながら、スペシャルマッチの概要を説明した。バレーが好きな人にはもちろん、興味がない人にも、バレーボールの面白さを知ってもらうために考え抜いた企画だから、自然と熱も入った。
    『いいね、面白そうじゃん』
     時折口を挟みながら俺の説明を一通り聞いた後、夜久の声も弾んでいたことに気をよくして、話を進める。
    「で、その出演交渉するために、世界で活躍してるモンジェネ中心に選手を集めてるわけ」
    『ドラゴンボールかよ』
    「全部集めたら夢が叶うってね。そんなわけで、その件で夜久選手のところにもご挨拶に伺いたいんだけど、この辺で空いてる日程あったら教えてもらえません?」
     軽口を叩き合いながら今回の本命を挿し込んだところで、それまでコロコロと笑いながら応じていた夜久の声がぴたりと止まった。
    『……』
    「夜久さん? 聞いてる?」
    『聞いてる。来なくていい。大会の主旨はわかったし、出てやるよ。手続きはメールでくれればサインでもなんでもするし』
    「あー……いや、でも」
    『俺は了承したんだから、貴重な経費と時間無駄にしてないで直接交渉必要なやつに使えよ』
     競技普及事業部のいろんな意味でのリソースの少なさは、就職したての頃にもついこの間の同期会でも話していたから、それを受けての夜久の正論は有無を言わせない響きがあった。だけど、それも想定内。
    「俺が、夜久に会いたいんだよ」
     弟が二人もいるからか、学生の頃から何かと面倒見が良かった夜久は、平生の向かう所敵なしという威勢のよさと反対に、真正面から頼られることにはどうにも弱い。甘えられると満更でもない顔をして、仕方ねえなと言うのが常だった。だから、敢えてそんな夜久の弱みにつけ込んで、素直にお願いしてみる作戦は有効なはず。
     他人を言いくるめてその気にさせるのは得意だ。だからこそ、今回の発案者でモンジェネと同世代であるってだけで、まだまだ下っ端の俺が出場交渉まで一手に任されているわけで。大義名分を得た俺は、夜久と再会してから諦めるどころか膨らむ一方の未練と向き合う絶好の機会に、形振り構っていられなかった。
    「なあ、夜久。お前と話したい」
    『……そんなの、お前の都合じゃねえか』
     案の定、公私混同してんじゃねえよ、という夜久の声は呆れてはいたがやわらかで、つけ入る隙が晒された。このまま頼み込めば了承してもらえるのではないかと期待して、思わず喉が鳴る。
    『でも、無理なもんは無理だ』
     けれどあともう一押し、と思ったところで、俺が口を開く前に俺の願望はどシャットされた。なおも諦め悪く言い募ろうとしたところで、「悪い、監督に呼ばれてる」と言い残して通話は一方的に切られた。
     
     

     *
     
     世界中を飛び回った交渉の甲斐あって、当初の予定通りに選手の招集は成功した。個性の塊のように癖の強いモンジェネが一堂に会したことで、ロッカールームでは高校の部室みたいな大人気ない言い争いや、ツッコミ不在で試合前とは思えない自由気ままな空気が局所的に生まれたようだが、それはもう、自分たちでどうにかして欲しい。大人なので。
     当日まで、主催者として関係各所との連携を図って忙しく、わかってはいたけれど夜久と話すどころではなかった。ロゴや記念ユニフォームのデザイン発注から招待客リストの作成と発送まで、やるべきことは山積みで、そのすべてがネットを下げることに直結していると思うと手は抜けなかった。
     
     開催までわずかとなって選手が現地入りしてからも、俺は相変わらず走り回っていた。そんな中、同じくチームBのヨッフェ選手と談笑する夜久を何度も見かけた。夜久は、後輩の山本をはじめ、木兎や日向など懐かしいメンツに囲まれていたり、牛島やトレーナーの岩泉と何やら語り合っている姿を見ることも多かったが、スペシャルチーム内でロシア語がわかるのは夜久だけだったこともあって、期間中はヨッフェと二人で並ぶ姿をよく見た。2メートルを超える身長と並べば俺だって小さく見えるところ、170センチに満たない夜久が並んでいることで客観的にもやたら目立っていたから、余計に印象に残ったのかもしれない。
     50センチを超える身長差から、二人で会話するときはヨッフェが屈み込むことが多く(夜久曰く、ロシアでいい加減慣れたそうで、もはや怒る気にもならないらしい)、そうすると自然と二人の顔が近くなった。いつまで経っても諦め切れない想い人が誰かとそんな状態でいるのを見るのは、そうでないとわかっていても気分の良いものではなかった。そんな二人を見かけるたび、とはいかなかったけれど、時間の許す限りは夜久を呼んだりヨッフェに話しかけたり、俺の存在をアピールするようにした。その度夜久にはこんなところで油売ってんじゃねえよ、と呆れ顔の半眼で見られたが、繰り返しているうちにヨッフェから声をかけてくれるようになった。
     そうやってふとした瞬間に近づいた夜久の身につける香りがまた前回と変わっていることに気づいて、毎回その違いを律儀に嗅ぎ分けてしまう自分にも呆れた。
     
     
     イベント自体は大盛況に終わり、会場に来てくれた観客の満足そうな表情に加えて、文句を言わせないだけの数字もしっかり稼げた。個人的にも、俺に「できるヨロコビ」を教えてくれた猫又先生をはじめ、懐かしい面々にも会うことができて満足いく出来だったと思う。
     何より、コート内を縦横無尽に飛び回って相手と競うことを楽しむ選手たちの姿を見て、企画した俺自身が楽しかった。モンジェネの繰り出す奇想天外なようでいて、その実これまでの着実な積み重ねの結果生まれる奇跡をいくつも目の前にして、現役時代に見えた頂の景色が頭にちらつき、身体が疼いた。試合が終わった瞬間に、もうこんなにもバレーボールがやりたい。そう思えたんだから、目的は達成したと言っていい。
     この規模のイベントを任された貴重な経験に対して、具体的な反省は必要としても、ひとまず大成功だったと胸を張れるし、実際上司をはじめ同僚たちにも遠慮ないお褒めの言葉を与った。
     
    「ナイスゲーム、ありがとうございました」
    「あっ黒尾さん! お疲れさまです!!」
    「なあなあなあなあ、次っていつ?」
    「負けっぱなしは性に合わないです」
    「次も万全を期す」
    「おやおや? 負け犬の遠吠えが聞こえるなあ?」
    「何回やっても結果はおんなじやろ」
    「試合は終わったばっかりやっちゅうのに煽りよる」
    「ぜっったいリベンジしてやるからな!」
     ロッカールームに向かえば、先ほどまでの試合の興奮覚めやらぬ選手たちに揉みくちゃにされた。異口同音に疲れを知らない「もう一回」を聞いて、本当にお前らはバレーボールが好きだなと、笑ってしまう。着替え終えて早々に試合展開の確認をするもの、丁寧にクールダウンをするもの、上がったテンションのまま動き回るもの、それぞれが思い思いに楽しげに過ごしているのを眺めて、大役を成し遂げた実感がようやく湧いて来る。
     
    「黒尾」
     各選手に手短に労いと礼を伝え終え、ロッカールームを後にしたところで、そう大きくないのに聞き逃しようのない声に後ろから呼び留められた。
    「夜久、選手。どうした?」
     いつも通り夜久と呼ぼうとして、慌てて仕事モードに切り替える。ロッカールームに続く体育館の廊下は関係者以外立ち入り禁止なこともあって、ひっそりとしていたが、公の場だ。元チームメイトなのだし、呼び方一つで今更俺たちの関係をどうこう言われるとも思わなかったが、その一方でこんなところで不用意に夜久の立場を危うくして、数年前の俺の決意が台無しになるのはごめんだった。
     俺を追ってきたらしい夜久はまだユニフォームのままで、汗を拭いた名残なのか、長くなった髪は見た目のやわらかさの通り乱れていた。前髪が額にかかったことで、ただでさえ童顔なのに幼い印象をより強くして、アラサーにはとても見えない。そして、そんな夜久から制汗剤の匂いしかしないことにホッとしている俺がいた。
     夜久は俺の前まで来ると、友人以上には見えない距離から真っ直ぐに俺を見上げた。相変わらず眼力の強い胡桃色には試合後の興奮は凪いで、代わりに静かな湖面を思わせた。思考を読み取らせないその瞳から目を離せずにいると、おもむろに夜久が口を開いた。
    「今回の企画、俺も楽しかった」
    「へ?」
    「お前が一番、楽しそうな顔してたけどな」
     先ほどまでの静けさが嘘のように、ニカッと太陽みたいな笑顔は言葉通り楽しげで、呆気に取られた俺を「いまは変な顔してる」とおかしそうに笑い飛ばした。
    「いや、だって、やっくんが急にデレるから」
    「はあ? 率直な感想言ってるだけだろうが。お前、気づいてないかもしれないけど、試合中からずっと今すぐコートに入りたいって顔、してるぞ」
    「そりゃあ、あんないい試合見せてもらったらね」
    「本当に、お前はバレーボールが好きだよな」
     上機嫌に話していた夜久が眩しそうに目を細めた。夜久に手放しで賞賛された喜びとともに、夜久が思いの外俺のことを見ていたことへの驚きが綯い交ぜになって、いつものような軽口が出てこなかった。だってそんな、思わないだろ。お祭りとはいえ真剣勝負を前にした夜久が、俺がどんな顔してるか見てた、なんて。
    「今日参加してみて、お前が言ってるネットを下げるって意味が、少しわかった気がする」
    「今までわかってなかったのかよ」
    「言葉通りにしかな。お前はもっと具体的に言え」
    「善処します」
    「やる気ねえやつじゃん」
     目の前で屈託なく笑う夜久を抱きしめても、いまなら許される気がした。それくらい俺たちの間に流れる空気はかつて苦楽をともにしたチームメイトのもので、色っぽさなんて微塵もなかった。それがほんの少し嬉しく、圧倒的に淋しいなんて、それこそ大笑いされそうなやわなハートを夜久に悟られないように俺も笑った。
     
    「黒尾」
    「なによ、改まって」
     一頻り話した後で、こちらを見る夜久からは笑みは消えて、瞳は再び静かに俺を捕らえた。
    「来シーズンから、ポーランド行く」
    「え?」
    「牛島と同じチーム」
    「……は?」
    「お前には、先に伝えとこうと思って」
     じゃあ、お疲れ。言いたいことだけ言って去ろうとする夜久に、思考が飛んだ俺は何も言えなかった。言えなかったけれど、このまま夜久を逃してはいけないと叫ぶ本能のまま、さっきまでのお行儀のよさをかなぐり捨てて、気づけば夜久の腕を掴んでいた。
    「痛えんだけど」
    「ごめん」
    「放せよ」
    「それは無理」
    「無理ってなんだ」
    「喋れるようになるまで、もう少しこのままで、待って」
    「なんだそれ」
     口では文句を言いながら、それでも夜久は抵抗をやめて立ち止まってくれた。それを目の端に留めてなお、掴んだ腕は離せなかった。夜久のほうは見られずに、視線が無遠慮に突き刺さるのを感じながら掴んだ指先を見つめた俺は、先ほど夜久が告げたことを整理しようと思考をフル回転させた。
     来シーズンからポーランド、牛島と同じチーム。日本代表が海外チームに揃うなんて情報は、JVAにとっても結構な話題になりそうなものなのに、スペシャルマッチにかかりきりで見逃した? 選りに選って夜久のことを、俺が? いや、でも夜久の言い方からするとまだ他には言ってない、のか。だとしたら、なんで俺に――。
     とにかく、夜久は来年も日本には帰って来ない。でも、ロシアからは移る。
    「来シーズンって、10月から? 随分急じゃない?」
    「オファーは前々から来てたんだよ」
     それに、いまのロシアはバレーに集中しにくくなったし。確かにコートの中では人は滅多に死なないが、コートの外でもそうだからこそスポーツは楽しめるはずで、いまのロシアではそれどころではないというのはニュースで俺も知っていた。それにしても、夜久はあっさりしたものだけど、言ってるのは世界三大リーグのうち二つを股にかけるってことで、それは牛島の件をおいても充分に大したことだった。
    「世界ランキング3位から2位に移籍ってことだよな」
    「そうなるな」
    「さすが世界の夜久衛輔選手は、やることがいちいちカッコイイね」
    「おう。来年は世界制覇狙えるな」
    「またそんな、ちょっとコンビニ寄って来る、みたいに言う」
     聞いてるだけで安心できる自信満々の声につられて夜久のほうに顔を向けると、そこには思いの外真面目な顔があった。真剣で、どこか苦しそうな。そう、まるで夜久と別れてからの、俺、みたいな。
     そんな顔をされたら、期待してしまう。夜久の気持ちも、まだ俺にあるんじゃないかって。
    「……なんで俺に教えたの」
    「お前は知りたいだろうと思ったから。違ったか?」
    「違わない。教えてくれてありがとう」
    「ならいいだろ。どういたしまして。話は終わり」
     夜久の瞳の中に映る俺をとらえたまま問えば、目を逸らさず夜久は答え、俺が掴んだ腕を振り払った。それには抵抗せず手を放すと、夜久は踵を返してロッカールームに戻ろうとした。
    「衛輔」
     すかさず、恋人だった頃にだけ許されていた名前で呼ぶと、夜久の足が止まった。
    「今日は香水、つけてないんだな」
    「……お前は犬か」
    「俺がこんなにも気になるのは、お前のことだけだよ」
     今も昔も、呼吸が苦しくなるほど俺の心を満たすのも締めつけるのも、どんなに周到に用意しても思い通りになってくれないのも、そしてそのことに一喜一憂してしまうのも、夜久だからだ。わかるだろう、と懇願するように言えば、夜久が振り返った。
    「そんなに、気になるのかよ」
     だけどその顔を見て、俺は息を飲んだ。
     こちらを向いた夜久は、嫣然と笑っていた。額に落ちた前髪をかき上げながら、こちらを品定めする猫目には勝負事を楽しむように好戦的な光が宿る。試合前と、それからベッドの上で、よく見た表情。上くちびるを舐める舌がちらりと覗いて、正しく煽られた俺は、知らず生唾を飲み込んだ。
    「……当たり前だろ」
    「ふーん」
    「なあ、夜久、」
    「俺は、ここで話す気はないからな」
     俺を遮った決然とした夜久の言葉に、ここが関係者が通る場所だと思い出す。咄嗟に周囲を窺ったけれど、幸いなことに人の気配はなかった。そんな慌てる俺の様子を見て、なぜだか機嫌を良くした夜久は、じゃあな、と今度こそ行ってしまった。
     ここでは話せない、と言ったのは場所を変えれば話す気はあるということだろうが、その一方で二人きりで会うのは駄目だと言う。ならば俺は、どうしたらいい。
     
     置いてけぼりを食って我に帰った俺は、放心したまま後片付けに戻った。
     その後一縷の望みを賭けて打ち上げに参加したけれど、一夜限りのチームメイトに囲まれた夜久は、試合後に見せた笑みなんてなかったかのように快活に笑っていた。本気で逃げると決めた夜久に付け入る隙なんてなくて、俺が手をこまねいている間にさっさとロシアに帰ってしまった。移籍のことを聞いていたから引き留めるわけにもいかず、俺はお預けされた犬の気持ちを存分に味わうことになった。
     
     

    「それで、何で俺のとこに来るの」
     夜久くんと話しなよ。口にする言葉と同様、研磨の声は効きすぎたクーラーみたいに冷え冷えと素っ気ない。相変わらずゲーム画面から目を離さず、だけど貢ぎ物のアップルパイはお気に召したみたいで、切り分けた一片はきれいになくなっていた。
    「普段かけ引きしない夜久が、参謀に選ぶならお前かなと思って」
    「参謀って言えば、いつでも喜ぶなんて思わないでよね」
     画面を注視する眉間にわずかに皺が寄る。俺に誘われただけだと研磨は認めたがらないけれど、きっかけはどうあれ結局小学校から高校まで続けたんだから、研磨だってバレーボールは嫌いじゃないはずだし、音駒に入ってからは口喧しいが面倒見がいい夜久には随分構われて懐いていたし、そもそも本当に嫌なものを前にしたときの研磨の渋面はこんなもんじゃない。それを知ってるから、俺も遠慮なく続けた。
    「でもそうなんだろ」
    「何のこと」
    「香水」
    「……気づいたんだ」
    「流石にな。あの夜久が、毎回ご丁寧に俺に会うたび違うやつつけてたら、なんかあるって思うだろ」
     夜久が初めて帰国した年、異変に気づいたのは代表メンバーもいた親睦会。その次が翌年の音駒同期会。そしてさらに翌年のスペシャルマッチと、帰国するたび律儀に変わって〝夜久と親密な誰か〟の存在を主張していた香りに動転していたけれど、嫉妬の膜を破って見れば、残るのは違和感だった。
     夜久はバレーボールに関しては几帳面だし、流行りものはとりあえず試してみるみたいなミーハーなところもあるけど、少なくとも高校生から社会人まで隣にいた俺が知ってる夜久は、その日の気分によって香水を付け替えるなんてスマートさとは無縁だった。まして、いつでも自信満々で自立した夜久が、パートナーに合わせて付け替えるなんて冷静に考えたらあり得ないことだった。
    「その割に、結論出るまでずいぶん時間かかったね」
    「俺以外のやつと付き合ってる夜久を考えたくなかったんだよ。言霊にしたくねえし」
    「逃避じゃん」
    「切りかかってくるねえ」
     画面を後ろから覗き込めば、俺と会話しながらも研磨は器用に敵を倒していた。今日のゲームはFPSらしい。バレーのプレイスタイルと同じく、極上のモーションなのに何やら難しいことを難なく効率的に進めていく画面は、なるほど人気になるのもわかる気がした。
    「出どころは、リエーフ辺りか」
    「そうだね」
    「広告してたもんな」
    「シリーズ展開してる撮影のときにもらったやつだって」
     案外すんなり答え合わせができたところで、すっきりするどころかリエーフがモデルをした商品を夜久が使っていたことにさえ、腹がざわつく自分に苦笑してしまう。そんな俺に気づいた研磨がようやくこちらを向いた。
    「なんであんなことしたんだよ」
    「俺は、夜久くんにクロなら夜久くんのどんな変化もたぶん気にすると思う、って言っただけだし」
     事実でしょ。言葉を切ったところで、人の心を見透かすようにこちらをじっと見つめる研磨の瞳は雄弁だった。そして情けないことに、現にその通り夜久の言動どころか香りにまで振り回されている俺は言い返せない。
    「何度も言ってるけど。知りたいなら、俺じゃなくて夜久くんに聞きなよ」
    「……聞こうとしてるけど、向こうが避けてるんだよ」
    「まあ、それはそうだろうね。夜久くん怒ってたから」
    「は?」
     そんなの、初耳だった。再会してからの夜久はスペシャルマッチ後の一瞬以外は基本的に穏やかで、決して友人の枠を超えて来ようとしなかった。未練の沼に足を取られて、足掻けば足掻くほど深く沈んでいく俺を岸の上からただ眺めているように、夜久からは俺に対して執着も怒りも、露ほども向けてこないことが歯痒かったくらいなのに。
    「いつから」
    「知らない。俺が会いに行ったときにはそうだった」
     夜久が、怒っている。俺に。
     ロシアに行ったきり帰ってこない夜久に研磨が会いに行ったのは、確か、俺たちが別れて一年くらい経った頃だったはず。その頃の俺は、夜久に連絡もできず、夜久からも来ない連絡を待つことを諦めることに必死だった。
     その後代表として帰ってきた夜久は、出立前と同じように俺のことなんて眼中になさそうに見えたのに。
     思えば、少しずつ感じていた違和感がパチリパチリとはまっていくように、俺が焦がれていた時間、夜久も俺のことを考えるのを止めなかったらしいことに思い至って、やっと深い呼吸ができる気がした。俺が自分の恋心に雁字搦めにされている間に、夜久から先に仕掛けられていたらしい。
    「ちょっと、嬉しそうな顔するのやめて」
     夜久が怒っているなら、もちろん喜んでばかりもいられない。けれど、限りなくゼロだと思って持て余していた気持ちは、ようやく見えた出口に高揚して抑えられず、口の端が上がった。
    「少なくとも、夜久がまだ俺を意識してくれてるんなら、俺はまだ勝負できるってことだろ」
    「だからそれは、俺じゃなくて夜久くんに言いなよ」
     うんざりしたように眉間の皺をまた一筋増やした研磨に礼を言ってから、俺はその足で百貨店に向かった。
     
     9月になって夜久のポーランド移籍の話が公になると、「夜久選手電撃移籍」だとか「日本の主砲と守護神が揃い踏み」だとか決して大袈裟ではない見出しが職場で話題にならないわけがなく、元チームメイトとしての夜久のことを聞かれることも増えた。それらを当たり障りなくこなしながら、夜久が俺にだけ先に話した意味と、明らかに俺を煽っていた笑み、それから研磨が言っていた夜久の怒りについて、考えずにはいられなかった。
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