境界線 二年前、私が大学二年の初夏のことだった。
その日はとあるインカレバンドサークルのライブがあった。夕方から夜にかけて複数バンドが出演する予定で、私もさめこと揃って観客として遊びに行った。開場直後に中に入ると、ジョーさんが設営の手伝いなんかをしているのが見えて、いつも通りのある日だった。
SNSに上がっている今日のタイムテーブルを見ながら、さめこと楽しみだね、なんて言い合ってる時だった。ステージの裏がざわつき始めたのが分かった。ジョーさんが様子を見に行ったのが見えた。戻って聞いた彼に、さめこが物怖じせずに問いかける。
「どうかしたのかー?」
「一組飛んじゃったみたい」
ジョーさんはそう言って肩をすくめてから、他の運営スタッフに伝えるためだろう、今度は受付の方に向かった。
「埋まんないならあたし出ようかなあ」
「ソロじゃきついんじゃない? 今日はバンドのライブでしょ」
なんて、さめこに相槌を打ちながら、私は別のことが気になっていた。入口近くの壁際で、ベースケースを抱えて座り込んでる男の子に気付いたから。
ステージ上で何度か見たことがある子だったから、知らない顔ではなかった。ベーシストで、多分高校生ぐらい。同い年ぐらいの子たちとバンドを組んでいて、その中んで抜きんでた実力を持っていた。めきめき上達していくのも見て取れて、すごいな、と思う反面、大丈夫かな、と他人事ながら思っていた。
そんな彼が、でもいつもよりもずっと暗い表情で、ベースを抱えたままぼんやりステージを眺めていた。
「ごめん、ちょっと待ってて」
さめこにそう伝えてから、その子のところに行った。普段ならそこまでしないけど、あんまりにも暗い顔だったから。
てくてく近づいていくうちに、ぼんやりとステージを見ていた彼の目線がこちらに向いた。
「……なにか?」
不思議そうにこちらを見られて、正直怯む。でも、彼を放っておくの忍びなかった。
「ごめんなさい、いきなり話しかけちゃって」
言って、一度口を噤む。慣れていないことは、どうしたって緊張する。
「……今日は、どうしたの?」
なんて言うか迷って、何度か口を噤んで。結局、そんなふんわりした問いかけになってしまった。
「急に暇になっちゃったので。なんかやってるみたいだったから、見に来ただけです」
「そ、っか」
すげない返事。それでも、返してはくれる。相変わらず表情は暗い。
「……普段、一緒に居る子たちは?」
思い切って聞いてみた。傷つけてしまうかも、と怖かったけれど、それでもきっとそれが原因だと、なんとなく分かっていたから。
少しの沈黙。それから。
「解散、しちゃって」
「……そう、だったんだ」
内容に反して、声色は軽かった。無理やりそう言って、自分を誤魔化そうとしてるみたいだった。そうして、それから彼はまるで堰を切ったみたいに話し始めた。
「みんなに、謝られたんです。僕と一緒にはできないって」
「なんで、なんかあったなら直すからって言ったら、そうじゃないって」
「僕が上手すぎるんだって。だから、一緒にやるのが辛いって。そう、謝られて」
そこまで言って、彼は一度言葉を止めた。空っぽだった表情に、色が浮かぶ。やるせない、と言っているようだった。
「……僕は、どうすればよかったんだろうなあ」
とは言え、話を聞いたからと言って何かができるわけでもない。当たり障りのない相槌を打つので精いっぱいだった。どうしよう、と言葉に詰まった時。
「なら、あたしらと組むのはどうだ?」
ちょうど一組空いたらしいし、なんて。いつも通りの、からりとした調子でさめこが言った。いつの間にかついてきていたらしい。私はもちろん、その子だって驚いていた。心底驚いた様子で「えっ?」と聞き返す彼を気にせず、さめこは続ける。
「ちょうどメンバーも揃ってるぞー? まずあたしがギターとボーカルやるだろ? つむよがキーボードやるだろ? で、おまえベースだもんな?」
「そ、うですけど」
「よし。じゃあ、あと……」
言いつつさめこがぐるりと辺りを見渡す。その視線は、ちょうどすぐそば、受付から戻ってきたばかりのジョーさんで止まった。
「ドラムなら、このおっさんが叩けるし」
「えっなに? 何の話?」
いきなり三人分の視線を向けられた彼は怪訝そうな顔でこちらを見返した。
「さめこ、空いた枠に飛び入りで入りたいらしくて」
説明するように言葉を添えれば、相変わらずよくわかっていない様子で「まあ、入ってくれるなら助かるけど」とジョーさんが応える。そんな中、さめこが続ける。
「あたしがギターとボーカルで、つむよがキーボードで、こいつがベースで、おっさんがドラムな」
「えっ俺ェ!? 俺も出んの!?」
「っていうか、僕も出るなんて言ってないんですけど」
さめこだけなら押し負けるな、と思った。ちら、とステージの方を見る。多分、まだ揉めてる。続いて、受付を見る。ジョーさんのご両親が困った顔で何かを相談していた。多分、空いた枠をどう埋めるか。
「でも、とりあえずジョーさん含めて私たちが出れば枠は埋まりますよね?」
少しだけ、普段よりもはっきりと発声して問いかける。受付の方から視線が向くのが分かった。
「まだ枠埋まってないんだろー? このままじゃ開演時間来ちまうぞ」
もともと、さめこの声は通る。その上、さめこはここの運営スタッフの皆と仲が良くて好かれている。だから、視線さえ集めてしまえば、たぶんうまくいく。
「そしたら、皆さんで出ればいいじゃないですか。ギタボとキーボードとドラムだったら、十分形になるでしょ」
言って、その子が視線を逸らす。ぎゅうと、抱えていたままのベースを握る手に力が籠ったのが見えた。
「んー、それもそうなんだけど」
さめこが、その様子に気づいてか、気づいていないのか。物怖じせずに、目線を逸らしたその子をまっすぐに見て言った。
「でも、あたしはお前がいい」
男の子の視線がゆるりと上がる。その目に、少しだけ、悲しみとは違う色が見えた気がした。
「……なんで?」
「なんでも!」
にっと、口角をあげて笑いながらさめこが応える。その子は虚を突かれたような様子だった。多分、もう一押し。
思い切って、口を開く。やっぱり、慣れないことをするのは緊張する、けど。できるだけなんでもないように見えるように、意識して、表情を作って。
「今日、まだベース弾けてないんでしょ?」
「その通り、ですけど」
「弾いてあげたら?」
ゆるりと、視線が彼の抱えるベースケースに向く。その中にある楽器は、きっとすごく大事にされている。
「……じゃあ、とりあえず、今日のは、出ます」
相変わらず表情は明るくはない、けれど。それでも彼は頷いた。
「えっ待って、出るの? 決まっちゃう感じ?」
一人、ジョーさんだけが混乱したままだった。けれど、すぐにジョーさんの背中側から声がかかる。ジョーさんのお母さんだった。
「サメちゃん、もしかして穴埋めてくれるの?」
「ああ! 今メンバー決まったんだ、あたしと、つむよと、こいつとおっさん!」
「えっ、ちょっと」
「助かるわー! 待っててね、お知らせ出してくるから」
「えっ」
彼女はそのまま去って行った。入れ替わるように、ステージの奥から複数人がこちらに近づいてくる。多分、元々やる予定だったサークルの人たち。
「あの、代打やってくれるってマジですか!?」
「おう! マジだぞ!」
間髪入れずに答えたさめこを見て、彼らは表情を輝かせた。
「ほんとに助かります! 今日初心者ばっかりで、練習してない曲とか弾けなくて困ってたんです」
「ふふん、任せとけ。しっかり盛り上げてやるから」
「ありがとうございます、よろしくお願いします!」
そう言って、彼らはまたすぐにステージ裏に戻って行った。残されたのは、やる気満々のさめこと、乗り気な私と、「やる」と言ってくれた彼と、ジョーさんだけ。
「えー……っと、じゃあ、とりあえず裏行って打ち合わせ、しよっか……」
そうして、ジョーさんは流されてくれた。
打ち合わせに時間はかけられなかったけれど、おろそかにもできなかった。開演までもう10分を切っていて、リハはできない。だから、その分打ち合わせで調整するしかなかった。
「曲はどうすんのよ。全員が分かる曲ある?」
「ザ・ウィンドフォールズは? おっさん好きだしいけるだろ?」
「そりゃ、俺は叩けるけど」
「私とさめこも前にやったことがあるんです。君も、前にステージで弾いてたよね?」
「有名な曲だけですけど」
「今日の分だけならそれで充分だろ!」
言い合って、お互いの演奏できる曲を摺合せていく。幸い、枠を埋めるだけの時間は演奏できそうだった。
「あと、一応バンド名決めてくれないと運営的に困るんだけど」
「あー、考えてなかったな。つむよ、なんかある?」
「ちょっと待ってね、考える。……君、名前は?」
「空星翔、です」
「おっけ、ありがと。その間に他の段取り決めておいて」
言いつつ鞄からiPadを取り出す。適当なメモ帳を開いて、各々の名前を書いて、それから連想ゲーム的に単語を並べていく。その間も、会話に意識を向けて、何を話しているかだけは把握していた。
「トークとかってどうするんですか?」
「サメちゃんそういの得意でしょ。なんか適当に喋ってもらえばいい」
「おう! よくやるぞ、そういうの!」
「あと、俺と……サメさん? は自分のありますけど、そちらのお二人は楽器って大丈夫なんですか?」
「俺はここ実家だし、ここのドラムが一番慣れてるから大丈夫」
「つむよもここのキーボード何回か触ってるから大丈夫なはずだぞ!」
実際その通りだから否定はせずに、画面の中の文字たちに集中する。古海、サメ、空星。……免田って、メンダコみたいだな。
「バンド名、これでどうかな」
言いつつ差し出した画面には、「MIX≠Horizon」という文字が躍っていた。
「ミックス、ホライズン、ですか?」
「そう。なんとなくの名前の印象だけど、空と海っぽいから、水平線」
「いいんじゃないか? なんかかっこいいし!」
そうして、即席のバンド名を掲げて、私たちはステージに立った。
実を言うと、私はバンドとしてステージに立つのは初めてだった。そもそも、私はどちらかと言うと一人で作曲してる時間の方が多かったし、そっちの方が好きだと思っていたから。時々、さめこが外で歌うときに一緒に演奏するとか、学校の合唱で伴奏するとか、そのぐらいしか人前で演奏する機会はなかったのだ。
けれど。
そこには、熱気があった。独特の空気があった。見たことのない景色があった。夢見心地、ってこういうことを言うんだな、と初めて思った。
大盛り上がりのまま私たちの演奏は終わって、どこかふわふわしたままステージから降りた。ジョーさんのご両親から「今日はありがとう」「どこかでご飯でも食べてきて」なんて言って送り出してもらって、ライブハウス近くのファミレスにみんなで入って。それでも、まだどこか浮立つような気分だった。
各々好きなものを頼んで、好きに飲み食いして、好きに感想とか、音楽についてのあれそれを語り合って。
「で、次はいつやるんだ?」
今日限りだと思っていた。少なくとも、私は。きっと、ジョーさんとかけるくんも。実際、二人とも驚いた顔をしていたから。
でも、これっきりにしたくない、とも思っていた。少なくとも、私は。
「そしたら、連絡先も交換しちゃおうか」
だから、さめこの言葉に乗った。ジョーさんとかけるくんが焦り始めたのが見て取れたけど、気づかないふりをした。
だって、またあの風景を見たかった。そんな風に思うのは、こんなに感情が熱を持つのは、私にとって曲作り以外で初めてのことだった。
そうして、私はミクホキーボードになった。