自己暗示「先生、ちょっといいですか」
呼ばれて、足を止めて振り返る。ここで「先生」と呼ばれるのは、己だけだと分かっていたから。
振り返れば、そこに居たのは最近鼓の組に入った女だった。小柄で、けれどその迫力はこの業界で生き残るのに十分であろう、凄みを持った女。確か、マムシ、なんて呼ばれていたか。
「どうした、なんかやったか」
そう問いかけはしたものの、その体に傷は見えない。別の誰かの負傷だろうか、考えながら応えを待てば、それは想定外の物だった。
「あたしに、人の体の仕組みを教えてください」
思わず眉を顰めてしまったのは、その女の所属を知っていたからだ。スイーパー、なんて横文字で呼ばれているそれは、つまるところ暗殺やら隠蔽工作やら、分かりやすく後ろ暗い仕事を担当している部署だ。だから、そんな女が人体の仕組みを知りたがるなんて、その使い道は推して知るべしである。
けれど、それを表に出すべきではないことも分かっていた。なぜなら、俺だって俗に言う闇医者だからだ。
「めんどくせぇな」
だから、そう誤魔化すように言って首元を掻いて、考えるふりをして一旦視線を逸らした。自分の中で、整理をつけるために。飲み込むために。
「いくらだ」
これは仕事だ。これは、鼓の組が、そして鼓の組に入ったこの女が少しでも長く生き残るようにするための投資だ。言い聞かせながらそう告げれば、女は少し驚いたように瞬いた。けれどそれも一瞬で、そいつはすぐに口を開く。
「来月までに五十万、どうですか」
それに「乗った」と返せば、女は「ありがとうございます」と小さく目礼した。
「いらないコピー用紙あります?」
そう続けられた言葉の意図は、正直汲み取りきれなかった。連絡先でも書くのか、と思いながら適当な紙を出して渡せば、そいつはペンを取り出してさらさらとと何やら書き始める。何気なく覗けば、そこには「誓約書」の文字が躍っていた。思わずぎょっとする。
「……別に、俺は口約束でも構わねえんだが」
言えば、その女は分かりやすく不思議そうな顔をした。
「先生って人がいいんですね」
それから、その口元だけが笑みの形に彩られる。それが……それが、正直少し不気味だった。
「口約束なんか空気の次に軽いんですよ」
しくったか、なんて思ったのは仕方のないことだったはずだ。それでも、意識してそれを表に出さないように態度を作る。いつも通りの、五十嵐という名の闇医者のそれを。
「そりゃあ、そうなんだろうが」
どう続けるのが正解だ、考えながら「だが」と口を開いて、滑り出たのはこんな言葉だった。
「だが、お前さんは鼓んとこの極道だろう」
俺がいつぞや拾って治療してから、もう十年近くなるクソガキ。ただのクソガキだったくせに、今だって図体ばかりでかいだけのクソガキのくせに、いつの間にやら若頭やら組長やらの肩書を持つようになっていたあいつ。この女だって、鼓が組長を張る公英組の組員だ。そして、俺はいつの間にやらそこの専属のようになっていた。だから、理由付けとしてはこれが一番だと思ったのだ。
視線を俺から紙の上に戻した女が言う。さらさらと書かれていく文字は止まらない。
「先生がうちの組に提供するのは医療行為であって指導じゃないでしょう? 範囲外なんだからこれはあたし個人の話ですよ」
「……まあ、そっちがそう判断するなら構わねえが」
言いながらも、女は文字を連ねていく。
「それに、口約束よりも紙がいいです。一番無かったことにし辛いものだから」
ぽつり、呟くように言われたそれは、きっと半分は俺宛ではないんだろう。そう思ったから、黙って完成を待った。
少しして、女が紙から視線を上げる。「サインください」と、持っていたペンと共に紙を差し出される。それらを受け取って、ざっと目を通してから己の名を記す。
「ほれ、書いたぞ」
そう渡せば、女は先ほどのそれよりは自然に笑ってから続けた。
「ありがとうございます。明日の夜から伺いますんで、どうぞよろしくお願いします」
言って、頭を下げられる。その後頭部を眺めながら、ぼんやり明日の夜の予定を組み立てていく。
「ああ、準備しとく。紙と書くもんだけ持ってこい、なんかあったら電話寄越せ」
言って、くるりと向きを変える。いつも通りの調子で、自分の目的地に向かって歩く。背後で、女が「わかりました」と答えるのが聞こえた。それを最後に、ぱたりと扉を閉めて、深く息を吐く。
「……また仕事が増えちまったな」
自分に言い聞かせるようにして、呟く。それから、すっかり仕舞いこんだままの教材を探すべく歩みを進めた。