金木犀の香り ふわり。
帰宅した西武園から香る匂いに安比奈は小さく笑った。
「もう秋だね」
手を洗ってうがいをしている西武園へ声をかける。安比奈達はインフラを担う関係上、人間達との関わりは避けられない。そのため、手洗いうがいの感染症予防の基本は、以前から行っている。
中でも西武園は人間達との関わりが好きだ。愛していると言っても良いかもしれない。だからこそ、自分が感染源とならないように細心の注意を払っている。西武の誰よりも手洗いうがいを真剣にやっているだろう。
西武園は一通り終えると安比奈を向いて首を傾げた。
「え? なんで?」
心底分からないという表情をする西武園に安比奈はくすくす笑う。
「甘い香りがしたからね」
「おやつはちゃんと安比奈に言われた通りにしてる!」
甘い香り、で今日はきっと甘味を食べてきたのだろう。不貞腐れたように返された言葉に安比奈は「違うよ」と言葉を返す。
西武園は昼食が足りずに軽食を食べて帰ってくることは知っている。一時期それが頻回でちょっと不満だった。それを西武園に言えば。
『安比奈のご飯は残さないし! お代わりとかし過ぎると安比奈が大変だろ?』
食事の量を増やしたのは内緒だ。食費の出資者である新宿と池袋は了承済みなので問題ない。可愛いの化身の西武園のためだ、食費の予算が増額された。家計に興味があるのは西武秩父くらいなものなので、皆には内緒だ。
閑話休題。
ドキドキとした表情で安比奈の返事を待っている西武園に笑いかける。
「分かってるよ。真面目だもんね、西武園は」
真面目、というよりも安比奈の作るご飯が好きなのだ。安比奈に負担が無ければお弁当を作って欲しいと思ってもらえているのも知っている。西武園や西武有楽町、西武秩父になら作ってもいいが、そうすると多摩湖が甘えることも分かっているから言わないが。
安比奈の言葉に西武園は首を傾げる。
「じゃあなんだ? 甘い匂い?」
心底分からないと表情が言っている。
「金木犀。咲いてたんじゃない?」
西武園の駅近くには金木犀の木がある。季節になると良い香りがこの子に移るのだ。近くを通っているからか、そういう体質なのか。香る花を拾って来てはいない。
「咲いてた! でも拾ってくると安比奈怒るから、誘おうかなって思ってた!」
パッと笑顔の花を咲かせる西武園に安比奈は笑う。
「じゃぁ、明日のお昼はお弁当作って西武園のところに持っていこうかな」
安比奈の言葉にパッと表情を明るくさせる西武園が可愛くて仕方がない。
「マジで!? 楽しみだ! なぁなぁ! 新宿も誘っていーい? 国分寺は今日一緒に行ったんだ! 多摩川は休みの日に誘おうと思ってる」
にこにこ顔の西武園が楽しそうなので、安比奈はお茶を準備することにした。
***
「へぇ」
昼間の出来事を寝室で新宿と話すのは日課だ。のんびりとしたこの空気は、案外に嫌いになれない。新宿はやっていた作業の手を止めて安比奈を見た。
――羨ましいよね
新宿は西武園を可愛がっている。
それはそうだろう、安比奈と出会う前から彼等は兄弟だ。
国分寺だけが知っている、村山兄弟の話。安比奈も知らないし、多摩川も知らない。新宿は決して当時の話をしなかった。今でも当時の話は新宿の数少ない逆鱗だ。西武園はこの辺りの記憶があまりない。旧西武では彼にこの話を振らないと決めている。
西武の誰よりも西武園を可愛がっているのは、新宿だ。
「……花の香りがする西武園っていいな」
ポツリと零された言葉に安比奈は笑う。
「今、金木犀の香りのハンドクリームとかあるよ」
バラの香りだって、サクラの香りだってある。だが、芳醇な香りも儚い香りも西武園には似合わない。それは安比奈よりも新宿が感じているだろう。
「そろそろ手がボロボロになる季節だもんな」
西武園が調子を崩さないのにはタネがある。あれだけ無茶苦茶しておいて、体調を崩すことが滅多にない。もちろん、健康優良児だっていうのもあるだろう。手洗いうがいをちゃんとしていることもあるはずだ。
それでも、それだけでなんとかなるほど、人間の身体はコスパが良くない。
「去年の分は使い切って捨てたのを確認したしな……」
ブツブツ記憶の整理をしている新宿を、安比奈は何も言わずに眺める。
「使い勝手のいい奴、ラインナップしておいてもらえるか?」
しばらくすると新宿の中で納得する答えが出たのだろう。安比奈に向けて言葉を投げられた。
「分かった。任せておいてよ」
女性との関わりだけで言えば、恐らく安比奈が一番多い。主夫が板についてきた頃から、人間のお母様達との関わりや近所の人間達との付き合いをしている。その辺りの情報網は西武一だと自負しているのだから。
***
「お兄ちゃん、いいにおいがする!」
「駅のお花とおんなじ!」
人間の子ども達と遊んでいると口々に言われる。
――お花と同じ匂い?
首を傾ぐと彼ら彼女らの中ではお姉さんの子どもが教えてくれる。
「ハンドクリーム、いい匂いだね、お兄ちゃん」
西武園の手を取って匂いを嗅いでいる。
「あ、コレ、俺の兄ちゃんがくれたんだよ」
手洗いの後はハンドクリームを塗るように新宿から厳しく言われていた。風呂上りには全身保湿剤を塗られるし、食欲無ければ原因究明もされる。怪我をすれば怒られるし、原因は正直に言わないと怖い雰囲気だ。
「良い匂いだよな」
どこで買ったんだろうな?
新宿は割と流行りとか気にするし、よく知っている。人間達のことを案外にリサーチしているらしい。
「お兄ちゃんのお兄ちゃんは、お兄ちゃんが大好きなんだね」
「おう!」
よく考えずに返事をしたが、女の子の考えていることって分からない。