先週のワンライの続きの話「どうしよう、僕の体がおかしいんだ」
ある晴れた朝のこと。
明日は早朝から用があると前日に言っておきながら、同居人のカーヴェは自室から一向に出てこなかった。
彼の様子を見に家主のアルハイゼンがドア越しにどうしたと尋ねてみれば、カーヴェからはこの返答である。
なにか変なものでも食べたか?と聞くもそれに対する返事は無い。ただ慌てふためき狼狽えている声がこちらにまで響いてくるだけだ。
「カーヴェ、いい加減にしろ。俺はもう出ていくが、いいか?」
お陰でアルハイゼンは遅刻決定だが、彼が職場に遅れてきたとしても怒れるような立場の人間は教令院にはいなかった。
せいぜい草神であるナヒーダから、今日はどうしたの?と聞かれる程度である。
遅刻を気にして急かしているようでいて、実際は様子のおかしい同居人の安否を一刻も早く確認したいがための言動だった。
「待って!鍵はかけていないから入ってくれ!ただ、口外しないでくれたらいい!」
一体なんだとため息をつきながら、アルハイゼンはドアに手をかけた。
「あっ!あの!絶対、その、笑ったりするなよ!」
ドアを開けると、部屋の主は毛布にくるまり、ベッドの端っこに蹲っていた。
カーヴェは怯えるような目でこちらを見ている。
「大丈夫だ。笑ったりしないから、見せてみろ」
「ひ……うう、これ……」
観念したのかカーヴェは被っていた毛布からそっと抜け出すにして、アルハイゼンから自分の体が見えるようにした。
「うん?」
部屋の入り口からはよく見えないためアルハイゼンはカーヴェに近づき、隣に座った。
「う……ほら、ここ……膨らんでるし、時々中から蹴られるっていうか……」
そう言いながらそっとコットンフランネルのシャツをたくしあげ白い腹部を露わにした。
カーヴェの言う通り、臍のあたりを中心に腹部が少しふっくらと膨らんでいるようだった。
アルハイゼンが注意深く観察していると、ぽこっという音をたてて、カーヴェのお腹が揺れ動いた。
「なんだこれは……」
「わからない!!どうしよう!?」
「触っても?」
「へっ?……い、いいぞ」
許可をとってからカーヴェの腹をそっと包むように優しく撫でてみる。
「きみ、その……触り方……」
「なんだ」
「い、いや、別に……!」
(これじゃあ、まるで妊婦さんじゃないか!)
優しく慈しむような撫で方にみるみる顔を紅潮させていくカーヴェ。
アルハイゼンはその反応を知ってか知らずかお構い無しで、カーヴェのお腹をナデナデしながらその膨らみの元素反応を辿っていた。
「水元素のようだ……」
「水元素!?」
「ああ……水元素のなにかが、宿っている……」
「!……そ、そうかぁ……そしたら、どうしたらいいだろうか?」
カーヴェが一瞬固まったようにアルハイゼンには見えた。同居人があまりにも分かりやすすぎて、アルハイゼンは時々心配になるのだ。
「解決したいのなら、どうしてこうなってしまったのか自分の行動を振り返るべきだろう」
「……た、たぶん……フォンテーヌで……」
「フォンテーヌ……」
先日二人で行った水の国フォンテーヌ。
そこになにか思い当たる節があるらしい。カーヴェはそれだけ言ってぐっと口ごもっている。
「………ひとまず俺は教令院に行く。いいか、今日は普段の薄着で家から出るな……その腹はきちんと隠さないと人目を引く」
「あ…………行くのか?」
「どうした」
「あ……いや、何でもないんだ!気にせず行ってきてくれ!」
「ああ」
アルハイゼンが部屋を出ていくと、どうして引き留めようとしたのかとカーヴェは自分の行動に頭を抱えた。毛布に再びくるまって、大きくなった腹を守るようにして。
(フォンテーヌのあの噴水の前で僕があんな想像したせい……?まさか本当に、これは……アルハイゼンと僕の、赤ちゃん)
「いや、でも……僕たち、そもそもそんなことするような仲ではないし………」
二人の関係は学生時代にちょっと手を繋いだ程度で、それもグループでのフィールドワークの時に、足場が悪くて手を貸してもらったとか、カーヴェにしてみればせいぜいそれくらいという認識だ。
さっきお腹を触られた時は本当にどうしようかとカーヴェは思ったのだった。
「何もしてないのに……どうして……いやそもそも僕は男なわけで……」
フォンテーヌの大きな噴水の前で子宝を願う泉ということを耳にした瞬間、カーヴェが咄嗟に思い浮かべてしまったこと……
(もしもアルハイゼンと僕に子供ができたら……どんな子だろうな……僕もあいつも男だし……子供なんか出来っこないけど……でも子供がいたらもう少し大きな家に移り住まないといけないだろうな……なんならあの家を建て替えてもいいかもしれない……きっと賢い子になるだろうからたくさん本を買ったり自由に空想したものを描けるようなスペースだって必要だし……ああ、我ながら本当に馬鹿な想像をしているな……)
「ぼ、僕は、なんて馬鹿なんだ……」
それらを思い出して恥ずかしくなったし、そのような妄想を神聖な泉の前でしてしまった自分を愚かだと思った。
ただでさえ感情の乱高下が激しいカーヴェだが、普段以上にその精神は不安定に陥っており、気付けばボロボロと涙が頬を伝っていた。
「ふ……妊婦というのはメランコリックで、時にヒステリックなんだって誰かが言っていた気がするな」
本当に妊娠しているわけでもないのに自分の体にに何かしらが宿っているという違和感がカーヴェの気持ちをそうさせていた。
赤くなった鼻をちりがみで抑え、ぐずぐずと落ちる涙と鼻水を拭ったりしてるうちにアルハイゼンは帰ってきた。
彼が早く帰ってきたことへの安堵よりも驚きでカーヴェはその場で飛び上がるような心地だった。
だが不審に思われるのは癪なので慌ててなんでもないように取り繕う。
「は、早かったな!大丈夫なのか?」
「ああ……休暇を申請した」
「休暇??」
「フォンテーヌへ行く、出発は明朝だ」
「は、はぁっ!?」
いくらなんでも急すぎるだろという戸惑いの声を尻目にアルハイゼンはさっさと度の支度を済ませるのであった。
***
「このようなケースは稀……いや、前代未聞と言える」
カーヴェはアルハイゼンに連れられ、再びフォンテーヌへ赴くことができた。
数日の渡航を終えて、最高審判官のヌヴィレットとの面会が奇跡的に叶い、改めて今回の状況を説明したところこのような返答だったのだ。
カーヴェは膨らんでいる腹が目立たないようにゆったりとしたローブに身を包んで、さながら魔法使いのような風貌である。スメールでこのような厚着で歩けば嫌でも目立ってしまうため、二人は早朝に出立し朝一番の船に乗り、このフォンテーヌ挺のパレ・メルモニアまでやってきたのだった。
「カーヴェ殿の強い気持ちがルキナの泉に通じたのであろう」
「は、はい……」
カーヴェはヌヴィレットの言葉に思わず顔を赤くして俯いた。
(つ、強い気持ち!?僕はそんなつもりなかったけど、泉の精霊にそう伝わってしまったって事なのか?)
「今、体内に宿っている純水精霊に出ていくように命じることは出来るのだが……」
水龍であるヌヴィレットの権能を持ってすれば、どうとでもなるらしかった。
「いや、その……もしも、このままだったらどうなってしまいますか?」
「生殖器官がもとより男性器しかないのであれば、純水精霊も人の形として生まれでる事が出来ないということに気づいて、水として排出されることだろう」
「は、排出……」
「……しかしこのままでは貴殿にとっては負担なのでは?中にいる純水精霊にはすぐに出ていくように……」
確かに、お腹が膨れているし時々中から蹴られたりと負担がないとは言えない………だけど……
カーヴェはこの数日の間、共に過ごした純水精霊との別れを想像し、だんだんと気持ちが落ち込んでいくように感じていた。
「ま、待って……あの、心の準備が……まだ、もう少し……その、この子と一緒にいたいです….」
お腹をさすりカーヴェは決意した。産むことは難しくても、出来る限りこの精霊と一緒にいたいと。
それを受けたヌヴィレットは、たとえ子を成せぬ性であっても、そして生まれてくるものでなくとも、母性や情が芽生えてしまう……やはり人間というのは不思議だとカーヴェからの返事、そしてその様子を受けてしみじみと思っていた。
だが、その感動に水を差すように先程からカーヴェとヌヴィレットのやり取りを黙って聞いていた同伴者がいきなり会話に割り込んでくる。
「カーヴェ、君は……一体、誰との子を想像して精霊を宿したんだ………」
その様子を見るに、なにやらただならぬ雰囲気である。
このアルハイゼンという男は、草神に次ぐスメールでの重要人物ともいえる位置にいながら、仕事とプライベートをきっちり分けることで有名である。そしてその情報はヌヴィレットの耳にも入っていた。事実、前回の訪問ではその評判の通り、一切無駄のない仕事ぶりで、定められた時間内に終わる仕事とはこれ程気持ちのいいものかと感動体験をしたヌヴィレットだった。
が、今日はこのままでは時間通りに終わらないのではという予感がするのだった。
「へっ……!?だ、誰だっていいだろ!!いや、僕が空想した中の人物さ!な、なんだって君は今になって急にそんな事を聞くんだ!!」
「それは俺には言えないような相手なのか……?いや、やましいことがなければ言えるだろう?」
純水精霊がカーヴェのお腹に宿ってからというもの、アルハイゼンは何も聞かずに膨らんだカーヴェのお腹をヨシヨシしたり、負担のかかるカーヴェの体を労わって背中や腰を摩ったり重い荷物を持ってくれたりしていた。そんなアルハイゼンの献身にカーヴェは戸惑うばかりだった。
そして今もまた、ムキになるアルハイゼンを前に狼狽えている。
一方、アルハイゼンはヌヴィレットを前にして赤い顔で話すカーヴェに密かに苛立っていた。それと同時に、自分以外の誰かとの子をあの泉の前でカーヴェが想像したのではないかという疑念が湧き出したのだ。
(どうして俺との子を想像したと、それが当然のことだと俺は悠長に構えていられたんだ…….)
アルハイゼンは珍しく冷静でいられなかった。それは時間を忘れるほどに。
カーヴェがあの泉の前で子宝を願ったというアルハイゼンの予想は当たっていたようだった。そしてアルハイゼンは当然自分との子を想像したのだろうと思い込んでいたのだ。
しかし、ヌヴィレットを前に話しているカーヴェを見ていたら、違う相手という可能性だってあると、これまでどうして気づかなかったのだという不信を抱えるとともに、俺はこんなにも愚かだったのかと自身を責めた。
「…………」
「ヌヴィレットさん〜、これは痴話喧嘩というものなのよー!」
どれくらい時間がかかるだろうかと頭の中で試算をしていたヌヴィレットに、隣国の人間に純水精霊が宿った大変特殊な事例ということで招かれた看護師長のシグウィンはこっそりと耳打ちをした。
二人の身長差があまりにあり過ぎるのでシグウィンは書棚用のハシゴの中段に立っていた。これはヌヴィレットの配慮らしかった。執務室に朝からわざわざ運び入れたのも彼である。
「そうか」
やれやれと肩を落とした後どうしたものだろうかと小さなシグウィンの耳元で尋ねると
「この人達なら何だかんだ自分たちで何とかするのじゃないかしら?母体?の方も神の目持ちさんなわけだし、お腹の中の純水精霊ちゃんももうしばらくあの人の中にいたいみたいだし」
「そうか……ならば、もうお帰りいただくとしようか」
審判が無い日とはいえ、ヌヴィレットは毎日忙しい。面会の予定はこの後も数名ばかり詰まっているのだ。
終わったらフリーナも呼んで、シグウィンと三人でこの日のために取り寄せたドゥボール・ホテルのピーチジュレののったケーキを食べると予定していて、軽策荘の水も取り寄せている。
そうなるとやはり、なるべくなら時間通りに全てを終わらせたい。
ヌヴィレットは睨み合っている二人を宥めるべくシグウィンにそっと目配せした。
彼女はかわいらしくウィンクすると、それにしっかりと応えたのだった。
「お腹の中のこの子は間違いなくアナタたち二人のお子なのよ。本当よ?ウチにはわかることなの!ところで、喧嘩はスメールに帰ってからにしてくれるかしら?今日は公の場での痴話喧嘩を含む喧嘩や個人間の決闘の類はこのフォンテーヌでは禁止なのよ」
そんな法律は無いと誰もが気づいたのだが、アルハイゼンもカーヴェも冷静になって、この国の最高審判官と初対面の可愛らしい看護師長の前で騒いだことを謝り、御礼と挨拶を済ませた後、二人揃ってそそくさと退室したのだった。
「嵐が去ったわね!さ、ウチは少し休憩したあとフリーナ様を呼んでくるから、最高審判官サマ!もう少し頑張ってね!」
シグウィンはぴょんと梯子の中段から降りて可愛らしくポーズ。そんな様子を見てヌヴィレットは優しく微笑んだ。
「ありがとう、シグウィン……では後ほど……」
***
パレ・メルモニアの通路をまるで風をきって歩くようにカーヴェは前しか向いておらず、後ろに追従するアルハイゼンの存在を無視……したくても実際は出来ていない状況ではあるが、とにかく早歩きをするなどしてこの恥ずかしさを一刻も早く消し去りたい一心であった。
「カーヴェ、待て……その……相手とは俺で間違いないか?」
「ああ!……言わなくてごめん。気持ち悪いよな?ごめん!」
返事が半ばやけくそでムードに欠ける。逃げながらだし、公衆の面前だから許してほしいとカーヴェは内心思う。
「そんな事は思っていない……」
「気を遣わなくていい!」
「カーヴェ……」
「へ!?」
背後からがっしと肩を掴まれ、そのままお姫様抱っこをされ耳元で囁かれる。
なにをしてるんだと叫びたいカーヴェだったが、あまりに驚いて咄嗟に言葉が出てこない。
「落ち着いて二人きりで話せるところへ行こう」
「ええっ!?」
相手の勢いにはわわわしている間にあれよあれよと今夜泊まる予定のホテルに連れ去られてしまった。
「カーヴェ……この純水精霊は君が俺との子を願って宿してしまったのだろうと思っていたが、それは正しいか?」
ドゥボール・ホテルの部屋に着くなり、お姫様抱っこ状態から解放されたカーヴェは、どうにか誤魔化して有耶無耶に出来ないだろうかと内装やらベッドの広さに驚いてみたりしたが、じりじりと壁際に追いやられて、これはもうアルハイゼンとの力の差かと観念する他なかった。
「そうだよ……アルハイゼン……それはその、認めるけど、あの、少し展開が……ちょっ、待ってくれないか?心の準備と……あと、少し早歩きしすぎて実は今お腹が辛いんだ……」
その言葉にハッとなり理性を取り戻すアルハイゼン。彼はそれまでじりじりと距離を詰めて舐め回すようにカーヴェを見つめていたものだから、お腹が痛いと伝えなかったら今頃容赦ない責め苦にカーヴェは喘いでいたかもしれない………
「す、すまない……」
「いい、こんなおかしな事に巻き込んで悪かったと思ってる」
「いや……腹が辛いのか?一緒に寝るか?」
「!」
「安心しろ………一緒に寝る、というのは単なる添い寝のことだ………横でさすることしか出来ないが」
「わ、わかってる……」
アルハイゼンから見つめられていることに耐えられずカーヴェは目を逸らし、その鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当てて静かに、それでいて深い呼吸をした。
「耳まで真っ赤になっている」
「え?……僕が?そ、そんなにか?」
「ああ」
「恥ずかしいけど……う、嬉しいんだ!君が僕と同じ気持ちだったんだって……」
先程からグイグイと押されまくっているカーヴェだが、先輩としてのプライドが多少は残っていたらしい。だが、その心の余裕のなさから決してスマートな言動ではなかった。
その赤みを隠そうと耳にあてていた手に力を込めて、アルハイゼンの両の手を優しく包んだあと、ややぎこちなくアルハイゼンの頬に自分の唇を押しあててみる。
アルハイゼンの頬から伝わるひどく柔らかな感触に、カーヴェは動揺し固まった。まるでこちらと目が合った驚きで静止してしまった森の小動物のようだとアルハイゼンは思う。
ほんの数秒間の静けさの後、マシナリーよりもよっぽど不自然な動作でカーヴェはアルハイゼンから離れようとしたが、そんな彼をアルハイゼンが手放すはずがなかった。
「俺はずっと我慢をしているんだが……煽らないでくれないか」
カーヴェの腰に手を回し、この男は本当にどうしてやろうかと内心ビキビキしながらもアルハイゼンは紳士的な姿勢を崩さんとした。
「ごめん……つい」
純水精霊自身がこのままでは産まれることが出来ないと気づく日まで、これ以上のことはお預けなのだろう。
大切にしたいから煽らないでほしい気持ちと、ぎこちなくも自分に甘えてくるカーヴェを滅茶苦茶に可愛がりたい気持ちがアルハイゼンの中で激しくせめぎ合っていた。
せっかく気持ちが通じあったのにと、はやる気持ちはあるもののカーヴェがこの精霊をもう少し宿していたいのならば自分はそれに付き合うこととしようとアルハイゼンは思うのだった。
おわり