甘ったれとある休日の朝、珍妙な毛布の塊を前に、カーヴェは仁王立ちをしていた。プカプカ水キノコンの頭をそのまま大きくしたような物体は、ベッドの上で動く気配がない。
「おはよう、アルハイゼン」
声をかけても、塊は反応しなかった。もう一度声をかけると、もそもそと蠢いた後、再び動きを停止する。
「……いい加減起きないか!」
布団の上で焦れている生き物は、賢者になりかけたスメールの英雄様、アルハイゼン書記官その人だった。
容姿端麗、聡明な頭脳と引き締まったうつくしい身体。良く回る頭でそつなく仕事をこなす彼の辞書に残業の文字はなし。さぞや私生活も隙が無く充実して……と思われているが現実はこの通り、寝台の上の芋虫であった。
「起きろって言ってるんだ!」
勢いよく毛布を剝ぎ取ると、寝間着姿の彼は枕を抱きしめ顔を埋めていた。枕を引きはがし、上半身を起こさせると、漸く彼の両目が薄らと開く。
「おはよう」
「……」
「君のおばあ様は、朝の挨拶も教えてくれなかったのかい?」
「……おはよう」
会話をしていなければ即座に二度寝を決め込みそうな男。どうやってもスメールの英雄には見えない。夜更かしをして翌朝起きられなくなった子供だ。
「寝癖が酷いぞ、早く洗面所で鏡を見てきなよ」
ちなみに、寝癖が凄まじいのは寝相が悪いせいではなく、髪を乾かさずに寝たからだ。アルハイゼンの私生活は、彼の基準で言えば確かに充実している。しかし、他人に見られていない状況……主に家の中での生活面で、時折目を疑うようなズボラを発揮していた。
「君が直してくれ」
「はあ?」
「自分でするより、君が整えた方が早い」
ご覧の通りである。シチューをキッシュもどきにする時点で何かがおかしいとは感じていた。けれども、一応仕事は完璧で、頭も切れる後輩が、ここまでだらしない姿を晒すものだろうか。
ものぐさなだけならまだしも、ふてぶてしく同居人に世話をねだるのは如何かと思う。
「鏡では背面の把握が難しい。君だって、せっかく作った朝食が冷めるのは癪だろう?」
「これだから、君ってやつは本当に……っもう、とっとと着替えてリビングに来てくれ!」
「助かる」
言いたいことが渋滞しているが、二度寝をせずに起動したことをよしとしよう。洗面所からブラシとヘアワックス、タオルに霧吹きを持ってリビングへ向かう。数分すると、シャツとスラックスを纏ったアルハイゼンが姿を現した。美丈夫は適当な服でも勝手に映える。爆発している髪の毛で台無しになっているけれども、逆に髪の毛さえ直してやれば、歩いただけで黄色い声が飛ぶ色男が完成するのだ。
「ほら、さっさと座ってくれ」
いっそ、ぼさぼさの髪で街を歩いて笑われてしまえばいいのに……などとは決して思わない。美しいものは美しくあるべき、というのがカーヴェの主義だ。故に、どんなに気に食わなくとも、アルハイゼンの魅力をあえて損なうような真似はしない。
霧吹きで髪を濡らし、蒸らしたタオルを被せてあらかたの癖を取る。ブラシを滑らせ、簡単に形を整えていく。頭の頂点の髪だけはぴょこんと跳ねたままだが、これは彼のトレードマークのようなものなのでそのままにしておいた。むしろ、このアホ毛は彼を可愛いと思える数少ないポイントのひとつである。大切に扱わねばならない。
「まあこんなものかな」
あらかた整った髪の毛にヘアワックスを馴染ませると、普段通りの書記官様が完成する。しかし今日は休日。彼はきっと日がな本を読むだろう。少し考えてから、流していた前髪をまとめ、頭の上にヘアピンでとめた。
「……できたよ」
「前髪がない」
「本を読むならそっちの方が良いだろ。左目が隠れるの、前から気になってたんだ」
別に気にしないが、とアルハイゼンは続けた。ここまで他人にやらせておいてありがとうのひとつもない。彼に敬意を求めるのはトリックフラワーに水をやるぐらい意味のないことなので、カーヴェは諦めてキッチンの方向を指さした。
「君の為に待っていたんだから、盛り付けくらいは手伝ってくれ」
アルハイゼンは鼻をひくつかせたのち、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「またスープか?」
「次に文句を言ったら僕は朝から部屋のドアを全開にして模型を作るし、夜は君の金で酒を飲む」
「カーヴェ、俺は君の作るピタが好きだ」
「騙されないぞ。でも昼ご飯はピタにしてあげるからさっさと盛り付けてコーヒーを淹れてくれ」
「……わかった」
駄々っ子はようやく黙って、棚からスープ皿を取り出した。しかしまあ、アルハイゼンの我儘を完全拒否できないカーヴェも相当に絆されている。
カーヴェが家に来た時、家の中はそれほど荒れていなかった。本が積み上がっていたり、カウチに着替えが放置されてはいたけれど、一般的な一人暮らしの住居の姿をしていた。彼の同僚にきいても、寝癖をそのままに出勤してきたことはないという。即ち、アルハイゼンはカーヴェがいなくとも、それなりに自立した生活を送っていたことになる。
「(甘えてるんだよな、これ……)」
後輩の甘え癖に気づかないほど、察しの悪い頭を持ち合わせていなかった。カーヴェにだけ、という響きはあまりに甘美で、よくないことまでゆるしてしまいそうになる。
「(舐められるのは癪だし……でも、甘えるってことは実は仕事で疲れていたり、本当は寂しかったりするんじゃないか!?)」
本人の知らない所で、勝手な妄想が膨らんでいく。
面倒な仕事を押し付けられて怪訝そうな顔をするアルハイゼン。
スメールの英雄となったものの、そのせいで関わりたくない人間からも話しかけられ疎ましさの募るアルハイゼン。
唯一羽を伸ばせるのは家の中。そこに現れた、気の利く先輩。
「ううう……」
「どうした、腹でも壊したか?」
一瞬過った憐れみの心は、ロマンの欠片も無い本人の言葉できれいさっぱり消えてしまった。
「……なんでもない。ちょっと余計な事を考えただけだよ。君はそういうやつだった」
「表情筋のトレーニングをする暇があるなら手を動かしてくれ」
カーヴェは決意した。この甘えた子供に礼節のなんたるかを思い知らせてやると。
「(僕は小間使いじゃない。いい加減、自立して生活するべきなんだ)」
ふん、と一息入れて、アルハイゼンの皿になみなみとスープをよそった。勿論、具より汁の方を多くして。昼間はピタにしてやると言ったが、夜は魔改造されていないシャフリサブスシチューを作る。
「(もう、絶対に甘やかしてやらない……!)」
しかしこの夜、カーヴェはアルハイゼンのリクエストに応えてタフチーンを作り、風呂で背中を流してやり、「しょうがないなあ」の発言の後、抱き枕として機能することとなる。