モブからみた岳清源という人ある町に若い夫婦がいた。
平凡ながら慎ましく生活し、ある時妻が懐妊した。
初産に浮かれながらも不安とない混ぜになり、まだ見ぬ赤ん坊のために産衣やら揃えつつ、2人そわそわと過ごしていた。
産月まであと2ヶ月あまりという頃、悪阻から思うように回復できず鬱々としていた妻の気晴らしになればと、荷車を借りて妻を乗せ、夫が引いて土地廟へ御参りすることにした。
行きは良かったのだ。
久しい外の風にいつになく妻の頬に血の気が戻り、軽口をたたきながら束の間の時を楽しんだ。
楽しすぎてつい無理をしてしまった。
気づけば再び彼女の顔は青ざめ、ぐったり荷車の筵に寄りかかる妻を乗せて、慌てて帰路に着いた。
行きはあっという間だった道がなんとも長い。
夫は休みもとらず息を切らしながら荷車をひいた。
しかし無理は続かず、ついに進めなくなり、座り込んでしまった。
木陰で水袋を分け合い、体をさすってやっていたところ、ひとりの仙師が通りかかった。
仙師は2人に声をかけた。
「御仁、お具合が悪そうですが、どこか痛むのですか」
夫は答えた。
「ああ仙師様。これなる妻は懐妊しておるのですが、気晴らしに出かけたところ具合が悪くなってしまいました。急いで帰ろうとしたのですが私の足が思うように動かずこうして休んでおる次第です」
仙師はひとこと「失礼」と言い置いて、まず妻の手首を取った。
真剣な表情で気の巡りを探っていたが、やがてそっと彼女の背中に触れた。
しばらくすると、妻の顔に少し血の気がもどり、呼吸は穏やかなものとなった。
仙師は言った。
「お腹のお子については専門ではないので確かなことはいえないのですが、気を整えましたので少なくとも御妻君はしばらく動けるでしょう。ご自宅に戻られたら産婆を呼んで診てもらってください」
夫は張り詰めていた身体からようやく力を抜いて、言った。
「こんなところで仙師様の御技に預かるとはなんと御礼したらよいのやら、本当に有難いことです」
続いて仙師は夫君の検分を行い、足の熱を取るという軟膏を少し分けてくれた。
九死に一生を得た心持ちで2人は何度も礼を述べた。
仙師はニコニコと微笑み、調息を行っただけなので礼金もいらないという。
あらためてみれば、その仙師はまだ若く、自分達よりも歳下にも見える。おそらく修行中の身であろう装飾の少ない仙服と佩玉を身につけ、背には黒い長剣を背負っていた。
柔らかな眼差しと整った風貌は、既にただならぬ才覚を感じさせる。
しかし、どこか表情が浮かないようでもあった。
優しげな人柄を気安く感じ、少しの好奇心も手伝って、2人は尋ねた。
「仙師様はこれからお出かけですか。よかったら御用の済んだ後にでも我が家へお寄りください」
「それがいい。粗末な家ではございますが、ちょうど美味しい瓜を冷やしてあります。ご馳走様させていただきたい」
仙師は困ったように答えた。
「実は用はすんでしまったところなのですが、
御二方、今日はこれ以上ご無理をなさってはいけない。」
今度は妻の方が聞いた。
「お気遣いなど有難いことです。ところで仙師様、なにやらお顔がすぐれないようですが、御用向きは良くなかったのですか」
仙師はすこし躊躇ったが、やがて口を開いた。
「少し先の街に知り合いがいたので会いに行ったのです。ですが…火事があったとかで、会うことができませんでした」
夫婦は顔を見合わせた。
近頃噂の火事といえば、秋府のお屋敷だろうか。随分酷く被害が出たと聞いた。
その知り合いも巻き込まれてしまったのだ、と2人は察した。
妻はすまなく思い言った。
「それは…無粋なことを聞いてしまい申し訳ない」
仙師は気を悪くした様子もなく答えた。
「いいえ、かまいません」
夫婦は安堵したものの、仙師様の気落ちした様子になんだか放っておけない気持ちになった。
「仙師様、やはりうちにいらしてください。瓜だけでも持っていってくださいよ。目利きの露店が勧めてくれたやつなんです」
「頼み事ばかりで恐縮なんですが、ほら夫の脚も不安ですし、一緒についてきてくださると安心です」
口々に言い募り、人の良い仙師様を家まで引っ張っていった2人は、瓜を差し上げることに成功した。
名残惜しくずっと手を振り続ける2人を背に、両脇に瓜を抱えた仙師様は御山へ帰っていった。
やがて夫婦のもとには赤ん坊が生まれ、目まぐるしい日々が始まった。
続いて2人目、そして3人目の子供が産まれたとき妻は帰らぬ人となった。
残された夫は途方に暮れる暇もなく必死で食い扶持稼ぎと子供の世話に明け暮れた。
産まれたばかりの赤ん坊は、当初斜向かいの親戚に貰い乳をしていたが、やがて運良く子供を望む家と縁ができ、もらわれていった。
がむしゃらに日々を乗り越えいつしか数十年が経っていた。
無事生き延びた子供たちも大人となり家を出て、男は老爺となり、細々と働きながら余生を過ごしていた。
そんなある日、老爺は仲の良い孫娘のところを訪れていた。
「赤ん坊が無事産まれても油断しちゃだめなんだ。君の妈妈は、一度、出血も止まって皆んなホッとしてた時に、急にガタガタ震えだして、桶ひっくり返したみたいにドッと血溜まりができて死んじまったんだから」
身震いしながら老爺はひっきりなしに言う。
対して孫の方はやや投げやりであった。
「はいはい。何度もきいてるから知ってるってば。けど、そうなっちまったらどうしようもないじゃない。産婆も言ってた。何回かにひとつはそういうことがあるんだって」
老爺は言葉に詰まる。
「う…そうだな」
彼女は数ヶ月ののちに出産予定である。
知り合いの懐妊の都度、真っ青になってこれでもかと世話を焼きたがる老爺は、もはや近所の風物詩であった。
今日も孫夫婦に代わってヤンチャな曾孫たちに飯を作り、家を掃除し、孫の枕元に茶を並べて、繰り返し繰り返し妻君の話を語るのだ。
孫娘は耳タコであるが、その夫はまだ慣れていないので少し顔色が悪い。
そっと妻を伺い、祈るように手を握った。
夫の不安に気付いた孫娘は声を張り上げた。
「ほら、相公が不安になっちゃう!爺爺そろそろ帰りなって!いつもありがとね!」
甘やかし遊んでくれる爺爺が居なくなるのが嫌な曾孫たちに揉みくちゃにされながら、老爺は帰路に着いた。
老爺は腰を曲げてトツトツと道を歩く。
日は緩やかに落ちかけ、長い影が伸びる
西日に眩しく目を細めながら歩を進めていたところ、後ろから駆け馬の音が聞こえた。
振り向いたとき、騎上の人はこちらに気づいたようで、ハッとして手綱を引いた。
逞しい駿馬が速度を緩め、老爺に並ぶ
「気づくのが遅れてすまない。御老人、石が当たったりはしていないか」
馬に乗るのは、長身の、荘厳な白と黒の衣装に身を包んだ貴人だった。その背には黒い長剣がある。
「お構いなく、なんともありませんで」
言ってから老爺はその貴人に見覚えがあることに気づいた。
いつぞや瓜を押し付けた仙師の面影がある。
あの時の少年らしさは消え、精悍な青年である。
自分はもうこんな老いぼれだが、修為の高い仙師は歳をとらないというのは本当なのだなあと思いながら懐かしさに言葉を重ねた。
「これは、いつぞや助けてくださった仙師様ではないですか」
仙師様はさすがに忘却していたらしい、やや首を傾げ言う。
「お会いしたことがあったかな」
「はい、もう何十年も前のことで覚えておられないのも当然ですが、身重だった妻を調息していただき私に軟膏までいただきました。子供が無事生まれたのも仙師様のお陰です。」
ああ、あの瓜の…
と仙師様が呟いたのが聞こえて、老爺はすっかり嬉しくなってまくしたてた。
「そうです!おかげさまで3人も子供に恵まれて…妻は…3人目を産んで鬼籍に入りましたが、
、
仙師様はあの時より更にご立派になられて!
それにしてももう日も暮れますが、これからどちらへ?」
その時に見た、西日に染まる仙師様の顔は、初めて会ったあの時と同じように優しげだった。
だが、何か、それは老爺の心にさざなみを立てるものがあり、老爺は少し息を呑み込んだ。
「ずいぶん決心に時間がかかってしまったのだが、ある人へ借りたものをお返ししにいくことにしたのだ」
そう告げる仙師様の声は明るかった。
「へえ」
ちょっと拍子抜けして老爺は声を漏らした。
仙師様は腕を上げ、背に帯びた黒剣に手を添えた。
「これは彼のひとに救われたものなれば、捧げるのが道理。必要とされないのなら尚の事、もはや残す意味はないだろうと」
老爺にはなんだかよくわからなかったが、
仙師様のどこか憔悴し一方で高揚しているような表情は、何故だか物分かりの良かった長子の事を思い出させた。
心の拠り所だった母の形見の手ぬぐいを誤って無くし、でも大丈夫だと強がったあの子。
その後長い間、自暴自棄な行動を繰り返し、老爺は随分心配したものだ。
老爺はためらいながらも、仙師様ならきっと心配ないだろうと思ってこう返した。
「受け取っていただけるといいですね」
その言葉に仙師様はかすかに微笑み、また馬を駆って去っていった。
その夜、老爺は彼方の空で激しい雷鳴を聞いた。
胸騒ぎがして眠れず、そっと壁の隙間から覗いてみた。
暗闇の中、遠くに無数の稲光が錯綜し、付近の山々すら鳴動しているようで、老爺は身を震わせた。
一晩中続いたそれは、明け方になって不気味にパタリと止んだ。
白み始めた空に、一羽の鳥が飛び去っていった。
終話