Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    aoino_a0

    手を動かせ

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 💙 👍 👏
    POIPOI 15

    aoino_a0

    ☆quiet follow

    かなりの文字数を投稿できるようになったと聞いたので令和三年三月四日に発行した同人誌『おにいちゃん!!』より全文掲載。4.6万字。
    ニアノアちゃんが男性陣のことを『オニイチャン』と呼んで回っていたずらする話。呼称等GW参照捏造過多。

    #SDVX
    ##ボ

    おにいちゃんat.高等部教室棟廊下

     ぱたり、ぱたり、と靴底が力無く床を打つ音が空間に響いては消えていく。放課後、人気の無い広い廊下では、その音がいやに大きく聞こえた。
     靴音の軽さに反し、その主の足取りは非常に重い。普段は走るなと窘められるほど軽快なそれは、今はまるで枷でも括り付けられているかのように鈍いものだ。いつもの倍近くの時間をかけ、少年は一歩一歩廊下を進む。はぁ、と足取りと同じほど重苦しい溜め息が磨かれた床に落ちて消えた。
     行きたくねぇ、と雷刀は心の内で叫ぶ。音になるはずなどない慟哭は、ただ少年の胸を痛めつけるだけだ。
     今日の放課後、追試対象者限定の補習授業が行われる。追試の常習犯として教師間で有名な自分は、もちろん参加対象者だ。絶対参加、うっかり忘れようものなら後日説教と追加の個人補習が待っているのだから、対象者は参加する他ない。完全に記憶から抜け落ちうっかり参加し忘れてしまった回、一度だけ受けた個人補習は、厳しいと言う言葉では済まされないほど苛烈なものだったのだから尚更だ。あんなもん二度と受けたくねぇ、と経験者は口を揃えて言う。あれをもう一度受ける気概など、勉学を厭う少年には無い。与えられた選択肢は一つしかなかった。
     はぁ、と溜め息もう一つ。重い足に抗うことなくのろのろと歩いているが、このままでは開始時間に遅れてしまうかもしれない。参加するという予定は絶対に変えられないのだ。もう腹を括り、補習を受けるしかない。
     本日十数回目の溜め息をこぼし、少年はどうにか歩みを早める。先ほどまで恐ろしく鈍かった足取りが、ようやく普段通りのものに戻った。
    「らいとー!」
     ぱたんぱたんと靴が床を打つ音の中に、ぱたぱたと軽く早い足音が飛び込んでくる。だんだんと近づいてくる耳慣れた声に、雷刀は急いで振り返る。一八〇度回った視界の先には、予想通り余った長い袖をぶんぶんと振り回す双子の兎の姿があった。
     タン、と床を踏み切る軽快な音とともに、小さな身体が宙を舞う。青髪が重力に逆らいたなびく。長いそれがふわりと浮き上がり広がる様は、朝を迎えた空が青く色付いていく様を思い起こすものだった。
     予測済みの動きに、雷刀は腕を大きく広げることで応える。地を蹴り飛び上がった小柄な少女は、可愛らしい声をあげて少年の胸へと飛び込んだ。落とすまいと、広げられた両腕が小さな背に回される。そのまま、己の首に腕を回しはしゃぐニアの背を、返事をするようにぽんぽんと軽く叩く。上機嫌な高い笑声が鼓膜を震わせた。
     青い双子は自分と頭二つ分ほど背丈が違うというのに、同じほどの高さまで容易に飛び上がり飛びついてくるのだ。細く小さな脚で地を蹴り跳ぶ様は、まさしく兎である。こと跳躍に関しては、二人の身体能力の高さに舌を巻くばかりだ。
     ニアちゃん危ないよぉ、と小さな声が下から聞こえる。視線を下ろすと、細い肩越しにニアの上着の袖をくいくいと引っ張るノアの姿が見えた。少し引っ込み思案なところがある彼女は、姉の数歩後ろをついて回ることが多い。今回も、飛び上がり自分に抱きついた姉を急いで追いかけてきたのだろう。いきなり飛びついたことを申し訳なく思っているのか、髪と同じ色をした小さな眉は八の字に下がっていた。心なしか、頭につけられた長いリボンカチューシャもへたりと垂れ下がっているように見える。
     これぐらい大丈夫だ、気にするな、と言うように、ノアだー、と少年は青い兎の名前を呼ぶ。どうにか姉の方を片腕で抱え、心配げに見上げる妹の頭を撫でてやる。優しく温かな手つきに、ノアはきゅうと目を細めた。撫でられ幸せそうに目を閉じる小動物の姿が少年の頭によぎる。
    「何? 二人ともどしたー?」
     現在三人がいるのは、高等部の教室棟だ。既に本日の授業は全て終了しているとはいえ、初等部のニアとノアがこの棟にいるのはいささか不自然である。何か用事があるのだろうか、と少年は小さく首を傾げた。
    「ううん! らいとがいたから!」
     海色の瞳を輝かせ、ノアは元気に言った。どうやら特に理由も無くやってきたらしい。飛びついてきたのも、偶然知り合いに出会いテンションが上がった結果なのだろう。輝いた目でこちらを見つめ、捕まえたと言わんばかりに抱きつく姿からは、遊んでほしい、という意思も見て取れた。元気な彼女らは、いつもこうして遊びに誘ってくるのだ。きゃっきゃとはしゃぎ、遊ぼうとねだる姿はいつだって愛らしい。
     とびきり元気な少女たちと遊ぶのは非常に魅力的なことだが、今日は重要な補習が待ち受けている。二人には申し訳ないが、涙を呑んで断るしかない。
     抱えていた小さな身体をそっと下ろす。アトラクションを乗り終わったかのような楽しげな声が廊下に響く。らいと、らいと、と元気に名を呼ぶ少女たちと同じ目線になるように屈み、断りの悲しい言葉を口にするところだった。
    「アレ? 雷刀?」
     愛おしい声が己の名を呼ぶ。急いで声のした方へと顔を向けると、少女らの肩越しに愛しい愛しいレイシスの姿が見えた。華奢でなだらかな肩には学生鞄が掛けられており、今から会議室に向かうところなのだというのが分かる。この世界の根幹に深く関わる彼女は、授業が終わり次第システム運営をすべくすぐさま本館にある会議室に向かう。この時間に教室棟にいるのは珍しいことだ。おそらく、クラスメイトと話していたのだろう。
    「レイシス姉ちゃんだ!」
    「こんにちは」
     くるりと身を翻し、ニアとノアは薔薇色の少女へと駆け寄る。先ほど雷刀にしたように、ニアは彼女の胸に飛び込む。ノアも楽しげに少女に横から抱きついた。
    「ハイ、こんにちハ」
     二つの青い頭を両の手で撫で、レイシスは少女らに挨拶を返す。双子の兎は嬉しそうに満開の笑顔を咲かせた。鮮やかな黄色のリボンカチューシャが、喜びを表すようにぴょこぴょこと揺れた。
    「雷刀、今日は補習じゃないんデスカ?」
     懐く青兎たちの後ろ、膝に手を付き立ち上がった朱を見て、桃は頬に人差し指を当て小さく首を傾げる。本日補習授業が行われることはホームルームで伝えられており――特に雷刀は名指しされていた――彼女もその存在を知っていた。だからこそ、未だ廊下でニアたちとじゃれあっている姿に疑問を覚えたのだろう。
    「いや、今から行くとこ……」
     言葉尻がだんだんとすぼんでいきながらも、雷刀は少女のまっすぐな問いに答える。わざわざ名指しで念を押されるほどまずい状況にある自分が、まだ補習が行われる教室にいないことが気まずいのだろう。緋色の視線が、軋むようなぎこちない動きで愛しい桜色から逸らされた。そうなんデスカ、と少女の頭がことりと傾ぐ。気難しい顔をして露骨に目を逸らす彼の様子は明らかに不自然で疑問を抱くが、わざわざ追求することでもない。ふぅん、と彼女は口の中で呟いた。
    「補習、頑張ってくだサイネ!」
    「……うん、頑張る!」
     胸の前で拳を握り、レイシスは満面の笑みを浮かべ激励の言葉を飛ばす。好きな女の子に応援してもらえた喜びに、雷刀ははにかみ元気よく返事をした。不安と恐怖で重苦しかった心が、少しだけ晴れた気がする。なんとも現金である。
    「ジャア、ワタシは先に行きマスネ」
     さようナラー、と手を振り、少女は本館に向かって歩き出す。一歩進むごとに揺れる桃色のロングヘアーは、枝垂れ桜が風に吹かれそよぐような美しさがあった。
    「レイシス姉ちゃんばいばーい!」
    「ばいばい!」
     小さな双子は一緒に大きく手を振り上げ、廊下を歩んでいくレイシスの背に手を振る。少女はくるっと振り向き、白く可憐な手を振って可愛らしい言葉に応えた。振り返してくれた喜びに、長い袖が更にぶんぶんと振り回される。ちぎれてしまいそうな勢いだ。
     雷刀も手を振り、少女の背を見送る。癖のある長い桃髪が視界から消えたところで、ふとその思考が双子へと向けられる。今し方聞いた言葉が頭の中に反響し、一つの疑問を浮かび上がらせる。ふむ、と一人顎に指を当て呟いた。
     己のすぐ後ろ、上機嫌に声をあげる少女らの方へと振り返る。二歩ほど距離を詰め、少年は再び屈み彼女らと視線を合わせた。
    「なーなー」
    「なぁに?」
    「どうしたの? らいと」
     突然の問いかけに、ニアとノアは不思議そうに問い返す。疑問げな蒼と朱の視線が交わった。
    「レイシスとか紅刃は『姉ちゃん』って呼ぶのに、何でオレとか烈風刀は呼び捨てなんだ?」
     こてんと首を傾げ、雷刀は兎たちに問う。それは、以前から漠然と抱えていた疑問だった。
     ニアたちは、レイシスは『レイシス姉ちゃん』、紅刃は『紅刃姉ちゃん』というように、女性陣は『姉ちゃん』と付けて呼ぶ。しかし、雷刀をはじめとした男性陣は、教師を除けばほとんどが呼び捨てだ。このことに不満や嫌悪があるわけではないが、何故そのような区別をされているか、ずっと気になっていたのだ。この差は一体何なのだろうか。彼女らの中に何かルールがあるのだろうか。その答えは、少年の頭だけで弾き出すことはできない。ならば、本人たちに直接聞いてしまうのが手っ取り早い。
    「だって、らいとはらいとでしょ?」
    「らいとはらいとだもん。だから『らいと』って呼ぶよ?」
     同じくこてんと首を傾げ、ニアとノアは揃えて応える。青空を閉じ込めたような目は純真無垢そのもので、そこに誤魔化しやからかうような色は一切無い。彼女らの中では、呼び捨てにすることに特段ルールは無いらしい。何か意思や意味が込められているようでもないようだ。
     己が己であることは確かな事実である。そう答えられては、何も言うことができない。けれども、と少年は食い下がる。その唇は無意識に尖っていた。
    「いや、そーだけどさ……。でも、オレたちだって『兄ちゃん』って呼んでもいいじゃん」
     再三言うが、呼び捨てされることに不満があるわけではない。あるわけではないが、女性陣が『姉ちゃん』ならば、男性陣だって『兄ちゃん』と呼んでもいいのではないか。そこに重大な意味は無い。ただなんとなく考えただけだ。
    「らいとは『お兄ちゃん』って呼ばれたいの?」
    「呼ばれたい」
     赤い目を見つめ問うニアに、雷刀はすぐさま頷く。驚くほど早い返答と動きだった。弟が見れば呆れること必至だろう。
     常々『オニイチャン』と自称する雷刀だが、彼のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ者は『バタフライキャット』とまとめて呼ばれている小さな猫たちぐらいだ。そう呼ぶのが一番自然であろう双子の弟は、生まれてこの方『お兄ちゃん』だなんて呼ぶことはなかった――おそらく、彼の性格上今後もそう呼ぶことは決して無い。少年は『お兄ちゃん』という語に多大な執着を持っていた。『姉ちゃん』と無条件に呼ばれる少女らに無意識の嫉妬の情を持っていることに、彼は気付いていない。
     朱の言葉に、蒼の双子は顔を見合わせる。うーん、と声が重なり、ぱっと再び少年の方へと向く。口元に長い袖を当て、二人で寄せあうように頭が傾ぐ。しばしして、その小さな口が同時に開かれた。
    「らいとお兄ちゃん?」
     二人分の愛らしい声が重なる。鼓膜を震わす響きに、ガーネットがぱちりと瞬いた。突然のことに、ぽかんと口が開く。へ、と間の抜けた音が漏れ出た。
    「らいとお兄ちゃん」
    「らいとお兄ちゃん!」
     少年の反応が面白かったのだろう。ニアとノアは再び雷刀の名を呼ぶ。もちろん、彼が求めてきた『お兄ちゃん』という呼称付きだ。可愛らしく声を合わせ呼ぶ姿は、幼い妹たちが兄を慕って呼ぶそれとまるきり同じだ――そこにどんな意図があるかは分からないのだが。
     少年はバッと顔を伏せ、無邪気に己を呼ぶ兎たちから視線を外す。いつでもまっすぐ相手の目を捉える紅緋の瞳は、今は無機質な白い床に縫い付けられていた。俯いたその頬は髪色のように赤く色付き、八重歯の覗く口元はへにゃりと緩んでいる。同年代よりもしっかりとした身体は、堪えるかのようにふるふると小刻みに震えていた。
     おにいちゃん。
     ずっと求めていた響きに、心が、身体が、歓喜で満たされる。たった六文字がもたらしたのは、多大な幸福だった。ふへ、と思わず空気が漏れたような笑いが落ちる。細いそれは、喜びに満ち溢れたものだった。
    「らいとお兄ちゃん、どうしたの?」
    「大丈夫? らいとお兄ちゃん?」
    「いや……だいじょうぶ……」
     無事を告げるも、雷刀は未だ俯いたままだ。お兄ちゃんってばー、と双子は両側からその肩を押して揺らす。年上のお兄さんを呼ぶその可憐な口元は、心底楽しそうに口角が吊り上がっていた。二人で目配せし、にししと音もなく笑う。姉妹にしか聞こえないそれは、いたずらっ子そのものの響きをしていた。
     地を見つめていた少年がバッと立ち上がる。その顔は晴れやかで、喜色満面の笑みで彩られていた。
    「ほらほらー! 雷刀お兄ちゃんだぞー!」
     脇にいたノアを高く抱え上げ、雷刀はその場でくるりと回る。たかいたかいをされながら回るのは、まるで遊園地のアトラクションのようだった。きゃー、と楽しげな高い声があがる。青い妹の顔も、天真爛漫な笑みで彩られていた。
     ノアちゃんいいなー、とニアは大きく声をあげぴょんぴょんと跳ぶ。羨ましげな響きに、雷刀は一度ノアを下ろし、力こぶを作るように腕を曲げる。意図を察した少女らは、跳び上がりその頼もしい腕に掴まった。落とさぬよう力を込め、朱はぐるりと一回転する。回転ゴンドラに乗っているような感覚に、兎たちははしゃぎにはしゃいだ高い笑声を響かせた。
     小学生、それも高学年の少女二人を腕だけで支えるのは至難の業であるが、少年は持てる腕力と気力を振り絞って成す。そこには『お兄ちゃん』としての意地があった。
     賑やかな声の中に、突如鐘の音を模した電子音が飛び込む。どこか間延びした音が、広い廊下に響き渡った。特別日程の日――補習授業がある今日がまさしくそうだ――にのみ鳴る本鈴だ。それが何を意味するかを瞬時に理解し、雷刀はやっべ、と低く呟く。気色に満ちていた顔はサァと血の気を失い、青の透ける白へと変貌していた。
     補習授業は高等部教室棟の最上階の教室にて行われる。己は赤点の常習犯で、教師陣に悪い意味で注目されているのだ。遅刻するわけにはいかない。今から走れば、ギリギリ間に合う可能性は残っているはずだ。
    「二人とも気をつけて帰れよ! じゃーなー!」
     はしゃぐ少女二人を下ろし、雷刀は放り出していた学生鞄を急いで引っ掴む。そのまま、持てる力を振り絞って階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
     先生、五分ぐらい遅れてくれ。頼む。
     身勝手なことを強く祈りながら、少年は長い階段を力強く跳んでゆく。双子の青兎顔向けの跳躍力だった。高い身体能力に火事場の馬鹿力が合わさった結果だ。
     ダンッ、と重く大きな音が、最上階へと繋がる階段に響き渡った。






    「ねーねー、ノアちゃん」
     全力疾走していく朱の背に手を振り見送り、ニアは隣に立つ妹の袖をくいくいと引っ張る。名を呼ばれ、ノアは姉の方へと目を向ける。自然と顔を見合わせる形となった。
    「なぁに、ニアちゃん」
    「……『お兄ちゃん』って呼んだら、みんなどんな反応するかな?」
     楽しげに弾むニアの声に、ノアはぱちりと瞬きをする。驚きを浮かべた顔は、すぐさまにこりとした笑顔へと変化する。その瞳と口元には、いたずらげな色が宿っていた。
     元気いっぱいでどこまでも進んでいく姉に比べて内気な性質であるためか、ノアは控えめで大人しい子だと思われていることが多い。だが、それは少し違う。大人しい性格であるのは確かだが、その実ニアに負けじといたずらっ子なのだ。深海色の瞳は、これから起こるであろう面白いことを夢想し宝石のようにキラキラと輝いていた。
    「どうなるかな」
    「気になる!」
    「気になるね!」
     双子の兎はきゃっきゃと可愛らしく笑う。その丸く整った頭の中には、本日の大きないたずら計画が練られ始めていた。
     そうるにー、れいんにー、と仲の良い男性を小さな手で指折り数えリストアップしていく。他に誰にしようか、と煌めくサファイアが互いを見つめる。誰にやっても面白いことになるのは確定だ。では、更に面白くするためには何をすればよいのだろう。ふふ、と抑えきれない笑みをこぼしながら、いたずら兎は言葉を交わし本日の計画を組み立てていく。
     いたずら対象という名の被害者と大まかな流れと仕掛け方を決め終え、二人はすくりと立ち上がる。その小さく可愛らしい口元は、少女然とした容貌には不釣り合いなほど口角が上がっていた。
    「じゃ、行こっか!」
    「うん!」
     いたずらっ子全開の笑みを浮かべた顔を見合わせ、二匹の兎は手を繋ぐ。そのまま、廊下を飛び跳ね駆けていった。
     高等部教室棟、人気の無い放課後の廊下にはしゃいだ靴音が鳴り響いた。






    at.サーバー室

     四角形で構成された文字が煌々と光る画面を走りゆく。ぼんやりと眺めて数分、己の手で育て上げた従順なプログラムは、異常は無いと短い言葉で告げた。
     別のプログラムを走らせ、魂は大きく伸びをする。体重を掛けられた背もたれが小さく高い悲鳴をあげた。もう耳慣れてしまった音など気にも掛けず、少年は眼鏡をずらし目頭を軽く揉む。疲労が幾許か軽減される感覚に、あー、と気の抜けた声が漏れた。長時間いくつもの液晶画面に向き合うこの仕事は、常に眼精疲労との戦いだ。
     プログラムが電子の世界を駆け抜け文字を紡いでいくのを横目に、少年は姿勢を戻す。椅子と背骨が軋んだ音をあげた。
     ずっと画面を注視し、効率を求め新しいプログラムを作成し、その成果を見届けていたのだ。二色一対の目と聡明なる脳は過労で倒れる直前だ。疲労を声高に訴える身体が、栄養分を、糖分をよこせと叫ぶ。頭脳労働に必須なそれを摂取すべく、ハッカーはモニタ横の缶に手を伸ばした。
     空気が抜けたような音が、機器で埋め尽くされた部屋に響き渡る。サーバー室前方、その横側に設けられた自動ドアが開かれた音だ。開け放たれたドア、廊下に取り付けられた窓を背にしたシルエットは、見知った双子の形をしていた。
    「何だよ、また邪魔しに――」
    「そうるお兄ちゃん!」
     顔をしかめる魂を遮り、双子の兎はバッと両の手を上げ叫ぶ。ソプラノの美しいハーモニーは、己の名と聞き慣れぬ単語とを繋げることによって奏でられていた。
    「………………は?」
     突然のことに、疲れ切った少年の頭がフリーズする。長い沈黙の末、ようやく動き出した脳味噌がアウトプットしたのは、懐疑に満ちた間の抜けた音だった。
    「そうるお兄ちゃん! 遊びに来たよ!」
     弾みはしゃいだ声でノアは少年の名を呼ぶ。いつも通りの語と、いつもならあり得ない語が繋ぎ合わさった響きは、再び少年の思考をフリーズさせた。冴え渡る頭はすぐさま復帰し、表情筋に信号を伝達する。驚きで丸くなった瞳が、うんざりとした様子で眇められた。どうせ、このいたずら兎たちによる本日のいたずらだろう。何度も被害者になってきた少年には、すぐ理解できた。
    「『遊びに』って、お前らなぁ……」
    「そうるお兄ちゃん、遊んでー」
    「そうるお兄ちゃん、おねがーい」
     この時間は少女らにとってはただの自由な放課後だろうが、魂にとっては多忙な仕事の時間である。学園内のサーバー管理を一身に任されているのだから、こなさねばならない作業は少なくはない。彼女らの言うような『遊ぶ』暇などあまりない。
     そもそも、彼女らはいつだって自分のことなど知らないとばかりに勝手に室内で遊ぶのだ。騒がしい、作業に集中できねぇ、と不平不満を訴えれば、はーい、という呑気な返事の後、小さな声と動きで跳ね回って遊ぶ。業務に支障が出ない程度に控えめに行動し、サーバー管理に関わる機材には一切触れないようにするのだから性質が悪い。
    「大体何だよ、『お兄ちゃん』って」
    「らいとお兄ちゃんが『お兄ちゃん』って呼ばれたいって言ってたから、他の人もそう呼んでみようかなって」
     まっすぐな青い瞳を見て、少年は目を閉じ天を仰ぐ。眉間に深く刻まれた皺から、彼の抱く感情がよく分かった。
     あの先輩、何とち狂ったこと言ってんだ。真っ暗になった視界の中、朱を象徴するような少年が自然と浮かんでくる。そこにある呑気な笑顔が、今ばかりは忌々しく思えた。
     常々『オニイチャン』と自称し他称されることを求める彼だが、だからといってこんな幼い子どもに何をさせているのだろう。十歳近く歳が離れている子どもに『お兄ちゃん』と呼ばせるなど、彼と親しい関係であるニアとノア相手でなければ変質者の行動だ。しかも、それによって彼女らにいたずらの種を与えたのだ。本当に何やってんだよあの人、と少年は深い溜め息を吐く。呆れと怒りが色濃く滲んだものだった。
     そうるお兄ちゃん、そうるお兄ちゃん、と鳴き声のように呼ぶ彼女らの前に片手を大きく広げ、待て、と示す。顔を見合わせた姉妹は、きちんと口を噤んだ。それでも、その目と身体は動きたくてたまらないと主張するようにそわそわとしていた。
     ふむ、と魂は一人口の中で呟く。お兄ちゃん。一人っ子である己はまず呼ばれることはない呼称だ。ただのいたずらとはいえ、こうやって言われてみるとどこかくすぐったいものがある。これは朱い先輩が求めるものか。なるほど、と考え、少年ははっと目を見開く。どこか抜けたあの朱の気持ちが少しばかり気持ちが分かってしまったことに、向日葵色をした頭が項垂れる。これは理解してはいけない類の感情だ。
     今一度、青い双子を見る。そうるお兄ちゃんどうしたの、と尋ねる口の端はゆるりと持ち上がっており、彼女らの言動は全ていたずらによるものだということを如実に表していた。
    「……『お兄ちゃん』なー」
    「お兄ちゃん」
    「お兄ちゃーん」
     ぽつりと呟くと、二匹の兎は返事をするように言葉を繰り返す。いたずらしているうちに『お兄ちゃん』という響きが気に入ったのか、それとも逐一呼んでどう反応するかを楽しんでいるだけなのか。どちらもあるのだろう、と付き合いの長い少年は判断を下す。口当たりのいい言葉を繰り返すのは子どもにはよくあることであり、いたずら兎たちが一度始めたいたずらを繰り返すことも今に始まったことではない。
    「なぁ。ニア、ノア」
    「なぁに、そうるお兄ちゃん」
    「遊んでくれるの?」
     ことゆっくりとした調子で名前を呼ぶ。遊んでもらえると思ったのだろう、海色の瞳がキラキラと輝く。喜びを表すかのように、兎の耳のようなリボンカチューシャがピンと立った。ちげぇよ、と返すと、立ち上がったリボンがへにゃりと折れる。期待を裏切られ、双子は不満げに唇を尖らせた。
    「『お兄ちゃん』から話があるんだけどな」
     なにー、と兎たちは声を揃え、興味津々な様子で少年を見上げる。星煌めく夜空に似た瞳と、飴玉のようにつやめく緑と赤の瞳がかちあった。
     すぅ、と魂は息を吸い込む。肺いっぱいに、室内の少しこもった空気が満ちる。数拍置いて、溜め込んだそれをぶつけるかのように少年は声を張り上げた。
    「お前ら、こないだオレのチョコ勝手に食べただろ!」
     サーバー室の片隅に置かれた資料用文書を収納する棚、その下部の収納スペースには菓子をストックしている箱が二つ置かれている。来訪者向けの共用のものと、魂が置いた彼専用のものだ。キャンディにマシュマロ、ガムにチョコレート。頭脳労働には甘いものが常識、と謳う彼によって、作業の合間に摂取する糖分である様々な菓子が放り込まれていた。
     先日、そんな専用箱からチョコレートが一つ行方不明になった。コンビニエンスストア限定の少しお高いそれは、作業に行き詰まった時のとっておきとして楽しみにとっていたものだ。SNSでの評判も高く、期待していたものだけあって喪失感は大きい。当日から犯人捜しをしていたのだが、今日ようやくその被疑者と対峙することが叶ったのだ。問い詰めるなら今しかない。
    「そんなことしてないよ!」
    「嘘吐け! あそこ触るのお前らぐらいだろうが!」
     厳密に言えば、リボン、冷音、灯色、氷雪、識苑も対象に入る。しかし、冷音、灯色、識苑が菓子を食べることはあまりなく、件の箱に近づくことはほとんどない。氷雪も同様であり、また、ここに訪れる機会自体が冷音たちよりも少ない。己の記憶が正しければ、あの雪の少女はここ一週間は来ていないはずだ。そも、魂の菓子に対する執念をよく知っている彼らが盗るはずなどない。全員、自ら面倒事を起こそうだなんて考えない性格なのだ。
     そうなると、同じく菓子をこよなく愛する者であるリボンが最有力候補となるが、彼女はここ最近サーバー室を訪れていない。知らぬ間になくなったチョコレートを買った頃から今日まで、綿菓子のような犬を携えたあの少女がここに来た覚えはなかった。
     ならば、あとは消去法だ。サーバー室に訪れる機会が多く、菓子を食べそうな人間となると、この双子に絞られる。
     あ、と濁った声が漏れる。発信源はニアだ。その愛らしい顔は強ばり、少し青くなっていた。明らかに何かに――それも、悪いことに気付いた様子だ。
    「きっ、共用のと間違えただけだもん! わざとじゃないよ!」
    「やっぱお前らじゃねぇか!」
     きゃーきゃーとかしましい声が機械で埋め尽くされた部屋に響く。大量の機器が奏でる低い呻き声を掻き消すような騒がしさだ。通常教室と同じ壁であれば、きっと廊下まで響いていただろう。
    「そうるお兄ちゃんこわーい!」
    「こわいよー!」
    「うるせぇ! 『お兄ちゃん』の言うことはちゃんと聞け!」
     眉尻を下げぴょんぴょんと跳び回るニアとノアを今一度怒鳴りつける。しかし、お遊びで呼んでいる『お兄ちゃん』には効力など欠片も無い。ただただ、いたずらっ子二人をはしゃがせるだけだ。
     サーバー室の片隅、作業用に置かれている机に向かった冷音は、三人が諍う声を遠くに聞きながら課題を進める。握ったペンがノートの紙面の上を走っていく。耳が痛くなりそうな音色は、少年にはもう慣れたものだった。あの三人がじゃれあうのは今日に限ったことではない。変に気にかけず、己の作業に徹するのが吉だ。
     ただ、彼は忘れていた。このような状況では、毎回必然的に自身も巻き込まれるのだということを。
    「れいんお兄ちゃん! 助けて!」
    「れいんお兄ちゃん! お願い!」
     きゃあ、と可愛らしい声をあげながら、双子は冷音へと駆け寄る。彼の脇へと寄り、隠れるように身を縮こめる。え、え、と動揺に詰まった声が彼女らの頭に降り注いだ。
     ようやく事態を理解したのだろう。雨色の少年は両腕を広げ、己が身体にぴたりとくっついた少女らと腐れ縁の少年との間にささやかな壁を作った。冷音も魂と同じ一人っ子である。そんな自分を『お兄ちゃん』と呼び、頼ってくれたのが少なからず嬉しいのだろう。少年が生んだ壁は腕のみ故頼りないものだが、大きく手を広げる姿からは小さな兎たちを守るという意志が感じ取れた。
     れいんお兄ちゃん、と姉妹はか細い声をあげる。細い身体の横からそっと伺う目には、反省の色など欠片も無い。ただただ、事態の進展を楽しみキラキラと輝いていた。しおらしい声は弾みを抑えきれていないもので、明らかに演技である。友人と対峙した少年は、機嫌の悪さを露わに眉を強く寄せた。
    「小さい子相手にムキになりすぎだよ」
    「うわ、裏切るのかよ」
     裏切るも何もないよ、と夕と夜のあわいのような髪の向こうに隠れた目が眇められる。深紫の瞳には、呆れが色濃く浮かんでいた。小学生と同レベルで騒いでいるのだ。呆れるのも仕方が無いだろう。
    「この裏切り者!」
    「大人げない魂から離してるだけで裏切り者も何もないでしょ! 小さい子相手にそんなにキレないの!」
    「楽しみにしてたもん食べたれたらどれだけ優しいオレだってキレるだろ!」
     己があのチョコレートを楽しみにしていたことは、彼もよく知っているはずだ。それを奪われた悲しみや怒りは少しぐらい分かるはずである。彼だって、大好きな梅雨の雨を異常気象で奪われたことが何度もあるはずだ。それと同じようなもんだろ、という少年の熱弁に、冷音は溜め息を一つ吐いた。
    「また買えばいいだけの話でしょ? 期間限定じゃないんだからさ」
    「それとこれとは別だろ」
    「心狭すぎるでしょ……」
     呆れきった声に、二色の目を持つ少年はうるせぇ、と返す。他人にどれだけ言われようと、許せないものは許せないのだ。犯人が反省した様子が全くないのだから尚更である。
    「……何……? うるさいんだけど……」
     部屋の端、机とサーバーの間に転がっていた何かが身を起こす。授業終了後、すぐさまこの部屋に来て仮眠をとっていた灯色だ。あがった声は寝起き特有のふわふわとしたものだった。これだけ騒がしい中、今の今まで眠っていられたのはさすがというべきであろうか。
    「ひいろお兄ちゃん……」
    「そうるお兄ちゃんとれいんお兄ちゃんが喧嘩してるの」
    「…………え、何……その呼び方……」
     うるうると不安げに瞳を揺らし見つめる青色兎に、灯色は真顔で声を漏らす。寝起きでけぶっていた目からは、完璧に眠気が消し飛んでいた。あまりに突拍子もない呼称に、飴色の瞳が訝しげに細められる。警戒を露わにしたものだった。
     あのね、とニアは事の始まりを語り出す。一人の少年が生み落としてしまったいたずらに、少年はこくりと頷いた。その目には、また眠気が宿っていた。
    「馬鹿馬鹿し……」
     一言呟いて、はしばみ色の少年はくぁ、と欠伸を一つ漏らす。騒がしいと思って聞いてみれば、なんてことはない、あまりにもくだらない諍いだ。彼らがこのように言い争うことは多々ある。それにいちいち指摘をしていては身がもたない。関わらずに放置するのが一番だ、というのが短くない付き合いで出した結論だ。
    「あ? 灯色もこいつらに味方するのか?」
     灯色が起きたことに気付いた魂が、睡魔に誘われる彼に険しい声を飛ばす。彼まで少女らに誑かされてしまい、一人孤立することを避けたいのだろう。味方が欲しいということは分かるが、このように喧嘩腰では逆効果だ。
    「灯色まで巻き込むことじゃないでしょ」
     少年の言葉に、冷音も同じく険しい声色で割り込む。事実、灯色はそこで眠っていただけで今回のことには一切関係ない。この言い争いに何の関係性のない彼を巻き込むことは避けたいのだろう。
    「知らないし……興味無い……」
     二人の剣幕など知ったことではないという風に、眠たげな少年はまた一つ欠伸をこぼす。起き上がった身がくたりと倒れ、床に寝転がる。癖のある鳶色の髪が、無機質な冷たい床に散らばった。先ほど驚きに真ん丸に見開かれた目は、既に瞼が落ちかかっている。完全に寝る体勢に入っていた。
    「……『お兄ちゃん』って呼ばれてるんだったら、もっと『お兄ちゃん』らしくしたら?」
     おやすみ、と言い残し、少年は白い瞼を閉じた。数秒も経たぬうちに、すぅすぅと小さな寝息が聞こえてくる。寝ちゃったね、ねー、とニアとノアは彼を起こさぬよう囁きあう。どこでも即座に眠れるのは、灯色の特長の一つだ。
     眠りゆく友人の残した言葉に、魂と冷音はう、と息を詰まらせる。彼の指摘通りである。『お兄ちゃん』などと呼ばれるほど年の離れた子どもを相手にしているのだ。それらしい振る舞いをするのは、年長者として当然の姿であると言っていい。二人とも、特に魂は大人げないことをしている自覚はあった。
    「……間違ったか知らねーけど、勝手に食ったの謝らないことに怒ってんだよ。オレは」
     はぁ、と少年は溜め息一つこぼす。今ここに抱える怒りはもっともなものであるはずだ。楽しみにしていたものを、しかも大好きなチョコレートを勝手に食べられ、謝罪の一つも無いのだ。大人げないのは分かっている。それでも、間違いは謝るのが道理ではないだろうか。ただ、謝罪の一言さえあれば、こんな騒がしいことにはならなかったはずだ。
     少年の言葉に、少女らは顔を見合わせる。先ほどまでキラキラと輝いていたその表情は、今は落ち込み萎んでいた。機嫌良さそうにピンと立っていたリボンカチューシャは、心なしか少しへたりと垂れているように見えた。
     魂の言葉は正論だ。勘違いとはいえ、勝手に食べてしまったのなら謝るべきである。いたずらの延長線上でついついふざけてしまったが、本当ならば二人はすぐさま謝罪すべき立場なのだ。気分が高揚してみてつい見ぬふりをしてしまっていたが、二人にもそれは分かっていた。
     なんともいえない沈黙が四人の間に流れる。重苦しいそれは、細い彼らを押し潰してしまいそうにすら思えた。
    「……どうする?」
     沈黙を破ったのは、意外なことに冷音だった。しゅんとうなだれる二人に、少年は声をかける。責める響きなどない、穏やかで柔らかな音色だった。灯色の言葉に、彼も『お兄ちゃん』らしい態度をとろうと思ったのだろう。その姿は、いたずらをした子どもを優しく窘め、正しい行動を促す年長者のようだった。
     雨の少年の言葉に、双子は今一度顔を見合わせる。しばしして、小さく頷き、少年の作った拙い防護壁から一歩前へ出た。桔梗色の少年は、その小さな背を静かに見送った。
    「そうるお兄ちゃん、ごめんなさい」
     謝罪の言葉が二つ重なる。身体の前で手を揃え、ニアとノアの二人組は深くお辞儀をした。長いリボンカチューシャが、重力に従いへたりと垂れる。彼女らの心情を表すようだった。
     ん、とぶっきらぼうな声が二人に投げかけられる。そこに怒りの色はもう無かった。求めていた謝罪の言葉をもらったのだ。少年が怒る理由はもう無かった。それでもあれだけの剣幕で怒ってしまったことが今更気恥ずかしいのか、彼は青い頭から少し目を逸らし、細い指で頭を掻いた。
    「今度買って返すね……」
    「いらねーよ」
     ノアの申し出に、魂はひらひらと手を振って返す。さすがに小学生に弁償を求めるほど、彼は鬼ではない。今ここで欲しいのは謝罪であり、件のチョコレートではないのだ。犯人を捜し当て誠意ある謝罪が果たされた今、少年にとってこれらはもう解決したことである。その後の対応ぐらい、既に自分でこなしている。
    「あと、その『お兄ちゃん』ってのやめろ」
     調子狂う、と二色一対の瞳が険しく眇められる。最初はくすぐったさと仄かな喜びを覚えてしまったこの呼称だが、延々と呼ばれてはどうも調子が狂ってしまう。根本はいたずらということもあってか、次第に苛立ちすら覚えたものだ。『お兄ちゃん』といたずらっ子二人に自由に呼ばせるのは、彼女らを野放しにしているようであまり良い思いはしない。年長者であれば、まず諭すべきことだろう。
    「はーい」
    「分かったよ、そうる」
     耳慣れた声が、耳慣れた言葉で己を呼ぶ。しっくりくる呼称に、うんうん、と大きく頷く。やはり、いつも通りが一番だ。戻ってきた当たり前の日常を噛み締めつつ、魂はこちらを見上げる双子の頭に手を置く。そのまま、わしゃわしゃと力強く頭を撫でた。ぼさぼさになっちゃうよぉ、と大きく声をあげる少女らに、うるせー、とだけ返す。またきゃーきゃとはしゃぐ声が響き渡る。皆の表情は明るいものへと変わっていた。
     少年の猛攻で乱れた髪を直すニアとノアに、冷音はよかったね、と声をかける。うん、と元気な声が二つ重なった。元の調子を取り戻した様子に、少年は口元を緩める。諍いで険しくなっていた表情は、随分と和らいだものとなっていた。
    「で、そうる! 遊ぼ!」
    「遊ぼ遊ぼ!」
     先ほどまでのしおらしい姿はどこへやら、双子は万歳するように手を上げた。落ち込み仄暗くなっていた目は、再び宝石のような輝かしい光を取り戻している。いつも通りの元気いっぱいないたずら兎だ。
    「無理」
     少女らのキラキラとした視線を振り払うように手を横に振り、少年は一言で切り捨てる。今日終わらせるべきタスクは多くはないが、少ないとは言い切れない。先ほど作ったプログラムのブラッシュアップも早く行ってしまいたい。本日彼女らと遊んでいる時間は無い。そもそも、『遊ぶ』と言ったって、この兎たちは己の周りで自由気ままに行動するだけだ。『遊ぼう』も何もない。彼女らが勝手に騒いで勝手に楽しくなっているだけなのだ。
     少年の返答に、そっかぁ、と二つ声が返される。先ほどの元気とは反転した、しょんぼりとしたものだ。遊んでもらえるかもしれないという期待が砕け散ったのだから、仕方の無いことだろう。じゃあまた今度ね、と少女らはくるりと表情を明るく変え、元気に合唱する。はいはい、と少年はまた軽く手を振って返す。小さな笑声二つが、機械音がうねる部屋にこぼれ落ちた。
    「れいんお兄ちゃんは?」
    「俺も無理かなぁ。ごめんね」
     あと俺もお兄ちゃん呼びはやめてね、と冷音は困ったように笑った。魂と同様、その呼ばれ方がくすぐったく、調子を狂わせるのだろう。けれども、そこには一抹の名残惜しさが見て取れた。気付かぬ双子は、はーい、と鏡合わせのように手を上げ少年に応えた。ありがと、と優しい声が返された。
     とてててて、と可愛らしい足音が、機械が唸る部屋を駆け抜けてゆく。飛行機の羽のように手を広げ、双子はドアへと駆け寄った。人が前に立ったことにより、再び自動ドアが開く。どこか薄暗い部屋に、廊下の窓から降り注ぐ陽光が差し込んだ。
    「じゃ、ばいばーい!」
    「また明日ねー!」
     来た時と同じ、窓を背にし、ニアとノアは手を振り声を張る。そのまま、ドアをくぐり抜け廊下を走っていった。パタパタという遠くに聞こえる足音を、ドアが閉まる音が遮る。ドアと廊下は強固な扉で隔てられ、サーバー室は再び元の静寂を取り戻した。
     つい先ほどまで包まれていた喧騒にかすかな寂しさを覚えながらも、魂は再び液晶モニタに向き合う。騒動の前に走らせていたプログラムはとっくに仕事を終え、異常無しという報告を携え親である少年の帰りを待っていた。
     作った通りの挙動をしたことに安堵し、少年はキーボードの上に指を走らせる。正常に仕事をこなすのは最低ラインだ。次に目指すは、効率だ。いくつものサーバーを任せられているのだ。一つの動作に使う時間は少しでも短くあるべきである。たとえコンマ数秒の差だとしても、積み上げれば処理一回分の時間の無駄が生まれてしまう。何より、より効率的でより優れたプログラムを生み出したいという願望は、ハッカーであれば誰しもが持っているものだ。
    「……ねぇ、魂」
    「知らねー」
     おそるおそるといった様子で話しかけてくる冷音を、バッサリと切り捨てる。オッドアイの少年の返答は既に分かっていたのだろう。紺青の少年は口を噤む。会話は一往復もせずに打ち切られた。
     彼の言いたいことは分かっている。『誰かに被害が及ぶのでは』という予想、否、事実など、あの二人に関わっていれば嫌ほど考えてしまうことだ。人をよく思いやる心優しい腐れ縁の彼ならば尚更だ。
     けれど、彼女らのいたずらを止める手立てなど、一介の少年は持ち合わせていない。あの生粋のいたずらっ子からいたずらを奪うなんて芸当は、教師ぐらいしかできまい。そして、今回のいたずらは大人から見れば無理に止めるほどでもない微笑ましいものに映るだろう。止める者などいないのだ。できることといえば、更なる被害者が出ないよう祈るぐらいである。
     しーらね、と呟き、魂はポップキャンディを口に放り込む。合成甘味料のチープで強烈な甘さが、舌に、脳に染み渡る。業務という頭脳労働といたずら兎たちとの小競り合いで疲れた身体が癒やされていく。蓄積された疲労が少しずつ和らいでいく感覚に、少年は目を伏せた。
     機器が呻る音。キーボードの上を指が踊る音。紙の上をペンが走る音。消え入りそうなほどかすかな寝息。随分と静かになったサーバー室に、変わらぬ音が満ちた。






    at.特別教室棟渡り廊下

     カツン、カツン、とヒールが無機質な床を打つ。学生鞄を肩に掛け、グレイスは姿勢良く歩く。今週の当番である化学室の清掃を終え、少女はゲーム運営業務につくべく、会議室目指して渡り廊下を歩いていた。
     躑躅色の髪を揺らす少女の後ろに、影が一つ追随する。同じく学生鞄を手にした始果だ。学年の違う彼は、彼女と同じ掃除当番だったわけではない。少女の当番作業が終わるまで、ずっと待っていたのだ。待っていなくていい、というか恥ずかしいからやめろ、と少女は再三言っているのだが、耳を貸す様子はない。教室の真ん前に待つ己の姿があることが恥ずかしいのだろうと解釈した彼は、掃除中は身を隠し、少女が教室を出た瞬間上から降って湧いてきたのだからどうしようもない。理解と意思の疎通など投げ出すしかなかった。
     運営業務に関わっているのはグレイスだけであり、始果は言ってしまえば部外者である。授業が終わり下校時間になったのならば、現在身を寄せている寄宿舎へと帰宅すべきだ。それでも、彼は放課後も彼女の後ろをついて回る。まるで、授業中会えなかった分を埋めるようだった。事実、そうなのだろう。グレイスと共にあることを選んだ彼にとって、彼女に付き従い共に過ごすことは何より求めるものなのだ。
     少年は足音一つ無く彼女の後ろをひたりと付いて歩く。まるで従者のようだ。実際、彼の忠誠心はそう形容しても足りないほどある。前を歩くグレイスは何も言わない。何度言っても、何度怒っても、彼は刷り込みされたひよこのように付いてくることをやめないのだ。それでいて、業務などの重要な行為の邪魔になることは何もしない。むしろ、時には補佐として働くこともある。もう諦めるしかなかった。
    「あっ! グレイスちゃん!」
     ヒールがたてる高い靴音の中に、ぱたぱたと軽く早い足音が飛び込んでくる。耳馴染んだ声で名を呼ばれ、グレイスは思わず振り返る。躑躅の瞳に映ったのは、長いリボンカチューシャを揺らしながらこちらへと跳ね駆けるニアとノアの姿だった。
     地を踏み切り、ニアはぴょんと跳んでグレイスの胸へと飛び込む。きちんと加減されたそれは、細身の少女でも何とか受け止められるものだった。危ないじゃない、と窘める声に、えへへー、とどこか得意げな笑声が返される。反省する様子はないようだ。彼女らと特別仲が良い碧の少年が注意してもやめないのだ。躑躅の言葉にはあまり効力はない。
    「あっ! はるかお兄ちゃん!」
    「…………は?」
     ニアがグレイスにしたように、姉の背に飛びついたノアは、少女の隣に立つ始果を見上げ声をあげる。耳慣れた名前と耳慣れぬ敬称が繋ぎ合わさった呼び方に、グレイスは息を漏らすような声を出す。呼ばれた当人である始果は、己のことだと思っていない調子でその場に固まったグレイスを不思議そうにじぃと見た。
    「グレイス、どうかしたのですか?」
    「いや、あんた、『はるかお兄ちゃん』って――」
    「はるかお兄ちゃんだー!」
     動揺でつかえる声は、今一度紡がれた呼び名によって遮られる。謎の呼称を繰り返す双子を、少女は呆然と眺める。は、と溜め息にも似た声が赤々とした唇からこぼれ落ちた。
     たしかに、ピリカのように『はるにぃ』と始果のことを兄のように慕って呼ぶ者もいる。しかし、自分の記憶が正しければ、この双子は彼のことを『はるか』と呼び捨てにしていたはずだ。なのに、今日は『はるかお兄ちゃん』と呼ぶ。一体どういう風の吹き回しだろうか。
    「何、その『はるかお兄ちゃん』って」
     分からないのなら、問うてみるのが一番だ。分からないまま思いを抱えるのは避けるべきことであると、彼女はネメシスで暮らすこの数ヶ月間でよく理解していた。聞けるものは聞いてみるべきだ。
    「らいとお兄ちゃんがねー、『お兄ちゃん』って呼んでほしいって言ったから」
    「だから他の人も『お兄ちゃん』って呼んだ方がいいのかなー、って思って」
     お試しなの、とニアとノアは顔を見合わせる。ねー、と一緒に頭を傾ける様は愛らしいものだ。話がよく理解できないのだろう。始果の頭も同じように傾いだ。反して、グレイスはその内容を理解し、眉を強く寄せる。マゼンタの瞳には、呆れと怒りがないまぜになった複雑な色が浮かんでいた。
     何言ってるのよあのバカ、と、少女は今頃補習授業を受けているであろう朱を内心罵倒する。小さい子どもにわざわざ『お兄ちゃん』と呼ばせるなど、馬鹿げているにもほどがある。あの朱い少年が『お兄ちゃん』と呼ばれたがっていることはよく知っているが、だとしてもこんな叶え方はないだろう。本当に何なのよあのバカ、と口の中で呟いた。
     また、少女は彼女らの声と表情を見やり、もう一つの答えに至る。いたずらだ。この兎のような双子は随分といたずらっ子で、仲の良い人間にいたずらすることが多々ある。この『はるかお兄ちゃん』とやらもそうなのだろう。双子の兄弟の朱い方は、彼女らにいたずらの種まで与えてしまったのだ。本当に何やってんのよあのバカ、と本日三度目の罵倒を心の内で叫び、グレイスは頭を押さえた。
    「はるかお兄ちゃんも会議室行くの?」
    「はるかお兄ちゃん、いつもグレイスちゃんと一緒だね」
     はるかお兄ちゃん、はるかお兄ちゃん、とニアとノアの二人はまるで鳴き声かのように始果のことを呼ぶ。彼から何らかの反応が欲しいのだろう。例えば、ハッカーの少年ならば馬鹿馬鹿しい、と切り捨てるだろう。雨好きの少年ならば、突然のことに狼狽えるはずだ。そんな愉快な反応を、彼女らは待っているのだ。現に、素直に喜んだ雷刀の反応を見て彼女らはこのいたずらを決行しているはずなのだから。
     それを京終始果に望むのは無謀なことだ、と躑躅は考える。彼は本当に感情があるのかと疑問に思ってしまうほど鈍く、何事にも反応が薄いのだ。一番近くで過ごしてきたグレイスですら、狐の少年の表情が大きく変わる瞬間は両の手で数えられる程度しか見ていない。ただ呼称が変わっただけで彼が何か反応を示すとは思えない。
     少女の予想通り、始果はそうですね、と表情を変えることなく言葉を返すだけだった。『はるかお兄ちゃん』という普段と違う呼称への反応は一切無い。気にしていないのか、それとも顔に出ていないだけなのか。きっと前者だろう、とスピネルが三人の様子を捉えぱちりと瞬きをする。なんとか会話は成り立っているものの、そもそも二人の顔と名前を覚えているかどうかすら怪しい。この少年はグレイス以外への興味が極端に薄く、過去のいきさつもあって記憶力も良いとは言えないのだ。
     それにしても、と少女は己の胸をそっと押さえる。薄い肉と骨の下で、心の臓が動いているのが分かる。けれども、そこに内包されているであろう『心』というものは、今の彼女には理解できない何かを生み出していた。
     はるかお兄ちゃん。
     双子の兎がそう呼ぶ度に、胸の内に何か分からないものが広がっていく。どこか薄暗いそれは、少女の小さな胸の内をどんどんと埋め尽くしていく。もやもやとしたこれは、一体何なのだろう。自分が何か呼ばれるならまだしも、何故始果が別の呼ばれ方をするだけでよく分からないものがこの胸に生まれるのだろうか。
     グレイスが首を捻っている間にも、青い兎たちは黒い狐と幾度も言葉を交わす。重力戦争が終わり、バグの海で生きてきた者たちが学園に編入してしばらく経つが、初等部である彼女らと高等部である彼とはあまり交流がない。普段話したことがない人と話せるのが嬉しいのだろう。始果の反応は非常に薄いというのに、双子はきゃいきゃいと楽しそうにじゃれついた。その様子すら、何だかもやもやする。何だろう、これは。胸の前で拳を握りしめてみるが、答えは出てこない。ただ目の前の光景を眺めるだけで、少女の華奢な心の内には暗雲にも似た何かが立ちこめていくのだ。
    「グレイスちゃん?」
    「……なに」
     三人を熱心に見つめていたのに気付いたのだろう。こてんと首を傾げ見上げるノアに、グレイスは短く返す。常通り発したはずの声は、何故か尖ったものとなってしまった。想定外の己の反応に、躑躅の少女は一人驚愕に目をぱちぱちと瞬かせる。ただが名前を呼ばれただけで、何故こんなにも強い語気で返してしまったのだろう。これも、この謎のもやもやによるものだろうか。本当になんなのだ、これは。疑問と不安ばかりが少女の胸に募っていく。
     少女の様子がおかしいことに気付いたニアとノアは、互いに顔を見合わせる。ことりと鏡合わせのように小さな頭が傾ぐ。うーん、と小さな呻り声が二つ。しばしして、彼女らの頭の上に付いたリボンがピンと立った。
    「グレイスちゃんも『グレイスお姉ちゃん』って呼ぶ?」
    「はぁ」
     突拍子もない提案に、少女は素っ頓狂な声をあげる。あまりにも予想外の応答だった。グレイスの反応に、兎たちはにんまりと笑う。新たないたずら対象を見つけたいたずらっ子の笑みだった。
    「グレイスお姉ちゃん!」
    「グレイスお姉ちゃん! 遊ぼ!」
     ぎゅっと抱きつき、青色兎たちは躑躅の少女を見上げ声をあげる。そこには純粋な誘いの音色だけでなく、いたずらげなものも混ざっている。反応の薄い始果から、感情豊かなグレイスに標的を変えたようだ。
     ニアとノアの二人は、レイシスたちは『レイシス姉ちゃん』といったように『姉ちゃん』とつけて呼ぶ。しかし、同じ年頃の形を取るグレイスは『グレイスちゃん』と呼んでいた。そのことには何の感情も抱いていなかったが、いざ『お姉ちゃん』と呼ばれてみるとなんともくすぐったい。慣れぬ呼称に、少女は、あ、う、と意味の無い単音を漏らしてしまうばかりだ。
    「ぅ、ちっ、ちが……、っ、や、やめなさいよ!」
     胸を占めていく面映ゆい感情に、グレイスはぎゅっと拳を握り叫ぶように否定の声をあげる。その白く透き通った可愛らしい顔は、紅葉のように赤く染まっていた。
     はーい、と双子兎は元気に声をあげる。あまりにも素直な返答に、モルガナイトの瞳がぱちくりと瞬く。いたずらに慣れているだけあって、引き際を弁えているのだろうか。そんなものを弁えるより先に、いたずらなんてものをしないようにしてほしい、と少女は強く願う。その思いが伝わることなど、この根っからのいたずらっ子たちにはないのだけれど。
     こほん、と咳払い一つ。柘榴石が蒼玉を見つめる。なぁに、グレイスちゃん、とニアは元通りの呼び方でグレイスを見上げる。普段と同じ様子に戻ったことに、少女は内心胸を撫で下ろす。つい漏れ出そうになった安堵の溜め息をどうにか呑み込んだ。
    「もう初等部の下校時間過ぎてるでしょ。帰らないの?」
    「もうちょっとだけ残るー」
    「レイシス姉ちゃんたちにも会いたいし」
     そう言って、ニアはぱっとグレイスから身体を離す。温もりが失われる感覚に、わずかな寂しさを覚える。ニアに抱きついていたノアも、姉から身体を離す。姉妹は躑躅と狐の前に並んで立った。
    「じゃあ、はるかお兄ちゃん、グレイスちゃん。またね!」
    「また明日ー!」
     結局始果の呼び名はいたずらのそれのまま、兎の姉妹はぴょんぴょんと飛び跳ね廊下を駆けていった。たなびく青髪と黄色のリボンが角に消えたことを確認し、少女ははぁ、と大きく溜め息を吐いた。あのいたずら兎たちとのじゃれあいはほんの短い間のことだっただろうに、どっと疲れが肩にのしかかってきた。
     彼女らが消えた方向は本館へと続く道だ。宣言していた通り、レイシスたちにも会いに行くのだろう。きっと彼女らにも、あの双子のいたずらは及ぶに決まっている。天然なところがあるレイシスは、そのまま素直に受け入れ流してしまうだろう。問題は、烈風刀の方だ。彼女らによく慕われているあの少年なら彼女らを諌め、いたずらの連鎖を止めることができるかもしれない。しかし、彼は案外押しと想定外の事態に弱いのだ。あの碧は二人がかりのいたずらに立ち向かえるのだろうか。頑張りなさいよね、と少女は胸の内でエールを送った。
     はぁ、と溜め息また一つ。今度はラズベリーの瞳がオレンジを見上げる。始果の顔には相変わらず感情が無く、先ほどまでの騒動など無かったかのような容貌をしていた。彼らしいといえば彼らしい。しかし、そこに何故だか安堵のような、憤怒のような、相反する強い感情が湧き上がってきた。あれだけ呼ばれて反応が無いのも、いたずらの呼称を受け入れ否定しないのも、何だか気に食わない。少女の心の底側から、ふつふつと何かが煮える音がした。
    「グレイス?」
    「なに」
     不思議そうに呼ぶ始果を、グレイスはバサリと切り捨てる。機嫌の悪さをこれでもかと露わにしたものだった。先ほどのように取り繕う意志などない。ただ、剥き出しの感情を少年にぶつけた。
     月色の瞳がぱちりと瞬く。何故グレイスがこんなにも機嫌が悪いのか分からないのだろう。それはそうだ、グレイス当人だってこんな感情を抱えている理由が分からないのに、更に感情に乏しい彼がその原因を分析できるはずがない。彼にできるのは、ただ首を傾げることぐらいだ。
    「……『お姉ちゃん』という呼ばれ方、そんなに嫌だったのですか?」
    「は?」
     少年が出した推論は、先ほどの少女らの行動に起因するのではないかということだった。突拍子もない言葉に、懐疑の声が小さな口元から発せられる。少女から見れば、随分と的外れな論だ。違うわよ、と端的に否定し、躑躅は黙りこくる。少年も同じく、口を閉じた。
     原因は分かっている。全て、あの『はるかお兄ちゃん』というふざけた呼称のせいだ。けれども、自身に何の関係もないそれが、これだけの複雑な感情を生み出しているのがとんと分からなかった。始果がどう呼ばれようと、グレイスには一切関係無い。けれども、あの響きを聞く度、胸の内に濁った何かがもやをかけるのだ。全く理解できない感情の動きに、少女は唇を噛みしめることしかできなかった。
    「……あんたこそ、『お兄ちゃん』って言われて嬉しくなかったの?」
     何気なしの問いに、無意識に唇が尖る。あの呼称を一切否定をしなかったということは、そこに嫌悪が無かった証拠である。普段と違う、特別な呼び方をされて、彼は喜んだのだろうか。表情に出ない分、少女には彼の感情が把握しきれなかった。
    「いえ、別に」
     躑躅の問いに、狐はすぐさま応える。あまりの返答の速さに、少女はぱちくりと目を瞬かせる。いつもどこかぼんやりとした彼がすぐさま反応したことに驚いたのだろう。アザレアの瞳には驚嘆の色が強く浮かんでいた。
    「……どう呼ばれても、変わりはありませんから」
     少年は力強く言う。彼という人間を表す『京終始果』という名は、グレイスから賜った大切なものだ。『はるか』だろうが、『はるにぃ』だろうが、『はるかお兄ちゃん』だろうが、『京終始果』が『京終始果』であることに変わりはない。呼称の違いなど、ほんの些細なものだった。己が『京終始果』であるということが彼にとっての最重要事項であり、生きる証であった。
     そんな思考を上手く言語化できない彼は、ふわりと口元を綻ばせ愛おしい少女を見る。なによ、と下から睨めつける躑躅目掛けて、少年は言葉を降らせた。
    「何と呼ばれても、きみがくれた名前に変わりありません」
     頭一つ分上から降り注ぐ言葉に、少女は目を見開く。彼が己が与えた名前に執着していることは知っていたが、こうもはっきり言われると、真っ先に羞恥が来る。遅れて、仄かな喜びが少女の胸を巣食うもやを切り払った。
    「……あっそう」
     まっすぐすぎる言葉に、グレイスは思わず目を逸らす。向けた先、窓の外はまだ明るい。日の入りまでもう少しあるだろう。降り注ぐ陽光の眩しさに、少女は目を細めた。
     心にも陽の光が差したように、覆いかぶさっていた暗い何かが少しだけ晴れていく。それが始果の言葉によるものだというのが、なんだか気に食わなかった。このよく分からないもやもやの原因もおそらく彼なのだ。彼に与えられたものが彼の手によって晴らされるなんて、まるでマッチポンプだ。
    「行きましょ。遅くなったらレイシスたちに迷惑だわ」
     肩に掛けた学生鞄の持ち手を改めて握り、グレイスは歩み出す。目指すはレイシスたちがいる会議室だ。本日は掃除当番があるため遅くなることは伝えてあるが、あまりにも遅くなっては迷惑がかかってしまう。楽曲が、エフェクトが膨大に増え、どんどんと世界を広げていくネメシスの保全には多大な労力が必要なのだ。人手はどれだけあっても困ることはない。
     特にナビゲーターとして勉強中の自分は、積極的にシステムナビゲートの仕事をこなすべきである。まだまだ未熟で一人でのナビゲートはできないが、数をこなすことは重要である。優秀なナビゲーターであるレイシスの仕事をすぐ側で見ることも、成長の糧となるはずだ。
     そういえば、あのいたずら兎たちも会議室に向かったのだった。また会うことになるのだろうか、と少女は顔をしかめる。自分が着くころにはあの奇妙ないたずらは止んでいてほしいものだが、どうなることやら。平和な未来を思い描くことに失敗し、小さな口が引き結ばれる。紫水晶が苦々しげに細められた。
     とりあえず、雷刀には一言文句を言ってやろう。そう決意して、少女は歩みを早める。後ろに続く始果も、同じほど歩調を早めた。頭一つ分違う二人が隣り合って歩く。並ぶ姿はどこか様になっていた。
     カツン、カツン、と華奢なヒールが床を鳴らす。音に合わせて、躑躅色の髪と、萌葱色の襟巻きが揺れる。足音一つとたなびく正反対の二色が、本館へと続く廊下の角へと消えた。






    at.本館職員室前

     失礼しました、と一礼。そのまま一歩後ろに下がると、自動ドアは軽い音をたてて閉じられる。ようやく日直の仕事を終え、福龍はふぅ、と息を吐いた。
     各教科の提出物の回収と引き渡しは先に終えている。本日分の日誌も、ついさっき担任教師に提出した。あとはもう帰るだけだ。少し重い学生鞄を抱え直し、少年は玄関へと足を向ける。できるだけ早く帰って店の手伝いをせねばならない。夕方は学校帰りの学生たちが寄るため、混むことがままある。手伝う人間は多いに越したことはない。できるなら鍛錬もしたいのだ。時間はどれだけあっても足りない。
     一歩踏み出したところで、廊下の向こう側から駆けてくる影があることに気付く。小柄なそれは余った袖を羽のようにはためかせ、職員室の前までやってきた。星があしらわれた長い袖、満月のように黄色いリボンカチューシャ、兎を模った若草色の靴。初等部のニアとノアだ。
     珍しい、と少年は黄丹の瞳を瞬かせる。初等部の下校時間はとっくに過ぎており、ほとんどの生徒はもう帰宅している頃合いだ。遊ぶために学園に残る者は少なからずいるが、それも初等部棟やグラウンド、中庭がほとんどで、本館に来る者はかなり珍しい。遊ぶような場所がない上に、職員室があるのだ。いつ教員に注意されてもおかしくはないこの場所で遊ぼうとする生徒はそういない。
     そういえば、あの青色をした双子は、級友である嬬武器の兄弟やレイシスと仲が良かったはずだ。遊び相手として彼らを探しているのだろうか。だとしたら、放課後彼らが集まる会議室がある本館に来ていることも納得だ。一人結論を出し、少年は歩を進めた。
    「ふくりゅうお兄ちゃん!」
    「………………は?」
     廊下に響き渡る声に、福龍は足を止める。己の名を呼ぶ声には聞き覚えがある。前方から駆けてきたニアのものだ。しかし、そこには自身の名前だけでなく、普段聞くことのない単語が付随していた。
     ぴょんと一跳び、ニアは少年へと飛びかかる。小学生一人分が飛びついた勢いだ。相応の負荷がかかったが、鍛えられた体幹はぶれることなく、小さな少女を受け止めた。頭二つ分下、よく鍛えられた腹に青い袖に包まれた腕が回される。遅れてノアも少年の側へと駆け寄る。あっという間に、双子に包囲されてしまった。
    「……一体何だ」
     突然駆け寄ってきた兎たちを前に、形の良い眉が強く寄せられる。眇められた目は、警戒心を露わにしたものだった。
     福龍とニア、ノアの姉妹に縁が無いわけではない。しかし、会う機会といえばジャケットやアピールカードの撮影の場ぐらいで、交流はほとんど無いと言っていい。人懐っこい彼女らは気にしていないようだが、突然交流の少ない人間が話しかけてきては警戒してしまうのも仕方無い。
     それに加えて先の呼び名だ。自身の記憶が正しければ、この少女らは雷刀のことは『らいと』、烈風刀のことは『れふと』といったように人を、こと男性陣は呼び捨てにしていたはずだ。以前会った時も、『ふくりゅう』と呼び捨てで呼ばれたことを覚えている。だのに、今日は『ふくりゅうお兄ちゃん』である。突然理由の分からない呼び方をされて疑念を抱かないなど無理な話だ。
     思わず構えそうになるのをぐっと堪える。相手は小学生だ。いくら警戒心が湧き出てこようと、子供相手に構えるなど大人気ない。そも、腹にはニアが抱きついているのだ。振りほどかない限り、構えを取るのは難しい。そして、小さな子どもを無理矢理振り払うのはなんだか気が引けることだった。
    「ふくりゅうお兄ちゃんに会うの久しぶりだなって思って」
     ねー、と少女らはソプラノボイスで合唱する。たしか、前に会ったのはアピールカードの撮影をした時だったか。思えば随分と時が経っていた。だとしても、こんな風に寄ってくるのはおかしい。先に言った通り、福龍とこの双子にはあまり交流がないのだ。人懐っこいことを差し引いても、いきなり『お兄ちゃん』などと称し寄ってくるだなんて怪しい。何か裏があるとしか思えない。
    「お前ら、そんな呼び方をしていたか?」
    「ううん。今日からだよ」
    「みんな、『お兄ちゃん』って呼んだ方が嬉しいかなって思ってね」
     少女らの答えに、福龍は今一度眉根を寄せる。『お兄ちゃん』と呼んだ方が嬉しい、とは、一体どういうことなのだ。何があったらそんなことを思いつくのだ。こちらを見上げる藍晶石を、訝しげに細められた金紅石が見つめる。彼の言いたいことを理解したのだろう。あのね、とニアは事のいきさつを説明する。一人の少年によって生み落とされた、『お兄ちゃん』の起源を。
     姉兎の言葉を理解し、咀嚼し、反芻し、福龍は一度大きく頷く。そのまま、片手で顔を覆い、天を仰いだ。指と指の隙間から見えるその目は固く閉じられており、口元は呆然としたように薄く開かれていた。
     一体何をしているのだ、あの級友は。日頃『オニイチャン』と自己主張しているのは知っているが、だからといってこんな子どもに要求することではあるまい。やっていることは不審者のそれと大差が無いではないか。固く閉じた瞼の裏に、にこやかな笑みを浮かべる朱の姿が思い浮かぶ。底抜けに明るいその笑顔が、今は恨めしかった。
     原因は級友であるが、こうやって呼び回っているのは二人のいたずらだろう。彼女らがかなりのいたずら好きだということは、福龍の耳にも届いていた。交流の少ない自分にも情報が入ってくるのだから、相当なものだろう。珍しく、その被害が己にも及んだのだ。こればかりは事故としか言い様がない。できることと言えば、諭すことぐらいだ。
     二歩下がり、少年は己に抱きついた少女から身を離す。不思議そうにこちらを見上げる双子を前に、龍を冠する少年は身を屈め、彼女らと視線を合わせる。きょとんとした瑠璃を見つめる虎目石の瞳は、真剣そのものだった。
    「……あのな、そういう呼び方は――」
    「あれ? 福龍?」
     やめた方がいい、と続けるはずの言葉は、耳慣れた声に遮られた。二色三対の瞳が、音の方へと向けられる。
     玄関へと繋がる廊下、その角から出てきたのは椿と紅刃だった。二人とも肩に学生鞄を携えている。彼女らもちょうど帰るところなのだろう。
    「椿姉ちゃん!」
    「紅刃姉ちゃんだー」
     二人の登場に、ニアとノアは喜びの声をあげる。くるりと身を翻し、双子は立ち止まった二人目掛けて駆けていく。ふたつの小さな身体は、柔らかな身体に受け止められた。珍しく下級生が懐いてくれるのが嬉しいのだろう。椿は嬉しそうに笑いながらニアの頭を撫でる。彼女らの反応に慣れているのか、紅刃もノアの青く長い髪を静かに梳かした。
    「どうしたアル? こんなところで」
     うりうりと青兎の頭を撫でていた椿が、不思議そうに尋ねる。福龍と同じく、初等部の生徒がこんな時間まで、しかも本館の職員室前に残っているのが気になったのだろう。兄と同じ色をした琥珀が、藍方石を覗き込む。少女の問いに、兎の姉妹はにこにこと楽しそうに笑いながら答えた。
    「遊んでるだけだよー」
    「ふくりゅうお兄ちゃんがいたから遊んでもらおーって」
    「……は?」
     ノアの言葉に、椿の身体が石のようにピシリと固まる。ぽかんと開いた口からこぼれた声は、低く硬い。快活な彼女から発せられたとは思えないようなものだった。
     妹の反応に、福龍は目を見開く。サァ、と音をたてて、彼の顔から血の気が引いていく。日に焼けた健康的な肌が、色を失っていく。
     まずい。まずいとしか言い様がない。まさか、こんな現場を妹に、おまけに想いを寄せる女性にまで見られてしまうとは。偶然とは何とも残酷である。
     頭一つ分低い少女に向けられていた椿の視線がが、スッと上へと向く。普段は丸い飴玉のようにつやめくミモザの瞳は、これでもかというほど強く険しく眇められていた。
    「……福龍」
    「違う、誤解――」
    「誤解も何もナイネ!」
     バカ、と語気強く椿は叫ぶ。その細い腕は、先ほど胸に飛び込んできたニアの身体をぎゅうと抱き締めている。お前なんかに近付かせないぞ、という強い意志が見て取れた。
    「あら、随分と可愛らしい妹が増えたのね」
     警戒心を露わにする椿とは対照的に、紅刃は長い空色を撫で梳かしながら言う。そこには確かな余裕があった。彼女は自分より双子たちとの付き合いが長い。この呼称がいたずらっ子たちのいたずらということを既に見破っているのだろう。
     軽やかに軽口を叩く少女に、福龍は今一度手で顔を覆う。からかわれているのだ。常は真面目な彼女だが、時折このようにお茶目な姿を見せる。そのギャップがとても可愛らしいのだが、今は別だ。羞恥が少年の胸に芽生える。想い人の前でこのように無様な姿を晒すなど、恥以外の何物でもない。
    「だから違う。二人が勝手に言い出し――」
    「小さい子にそんな呼び方させるなんて最低アル!」
    「だから違うと言っているだろう!」
    「何が違うネ!」
     きゃんきゃんとかしましい応酬が廊下に響く。どれだけ否定しても、椿は態度を変えない。むしろ、会話を重ねる度、警戒が強固になっているように見えた。ニアを抱えたまま、少女はじりじりと後ろへ下がる。福龍と幼い兎との間に、物理的な距離を置こうとしていた。誤解を解こうと近づけば、更に距離が取られるだろう。もう詰みに近い。
     二人の様子を眺め、紅刃はクスクスと小さな笑い声をあげる。珍しい二人の様子に興味津々なのだろう。ガーネットの瞳は腕に閉じ込めた青兎ではなく、絶妙な距離を保つ双子を見つめていた。
     涼やかに笑う紅い少女を横目で見る。四人の性格をよく知る理知的な彼女なのだ。これが兎たちの気ままないたずらから発生した事態だと既に理解しているに決まっている。現状を分かっているなら、妹を説得すべく協力してもらいたい。
    「……紅刃さんからも言ってやってくれませんか」
    「そうしたいのはやまやまなのだけれど、聞いてくれる様子じゃないわよね」
     そう言って、紅刃は椿を見やる。今の彼女は警戒心を露わにした動物と同じで、話す余地は残されていない。福龍が謝罪なり何なりするまで、この様子は続くだろう。
     己が胸に抱きつくノアをそっと引き剥がし、紅刃はその小さな手を取る。不思議そうに見上げる妹兎はそのまま、彼女は椿に抱き締められているニアの元へと向かった。
     紅刃相手ならばと少しばかり警戒を解いたのか、椿は幼兎を抱き締める腕をほんの少しだけ緩める。豊かな胸にすっぽり収まった姉兎の手を、紅の少女は取る。姿勢良く屈み込み、そのまあるい二対の蒼と視線を合わせた。
    「あんまりからかっちゃだめよ?」
     ね、と少女は優しく笑いかける。小さな子どもに言い聞かせる声は、はっきりとした、聞くものによく響く音色をしていた。妹がおり、子どもの相手にも慣れている彼女だから成せるものだろう。
     紅刃の言葉に、ニアとノアはどこか気まずげに顔を見合わせる。彼女の思いを素直に受け取ったのだろう。双子は、はーい、と手を上げ返事をした。そのままくるりと振り返り、椿を見上げる。未だ険しげな彼女の瞳をじぃと見つめ、双子は言葉を紡ぎ出す。
    「椿姉ちゃん。あのね、違うの」
    「本当に、ニアたちが勝手に言ってるだけなんだ」
    「ふくりゅうはなんにも悪くないよ」
     双子の兎は、真摯な声で福龍を庇う。紅刃がきちんと諫めたのが効いたのだろう。誤解の原因である呼称は、元のものに戻っていた。真ん丸な紺碧が、少女を見つめる。そこにいたずらっ子らしい色は無い。ただただ真剣なものだった。
    「……ほんとアル?」
    「ほんとだよ」
    「ノアたちが呼んでみただけなの。ふくりゅうは何も言ってないししてないよ」
     訝しげな様子を隠すことなく、椿はこちらを見上げる双子を眺める。紛れもない真実だと主張するように、青兎たちはぴょんぴょんと跳ねた。必死な様子に、花を冠する少女の表情が少しだけ和らぐ。跳ねる小さな兎たちから顔を上げ、己の兄へと視線を移した。その目は、本当かと問い質す鋭い輝きをしていた。
    「だから、何もしていないと言っているだろう」
     はぁ、と溜め息一つ吐き、福龍は腕を組み目を伏せる。いたずらの犯人たちが自供しているというのに、まだ疑うというのか。妹の自身に対する疑り深さはいつものことだが、ここまで疑われるのはなかなかに辛いものがある。そんなにも信頼されていないのか、と少年は内心嘆息した。
     眇められていた山吹色の目が、元のまあるい形へと戻る。その中にまだ懐疑の色は見えるが、ひとまず納得したのだろう。椿は分かったアル、と一言放った。
    「でも、何で『お兄ちゃん』なんて呼んでたアル?」
    「あのねー」
     不可思議な顔をして首を傾げる椿に、ニアは事の経緯を説明しだす。朱い少年の願いによって生まれた短い物語を聞いて、少女は強く顔をしかめた。
    「ドン引きネ…………」
    「雷刀らしい、というところかしら」
     うわぁ、と漏らす椿の隣で、紅刃は笑う。雷刀の事情も、双子のいたずらっ子の事情も知っている彼女だから笑っていられるのだろう。何で笑えるアルカ、と少女は強ばった顔で友人を見る。ふふ、と息を漏らすような笑い声が返された。
     丹色の丸い目が、再び兄のそれへと向けられる。妹の何か言いたげな視線に、兄も同じものを返す。空白幾許、観念したように先に口を開いたのは福龍の方だった。何度も疑いの目を向けられたからか、固い音色をしていた。
    「何だ」
    「何アル? 福龍も『お兄ちゃん』って呼ばれたいアル?」
    「そんなわけないだろう」
     疑問げに見つめる瞳と言葉に、呆れを多分に含んだ声が応える。今まで何を見てきたのだ、この妹は。重い息を漏らし、福龍は唇を引き結んだ。
     雷刀が常日頃言っているような、『お兄ちゃん』という呼称に憧れが無かったと言えば嘘になる。しかし、それは幼い頃の話だ。高校生になった今となっては、兄妹に『お兄ちゃん』などと呼ばれたいなんて思わない。その対象が他人、しかもいたずらによるものであれば尚更だ。
    「嫌だったらすぐ訂正させるデショ。何回か呼ばせてる時点でアレネ」
    「暴論すぎるだろ」
     注意しようとしたところをお前が遮ったんだ、と言うと、そうアルカ、と懐疑の色が残る返事がされる。一度は引き下がった様子だが、まだ疑っているらしい。疑り深いにも程というものがある。ふぅん、と呟いて、椿は腕の中にあるニアの頬をつつく。いたずらっ子ネ、と降ってきた言葉に、えへへ、と誤魔化すような控えめな笑みが返された。
    「良いわね、『お兄ちゃん』」
     笑みを含んだ声が廊下に落ちる。隣に立つ友人の言葉に、椿は、え、と濁った声をあげた。同じタイミングで、福龍は片手で頭を押さえる。今までの騒動を見てきてなお紡がれた言葉とは思えない。呑気なそれに、頭痛が呼び起こされた。
    「じゃあ『紅刃お姉ちゃん』って呼ぶ?」
    「いつも通りで大丈夫よ」
     柔らかに細められた炎瑪瑙を見上げたニアが問いかける。頭を優しく撫で梳かしながら紅刃は断りの語を紡いだ。そっかー、と少し残念そうな声が小さな口から漏れ出た。
     刃を冠した少女が声を発した瞬間、二人の目がキラリと輝いたのを福龍は見逃さなかった。一度諫められているというのに、まだいたずらを仕掛けようとするのか。呆れを通り越していっそ尊敬の念すら覚える姿だった。
    「下校時間も過ぎたし、そろそろ帰ったら? 暗くなったら危ないわよ」
    「もうちょっとだけ!」
    「レイシス姉ちゃんたちに会ったら帰るー」
     元気に答える双子に、そう、と刀の少女は頭を撫でる。青色兎は嬉しそうに目を細め、その優しい手つきを享受した。可愛らしい姿に、少女も同じく愛おしそうに目を細めた。
     じゃーねー、また明日ー、と言葉を残し、兎たちは廊下を跳ね飛び駆けていく。嵐のように去っていった彼女らの背を眺め、福龍は今日何度目かの溜め息を漏らす。会話中、自身が疲弊していっているのは認識していたが、終わった今、どっと疲れが襲ってきた。
    「可愛い妹、いなくなっちゃったわね」
    「……妹は椿一人で十分です」
     あいつだけで手一杯ですよ、と福龍は苦々しい顔で呟く。あんなに騒がしい妹は椿一人で十分だ。何か余計なことを考えては突拍子もない行動をする彼女の手綱を握るのが精一杯だというのに、それ以上にいたずらっ子な妹が二人も増えては手に負えない。これ以上兄弟が増えるだなんて、考えただけでも頭が痛くなる。
    「……紅刃さんこそ、妹が増えなくてよかったんですか?」
     隣に佇む紅刃へと、福龍は言葉を投げかける。同じクラスではあるが、想いを寄せている彼女との交流の機会はさして多くない。せっかくこうやって話す機会が訪れたのだ。少しぐらい会話を楽しんでも許されるだろう。普段なら感じるであろう緊張は、先ほどの騒動でほぐれていた。
     そうね、と紅刃は顎に人差し指を当て思案する。しばしして、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。どこか艶やかな笑顔に、少年の心臓が強く跳ねた。
    「私も恋刃一人がいいわ」
     世界でただ一人の可愛い妹だもの。歌うように言葉を紡ぎ、少女はそっと目を伏せる。端正な横顔は、妹への愛おしさで溢れていた。
    「二人して何話してるアル?」
    「兄弟っていいわねって話よ」
     ふーん、と漏らし、椿は早く帰ろ、と続けた。えぇ、と答え、紅刃はぱっと手を上げる。軽く開いた手が、隣に立つ福龍に向けて左右に揺れる。可憐な口元が綻ぶ。
    「じゃあ、さようなら」
    「福龍もさっさと帰ってくるアルヨー」
     同じように手を振り、椿と紅刃は玄関へ向かって歩いて行く。数拍遅れて、福龍もさよなら、と手を振る。小さくなった二人の背には、彼の声は届かなかった。
     二人の姿が消えた頃、少年は重々しい溜め息を吐く。まるで、肺の中身を全て吐き出さんばかりのものだ。縋るように、肩に掛けた鞄の取っ手を強く握る。ナイロン製のそれが絞られるように潰された。
     双子のいたずらに、妹の誤解に、想い人の前での恥。一度に色んなことがありすぎた。疲れが肩に、背に、重くのしかかる。普段は非常に姿勢良くまっすぐな少年の背は、今は降り積もった雪の重みにしなる竹のように曲がっていた。先ほど引き起こされた頭痛は、未だ鈍く続いていた。
     残っていても仕方無い、さっさと帰ってしまおう。帰って早く休もう。そう考え、少年は足を動かす。その足取りは重い。精神的疲労が身体に如実に表れていた。
     そういえば、と福龍の頭にある者がよぎる。事の元凶である雷刀の弟、烈風刀だ。彼はあの双子と特に仲が良い。仲が良い分、いたずらされることがよくあると聞いている。彼女らは、彼の元にも行ったのだろうか。否、行ったのだとしたらあのいたずらは無かったはずだ。あの双子を止められるのは、教師か烈風刀ぐらいなのだから。
     いたずらがまだ続いているということは、彼の元にはいっていないのだろう。つまり、いたずらはまだまだ続く――彼の元にもあの嵐が訪れるということだ。
     頑張れ、と福龍は碧の級友の無事を祈る。節や胼胝の目立つ大きな手が、胸の前で固く握られた。






    at.本館廊下

     パタン、パタン、と靴底が床を打つ音が空間に響いては消えていく。放課後、人気の無い静かな廊下にはその音がよく響いた。
     抱えた端末の表面をなぞる。液晶画面に映し出された文字列が、音も無くスクロールされていく。流れていく情報を目で追いながら、烈風刀は静かに歩みを進めていく。
     次回行われるアップデートは追加楽曲数も少ない軽いものであるため、関連する業務は少ない。天才ハッカーにより精度を高められたレーダーからバグの発生報告はされていないので、そちらに手を回す必要も無い。有り体に言えば、暇だった。それでも少年は今できる雑務をできるだけこなそうと校内を巡っていた。つい先ほど、教師との打ち合わせを終えたところだ。
     さて、次は何をすべきか。液晶画面に浮かぶチェックリストを参照しながら、碧は考える。エフェクトとジャケット、インプット関連の数値設定の確認作業は既に終わっているはずだ。何か書類仕事は残っていただろうか。たしか次のコンテスト企画に関するものがあったはずだ。聡明なる少年の頭の中に、様々な仕事が浮かんでは消えていく。
     あっ、と大きな声が聞こえた。耳慣れた声に、少年は手にした端末を脇に抱え振り返る。一八〇度回った視界の先には、予想通り余った袖をぶんぶんと振り回す兎の姿があった。
     タタタタタ、と勢い良く速度を増していく軽い足音。タン、と床を踏み切る軽快な音とともに、小さな身体が宙を舞う。青に染まった長い髪が、大きなリボンカチューシャが重力に逆らって浮かんでたなびく。小柄な少女は、目の前の少年一人を目指して飛んだ。
     予測していた事態に、烈風刀は空いている方の手を広げる。そのまま、胸に飛び込み首に抱きついたニアを片手で受け止めた。子ども一人分の体重が、少年の身体に襲いかかる。闘いを超え鍛えられた、そして彼女らとの触れ合いですっかりと慣れてしまった身体はぶれることなく幼き躯体をしっかりと抱きとめた。
    「こら、廊下を走っては――」
    「れふとお兄ちゃん!」
     常日頃注意しているのに一向に直さない彼女を窘めようと、烈風刀はこちらを見上げる煌めく瑠璃をまっすぐ見つめる。瞬間、少女の口から、呼ばれ慣れた名前と呼ばれたことのない敬称が繋ぎ合わさった言葉が放たれた。
    「………………はい?」
     初めて聞く語に、少年の身体が凍ったように固まる。あまりの驚きにフリーズした頭がようやくアウトプットしたのは、空気を吐き出すような音だった。
     ニアちゃん危ないってばぁ、と幼い困り声が廊下に響く。ぱたぱたと足音がもう一つ。脳が処理を停止し動くことができない少年の元へ、青い影がもう一つ寄ってきた。
    「れふとお兄ちゃんだー!」
     駆け寄り珍しく大きな声をあげるのは、ニアの妹であるノアだ。彼女もまた、耳慣れぬ呼称で己のことを呼んでいた。ぱたん、と音が止み、少女は碧の少年の隣に立つ。その表情は、普段のはにかむような控えめな笑顔でなく、姉がよく見せるような天真爛漫な満開の笑みを浮かべていた。
     兎たちの言葉に、少年の思考は今一度フリーズする。たっぷり十秒、古めかしいパソコンのように鈍い音をたてて、ようやく脳味噌が動き出す。『れふとお兄ちゃん』とは何だ。『お兄ちゃん』なんて言葉はどこから出てきた。何故そんな呼び方をするのだ。動きの鈍った思考に、多量の疑問が流れ込む。鈍った頭では処理しきれないそれは、彼に混乱と動揺をもたらすだけだった。
    「どうしたの、れふとお兄ちゃん?」
    「れふとお兄ちゃん、大丈夫? ニア重い?」
     未だ固まり反応しない烈風刀の様子に、ニアはするりとしなやかな動きでその腕から抜ける。そのまま、目の前の腹に腕を回し抱きついた。自分も、と言わんばかりに、ノアも横から姉ごと少年を抱き締める。双子が特に懐いた人間にする、学園でよく見られる微笑ましい光景の完成だ。普段と違うところを挙げるとすれば、抱きつかれている側が硬直し何も反応もしないところだろうか。
     れふとお兄ちゃん、れふとお兄ちゃん、と双子兎は頭二つ分は上の燐灰石を見上げその名を呼ぶ。もちろん、『お兄ちゃん』という言葉付きだ。何度も繰り返されるそれは、まるで鳴き声のようだった。
    「えっ、あっ、ちょっと、ちょっと待ってください? いきなりどうしたのですか?」
     数十秒経ってようやく発した声は、動揺に満ちていた。情けないほど震えたそれに、青い兎は頭を寄せるようにことりと首を傾げる。何を言っているのか分からない、と言うように、きょとりとしたまあるい瞳で混乱で濁る翡翠を見上げた。
    「どうもしないよ?」
    「だってれふとお兄ちゃんはれふとお兄ちゃんでしょ?」
     ねー、とソプラノの合唱とともに、青い双子は上機嫌な様子で顔を見合わせる。ニコニコと浮かべた笑顔は爛漫で可愛らしいものだ。そこにいたずらの気配が隠れているのは、動揺しきった少年には気付くことができなかった。
     烈風刀を『お兄ちゃん』と呼ぶ者がいないわけではない。『バタフライキャット』とまとめて呼ばれている子猫たちは、少年のことを『れふとおにーちゃん』と呼んでいる。逆に言えば、幼い彼女らぐらいしか彼を『お兄ちゃん』と呼ぶ者はいないのだ。
     烈風刀は双子の弟である。『兄』という立場は朱い片割れのもので、己が持つのは『弟』という立場だけだ。下に兄弟が増えない限り、彼が『兄』という立場になることはない。そして、そんな機会などネメシスから生まれた存在である自分たちには絶対にあり得ないことだ。だから、『お兄ちゃん』などという呼び名は、己にとって無縁と言っていいものだった。
     そんなところに『れふとお兄ちゃん』という突然の呼び方である。慣れていないそれに、少年の胸に複雑な感情が広がっていく。様々な感情が混じり混じっていく。形容しがたいものが心を染めていった。
     その中で特に強いのは羞恥だ。一回り近く歳が離れた桃、蒼、雛の三人ならまだしも、ニア、ノアの二人のような歳の近い――ちょうど並べば『兄』と『妹』に見える程度の少女らに『お兄ちゃん』と呼ばれるのは、何故だか羞恥を呼び起こした。普段は呼び捨てにされている彼女らにわざわざ『お兄ちゃん』なんて呼ばれるのは、妙にくすぐったい。ざわりと胸の内がさざめく。
     それに隠れて、もう一つ強い感情がある。歓喜だ。再三言うが、烈風刀は双子の『弟』であり、『兄』とは呼ばれることはない存在だ。あの朱い兄ほど執着はしていないが、『お兄ちゃん』と呼ばれることには少しの憧れがあった。絶対に手に入れられないものに憧れを抱くだなんて馬鹿馬鹿しい、と聡明なる彼なら言うだろう。それでも、無意識はその言葉を求めていた。
     多大なる羞恥とわずかな歓喜で、少年の顔に紅が差す。鮮やかな赤が瞬く間に広がっていく。日に焼けていない白い肌は、あっという間に朱に染まってしまった。
    「れふとお兄ちゃん、お顔赤いよ?」
    「具合悪いの? 大丈夫? れふとお兄ちゃん」
     あ、え、と赤い顔で意味の無い声を漏らす烈風刀を、青色兎は心配そうに見上げる。瑠璃の瞳の奥には、いたずらのキラキラとした輝きが宿っていた。動揺の中、ようやくそれに気付いたのだろう。少年の目が悔しげに眇められた。
    「保健室行く? れふとお兄ちゃん?」
    「それとも帰る? ニアたち、レイシス姉ちゃんに伝えてくるよ? れふとお兄ちゃん」
    「あ、の、ちょ、っと……、ちょっと、待ってください!」
     片手で顔を覆い、烈風刀は叫ぶ。小さな兎たちが『お兄ちゃん』と呼ぶ度、彼の羞恥は煽られるばかりだ。指の間から覗く顔は燃えるように赤く、中途半端に開いた口からは相変わらず意味の無い引きつった単音が漏れ出ていた。
     少年の悲鳴に、双子は口を噤む。大人しくなった様子に、碧はようやく呼吸を思い出す。深く息を吐き、ゆっくりと吸いを繰り返し、どうにか揺れ動く感情を収めようとする。荒く波立つそれは、深く呼吸をする度落ち着きを取り戻していく。しばしして、その胸の内にようやく一時の凪が訪れた。
     顔を覆っていた手を取り払い、烈風刀は久方ぶりにこちらを見上げる二対の紺碧と対峙する。潤みつやめくそこには未だいたずらの光が煌々と輝いており、小さな口元は『お兄ちゃん』と鳴きたげにうずうずとしていた。カチューシャから伸びる長いリボンが、彼女らの落ち着きの無さを表すようにゆらゆらと揺れた。
     やはり、いたずらか。少女らの思惑に辿り着き、少年は形の良い眉を寄せる。青い双子兎は無類のいたずらっ子で、些細なものから壮大なものまで、度々様々ないたずらを仕掛けてくる。この『お兄ちゃん』もそのいたずらの一つなのだろう。つまり、己は最初からずっとからかわれていたのだ。無慈悲な事実に、天河石の瞳が伏せられる。はぁ、と吐き出された嘆息は、呆れと怒りと少しの悲しみがまぜごぜになった色をしていた。
     こほん、と咳払い一つ。烈風刀は一歩後ろに下がり、少女らから身を離す。そのまま屈みこみ、キラキラと輝く蒼い瞳をまっすぐに見つめた。その表情は怒りにも似た険しいもので、先ほどまで中途半端に開いていた口元は強く引き結ばれていた。まだ頬に朱が残っている分、いつもより厳格さが薄れてしまっているが。
    「年長者をからかうんじゃありません」
     硬くはっきりとした声で少年は言う。その響きは真剣なものであり、いたずら好きの少女らを強く諫める言葉であった。その厳格な雰囲気を感じ取ったのだろう。双子は姿勢を正す。だが、その視線は未だ気まずげに逸らされていた。ちゃんとこちらを見なさい、と追撃の言葉が放たれる。はい、と少し落ち込んだ声が二つ重なった。アイオライトとアクアマリンが真正面から対峙する。
    「あのですね、人をそうやってふざけて呼んではいけないのですよ。分かっていますか?」
     はい、とまた萎んだ声が二つ。少し湿った、泣き出してしまいそうな声だった。彼女らの様子に少しの罪悪感を覚えるが、ここでほだされてはいけない。心を鬼にせねばならないのだ。こんないたずらをしていて、もし何か危ない目に遭った時、傷つくのは二人なのだ。今のうちに言い聞かせて、未来に残された危険性を潰さねばならない。幼い子どもを守るのは、年長者の責務なのだ。
    「ごめんなさい……」
     ノアが真っ先に謝罪の言葉を述べる。続けて、ニアもごめんなさい、と声をあげた。厳しい言葉に押し潰されたのだろう。先ほどまでの元気はどこへやら、しょんぼりと落ち込んだ顔をしていた。
    「……れふと、『お兄ちゃん』って呼ばれるの嫌?」
    「い、え……、嫌というわけではありませんが……」
     潤んだ声と瞳が少年へと向けられる。ニアの言葉に、烈風刀は思わず言葉に詰まる。『お兄ちゃん』と呼ばれることに嫌悪は無い。あるのは羞恥だけだ。絶対に嫌だというわけではないけれども、やはりどこかくすぐったいこの名称で呼ばれるのは、できれば避けたい。心の底に少しだけ残る憧憬の情を切り捨てるように、烈風刀は軽く頭を振る。答える声は淀みすぼんでいくものとなってしまった。
     少年の言葉を聞き逃さなかった兎の瞳がきらりと怪しげに光る。頭につけられた長いリボンカチューシャがピンと立つ。せっかくの隙を逃すまいと、少女らは大きく口を開いた。
    「ほんと れふとお兄ちゃん!」
    「れふとお兄ちゃんって呼んでもいいの?」
    「話を聞きなさい」
     ぱぁと顔を輝かせた双子を、少年の鋭い声が切りつける。はぁい、としょげた声が二つ返された。全く、油断も隙もあったものではない。こんなところで隙を見せてしまった自分も悪いのだけれど、と胸中で静かに反省する。諭すならば、最初から最後までしっかりと言わねばならない。こんな中途半端な答えで終わらせてはならないのだ。はぁ、と溜め息一つ吐き、碧は再び言葉を紡ぎ出す。
    「『お兄ちゃん』と呼ばれること自体は嫌ではありません。でも、そうやってからかって呼ばれるのは嫌です」
     一度濁してしまった言葉を確かな形にし、きっぱりとした声で告げる。いたずら兎たちは今度は何も言わずに烈風刀の言葉を聞いていた。先ほどまで少し泳いでいた視線は、今は厳しい光の宿った孔雀石にまっすぐ向けられていた。
    「仲の良い僕だからまだ許されますが、これが別の人だったらどうするのですか? 突然そんな呼ばれ方したら、困っちゃいますよね。嫌な思いをするかもしれませんよ」
     それに、と少年は続ける。その眉間に深く皺が刻まれる。真正面から見つめる瞳は、いたずらをされた怒りや悲しみだけでない、心配げな色が浮かんでいた。
    「知らない人だったら? その人が本当は怖い人だったら? ふざけていて危ない目に遭うのは貴方たちなのですよ。そんなの、絶対に嫌です」
     ねぇ、と烈風刀は小さく首を傾げ、二人に語りかける。目の前の少女らのことを真剣に思いやった、優しい声だ。少年のまっすぐな言葉が、真摯な思いが響いたのだろう。はい、と芯の通った声が返される。続いて、ごめんなさい、と心のこもった謝罪の言葉が紡がれた。
     分かったならいいのですよ、と少年はふわりと笑いかける。険しく眇められていた目元が、厳しく真一文字に結ばれていた口元が、柔らかな弧を描く。しっかりと話を受け入れ反省したことを褒めるように、烈風刀は兎たちの頭をそっと撫でる。えへへ、とはにかんだ笑声とともに、ぱちりとした可愛らしい目が嬉しげに細められた。
    「らいとは喜んでくれたんだけどなぁ……」
    「……まぁ、雷刀ですし」
     寂しげにぽそりとこぼしたノアに、烈風刀は答えになりきらない言葉を返す。兄の名を口にしたその顔は酷く苦々しいものだ。日頃からオニイチャンオニイチャンとうるさい彼のことを思い出してしまったのだろう。一番近くで一番長く兄のことを見てきた唯一の兄弟なのだ。表情が苦くなるのも仕方の無いことだ。
     少女の言葉に、碧髪の少年は、ん、と疑念の声を漏らす。雷刀は喜んでくれた。すなわち、それは一度雷刀と会い、彼を『お兄ちゃん』と呼んだから出てくる言葉のはずだ。そして、あの兄はいつも『オニイチャン』という呼称に固執している。二人にその被害が及んでしまったのではないか。尽きぬ疑念に、緑玉随の瞳に再び厳しい色が浮かんだ。
    「もしかして、雷刀が呼べと言ったのですか?」
    「違うよ! ニアたちが勝手に呼んだの!」
    「試しに呼んでみたら喜んでくれただけだよ! らいとはなんにも悪くないよ!」
     あまりにも険しい声に驚き焦ったのだろう。二匹の兎は慌てた様子で言葉を返す。その必死な様がまた懐疑をもたらす。しかし、先ほどの己の忠言を素直に受け入れてくれた彼女らが、これ以上嘘や偽りを重ねるとは思えない。本当に『お兄ちゃん』呼びは彼女らの発案なのだろう。
     片手で顔を覆い、烈風刀は思わず天を仰ぐ。本当に何をやっているんだろうか、あの兄は。朱い片割れを思い浮かべ、少年は顔をしかめる。本人たちが言うように、こうやって『お兄ちゃん』と呼ぶのは彼女らの思いつきでありいたずらだ。けれども、そのきっかけを与えたのは間違いなく雷刀だろう。『お兄ちゃん』なんて言葉を日常的に口にしているのは、彼ぐらいなのだ。会って会話をして今に至るのだから、もう確定である。
     元凶への怒りが心の底から湧き出る。彼のせいでこんな目に遭ったのだ。文句の一つや二つ言ってやらねば気が済まない。今日のホームルームでわざわざ担任教師に名指しされていたのだ。今頃大人しく補習を受けているだろう。授業時間は長くても二時間といったところだろうか。おそらく終わったその足で会議室に戻ってくるであろうから、そこを引っ捕らえるのが最適だ。
     窓の外、教室棟最上階を睨む烈風刀を眺め、双子兎は口元に手を当て互いに顔を見合わせる。彼の怒りがその実兄に向かっているのは明白だ。事実であるとはいえ、余計なことを言ってしまったかもしれない。ほんの少しの後悔が可愛らしい二つのかんばせに浮かんだ。
    「それにしても、下校時間はとっくに過ぎていますよ」
     ガラスの向こう側に向けられていた蛍石が、長い青髪に覆われた小さな頭を見やる。視線に反応するように、カチューシャのリボンがぴょこりと揺れた。
    「最近暗くなるのが早いですから。遅くなると心配です」
    「はーい」
    「でももうちょっとだけいたいよ」
     レイシス姉ちゃんにも会いたい、と双子は声を揃える。彼女らの言葉に、烈風刀は一瞬眉をひそめる。まさか、レイシスにもあのいたずらを仕掛ける気ではないか。いや、彼女らは既にレイシスのことを『姉ちゃん』と呼んでいる。言ったところで、先の己のような反応はしないだろう。それに、先ほどああ言い聞かせたのだ。彼女らはきっと反省し、あのいたずらをやめるはずだ。そう信頼できるほど彼らの絆は固い――それでも、懲りずにいたずらを仕掛けてくるのだけれど。
    「会議室寄ったら帰るね!」
    「じゃあね、れふと!」
     ばいばーい、と余った長い袖をぶんぶんと振り、二人の兎は本館廊下を跳ね飛んでいく。廊下を飛んではいけませんよ、と小さな背に投げかけると、宙を舞う細い足が地につく。はーい、と返事二つ。ぱたぱたと早足の足音が廊下に響いて遠くに消えた。
     たなびく長い髪を見送ったところで、烈風刀は重々しく嘆息する。まあるく開いては細めを繰り返して疲労を覚える目をそっと伏せる。片手で覆った顔は、まだ熱を持っていた。
     まさか『お兄ちゃん』などと呼ばれるとは。あのいたずらっ子たちのいたずらは、たまに突飛なものがあるから油断できない。今日はみっともないほど動揺してしまったが、次はこうはならない。もっと年長者らしく、落ち着きを払って対応すべきである。
     オニイチャン、と己を称す片割れの顔が思い浮かぶ。瞼の裏に映る呑気な笑顔を、これでもかというほど鋭い眼光で睨めつける。射殺さんばかりの鋭さだった。
     絶対に説教してやる。強く決意し、烈風刀は廊下を歩いていく。今目指すは資料室だ。その部屋に、書類仕事に関わる文書をまとめたファイルがあったはずだ。会議室に戻る前に、それを取ってきてしまおう。
     ぱたん、ぱたん、と靴底が冷たい床を打つ。どこか急いだ調子のそれが、人気のない放課後の廊下に響いた。






    at.会議室

     機器が呻る声が広い部屋に積もっていく。二人きりの空間に落ちるのは、キーボードの打鍵音と紙をめくる音、穏やかな呼吸ぐらいである。会議室にはいつかの日々のような賑やかさはなく、元通りの閑静なものに戻っていた。
     重力戦争では作戦会議室として大活躍したこの部屋だが、今ここに通うのはゲーム運営に携わっているレイシスと嬬武器兄弟、ナビゲーターとして経験を積んでいるグレイスぐらいだ。たまに魂が打ち合わせや相談に来たり、ニアたちや桃たちが遊びに来るが、基本はこの四人だ。本日は雷刀は特別補習授業、烈風刀は作業で部屋を出ている。現在ここにいるのは、レイシスとグレイスの二人だけである。
     軽やかに叩いていたキーボードから手を離し、レイシスは大きく背伸びをする。デスクワークで凝り固まった肩が柔い痛みを訴える。うぅん、と悩ましげな声が愛らしい口元から漏れ出た。
    「少しは休んだらどうなの」
     両手を宙へと伸ばす少女に、言葉が投げかけられる。部屋の端でファイリング作業をしていたグレイスだ。ぶっきらぼうにも聞こえる声には、確かな思いやりが込められていた。
    「大丈夫デスヨ。もうちょっとデスシ、早くやった方がいいデスカラ」
     にこりと笑顔を浮かべ、少女はぐっと両の拳を握りしめて言う。躑躅の目がちらりと桃を見やる。姉の様子を見て、妹はそう、と短い言葉を返した。無理はしていないと判断したのだろう。その目は再び手元の書類へと引き戻された。
     握った拳をほどき、少女は再び液晶モニタとキーボードに向かう。指が叩くキーがカタカタと歌う。青白い光を放つモニタに、様々な情報が映し出される。桃の瞳が、液晶画面を流れていく文字列を追いかけた。
     来週のアップデートは二曲追加という比較的簡素なものだ。それ故、準備もすぐに終わってしまった。今は念を押しての最終確認の段階だ。ジャケットは、先日先方から受け取ったデータにデザインを施したものがきちんと設定されている。エフェクトも、目と耳で正常であることを確認し、無茶な配置がないかテストプレーも済ませている。インプットに必要な通貨も、レベルに応じた適切なものになっている。あとは配信を待つだけの状態まで持ってきたと言ってもいいだろう。よし、と少女は内心強く頷く。これでもう問題は無いはずだ。
     自動ドアが開く音が、姉妹だけの部屋に落ちる。金属の扉から顔を覗かせたのは、風に流れる青色の髪とひらひらと揺れる黄色のリボンだった。
    「レイシス姉ちゃん!」
    「こんにちはー」
     元気な声が静かな部屋に飛び込む。やってきたのは、ニアとノアの姉妹だった。二人はぴょんと敷居を跨ぎ、そのまま跳ねて動く。元気いっぱいな彼女らの様子に、少女の頬がふわりと綻んだ。
     双子兎の登場に、グレイスの表情が強ばる。思わず手元が緩み、まとめていた書類の束が滑り落ちる。厚い紙束、その底面がドンと音をたてて机にぶつかる。自ら発した音に驚き、少女はぴゃっ、と小さな声をあげた。散らばりそうになったそれらを急いで整え、少女はキャスター付きの椅子で一歩分奥へと移動する。明らかに身構えた、兎たちを警戒した姿だった。明らかに不自然な妹の様子に、姉はことりと首を傾げる。躑躅の少女は、書類を身体の前で構え持ち、警戒心を露わにした顔で青髪の兎たちを見つめていた。見張っている、と言った方が正確な目つきだった。
     毛を逆立てた猫のようなグレイスの様子など気にも掛けず、ニアとノアはレイシスの元へと駆け寄る。作業の邪魔にならないように、桃の少女を挟む形で椅子の斜め後ろを陣取った。
    「これ、次の曲?」
    「そうデスヨ。とってもかっこいいカラ、楽しみにしてくだサイ」
     液晶モニタに映し出されたジャケットを指差し、ニアは問う。人差し指を立て、レイシスはにこやかな笑みで返す。楽しみ、と二人分の賑やかな声があがった。幼い彼女らも、アップデートを楽しみにしてくれているようだ。皆がアップデートを楽しみに待って、喜んでプレーしてくれることは、とても幸せなことだ。胸に広がる幸福に、少女は幸いに満ちた笑みをこぼした。
     自動ドアが今一度開く音がした。誰だろう、と四対の目が無骨な扉の方へと向けられる。そこにいたのは、燃えるような朱だった。
    「お疲れー……」
     ただ、そこにいつもの元気な声は無い。水を与えられなかった花のように萎びた、悲哀すら見える声だった。まっすぐ姿勢良く歩く背も、今は柳のように頭を垂れ大きく弧を描いている。丸い柘榴石の瞳も、今は瞼が半分落ち、多大なる悲壮感を漂わせている。彼らしくもない姿だった。
     どうやらみっちり絞られたらしい。人並みの成績を修めるレイシスたちは受けたことがないが、雷刀が今の今まで受けていた補習授業の厳しさは耳に届いていた。いつも元気な彼の覇気を奪ってしまうほどのそれはどれほど苛烈なものなのだろうか。追試に無縁な彼女らには知る術が無い。
    「雷刀、補習終わったんデスカ? お疲れ様デス」
    「終わった……疲れた……」
     少年の帰還に、レイシスは労りの言葉を投げかける。返ってくる声は相変わらず萎れている。彼の疲弊具合がよく分かるものだ。はぁ、と雷刀は溜め息を吐く。酷く重く苦いそれは、会議室の床に落ちて消えた。
    「あっ! らいとお兄ちゃ――」
     朱の姿に、ニアは声をあげる。元気いっぱいに少年の名前を呼ぼうとしたところで、彼女ははっと目を瞠り、口元を素早く押さえる。何か言ってはならない重大なことを口走ってしまった。そのように映る反応だった。
    「らいと、おかえり!」
    「らいと、お疲れ様」
     取り繕うように、姉兎は急いで朱い少年の名を呼ぶ。妹兎も続けて労いの言葉を紡いだ。おー、と雷刀は手を振って応える。それも風で細い梢が揺れるような力無いものだった。今にも腕が下りてしまいそうだ。
    「『らいとお兄ちゃん』?」
     姉妹の誤魔化しは、薔薇色の少女にはきかなかったようだ。美しい曲線を描く小ぶりな耳は、ニアの言葉を聞き逃さなかった。レイシスは己の鼓膜を震わせた単語を口にする。よく知る名前と珍しい敬称がくっついた呼称に、少女は首を傾げる。ニアとノアの二人は雷刀のことを『らいと』と呼び捨てにしていたはずだ。なのに、つい先ほどは『らいとお兄ちゃん』と呼んだではないか。一体何故なのだろう。少女の胸に、小さな疑問が芽生える。
    「雷刀、ニアちゃんたちのお兄ちゃんになったんデスカ?」
    「あー……。いや、そうじゃなくて……」
     丸く整った頭を傾けるレイシスに、雷刀は何とも言い難い声で返す。少年は誤魔化すようにへらりと笑う。それがまた、少女の胸に疑問を生む。一体何なのだろう、と考えてみるが、答えは出ない。もう一人の当事者、ニアの方へと目を向ける。しばし目を泳がせ逡巡、少女はあのねー、と口を開いた。
     ガタン、と硬い音が会話に飛び込んだ。何だ、と発生源の方へと全員が目を向けてみれば、そこには椅子から立ち上がったグレイスの姿があった。その目は強く眇められており、赤々としたつややかな唇も硬く引き結ばれている。細くなったペツォタイトには怒りの炎が宿っていることが遠くからでも分かった。
    「雷刀」
     少年の名を呼ぶ声は酷く鋭く低い。煮えたぎる怒りがよく分かる音色をしていた。己を射殺さんばかりに睨みつける少女の姿に、雷刀はぱちくりと目を瞬かせる。へ、と漏れた声はなんとも間の抜けたものだった。
    「あなたねぇ……」
    「は? え? グレイス? どした?」
     燃えさかる怒りをぶつけようとする躑躅の少女に、朱の少年は焦った調子で返す。本当に事態が分かっていないのだろう。発する声は疑問符に塗れていた。お前の事情など知ったことではない、と言わんばかりに、少女は視線で彼を刺す。鋭い眼光から逃げるように、少年は一歩後ろへと下がる。追い詰めるように、少女はカツン、とヒールの音をたてて一歩前へと出る。二人の距離が変わることはない。否、雷刀は壁を背にしているのだ。いつかは追い詰められるだろう。時間の問題だ。
     憤怒に支配されつつあるグレイスのチュールレースを何かがくいくいと引く。何だ、と少女がそちらへ視線をやる。透ける布地を引っ張り呼んだのは、ニアだった。その眉は、焦りと困惑で八の字に下がっていた。先ほどのいたずらされたばかりの犯人たちに、少女は今一度身体を強ばらせる。何よ、とどこか恐れを含んだ硬い声が青い頭に降ってくる。
    「らいとは悪くないよ! ニアたちが勝手にやったことなんだから!」
    「元凶は雷刀でしょ。悪いわよ」
     翼のように長い袖を振り瞳を潤ませ言葉を紡ぐ兎を、グレイスはばっさりと切り捨てる。発案や実行犯はニアとノアの二人であることは間違いない。けれども、それも全て雷刀の一言から始まったのだ。双子たちがどれだけ庇おうとも、この溢れ出る怒りは元凶である雷刀にぶつけねば気が済まない。
    「何なんだ……?」
     問答を重ねるニアとグレイスの眺め、雷刀はその場に立ち尽くす。グレイスが怒っている理由も、ニアがあんなに必死に庇ってくれている理由も、補習を終えて帰ってきたばかりの彼には何もかもが分からないのだ。彼女ら曰く重要人物であるはずの少年は、物語から一人取り残されていた。
    「えっとね……」
     呆然とした様子の少年の裾を誰かが引っ張る。目をやると、そこにはノアがいた。普段から下がり気味な妹の眉はいつも以上に下がり、困り顔をしていた。己が耳へと手を伸ばそうとする彼女に合わせ、朱は身を屈める。こしょこしょと小声で伝えられた事の顛末に、炎瑪瑙の瞳がまあるく見開かれる。え、と濁った声を漏らす口元が強ばった。
     うわぁ、と少年は思わずバツが悪そうに顔をしかめる。事の顛末を知った今、躑躅の少女が怒り、その感情を己にぶつけようとしてくる理由がよく分かった。しかし、それにしたって怒りすぎではないだろうか。直接的な被害に遭ったのはグレイスではなく始果だというのに、何故彼女がここまで怒るのだろうか。彼の代わりに怒っているのだろうか。謎は尽きない。
    「ごめんね、らいと……」
     泣き出してしまいそうな声で謝る青い兎に、朱い少年はだいじょぶ、と頭を撫でる。彼女らがいたずらっ子だということを忘れ、その種を与えてしまったのは自分だ。実行犯は姉妹だが、元凶が自分であると言われれば納得できてしまう。怒りは甘んじて受けるしかない。そも、あの剣幕を前にして反抗したところで、意味は無いのだ。
    「……で、どうだった?」
     彼女がそうしたように、雷刀もその小さな耳に手を伸ばし、こしょこしょと尋ねる。完全なる好奇心だった。いたずらっ子にいたずらの感想なんて聞いても仕方が無いだろう。しかも、今回は一人の人間を怒らせたものなのだ。悲しい言葉や反省の言葉が返ってくるだけかもしれない。それでも、少年は興味に突き動かされ、思わず口を動かしてしまった。
     うーん、とノアは口元に手を当て小さく呻る。悩み、小さな頭が傾いでいく。星空色の丸い目が閉じられ、ぱっと開く。尖っていた口元が綻び、言葉を紡いでいった。
    「やっぱり、いつものままがいいかなぁ」
     そう言って、少女は困ったように笑う。今日の放課後いっぱいやっていたいたずらは、間違いなく楽しいものだった。たくさん怒られはしたが、色んな人の反応が見れたのは面白いことだった。烈風刀の説教によりきちんと反省はしているものの、芽生えた感情に嘘は無い。
     けれども、しばしの間鳴き声のように口にしていた『お兄ちゃん』という言葉は、なんとなくしっくりこないものだった。特定の人物に対してではない。今日いたずらした誰に対してもだ。やはり、いつも通りが一番良い。いたずら兎はたくさんのいたずらの末、そんな結論を出した。
     そっか、と朱い兄は頷く。うん、と青い妹も元気に頷き返した。大きな手が、海の色をした頭に置かれる。そのまま、少年は整った小さい頭を優しく撫でた。
    「でも、『お兄ちゃん』って呼んでくれて嬉しかったぞー」
     大きな八重歯を見せ、雷刀はにかりと笑う。撫で梳かす優しい手つきに、少女は面映ゆそうに笑った。細められた目は、酷く幸せそうなものだ。構ってくれるのが嬉しいのだろう。頭の上に伸びる長いリボンが風にそよぐように揺れた。
    「雷刀」
     少女との触れ合いの最中、鋭い声が己の名を示す。先ほどまで浮かんでいた明るい笑顔が消え、表情が強ばる。油を差していない機械のようにぎこちない動きで、赤い目が音の方へ向かう。紅玉の瞳に、険しげに顔を歪め仁王立ちするグレイスの姿が映った。
    「何が『嬉しかった』よ」
     どうやら、少年と幼い兎の会話は全て聞かれていたようだ。腕を組み足を広げて立つグレイスの後ろから、ニアが顔を出す。らいとごめん、と謝る顔は、悲しげな色に染まっていた。どうやら、少女の必死の説得は功を成さなかったようである。
     躑躅の少女のあまりの剣幕に、朱の少年はう、と息を詰まらせる。柔らかな頬を冷や汗が伝う。その顔は、どんどんと色を失っていっていた。もうこれは諦める他無いだろう。けれども、口を突いて出るのは言い訳のような音ばかりだった。
    「あー……、いや、その、これは――」
    「ただいま戻りました」
     真っ向から睨みつけるグレイスとしどろもどろに視線を泳がせる雷刀との間に、涼やかな声が飛び込んでくる。スピネルとルビー、サファイアとラズベリルが自動ドアの元へと向けられる。そこにいたのは、端末を脇に抱え、ファイルを何冊か手にした烈風刀だった。
    「あっ、烈風刀。お疲れ様デス」
     仲間の帰還に、レイシスはにこやかな笑みを浮かべ労いの言葉を投げかける。可憐で優しい声に、碧の口元が綻ぶ。少年もまた、お疲れ様です、と静かに柔らかな笑みを返した。
     異様な雰囲気に包まれた室内を見渡すエメラルドが、青い双子の姿を捉える。途端、端正な顔がぎくりと強ばった。先ほどの騒動はまだ記憶に新しい。犯人である彼女らに再会し、警戒してしまうのも仕方ないだろう。
     れふと、おかえり、と兎たちは少年を呼ぶ。その後ろにあの怪しげな言葉が付いていないことを確認して、烈風刀はその身から力を抜く。先の言葉をきちんと受け止めてくれた様子に、碧は密かに安堵の息を吐いた。
     その隣に屈みこむ朱を見つけ、少年は眉根を寄せる。天河石の瞳に、紫水晶と同じように怒りの炎が灯る。すぐ近くのテーブルに書類と端末を置き、烈風刀は一歩前に――兄の逃げ道を塞ぐように、歩みを進めた。
    「雷刀、話があるのですが」
     兄を呼ぶ声は明らかに怒気を孕んだものだった。硬く冷たい音が、眇められた藍水晶が、朱の背を刺す。前には仁王立ちしたグレイス、後ろには立ち塞がる烈風刀。もう雷刀に逃げ場など無かった。はは、と半端に開いた口から乾いた笑いが漏れる。人間は追い詰められると笑いが込み上げてくるのだな、と朱は頭の奥の方で呑気なことを考えた。
     何を笑っているのですか。ちゃんと話を聞きなさいよ。二つの声と瞳が少年の身体を貫く。そんな光景を眺めながら、レイシスはぽかんと口を開けて呆けていた。彼らの身に何かが起こっているのは間違いない。しかし、それが何かは少女には一切分からない状態だ。五人の中だけで話が進み、情報が一切入ってこないのだ。仕方あるまい。はわ、といつもの言葉が漏れ出た。一人ぼっちになったような寂しげな響きをしていた。
     桃の隣に青が二つ寄ってくる。躑躅と朱にくっついていた兎たちは、いつの間にか離れてレイシスの方へ来たようだ。
     あわわ、と二人声を揃えて漏らす。離れたものの、心配の色が浮かんだ藍玉は未だあの三人に吸い込まれていた。自分たちの行動の結果、雷刀一人が説教を受けているのだ。つい十数分前までいたずらげに輝いていた瞳は、心配そうに歪められていた。
    「一体何があったんデスカ?」
     つぶらな瞳が揺らぐ双子に、レイシスは優しく語りかける。彼女らの行いを問い質すものではなく、純粋な疑問による言葉だ。寂しげに首を傾げる薔薇色に、青兎はあのね、と語り始める。一人の少年の思いつきによって生まれた、少女たちのいたずら騒動の顛末を。
     身振り手振りを交えた双子兎の語りに、少女はアラアラ、と呟いた。白く柔らかな頬に手を当て、彼女は小さく溜め息を吐く。驚きと呆れの混じった吐息だった。
    「モウ、そんな風にからかっちゃダメデスヨ」
     メッ、と人差し指で二人の額をつつくレイシスに、ニアとノアはうん、と返す。胸の前に両の手を寄せ、きゅっと握る。応える声ははっきりとしている。烈風刀の真摯な忠言に、幼い兎たちは反省の念を抱いていた。音の中には、後悔の色も滲んでいるように見える。自分たちのいたずらで、雷刀一人が説教を受けているのが少し堪えているのだろう。アズライトの瞳はちらちらと朱の方へと向かっていた。
    「それにね」
     姉兎は言葉とともにぴょんと跳んで主張する。輝く藍方石を、丸く大きな薔薇輝石が正面から見つめる。桃の視線は、続きを促していた。
    「いつもの呼び方が一番!」
    「ねっ!」
     顔を見合わせ、兎の姉妹は笑う。元気いっぱいで、少しいたずらげな、いつもの彼女ららしい笑顔だった。子どもらしい天真爛漫な笑みは、見る者を幸せにするようだった。
     姉妹の様子に、レイシスもともに笑みを浮かべる。心配の色で沈んでいた彼女らが、元の元気いっぱいな姿を取り戻したことに安堵する。やはり、ニアとノアには――ネメシスに暮らす皆には、こうやって笑っていてほしい。それが少女のささやかな願いだった。
    「今日はどうしマス? 遊ぶなら時間はありますケド……」
     本日の業務は軽く、急ぎのものも無い。こなさねばならぬものがあるといえばあるが、まだまだ期限に余裕があるものばかりだ。現在の時間帯はプレーヤー数も少なく、ナビゲートの仕事も手隙である。彼女たちと遊ぶ時間はあるはずだ。

     けれども、といった様子でレイシスは視線を移す。その先には、躑躅と碧に囲まれて項垂れる朱の姿がある。あの説教の中、三人で呑気に遊ぶのは難しいだろう。兎姉妹も同じことを考えたようで、ううん、と断りの語を発した。
    「今日はもう帰るね」
    「お邪魔しました」
     鏡合わせ、手のひらを重ねるように上げ、二人は返事をする。ハイ、と返したレイシスに、少女らはうん、と頷く。とてててて、と兎を模った靴が地面を蹴って進む。青空のような髪を翻し、扉の前でくるりと振り返り、双子兎は大きく手を振った。
    「さようならー!」
     元気に声を合わせ、ニアとノアは別れの挨拶を高らかに謳う。ばいばい。さようなら。またな。様々な挨拶が、彼女らに返される。ばいばい、と今一度大きく手を振り、双子の少女はドアをくぐる。素早く閉まったドアの向こう、廊下は夕日に照らされていた。青たちが淡い夕焼け色を背に廊下を駆けていくのが、締まりかけたドアの隙間から見えた。
     人が減った会議室には、機械の駆動音と四人の話し声が響いていた。







    at.本館廊下

     赤色に染まりゆく空がガラス越しにスクロールしていく。タタタタ、と小気味の良い足音が人気の無い廊下に響いた。揺れる青髪が陽光の赤に照らされ、普段とは違う不思議な色を生み出していた。
    「ねぇ、ノアちゃん」
     足音に声が紛れる。姉に名を呼ばれ、ノアは前を歩く彼女の背を見る。玄関に向かう歩調が緩み、姉兎は立ち止まってくるりと振り返る。青いロングヘアが彼女の身体を包むように揺れた。
    「明日は何する?」
     口元に長い袖を当て、ニアはにこりと笑う。その笑みには、希望ある明日への純粋な楽しみと、少しのいたずら心があった。また何かいたずらしよう。言外にそう誘っているのだ。
     うぅん、とノアは小さく呻る。姉と同じように口元に袖を当て、中空を見つめる。しばしの沈黙の後、少女はへらりとどこか困ったように笑った。
    「明日こそ、一緒に遊んでもらいたいなぁ」
     今日はいたずら三昧で、叱られ三昧だった。またいたずらすれば、今日以上に叱られてしまうだろう。呆れられて、遊んでもらえないかもしれない。ならば、明日は控えた方が良いだろう――それに、いたずらは連続してやるものではない。しばし時間をおいてからやった方が効果的なのだ。生粋のいたずらっ子はそのことを熟知していた。
     そっか。そうだね。姉妹は言葉を交わす。見つめ合って話すだけでも楽しいのか、少女らはきゃらきゃらと笑った。いたずらの作戦を立てている時とは違う、純粋無垢たる笑みだ。少女然としたそれが、夕焼けに染められる。姉妹を照らし出す太陽は、どんどんとその身を地平線へと隠していっていた。
    「早く帰ろっか」
    「うん」
     今日のご飯何かな。宿題やらなきゃね。そんな会話をしながら、二匹の兎は廊下を跳ね駆ける。ぴょんぴょんと跳ぶ度、赤い陽に照らされた長い髪が星空のようにふわりと広がった。
     いたずら兎の一日は、こうして幕を閉じたのだった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🎃🎃
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    aoino_a0

    MOURNING筆が乗ってしまったので書いた地雷。あり得ない時空のあり得ない未来のあり得ない話。
    うちの新司令×うちの新3号。名前があるので注意。
    朝ご飯を食べる「よしっ」
     魚焼きグリルで焼いただけのトースト。二つ一気に割り入れてフライ返しで切り分けた目玉焼き。一袋全部フライパンに放り込んだウィンナー。冷凍野菜とコンソメキューブを煮ただけの野菜スープ。全てを器に盛り終えたところで思わず声が漏れる。大したものではないが、たまに作るには十分な料理である。二往復して運んで、折りたたみテーブルの上に並べていく。ちゃちい机は食器を四つ置いただけでギチギチになってしまった。
    「……シャワーありがと」
     金属の小さな音とふて腐れたような小さな声。視線をやると、水場に続くドアの向こう側から黄色い頭が覗いていた。ぱちりとあった青い目はすぐにふぃと逸れる。シャワーを終えて帰ってきたコイビトは、わざとらしく背中を向けながら部屋に入って戸を閉め、俯きがちに歩んでテーブルの前に座った。いつも通り――昨晩の情事が忘れられず、昨晩の自分の痴態が忘れられず、それでも普段通りに過ごさねばならないと思い込んでいる、いつまで経っても変わらない姿である。可愛らしくて仕方が無い。
    3661

    aoino_a0

    DONEパトロール帰りのシェリーさんとDDさんの話。

    『OZONEのジャケの話を』というリクエストをいただき仕上げさせていただきました。この二人の関係性が好きなので楽しく書けました。エアスケブご依頼ありがとうございました。
    走り行く街街 ガラスの向こう側に街並みが流れゆく。広いネメシスの世界は、普段よりもずっと早足に去っていった。
     抱えた紙袋に手を入れ、パッケージに入ったフライドポテトを探し出す。高速道路に乗る直前に買ったそれは少しだけ萎びていた。ふにゃりと柔らかなポテトを一本つまみ、口へと運ぶ。なめらかな白い歯で長い黄色を噛み切ると、すぐさま塩気と油気が口内に広がった。食べ慣れた味をどんどんと口に放り込みながら、シェリーは身体のすぐ隣、車の窓の外を眺める。透明なガラス越しの街並みは、相変わらず速度を出して後方へと流れていった。
     視線を街から運転席へと移す。ちらりと見た横顔は落ち着いたものだ。合成革のカバーで保護されたハンドルを操作する手付きはブレなど無い。スラリとした長い足はヒールの高い窮屈な靴に包まれているというのにアクセルペダルを器用に操っている。外装に反して古い型式のメーターは法定速度内であることを静かに示していた。安全運転そのものだ。開け放した窓に腕をかけ、片手でハンドルを操る姿勢は『安全』の文字には程遠いが。
    4733

    related works

    recommended works