走り行く街街 ガラスの向こう側に街並みが流れゆく。広いネメシスの世界は、普段よりもずっと早足に去っていった。
抱えた紙袋に手を入れ、パッケージに入ったフライドポテトを探し出す。高速道路に乗る直前に買ったそれは少しだけ萎びていた。ふにゃりと柔らかなポテトを一本つまみ、口へと運ぶ。なめらかな白い歯で長い黄色を噛み切ると、すぐさま塩気と油気が口内に広がった。食べ慣れた味をどんどんと口に放り込みながら、シェリーは身体のすぐ隣、車の窓の外を眺める。透明なガラス越しの街並みは、相変わらず速度を出して後方へと流れていった。
視線を街から運転席へと移す。ちらりと見た横顔は落ち着いたものだ。合成革のカバーで保護されたハンドルを操作する手付きはブレなど無い。スラリとした長い足はヒールの高い窮屈な靴に包まれているというのにアクセルペダルを器用に操っている。外装に反して古い型式のメーターは法定速度内であることを静かに示していた。安全運転そのものだ。開け放した窓に腕をかけ、片手でハンドルを操る姿勢は『安全』の文字には程遠いが。
もそもそと口を動かし、ポテトを胃に収めていく。塩分たっぷりの炭水化物の塊は大層身体に悪いが、美味しいのだから仕方無い。長時間のパトロールで空腹に喘ぐ腹にはてきめんだ。まっさらな舌の上に広がる強い味に、思わず口元がほころんだ。
咀嚼しつつ、窓の外を見やる。何メートルあるか分からないほどの高層ビルが、あっという間に後方へと消えていく。夜ならば大層綺麗に輝いているであろう街街は、昼の日差しを浴びて静かに佇んでいた。走る車内からは見ることができない屋内や道路では、人々が活動的に過ごしているだろう。普段ならば間近で見る風景が、ここからではひとつも見えない。当然のことだが、何だか不思議な気分だ。
ガラスの向こう側、ビル街を背に車が走り去って、否、飛んでいく。『ボルテ軒』の赤い暖簾が目立つ車体は、轟々と音を立てて空中を走る。道路なんてものはこの世にないと言わんばかりの自由な動きだった。様々な者が全世界、果ては宇宙や別世界から集まるネメシスは、恐ろしいほどに技術が発達している。空飛ぶ車の開発など造作も無いのだろう。そんな計り知れないほどの技術の結晶を出前のために惜しげもなく導入するボルテ軒の豪胆さには舌を巻く。大層繁盛しているという話は耳にしているが、これほどまでとは想像すらできなかった。いつの間にやら随分と遠くへ飛んでいった車体を眺めながら、シェリーはぬるくなりつつあるポテトを胃へと流し込んだ。
最後の一本、刺さってしまいそうなほど硬く短い一本を噛み砕く。飲み下したところで、ふぅ、と思わず満足げな吐息が漏れた。紙ナプキンで指を拭いながら、すぃと視線を時計へとやる。カーナビゲーションの液晶モニタには、昼を過ぎてしばらくした頃を示す数字が浮かんでいた。高速道路に乗る前、バーガーショップに立ち寄った時刻を考えると、署に着くまでさほどかからないだろう。ドライブ、もといパトロールはもう終わりに近いようだ。
赤い瞳が液晶から運転席へと移っていく。丸いサングラスを掛けた横顔は、まっすぐに前を見つめていた。さすがによそ見運転をすることはないようだ。それでも開け放した窓に剥き出しの腕をもたれかけ、膝の上にポテトを置いて運転する姿は警察官としていかがなものかと思うけれど。
「あげないわよ」
車体が風を切る音の中、くすりと笑みが漏れるのが聞こえた。突然の言葉に、シェリーはぱちりと大きな目を瞬かせた。しばしして、それがDDの膝に乗ったポテトに対するものだと、まるで己がそれを狙っているような口ぶりだと理解する。金の髪が彩るまろい頬が小さく膨らんだ。
「いりませんヨー」
「欲しそうな顔してるけど」
「よそ見運転しちゃダメデース! ていうか、絶対見てないデショ!」
どこかむくれた調子の声に、かすかに笑みの残る声が風に乗って返される。明らかに子ども扱いされている。それも、食い意地の張った子どもとして、だ。確かに彼女は己よりも年上だが、それでもほんの数年の違いである。子ども扱いされるほど離れているわけではない。さすがに不服である。
ふふ、と鼓膜を震わす笑声を意識からシャットアウトし、シェリーは紙袋にまた手を突っ込む。少し乱暴な調子で取り出したのは、厚みのあるハンバーガーだ。買ってからしばらく経っているものの、包み紙の内側からはほのかに熱が伝わってくる。立ち上る焼けた肉の香りに、ポテトを収めたばかりの胃がほのかに熱を持った。
両手で持つのがやっとなサイズだ、崩れないように慎重に包み紙を剥いでいく。程なくして、中身が姿を現した。ふかふかのバンズ、鮮やかに彩るレタス、まとう肉汁でほのかに輝くパティ、一目でみずみずしさが伝わってくるトマト、熱で少しとろけたチーズ。どれをとっても絶品だろう。それらが合わされば、どれだけ素晴らしいものになるのか。口の中に広がるであろう豊かな味を夢想し、淡いリップで彩られた唇が綻んだ。
あ、と口を大きく開く。少しみっともないが、これぐらいしなければかぶりつけるはずがない。上品さを求めては味わえないものが世の中にはあるのだ。まさに目の前に。
バーガーをしっかりと握る――それはもう、しっかりしすぎるほどに、力強く。
つる、と漫画のような音が聞こえた気がした。
手の内、薄紙に包まれたバーガーが逃れていく。包み紙の中を滑り、開かれた出口めがけて勢いよく飛び出した。ふかふかのバンズ、鮮やかなレタス、潜んでいたピクルス、ジャンクなほどに掛けられたケチャップ、しっかりとしたパティ、分厚いトマト、とろけて垂れるチーズ。ハンバーガーを構成する皆が離別し、各々宙へ舞った。
オーウ、と悲鳴にも似た声が車内に響き渡る。グローブに包まれた両手が素早く動き、重力に身を委ねようとしたそれらを挟み込むようにキャッチする。素早い救出劇により、車内の美しさと声の主の心の平和は保たれた。
ほっ、とシェリーは大袈裟なほど息を吐く。己の不手際とはいえ、食べ物が宙を飛んだのだ。仕方のないことだろう。こんなことで食べ物を粗末にしてはならないのだ。
手の内、再構築されたハンバーガーを見やる。さすがに少し崩れてしまったものの、食べるには問題の無い状態だ。小さく息を吐いた。
ぴょこりと飛び出たトマトが、重なり合った具材の中で個の存在を主張する。つやめく真っ赤な皮に視線が、空腹の信号を受け取った思考が吸い込まれていった。
指を伸ばし、これ以上崩さないようにそっと引き抜く。薄くスライスされた赤が指先に咲いた。みずみずしく、つまめるほどの固さを残したそれにかじりつく。存外歯ざわりの良い薄い皮。柔らかな、けれども確かな歯ごたえを感じる果肉。ゼリー状の特徴的な部分が静かに舌を濡らす。野菜特有の青臭さはほとんど無い。かなり良い品であるのが一口で分かる味だった。スライストマト一つにかじりついただけだけでこれほど舌を満たすのだ。全部を食べたらどうなるのだろう。確信めいた美味への期待に、口元が綻んだ。
指先のトマトを手早く胃に収める。ぱちりとした赤がバーガーへと熱烈な視線を送った。また散開事故を起こさないように軽く掴む。大口を開け、今度こそかぶりついた。
柔らかなバンズが白い歯を受け止める。フリルのようなレタスがシャクンと小気味の良い音をあげる。肉肉しいパティの肉汁が、味が、口内に広がっていく。追従するように、ケチャップとピクルスの程よい酸味が舌を刺激した。
ウゥン、と喜色に溢れた音が鼻を抜けた。よく噛み、嚥下し、またかぶりつく。背の高いハンバーガーはどんどんと小さな口の中に消えていった。
最後の一口を飲み下し、シェリーはふぅと息を吐く。満足感に溢れた音色をしていた。当然だ、これだけの美味を味わって感嘆を漏らすなという方が無茶である。
紙ナプキンで軽く口元を拭く。汚れないように畳んだ包み紙と一緒にまとめ、紙袋のすみっこへと押しやった。
想像以上の美味に、空腹が満たされる喜びにとろけて細められた目がようやく元の丸く可愛らしい形を取り戻す。紅緋が運転席へと音もなく向けられた。
縁を小さな星で飾る菫色の目は、依然前を向いていた。ハンドルを握る手は軽やかながらしっかりしたもので、車体がふらつくことはない。艶めく黒のハイヒールで彩られた足は丁寧にアクセルを操作していた。時折窓に掛けられた腕が動き、ドリンクホルダーの缶ジュースを取って口元に運ぶ。ルージュも残らないアルミは、美しい指先につままれ外の風に身を晒した。
「お腹空きまセンカ?」
「そんなに。ジュースって結構お腹にたまるでしょう?」
ふとした疑問が口を突いて出る。DDは視線を正面から変えることなく事も無げに答えた。また銀の缶につややかな唇が触れる。傾いたそれが、差し込む陽光を跳ね返して鈍く光った。
音もなくシェリーは唸る。助手席に座る己はこうやって食事にありつけているが、運転手である彼女はここしばらく水分しか取っていない状態だ。仕事を終えた身体は糧を求めているはずである。胃と舌を満たす糧を。
うーん、とシェリーは声を漏らす。悩ましげに細められた目が突如ぱちりと開く。少し尖っていた唇は、再び弧を描いた。
「ポテト、食べますカ?」
そう尋ね、紺のグローブが彩る手が、細く美しい指先が、惜しげもなくさらけ出された太ももの上に乗ったポテトへと伸びる。しなりとしたそれを一本つまみ、水分ばかりを摂取している口元へと向けた。アーン、と楽しげな声が風を切る車の中に響いた。
サングラスの奥の丸い目が一度瞬く。淡いリップで彩られた口元が柔らかに口角を上げた。
あ、とDDは口を開ける。アーン、とシェリーは長いポテトを開いた口へと運ぶ。指先でつまんだ柔らかな黄色は、つやめく歯に挟まれ受け止められた。
咥えられたポテトがリップで彩られた口の中にどんどんと消えていく。手など使わず食べるなど、何とも器用なものである。食事のマナーなど知らないとばかりの様相は、隣で見る分には面白いものだった。また一本差し出し、口の中に消える様子を見送り、差し出し、見送り。四本目になったところで、咥えられたポテトはその姿を晒したままになった。もういい、ということだろう。
たったこれだけでは腹は膨れぬだろうに、と考えつつ、シェリーは紙ナプキンで油と塩がついた指を拭う。しかし、あまり食べさせても運転の妨げになってしまうのだろう。彼女がこれで良いのならば、己がこれ以上口を出すことではない。
ドリンクホルダーに入れたままの缶ジュースを手に取る。鮮やかなピンクのアルミ缶は、薄っすらと汗を掻いていた。指先に水気を感じながら、少しぬるい金属の飲み口に唇をつける。甘ったるい甘味料と香料の強い香り、炭酸の弾ける感触が舌の上の油分と塩分を上書きしていった。
缶をホルダーに戻し、シェリーは再び窓の外へと目をやる。流れ行く街街、長く広い高速道路、空飛ぶ車たち、ハニカム模様の浮かぶ青い空。全てが常通りだった。つまり、平和そのものだ。守るべき街は、穏やかな昼下がりを満喫していた。
ルビーレッドがふわりと細められる。ふふっ、と柔らかな唇から小さな笑みが漏れた。そうだ、こうでなくてはならない。この風景を守りゆくことが、己たちの仕事なのだから。
車体が風を切りゆく。カーナビゲーションの液晶画面は、もうすぐ降りるべき場所であると示していた。署は、街はもうすぐだ。