朱碧飾り 歓声が聞こえる。
つい先ほどまで真正面から受け取った盛大な響きは、今は遠い。それでも、興奮した心を煽るには十分な熱量をしていた。廊下を進む足取りが弾み、らしくもなく駆け足になってしまう程度には。
ガチャ、と硬質な音が熱狂した薄い声たちの中に混じる。大きく開かれたドアをくぐり、最初よりも少しだけ散らかった控え室に身を滑り込ませた。閉めた分厚いドアは防音効果も高く、もうあの高揚しきった声は聞こえないはずだ。それでも、耳の奥にあの響きが残っているように思えた。
「終わったー!」
舞台上で出すような大声をあげ、雷刀は腕を天井へと伸ばし伸びをする。声は弾みきったもので、サイリウムの海を見渡していた瞳はそれと同じほど輝いている。元気な声を紡ぎ出す口は口角が上がり、笑みを形作っていた。
「お疲れ様です」
揃いの衣装を着た兄に、烈風刀は穏やかな声を向ける。それもどこか高揚した、浴びせられた熱をほのかににじませた軽やかな音色をしていた。
大成功だったな、と兄は歯を見せて笑う。えぇ、と弟は目元を緩め短い肯定の語を紡ぎ出した。
本日、ボルフェスが行われた。新たな世界でギターを手にし操るようになった二人は、演奏担当として抜擢されたのだ。レイシスとグレイスのツインボーカルを支えるべく、兄弟は開催が決定してからというものの、今までの倍以上練習に励んだ。その熱量とストイックな姿は、特訓と表現するのが相応しいほどだ。
その努力が報われたのか、登壇したステージでは完璧に演じきることができた。会場がはち切れそうなほど集まった観客から爆発するような歓声があがるほどだ。公演を終え控え室に帰ってきた今、安堵と満足感、高揚感が胸いっぱいに詰まっている。久方ぶりに味わったライブ特有の情動に、烈風刀はふ、と熱を孕んだ息を吐いた。
「あー!」
悲鳴と同義の大声が少し散らかった部屋に響き渡る。なんだ、と少し下げていた目線を上げ、兄を見やる。朱い目は壁に取り付けられた大鏡をじぃと見つめていた。鏡面世界でも輝く紅玉は大きく見開かれ、満開の笑みを咲かせていた口元は愕然としたように開きっぱなしになっていた。
「解けてる……」
一転、呟くようなしょぼくれた声を漏らし、雷刀は頭に手をやる。頭部右側、長い前髪を飾る三つ編みは解けてしまっていた。本番前に碧を交えながら丁寧に編み込んだそれは、今では分けた房の形を少し残してしなだれていた。
「あれだけ激しく動けば当然でしょう」
表情を曇らせる朱の背に、碧は少し呆れた調子で言葉をぶつける。うぅ、と暗さを宿した響きが部屋に落ちた。
兄は動く。本当によく動く。普段からそうだが、ライブとなると高揚故にか尚更よく動いた。機材を繋ぐコードという枷が無ければ、ステージの端から端まで跳び回りそうなほどの勢いだ。跳んで跳ねて煽ってと派手にパフォーマンスをしながらも演奏は完璧にこなすのだから不思議である。
「せっかく烈風刀がカッコよくしてくれたのに……」
「ちょっと整えただけでしょう」
大袈裟な、と烈風刀は呆れを含んだ息を吐いた。でもさぁ、と依然沈んだ声がすっかりと口角が下がってしまった口元からこぼれた。
確かに本番前、きちんとできているか、解けていないか、としきりに聞いてくる兄の髪を整えてやった。けれども、それは留め具を解けにくい位置まで軽く上げ、跳ねないように少し押さえてやった程度である。その後、口元を解けさせ鏡を何度も覗き込んでいたことから安堵した様子は窺えたが、さすがに解けた程度でこんなにも落ち込むのは大袈裟だ。本番はもう終わったのだ、解けてしまっても問題など一つも無いだろうに。
「オレも烈風刀みたいに一発でキレーに三編みできればなー」
「十分綺麗ですよ」
兄である雷刀は手先が器用だ。そして、勉学に関すること以外はとても飲み込みが早い。新しい衣装を与えられたころは所々ほつれて跳ねて不格好になっていた三つ編みも、今では流れるように目が美しく揃ったものに仕上げられるようになっていた。それでも、本番の度にしきりに大丈夫かと尋ねてくるのだ。少しだけ整えてやり大丈夫だと告げれば落ち着くので、最後の仕上げを己が行うのがもはや通例となっていた。
「でも烈風刀は解けてねーじゃん」
唇を尖らせ、朱は髪に指をやる。スッスッと少しだけ形の残った房を手早く整え、手早く編んでいく。あっという間にライブ用のヘアスタイルになった。それでも納得いかないのか、うーん、と唸るような声を漏らしたのが聞こえた。
「やっぱなんかキレーじゃない……」
「十分でしょう」
「さっき烈風刀がやってくれたやつのがキレーだった」
唇を軽く突き出したまま、朱い少年はもそもそと声を漏らす。違いなんて一切無いというのに、何がそんなに不満なのだろう。生まれた時から兄弟だが、彼の中の基準にはいまいち掴めずにいる部分があった。これもその一つだ。
歩みを進め、鏡を真剣に覗き込む兄の隣に経つ。硬い指が不満げにつつく三つ編みに手を伸ばした。ゴムの位置をほんの少しだけ上げ、前髪の流れに沿うように毛先を整えてやる。途端、虚像の紅玉髄が明るさを取り戻した。
「やっぱ烈風刀にやってもらうとすげーキレーになる! カッケー!」
「少し触っただけじゃないですか」
本番前と同じ、角度を変えつつ何度も頭部を眺めて笑う片割れに、弟は呆れた調子で投げかける。整えてやってものの、見目など変わっていない。彼が美しく編み込んだ三つ編みは、きちんとした姿を保っていた。だというのに、少し触っただけでこんなにも喜ぶのだから理解しがたい。
「気になるならまた最後に整えてあげますよ。二人でチェックすれば万全ですし、貴方も安心でしょう?」
ライブステージという大勢の観客を前にした大舞台に立つのだ、見目は綺麗に整えなければならない。特に、この衣装とヘアスタイルはレイシスが考案し手ずから作ってくれたものなのだ。崩すことなど許されない。完璧に着こなすのが当然の義務である。
それに、不安を抱えたまま舞台に立ち、本番中集中できないなんて事態になっては洒落にならない。自信をつけることも重要なことである。それが髪を整えてやる程度で済むのならば、やらない道理がない。
「え? いいの?」
鏡に吸い込まれていた茜空色が、昼空色に向けられる。まあるい瞳は更にまあるくなっていた。きょとり、と表現するのが相応しい様相である。
いいですよ、と当然の言葉を返す。目の前の朱が幾度も瞬く。ぱっちりとした目元がふわりと解け、柔らかな、けれども輝かしく歓喜に満ちた笑顔が咲いた。
「烈風刀がやってくれんならぜってーすげーカッコよくなるな!」
「大袈裟ですよ」
ニコニコと上機嫌に笑う兄に、弟は息を漏らす。紡ぐ音色も少し眉の下がった表情も、ほんのりと照れが滲んでいた。
「着替えますよ。あとがつっかえてますから」
「ん」
舞台衣装を脱ぎ、私服へと着替えていく。兄と同じように頭に彩りをもたらした三つ編みを解き、ブラシで手早く整えた。ハレの日を飾る髪が、日常へと戻っていく。
「ん、行こーぜ」
先に着替え終わった雷刀が声をかける。らしくもなく衣装を丁寧に整えてロッカーにしまう背がくるりと振り向く。頭部には依然碧が混じった朱い編み込みが咲いていた。
「三つ編みのままですよ」
「せっかく烈風刀がカッコよくしてくれたんだし、今日はこんままがいい!」
満面の笑みを浮かべる朱に、碧い目がぱちりと瞬く。それもすぐに解け、穏やかな弧を形作った。
「本当に大袈裟ですね」
「大袈裟じゃねーってば」
きゃらきゃらと上機嫌な笑い声が大きな口からこぼれていく。わずかに解けた口元から細い息が漏れる。どちらも充足感に満ちた明るいものだった。
音をたてて開けられた控え室のドアが閉められる。しっかりとした足音が二つ、ライブの歓声にまじって消えた。