船の縁に手をついているヽ蔵に忍び寄り、いざ抱きつこうとしたところでかいは動きを止めた。ぴたりと首に当てられた刀。いつの間にか振り返ったヽ蔵が刀を抜いていた。
「何だ、かいか」
はあーとこれ見よがしに吐かれたため息と共に刀が引かれ、かいもほっと息を吐く。本気で斬られるとは思っていなかったが、それでもやはりいやなものだ。
「脅かすなよ」
「だからって抜かなくても良いだろ」
集落の中なんだし、と首を傾げるとヽ蔵が呆れたように肩を竦めた。
「そういうことじゃねえだろ」
「じゃ何だよ」
わかんねえ、と顔をしかめるかいをまじまじと見つめ、ヽ蔵はもう良いと吐き捨ててまたかいに背を向けて縁に肘を付いた。いそいそと近づいて今度こそ後ろから薄い背中に抱きつく。細い腰に腕を回し、ぎゅっと抱きしめながら肩に顎を載せる。頬擦りはさすがに怒られるかな、などと考えているかいの頭がわしわしと撫でられた。
「何か用か」
そっけない声と共に伸びてきた手に触れられ、浮き立つ気分のままに頬擦りすると互いの髭が擦れてじょりじょりと鳴った。やめろ、と頭を撫でていた手に額を押し退けられる。
「おれ蒙古を斬ったぞ」
「ああ、そうだな」
ヽ蔵が苦笑し、大人しく引いた額をとんと指先で突かれる。抱きついた腕を緩めて腰から胸元へと片手を滑らせて薄い胸板を撫で回し、もう一方の手を胯間へと伸ばすとヽ蔵の手が手首を掴んだ。
「こら」
「褒美」
「あ?」
ぼそりと呟くと、眉を寄せたヽ蔵がようやく顔を振り向けた。
「何だよ。褒美くれても良いだろ?」
じっとヽ蔵の顔を覗き込みながら唇を尖らせるとヽ蔵がまたはあーとため息を吐いた。けれども触れる手を止めながらもかいを引き剥がそうとはしないヽ蔵にくすりと笑い、かいは目の前にある首にがぶりとかじりついた。途端に触れていた手が捻り上げられ、腕の骨がみしりと軋んだ。
「ぎゃっ」
「調子に乗るな」
ふんと笑うヽ蔵に腕のなかから逃げられ、かいはちくしょう、と歯噛みしながらヽ蔵を睨み付けた。
「ちょっとぐらい良いだろ!」
「だーめ」
「けち!」
口を尖らせるかいを前にヽ蔵がはあーと大きくため息を吐いた。
「あのな、まさか褒美欲しさに戦った訳じゃねえだろ」
「う」
当然だ。かいだって島を守るために戦ったのだ。ただ、ついでにヽ蔵が褒美をくれないかと浅ましい考えがなかったとは言えない。返す言葉もなく唇を噛んで押し黙ると、ヽ蔵がもう一度ため息を吐いた。
「まったく」
呆れたと言わんばかりの声とともに伸ばされたヽ蔵の手が、俯くかいの頭を軽くぽんと叩いた。
「良くやった」
わしわしと髪をかき回され、剥き出しにされた額に何か柔らかく温かいものがむにっと触れた。
「へっ」
慌てて顔を上げるとヽ蔵がにこりと微笑んでいた。ぽかんと口を開けながら、感触の残る額に自分の手を伸ばしておそるおそる触れる。さっき、ここに触れたのは。
「餓鬼にはこれで十分だろ」
にやりと笑うヽ蔵に推測が確信に代わり、ぶわりと顔が熱くなる。同時にまた餓鬼扱いされた悔しさが噴き出した。
「ここじゃなくてこっちだろ!」
何で額なんだと思わず自分の唇を指差して喚くと、また伸びてきたヽ蔵の指にばちんと額を弾かれた。
「ぎゃっ、いってえええ」
「調子にのんな」
涙目で額を押さえて踞る頭上から降ってきたヽ蔵の呆れ果てた声を聞きながら、次こそは、と決意を新たにした。
***
「てんぞー!」
大声で呼ばいながら勢い良く戸を開け放つ。どかどかと家の中に上がり込むと、突然奥から瓢箪が飛んできた。
「うおっ」
慌てて避けた先に今度は碁石が飛んでくる。それもどうにか躱すとかいの後ろでばすっと障子の破ける音がした。ハアー、と大きなため息が奥から聞こえる。
「やかましい」
唸ったヽ蔵がぎろりと睨んでくるのに構わず、いそいそとヽ蔵の許に駆け寄って飛びかかる勢いで抱きついたがするりと横にずれたヽ蔵に躱されてしまった。触れ損ねた手を握りしめながらヽ蔵を睨み返して喚く。
「何で避けるんだよ!」
「あのなあ、受け止めたらおれの腰が壊れるだろうが」
ハア、とこれ見よがしにため息を吐くヽ蔵に向かって手を伸ばすとばしっと叩き落とされる。
「たがら止めろってのに」
「何だよちょっとぎゅーするくらい良いだろ!?」
「ぎゅー、ねえ」
子どものように駄々を捏ねている自覚はあるが、ヽ蔵はかいに甘えられると弱いのだと知っている。すがるようにじっと見つめながらヽ蔵に向けて腕を広げて待っていると、しばらくかいを眺めていたヽ蔵は苦笑しながらのそりと腕を持ち上げた。正面からヽ蔵の広げられた腕のなかに飛び込んで抱きつくと、ヽ蔵がぐえっと呻いた。
「苦しいぞ」
「ごめん」
へへ、と笑いながらなおもぎゅうぎゅうとヽ蔵の薄い体を腕のなかで締め付けて肩口に顔を埋める。すう、と匂いを嗅ぐと鼻腔がヽ蔵の匂いに満たされた。慣れ親しんだ体臭と、微かな潮の香と、乾いた木の匂い。かいが何より好きな匂いだ。ふすふすと鼻をならしているとヽ蔵の手がばしんと背中を叩いた。
「こら嗅ぐな」
「いいだろ好きなんだよヽ蔵の匂い」
「はあ?」
ヽ蔵の声が呆れたとばかりにひっくり返る。相変わらずかいの想いは全くヽ蔵に届いていない。むっとしながら顔を上げて薄い肩を両手で掴み、鼻先が触れそうな距離でヽ蔵の顔を覗き込む。
「好きだ」
もちろん匂いだけじゃなく、ヽ蔵のことが、だ。何度告げても答えてもらえない告白に、また小さなため息が返された。
「おれ本気だからな」
悔しさに涙が滲む。じっと睨むように見つめていると、ヽ蔵がふっと口許を緩めて笑った。ぱちりと瞬く間にヽ蔵がすっと顔を寄せた。耳許の鼻先が触れ、すん、と小さな音が鳴る。
ヽ蔵に嗅がれた。かいがはっきりとそう認識する前に、ヽ蔵が耳許で囁いた。
「お前は潮の匂いが染みついたな」
「へっ」
艶のある声が耳に直接染み込む。ずんと腰が重くなって思わず後ろにふらりとよろめいて尻餅をつくと、すっと顔を引いてしまったヽ蔵の指先がかいの顎をするりと撫でた。
「すっかり海の男になりやがって。なあ、かい」
目の前でヽ蔵がにこりと微笑んだ。いとおしそうにかいを見る優しい目に一気に頭に血が上る。
「でも」
思わず伸ばしたかいの手から逃れたヽ蔵が立ち上がってかいを見下ろし、さっきの表情が嘘のようににやりと意地の悪い笑みが浮かべられた。
「まだ餓鬼だな」
ヽ蔵の視線の先、かいの股間ははっきりと膨らんでいた。慌てて両手で隠しながら蹲る。顔が熱い。ぐうと唸る背中をぽんとヽ蔵に叩かれた。
「そんなんじゃまだおれは口説けないぞ?」
くすくすと笑いながら丸めた背中を撫でるヽ蔵に、かいはちくしょうと呟きながら悔し涙を浮かべた。
***
集落に帰ってきたヽ蔵を見つけて何時ものように駆け寄ろうとして、かいは一瞬足を止めた。ヽ蔵には珍しく連れがいた。しかも侍だ。じいっと見ているかいの前で、ヽ蔵が侍に向かって笑いながら軽く肩を叩いた。侍も動じることなく受け入れている様を見て、かいは苛々としながら駆け出した。
「ヽ蔵!」
「お、かいか」
よう、と手を上げて微笑むヽ蔵と無表情で見返す侍の前に辿り着くと、かいはヽ蔵の肩を掴んで引き寄せた。ぎゅうと背後からヽ蔵を抱え込みながら侍を睨み付ける。
「おいこら何だよ」
ヽ蔵が苦笑しながらかいの腕を宥めるようにぽんと叩く。そんなんじゃごまかされない。正面で腕を組んでいる侍に殺気を込めた視線を向けたままヽ蔵に尋ねる。
「こいつ誰」
「ああ、鑓川の仁だ。喧嘩売るなよ」
「売らねえよ」
喧嘩はな、と鼻で笑うとヽ蔵が腕のなかでため息を吐いてぐっとかいの腕を掴んだ。
「こら。蒙古を追い払うのを手伝ってくれてんだよ。そう邪険にするな」
「侍なんざいらねえだろ」
「おれたちじゃどうにもならなかっただろうが」
ほら離せ、とヽ蔵に促されてしぶしぶ腕を緩めると、くるりとヽ蔵が振り向いた。ぺちんと頬を手のひらで叩かれる。
「おれの客だぞ」
じいっと間近から顔を覗き込まれながら告げられ、唇を尖らせながら頷くとヽ蔵がへらりと笑った。
「ああそうだ、今日はかいのところに泊めてくれ」
「えっ泊まってくれるのか!?」
「おれんちは貸しちまってるからな」
「やった!」
久しぶりにヽ蔵と一緒に寝られると考えただけで、下降気味だったかいの機嫌は一気に高揚した。
「仁もそれで良いか」
「は!?」
え、と呆気に取られるかいを尻目に、ヽ蔵に尋ねられた侍がこくりと頷いた。
「ああ」
「そいつも来るのかよ!」
崖から突き落とされた気分で思わず抗議の声を上げると、ヽ蔵がまたため息を漏らした。
「おれの客だって言っただろうが」
「でも」
「でもじゃない」
「いやだって」
「ああ?」
「ヽ蔵は歓迎するけど、そいつ侍じゃないか!」
何とか抗弁しようとするかいに、だんだんとヽ蔵の機嫌まで下降し始めた。それでも収まらず言い募ると、唐突に唇が柔らかいものに塞がれた。目の前にヽ蔵の伏せられた睫毛が見える。意外と長い、などと考えているうちにそれが離れていった。
「よし、やっと黙ったな」
「は、え?」
満足そうににっこりと笑うヽ蔵に、ぱちりと瞬く。ヽ蔵の後ろでは、侍が驚いたように目を丸くしていた。うん、おれも驚いた。だって、今の。
「じゃあ後でな、かい」
固まったままの肩をぱんと叩き、踵を返したヽ蔵が侍を促す。
「お主、なかなか酷いな」
「あ? 何がだよ」
憐れみを含んだ侍の声と、不思議そうなヽ蔵の声。遠ざかるふたりの姿を見送りながら、かいはただ呆然と突っ立っていた。
***
「かい、いるか」
がらりと戸を開けて入ってきたヽ蔵を見上げてかいは顔を輝かせて立ち上がった。
「てんぞー!」
いつものように飛びつくと、ヽ蔵はため息を吐きながらも珍しくかいを受け止めてくれた。それだけでも嬉しくてぎゅうぎゅうとヽ蔵の薄い体を抱き締めて髭の生えた頬にじょりじょりと頬擦りする。
「いたいぞ、おい」
苦笑しながらもされるがままのヽ蔵に、抱き締めた腕はそのままに間近から顔を覗き込む。何をやっていたのか知らないが、ヽ蔵は目の下を黒く染めて疲れた顔をしていた。
「ごめん、どうしたの」
そっと頬に手を伸ばして触れ、目の下に浮かんだ隈を指先で撫でる。目を伏せたヽ蔵がまたふうとため息を吐いた。
「まあちょっとな」
いつもはっきり過ぎるほどはっきりと物を言うヽ蔵が、珍しく言葉を濁した。つまりかいには何も告げる気がないのだ。問い詰めても無駄なことはわかっている。
今度はかいがこれ見よがしにため息を漏らし、頬に触れていた手を後頭部に回して引き寄せヽ蔵の顔を肩に押しつけた。ヽ蔵は大人しく体を預けるどころか、かいの背中に手を回してするりと背中を撫でた。
「ずいぶん逞しくなったのな」
「もうガキじゃねえもん」
「そうだな」
珍しく頼られているようで嬉しかったが、成長した、と言外に告げるヽ蔵に思わず唇を尖らせる。くすりと笑ったヽ蔵が顔を上げ、さっきのかいのように顔を覗き込んできた。鼻先が当たる感触に思わずごくりと息を呑む。目の前でヽ蔵の目がすうっと細められ、かさついた手のひらが熱くなる頬を覆った。
「もう、ガキじゃねえんだよなあ」
何故か悲しそうなヽ蔵の声に、かいはいつものように噛みつくことすらできずにじっとしていた。ヽ蔵はふっと息を吐くとかいの腕からするりと抜け出し、部屋の奥で床にごろりと寝転がった。
「ヽ蔵?」
「今日は泊まる」
それだけ告げるとヽ蔵はかいに背を向けて動かなくなった。すぐに聞こえてきた静かな寝息に、そろりと足音を消して近寄る。床に手をついて覆い被さり、無防備なヽ蔵の耳の後ろに鼻を擦り付ける。すんと鼻を鳴らすと、汗の匂いがした。
「ガキじゃねえんだから、襲うぞ」
ぼそりと呟くかいの下でヽ蔵は静かに眠っている。しばしじっとヽ蔵の寝顔を見つめ、かいも
ヽ蔵に背を向けてごろりと横になった。