星仰ぐ星を見やるれば 紅の狭間、蒼の波打ち際に萌え生うる季節外れの山吹を、竜三はしばし棒立ちになって眺めていた。
彩は目にも鮮やか。何より奏で立てられる音がまた、良い。
寄せては返すさざ波。どこより来訪するのか、この時期になると島のあちこちで目に付くようになる、腹毛の赤い鳥の神経質そうな鳴き声。天から吊るされた簾のごとき紅葉を豪奢な敷物へと変じさせる、芳しい香の風音。そして、ひゅ、ひゅ、と空を裂く素振りの音。所作ごとに踏み荒らされかき鳴らされる葉音。食いしばった歯の間から、鋭く抜ける息の音。
場は多種多様な音で満たされ、喧噪とも云えるほどであるのに、耳を覆いたくなりはしない。むしろ、たいそう落ち着く。目を閉じて傾注すれば、眠り誘う調べとも感ぜられる数多の音は、竜三を包み込み、その場に揺蕩っていた。
響きをかくも心地良きものと認識する要因のひとつは、その調子にある。むろん自然が立てる音どもは一定の間隔ではないけれど、その央を走る主旋律が直ぐと己を保っており、全体をうまく調和させているのだ。
央に在るのは、友の姿だった。
(仁のやつ、また腕を上げやがった)
無心で振られる木刀は、重みと勢いに流れることなく宙空の一点で静止している。いくども、いくども。見えない巨岩を打ち据えているかのよう、刃先はぴたり、美しく留められている。ついこの間までは、筋力が及ばず、止め切れぬ剣先で地を削ることがもっぱらだったように思えるのに。
細身で非力だった友は、少しずつ、けれど着実に、ひとかどの男――侍へと羽化しかかっていた。
と、「竜三」
何の弾みか、ふ、と友の表情がたわみ、木陰にいた己が見い出される。先刻までの、一種壮重だった佇まいがまるで幻のよう、陽光に溶けて消える。
友は――仁は見覚えある仁の姿のまま、子犬のよう竜三へと駆け寄って来た。
「ずい分と遅かったではないか。このまま日暮れまで放っておかれるのではと案じておったぞ」
「悪かったな。卯麦の方まで届け物があって、思ったより時間を取られちまった」
ふす、といかにも不満を前面に押し出しては来るものの、それ以上文句が付けられることはない。竜三にとってもっとも重要なのは、己が生計を立てることであり、いくら相手が稀にしか里帰りしない幼馴染みであったとて、秤にかければ後回しになる――そういう理屈を諄々と説き、飲み込ませてきた甲斐があったというものだ。
これも少し前までなら平気で「昔と違って四六時中一緒ではないのだし、たまにのことならば俺を優先してくれても良いだろうに」とぶつくさこぼしたものだが。
上がったのは腕前だけにあらず。人としての器もまた、目覚ましい成長を遂げているのだろう。喜ばしいことだ――同時に少し、淋しくもあるけれど。
「…………?」
「それで? この後はもう、おつもりか?」
「! あ、ああ」
淋しい、だなどと感じる必要がどこにある。そもそもそんな権利すら持ってやしないだろうが。自身の脳裏を掠めた唐突な感傷に戸惑いを覚えつつ竜三は、問いから一拍遅れてうなずいた。
「何なら明日の朝まででも、目いっぱい付き合ってやれるぜ」
「云ったな? その心意気や良し。ならば夜を徹してみっちり打ち合いを……」
「すまん、ちと云い過ぎたわ。夜は寝るもんだ。程々にしとこう」
「武士に二言なしと云うではないか!」
「幸いと云うべきか、まだ武士じゃねぇからな」
小突かれ、小突き返し、声を立ててひとしきり笑い、「まあ朝までとはいかねえけど、おまえの気が済むまで立ち合ってやるさ」
「ありがたい」
どちらからともなく木刀を携え、広場へと降り立った。
湿った土の上に敷き詰められた落葉はしばしば草鞋を取ろうと牙をむいてくる、そんな立地の悪さもまた稽古のうちと割り切り、切り結ぶこと十数合。早々と己の腕に走り始めた痺れが、仁の才を、実を伴って知らしめて来た。
鋭く切れのある迷いない太刀筋――仁の剣は、心のない剣になった。
人でなしの業、という意味ではない。欲得であるとか、『力』でもって対峙する以上、多少なりついて回るだろう当たり前の感情に欠けている。
勝ちたい、と思うこと。ねじ伏せてやろうという鼻っ柱の強さ。切るか切られるか――もとい打つか打たれるかの際の恐怖や怯え。自身の技をひけらかし、誇示するような見栄。
薄手ではあったが、幾年か前までは確かに、着物の一番下にこっそり着込まれていた、そのようなものどもは、どこで脱ぎ捨てて来たのやら、まるで見当たらなかった。
(伯父御にいいとこ見せようって気負ってるくせしてから、うまく押し隠してやがる)
邪念など欠片もございません、私は武士として剣の道を極めるべく一意専心に励んでいるのです、と体現しているよう。
(……いや、伯父御に、ってのはこいつにとっちゃ『当たり前』だもんで、邪念にもならないんだろうか)
考え込んだ一瞬の隙を突かれ、仁の刃先が竜三の手から木刀を舞い上げた。
「あ、」
「勝負あったな。……どうした、身が入らぬようだが、何の考えごとだ?」
「……別に。ちと疲れてんだよ」
ばつの悪さを云い訳でごまかせば「そういえば遠出帰りだったな」と素直に受け入れられる。
「少し休んでから始めるべきであったか……浅慮だった、すまぬ」
おまえと仕合えると思うと、いてもたってもいられなくて――そんなこっ恥ずかしいことを、何の衒いもなくぬけぬけとほざける、その神経がたまにうらやましくなることがある。決して真似たいわけではないけれども。
「ひと息入れよう。百合が二人分、粉熟を持たせてくれたのだ」
甘いものはあまり得意な方ではないけれど、仁の、期待に満ち満ちた目にはどうにも逆らいづらい。
『食わせてやろう』と上から来たならはね付けるのもたやすいが、彼はただ、好いたらしいものを分かち合い、共に楽しみ、喜びたい、という気持ちだけを声高らかに謳っているのだ。言下に断るのはいささか気が引ける。
「……俺も、栗持って来たから、それと分けっこな」
「! 茹でたやつか? それとも――……」
「蒸した、やつ」
云ったとたん、喜色が満面を覆ったのが見えた。
「何とありがたい……! 竜三の蒸し栗は絶品だからな」
「誰が蒸しても一緒だろ、んな大げさな……」
面映ゆく、つい素っ気なく云うが「いいや、あれほどの味わいのものはなかなかお目にかかれん」
それに、俺のために用意してくれたものだというところがまた、旨味に拍車をかけるのだ。
きっぱり返されてしまえば、それ以上何を云うこともできなかった。
‡‡
「……なぁ、仁。次にこれ持ってくることがあったら、頼むから冷やしといてくれ」
咳ばらいをしたものの、いがらっぽさは取っ払うことができず、絞め上げられた鶏みたいな声になってしまう。
「無茶を申せ。外だぞ? 上県ならばさておき、この辺りでは氷室になりそうな洞もめったにあるものではないと云うのに」
「誰もそんな本格的なことは求めてねぇんだ……。壺かなんかに包みごと入れて、そうだな……あの辺り。日陰になってる、あの浅瀬辺りにでも、流されないようにして浸けておきゃいい」
「お主はいったい、そういう知恵をどこからつけてくるのだ?」
黒文字をなめなめ感心しきったまなざしが注がれたけれど、詳らく元気はない。何せ喉がたいそう乾いている。
仁も仁なりの気遣いを働かせ、包みを木陰に置いてはいたのだが、秋深まり切った陽射しといえども馬鹿にはできず、百合謹製の粉熟はすっかりぬるくなってしまっており、ただでさえ重い甘ったるさをさらに増していた。彼女の作るそれは、甘葛に蜂蜜を足し加えてあるものだから、なおさらだ。
のっぺりへばり付くような食感の餅に、たっぷりたんまり贅沢に振りかけられた黄粉も絡み合えば、何というか、いろいろと、濃い。あるいはくどい。
決して不味くはないのだ。むしろ美味い――だからこそ、(惜しい……)
かぶりを振り振り、背後にしていた湖より汲んだ水を何口も立て続けに呷ってようやく人心地つけた竜三は、小柄を用いて半割りにした栗をせっせとほじっている仁に目をやった。
黄粉を口の端にくっ付けたまま、うまいうまいと栗をほおばる姿は童の頃とまるっきり変わらないが、肩口までまくり上げた袖から覗く腕は、往時よりも格段に分厚くなったよう見受けられる。
きちんと食い、一日の大半を鍛錬などに費やせている者にしか果たせぬ成長だ。
己では、望むべくもないもの。
「……どうした、竜三?」
「……あ?」
「餅が喉に詰まりでもしたか?」
息苦しそうな顔をしている、という指摘にどう答えたものか、一瞬、躊躇する。
「……詰まってたらこんなのんびりとはしてねぇだろ。腹がくちくなったんで、残りをどうしたもんか考えてただけだ」
結局ひどく無難なところに落ち着いた口実を、しかし仁は疑いもせず飲み込んでくれた。
「そうか! ならば後は俺に任せろ!」
育ちがいいくせして、なぜか妙に食い意地の張ったところのある友がほくほく顔で云うのに、頼まぁ、と返し、手持ちの短刀を使って次々と、硬い殻の中に閉じ込められた淡い黄の実の救出を手伝う。
「……ふむ、待てよ……少し取っておいて伯父上への土産にするというのも――」
「お口に合うかよ、こんなもん」
「そうか? きっとお気に召すと思うのだがなぁ」
止めとけ、しかし、止せったら、といったやり取りを数度経てようやく説き伏せ、念のため、論議再燃の余地をなくすべく率先して殻をやっつけていけば、いきおい仁の口もふさがることとなり、自然、辺りは静寂に見舞われた。
響くのは、ぱきん、ぱきん、と殻の飛ぶ音と、涼やかな水音。それと、仁の立てる微かな衣擦れだけ。あの鳥たちはどこかへ行ってしまったらしく、気配すら感じ取れなくなっていた。
(陽当たりが良過ぎて暑くなっちまったんだろうか)
人ならば着物を脱ぎ着すれば暑さ寒さはある程度しのげるが、鳥獣はまとった毛や羽を下ろすことはできない。竜三の肌は暑さどころかほのかな冷えを感じているけれど、これだけ眩しいのだ、きっと樹上では――(ん……?)
はた、と手を止め、竜三はぐるりを見渡し、そうしてから『なんだって俺は今、『眩しい』だなどと思った?』と内心首をかしげる。
天気は確かに良好だ。雲は多くなく、空気は澄んでおり、高台に上がって目を凝らせば金田城すら見通せそうなほど。
けれど、ここでそれを実感することは本来あり得ない。
天幕のよう広がる木々の陰にあるが故。
秋のか細い陽光は葉陰の間を縫うようにしてしか差し込まぬ、この広場はそういう立地であった。
水面の助けを借り、光量が増しているのか。否、それにしては暑さに欠けている。顔も、腕も、むき出しのすねもひんやりとしており、明るさの影響が及んでいるのはまなこだけ。
(ぜんたい、どうしたことだよ)
この場で何が起こっている。あるいは己の身に、何が。
(疲れのせいか、はたまた物の怪の類の仕業か……?!)
友のことを思い出したのはその時だ。
(そうだ、仁は――)
この異変が自身にのみ降りかかっているものでないなら、仁にも何らかの障りが現れているはず。だとするなら彼のこと、何くれ騒ぎ立てていそうなものだが、それもできぬほど苛まれているということもあるかもしれない――はたまた口の中に栗の実を詰め込み過ぎて話せない、という可能性もあるけれど。
「仁、おまえ」
気遣いの言葉は、目をやった先でぶつん、ともぎ取られた。
全身の血が突如として頭に上り詰めたかと思うや、一気に足元にまで下がる。
その道すがら、喉と胸の間に、硬く冷たい重石を置き土産にして。
(……ああ……――そうか)
唾を飲み下すと、重石はふるふる左右に揺れ、その振動が胸から腹にかけてを云いようもない不快感に染めてゆく。胃の腑は熱く凝り、決して悲しみではない感情で涙が滲みそうになった。
光は、その源は、そこに在った。
(これは、おまえが)
あろうことか己は、隣に座する青年に、輝きを見てしまっている。
そう気付かされた。
(……くそ、)
重石の真名を呼んではいけない。暴こうとしてもいけない。永遠に目を背けておらねば己が立ち行かなくなる。
けれど仁と知己となって以来、同じだけの年月を竜三の友として過ごして来たそれを、知らんふりすることも難しかった。
(仁、俺は、ずっと)
日を追うごと、境井の惣領として、地頭の甥として、ひとかどの武士として成って行く彼。幼い頃は己の方が幾歩か前に出ていたのに、あっという間に追いつき、今や前に出んとしている彼。己が肩を並べていられる時間はもはや、そう長くはあるまい。いや、ことによると既に。
生まれだの育ちだのといったものは、自分たちの間では何の隔てにもなるまい、と信じていた昔が偲ばれた。多少の不利はあろうとも、力を尽くせば為せぬことなどなく、必ずや覆せるものと思っていた愚かだった頃の話だ。
今の己を見てみろ、身を粉にして働くことで力も筋も付いてはきたものの、戦うために研ぎ澄まされ鍛えられた肉体とは根本的に違い、時として食うものに困ることもあるという事情も相まって、四肢はどこか頼りなげなところを残してしまっている。寝食も、時の使い方も、質が違い過ぎた。
むろんそんなのは、最初からわかり切ったことだった。今と同じに目を背け、世知の多寡からなる差にささやかな優越を懐き、物心ついたばかりの童にさえわかる与太で自身を慰め、騙し、惨めにならぬよう励まして。年老うごと、増すどころか目減りしてゆく己の価値を必死にかき集め、きっと己にだって世に示せる何かがあるのだと――。
(おまえのことが、ずっと)
重石がとうとう胃の底に落っこち、どぷん、と熱く、粘っこい飛沫が盛大に上がる。たちまち立った大きな波は、けれど行き場のなさ故に、上へ上へと押し上がるうねりへと変じた。
嵐。もう何度味わったかわからないほど馴染んだ、馴染み切った、馴染んでしまった感覚。
仁によって孕まされる、仁が生み付ける鬼子を、産み落とそうと考えたことはこれまで数知れない。いっそ己の安寧のためには、そうしていた方が良かったのかもしれない。
だが竜三は、仁と友であり続けることを望み、選んでしまった。重石をもう一人の旧友とし続け、鬼子を孕み続けることを選んでしまった。すべてをぶちまけ、その上で友諠を結び続けるという道を選れなかった怯懦を自嘲しはしたが、代わりのよう、内なる友を何とか抑え込む術を見い出したのだ。
(……ずい分と差がついちまった……けどな)
彼らは、内なる友らは、意欲を嫌う。前向きな気持ち、挑まんとする猛き心、そういったものが大嫌いだ。
故に竜三は今日も今日とて、それらを封印の呪符のよう、ぺとり、己の内に貼り込んだ。
あやすように。
労わるように。
(あいにく俺も、ここで大人しく燻るようなたまじゃねぇんだよ)
やろうと思えばなんだって成し遂げられる、と信じられるほどに無垢ではないけれど。知らぬうち、誰からともなく胸に刻みつけられた『無価値』の文字を消すことは叶わないけれど。
おいそれと踏ん切りをつけ、諦められるほど――大人でもないのだ。
(まだ、終わっちゃいない)
暗がりにうずくまっていられたならどれだけ良かったことか、と思う節もなくはない。
(そして多分、始まってもいやしない)
しかし光を疎ましく、厭わしく思うのではなく、『眩しい』と目を眇めていられるうちは、己は、まだ。
「……竜三?」
「っ、なん、だよ?!」
――と、思いがけず近くで呼ばわられ、背が反射的にのけぞった。仁の、真っ黒な目玉に、みにくく顔を歪めた己が映り込んでしまっている。
取り繕ったようでいて、こんな面を晒しているのか、俺は。忸怩たるもので口の中が苦くなった。
「それは俺の科白なのだが。人を呼んだかと思えばそれっきり黙ったままで……どこか具合を悪くしているのではあるまいな」
もどかしいくらい優しく、腹立たしいくらい思いやりを込められた、泣き出したくなるくらい素朴な配慮。己をどう見せるべきか熟知しきったようでいて、何ひとつ計算の含まれていないあどけなさは、いつも竜三を波立たせる。
仁が悪いのではない。所以の知れぬ感情はあたかも、自身の尾を追い回す犬にも似て、ひどく徒労感を覚える、というだけのこと。
さりとて自分の内のことでもって八つ当たりするのはいかにも憚られる――ん、と咳払いのまねごとをし、竜三は、案じる目線を霧散させるよう手を振る。
「そんなんじゃなくてよ。……感心してただけだ。また一段と腕前を磨いてきたもんだ、ってな」
云ってしまった。認めてしまった。
けれど、これだって、己の本心なのだ。
弟分が立派になって行くのを目の当たりにし、喜ばしく、誇らしく思う己がいるのだって、曲げようのない真実なのだ。
「なんだ、それは。からかっておるのか」
「おまえをからかって何の得になるんだよ。素直に受け取れ」
直視を避けた理由の大部分は照れくささだが、しつこく腹の底であぶくを立てている闇色をしたものどものせいであることも否めない。
けれど彼らの陰も、触手も、横目で見た仁の表情――まなこを転げ落としそうなくらいまん丸くして、腕の内側辺りの敏感なところを赤子の柔らかな指でつねられたみたいな、『びっくり』や『くすぐったい』、『面白い』といった、ありとあらゆる陽の感情を全部ひっくるめてひとつの鍋にぶち込んだような――を認識したとたん、明け方に見た夢のごとく消えてゆく。後に残るのは、冷えの残滓を一気に流しやった温もりだけだ。
「ふふ、それもそうだな」
されど、それも長続きはしなかった。
程なく仁は、笑みを目じりから払い落とすと、しめやかに、真剣に、厳然とかぶりを左右にしてつぶやく。
「……ありがたい言葉ではあるが、しかし、俺などまだまだだ。腕前も、魂も、気構えも、何もかもが不足している」
言葉に謙遜の色はいっさい混ぜられていない。彼はいちずにそのように捉えており、またかつそれがこの世で唯一、真と呼べるものだと信じ切っていることが明白に知れる、そんな声色で。
(ああ……、これだから)
胸の内、孵化しかかっていたものがすぅっとその熱量を失っていくのが感じ取れる。竜三の優しさで育まれた生き物が、少しずつ形を変えてゆく。
(……相変わらず、おかしな基準の置き方してやがるよ)
少しく遠いまなざしであらぬ方を見上げている仁に、ため息をつきたくなった。彼が今思い描いているのは大方、『目指すべき姿』であり、『武士としての到達点』として定めた星――すなわち仁の亡き父である正と、伯父である志村の影法師に違いない。
(理想が高いに越したことはないけど……『間』がねぇってのはどうにも)
遥かなる高みに位置する二人。そこに至っていない限り、可とも是ともならない。そんな仁の価値観を初めて聞いたとき、少々、いやかなり求道的過ぎやしまいかと、たいそう呆れた記憶がよみがえる。
むろん遠すぎる距離に逸る気持ちは痛いほど竜三にもわかるけれど、だからこそ逆に、ひと足ごと、現在地を確かめながら堅実に進む方が良いのではと思うのだ。
人はどれだけ頑張っても飛べっこない。そして目的地にたどり着くまで――そもそもたどり着けるかも定かでない――ただの一度も休みを挟まず歩み続けることも、また難しかろう、普通は。
(その上理解できねぇのは、それ以下をすべて同格と見なす、その性根だよ)
仁は人を格付けない。見上げる高みに居らぬ者は、彼自身をも含め、皆『足らぬ』という点で等しい、としてしまう。
『格下』の内にとて確かな序列があることに気付いてもいない。だから平気で己を指し、本気で「まだまだ」などと云えるのだ。
(……いや、気付いちゃいるが、そんなものに何の意味がある、と無視を決め込んでいるだけかもな)
あるいは――そもそも、目もくれていないということもあるかもしれない。
一見、『おまえも俺と同列だ。共に精進しようぞ』と平等に扱っているふうを装い、仲間意識を植え付けておきつつ、その実。
(――なんて、ひどい男だろう)
と思うと同時、一抹の悲しみをも覚えてしまう。
顧みられているようで、歯牙にもかけられていないこと――それがないと云えばまったき嘘になる。
仁自身がその歪みに気付いていないこと。
何より彼が、彼とて見上げられるに相応な立場であると認識していないことも。
仁がそこに無頓着でいる限り、竜三の抱えるこの引け目も、焦りも、いまだ言葉にし得ぬ感情も、すべて。
(――……まあこいつのことだ、俺が云わなくても、きっと)
『いつか』のその時、はたして己はどこにいるのだろう。今と同じよう、仁のやや斜め後ろで、懲りもせず飽きもせず倦みもせず星を仰ぐ彼の背を見ているのだろうか。
あるいはもっとうんと離れたところから、己も見上げているのだろうか。
もしくは。
届いて、いたなら。
遠い先行きに目を凝らしてもうまく像を結ぶことは叶わず、白日夢のようさらさらと風に散ってしまう。そのことにかすかな切なさと安堵を懐きながら、ふっく、と肩をひと揺らしした竜三は、おもむろに仁の頭を張った。
「んなっ、何をするっ」
「面が黄粉まみれになってるから、叩いて落としてやろうと思ったんだよ」
「ぬっく……口で云わぬか! 口で!!」
あわてたふうに水辺へと駆けて行く友の背を目で追う。
翼を負うたよう疾く行く、直ぐとした、眩きたゆまぬ背。
どうか、いつかは、己も。
(……気付かないでいたとしたって、口惜しいから、絶対、死んでも口になんかしてやらねぇけどな)
心の奥深く、誰にも――たとえ仁にとても明け渡せぬ場所を、意地という名の鎖と錠前で封じ、ゆったりした足取りで歩む。
「待たせたな、竜三! さあ、続きと行こうぞ!」
「その前に、そのびっしょびしょの面拭けっての、阿呆」
二人、重ねて笑った声が、薄紅を刷き始めた空まで上った。
秋の日はつるべ落とし。真の星が頭上を埋めるまで、もう間もなくだろう。
【了】