ゲームセット!星奏館を出、新しく借りたマンションに二人移り住んではや一年。お付き合いは三年になる。
ニキのアパートは、夜部屋の明かりが点いていると、ファンの子に凸されることが続いたことがあり、帰れなくなった。引き払ったわけではないが、今や空き家と思われていても仕方がない。電気もガスも水道も止めてある。
それでもあの部屋は、ニキにとっては実家だし、燐音にとっても思い出の部屋なわけで、解約は考えていなかった。しかし、どこか逃げ込む部屋は必要で、この際ということで新しく部屋を借りたのだ。セキュリティと利便性諸々を鑑みて借りた2LDKの部屋は、そこそこの賃料になってしまったが、無理をしているわけではない。
ニキが準備した夕食を、供に部屋でゆっくりと取れるのは久しぶりだった。その洗い物を燐音が請けおい、ニキは隣でサーバーからコーヒーを入れてくれていた。
リビングのソファに並んで座り、燐音は明日のスケジュールをスマホで確認して、ニキは今度ニキ監修で出版されるレシピ本のチェックをしていた。ソファの前のTV画面はHiMERU主演の連ドラが放送中だった。
コーヒーに口をつけ、燐音はローテーブルに置いてあるキャンディポットの蓋を開けた。入れてある素炒りのアーモンドをポイポイと口に入れる。ポリポリと音を鳴らし呑み込んで、またコーヒーを口にした。
隣のニキに目をやると、随分と真剣にタブレットを見つめている。レシピ本が出ると聞かされたとき燐音も一緒にいたが、あんなに嬉しそうなニキはなかなか見たことがなかった。
「……ニキ~」
「…………」
呼んでも返事をしないのは、集中しているからか構うほどでもないと思ったのか。
「ニキー」
つまらなくてもう一度呼ぶと「ん~?」とタブレットから目も上げず空返事だ。レシピ本はもう最終チェックを終え、発売を待つだけのはずだ。サイン会がどうのこうのと言う話を事務所でしていたのを知っている。
ニキの手からタブレットを取り上げローテーブルに置くと、膝に頭を乗せた。
「もぉ、仕方ないっすねー。燐音くんは」
ニキはそう言って苦笑した。いつの間にか、大人の顔をするようになったなと見上げて思う。
「平和だねェ」
燐音が言えば、ニキは燐音の頭を撫でながら「ん~……そっすねぇ」とおかしそうに目を細めた。ニキの返事の途中にあった間に、言いたいことがわかって燐音も笑った。
世間からはCrazy:Bが平和だと言えるか微妙なところだからだ。今もTVで流れている連ドラ主演のHiMERUは、共演者(風早巽)と諍い!降板!と初回放送を前に週刊誌を賑わせた。珍しくNGを出したHiMERUを風早がフォローしたのが、なぜか諍いとなったようだ。こはくは深夜恋人と密会!とスッパ抜かれた(変装した姉さんだった)。二日ほどニキが掌に包帯をしていたことがあり、それがなぜか突如の燐音とニキの不仲説に、Crazy:B解散か!とあちこちを騒がせた。ニキの包帯の下は火傷で、燐音がまだ熱いフライパンを素手で触ろうとしたのを焦って庇ったせいだった。ニキは大げさだと言ったのだが、燐音にしたら大事で、その落ち込みようは側から見て別人かと思うほどに酷かった。けれどだいたいの不穏な記事は燐音が面白がって、煽ったせいでもある。
「まあ、いつもこんな感じっすからね~、僕ら。平和っすね」
優しく撫でられ、欠伸が出る。
「燐音くん、お風呂行かないと。寝ちゃ駄目っすよ」
そう言うくせに、手つきは眠りに誘うように優しい。
「ニキぃ」
「ん?」
「好き」
ふふっと笑ったニキが燐音の頭にキスをして「僕も好き」と返してくれる。甘ったるくて、平和で、幸せだ。それに突如思ったのは、先ほど燐音がニキから取り上げたタブレットのこと。じっと膝の上からニキを見上げる。
ニキは燐音の仕事にアレコレと口を出すことはないし、何かの都合で約束がフイになっても何も言わない。付き合いで飲み歩いても何も言わない。こうして欲しいと言われるのは、今のような「風呂に行け」だの、「朝飯を食え」だのそんなのばっかりだ。
アイドルの仕事をしている時はもちろん、都度望まれている顔をしている。騒いで、必要ならバカやって、キメるときはそうして。楽しくやっている。現場を離れ、部屋で二人きりだと言葉を交わさなくったって嫌じゃない。お互いに好きなことをしていても、すぐそこにいる。手を伸ばせば届く。呼べば返事が返る。くっついて眠って。仕事はあるし、ニキは傍にいるし、何も不満なんてない。
じいっと燐音に見つめられ、ニキは不思議そうに首を傾げた。括った髪が胸で揺れる。
「俺っちいいこと思いついたんだけど、聞く?」
にんまり笑っていうと、ニキはあからさまに嫌そうに眉を寄せた。
「嫌っす。聞きたくない。絶っっ対に嫌っす」
付き合いが長いだけはある。なんてそんなわけはなく、燐音が言う「いいこと」を素直に受け取るのは弟ぐらいだ。
「あのなァ……」
「ヤメロー!聞きたくないって!」
ニキの手に口を塞がれそうになり、その手首を掴み阻止する。言ったもん勝ちと、さっさとその思いついた「いいこと」を口にした。
「ニキー、浮気ごっこしようぜ」
「……は?」
ピタリと動きが止まったニキに向かって、もう一度ゆっくりと教えてやる。
「浮気ごっこ」
「……浮気……。ほらぁ! もう絶対バカなこと言うと思ったっす!」
いい反応を返すニキに、声を上げ笑った。
「なに笑ってんすか」
「だからァ、ごっこだっつーの。 浮気ごっこ」
ニキはかなりご不満のようで、燐音の髪を強めに引っ張り抗議した。
「抜けるっしょ」
「そんだけ毛量あるんすから、二、三十本ぐらい平気っすよ。それより、浮気ごっこってなんすか。よくわかんないけど、僕ぁやらないっすよ」
いや引っこ抜いたら円形になるだろ、と思いつつ、ニキの目が若干吊り上がっているから、イラついてるなと愉しくなってきた。先ほどまでの甘ったるい空気はなかったかのように、燐音のろくでもない提案にニキは目を眇める。
「なんつーの、最近の俺っちはいい子だと思うわけ。 だから、ちょっと悪い子にもまたなってみようかなァって」
燐音がそう言うと、ニキは鼻で笑った。
「悪さしかしないくせに、どの口が良い子って〜?」
「まぁまぁ、聞けって。 これには、セーフワードを設定して言った方の負けでェ、勝負ってとこだなァ。勝利者にはもちろん豪華景品が!」
言いながら楽しくて笑いながらニキを見ると、諦めたように息をついた。
「なんで、そんなくだらないこと思いつくんすかね〜、燐音くんは」
これまでの燐音の数々の奇行悪行を思い返しているようで、ニキは遠い目をしている。
「それで?僕は何をさせられるんすか? 浮気ごっことは?」
諦めたのか『浮気ごっこ』について渋々と聞いてくる。膝の上から見上げたニキは、まるで聞き分けのない子供を見る母のような目をしていた。若干ムカつくが、イヤイヤながらでもせっかくやる気になっているのを萎えさせることもない。
「浮気か?と思わせるだけ。耐えられなくなってセーフワードを口にしたら、負け。そんだけのゲームっしょ」
「……」
「あ、言っとくけどォ、ガチで浮気したらコロス」
「……」
ニキは無言の後、重々しいため息をつき、頭が痛いとでも言うようにかぶりを振った。
「……それで、セーフワードって?」
待ってましたとばかりにニヤついて、ニキの尻尾髪をチョイチョイと引っ張った。燐音の口許に耳を寄せたニキに、内緒話のように教えてやる。すると、ニキは呆れたようにまた息をついて「負けないっすよ」と意外と挑戦的な笑みを見せた。
普段に少しだけのスパイスで刺激を欲した。『浮気ごっこ』ゲームから一週間。あんな『浮気ごっこ』なんて遊び言わなければよかった。
先に帰宅した燐音が、リビングのソファで缶ビールを飲んでいると、ニキが「ただいま〜」と紙袋を提げて帰ってきた。紙袋の中は洒落たクッキー缶で、共演者の女の子から貰ったらしい。ニキはテーブルに紙袋を置くと「勝手に開けないでね」の一言を置き、シャワーに行った。別に勝手に開けたりしないのに、言われると天邪鬼なせいでわざと開けたくなってしまう。
紙袋の中をヒョイと覗き込むと、クッキー缶は、ブラックウォッチ柄にベレー帽を被ったテディベアの絵柄だった。綺麗にサテンのリボンもかかっていて、どこか特別感のあるクッキー缶に見える。これをただの共演者に贈るだろうか。ニキの気を引きたいのではないか。贈り主が誰か知らないが、そんな風に勘繰ってモヤついて顔を顰めた。
そしてモヤつくもう一つの原因、ニキがテーブルの上に紙袋と一緒に置いて行ったスマホを手に取る。タップして表示された画面に、ロックナンバーを入力した。……解除されない。面倒くさがってずっと同じ番号で変えたことなんてなかったのに、この間から変わってしまっている。燐音が聞いても「内緒っす」と生意気に教えてくれない。それならと勝手にいろいろ試しているが、いまだ当たらず。
「……にくにくばなな、気にいってたじゃねェかよ」
ぼやいて置くと、ちょうどシャワーから出てきたニキに見咎められた。
「あーちょっと、まぁた勝手に触ってるっすね。プライバシー侵害っす」
「はっ、お前にそんなもんあるかよ」
不機嫌が少し滲んだ声が出て、それをニキがちょっとおかしそうに笑った気配に気づき口が曲がる。首にタオルをかけたニキが、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを手に、燐音の隣に座った。
「機嫌わるぅ、お腹減ってるんすか? あ、じゃあこのクッキー食べようよ」
紙袋からガサガサとクッキー缶を取り出した。嬉しそうにリボンを解くニキには、食べ物を前にしたいつもの様子しかなく、くれた相手のことは微塵も気にかけていない様子だ。それにホッとした自分に腹は立つし、『浮気ごっこ』のせいで文句の一つも言えなくなって飲み込む言葉に胸が重くなる。最悪だ。こんなことなら、こんなふざけたゲームやらなければよかった。すでに後悔しかない。まさか自分が先にただの『ごっこ』に参っているなんて、こんなのギャンブラーの名折れだ。
「この缶、可愛いっすね。 わあ、見て、中もすごく可愛い」
クマの形のクッキーと小さなお花と小鳥、数種類の定番のものが敷き詰められて、それが可愛く配置されて缶におさまっている。
遠慮するのもらしくなく思えて、クマをヒョイと手にすると隣のニキが「あ」と声を出した。
「……ニキきゅん、クマ食べたいのォ?」
小さな子供に聞くような声で首を傾げると、ニキは少し不服そうにした。
「違うっすよ。写真撮りたかったの」
「……あっそ」
ちょっと揶揄ってやるつもりだったのに、ニキの答えに途端つまらなくなった。食べる気も失せ、缶の中にクマを戻す。
「はあ〜……寝よ」
そう言って歯磨きに立ち上がった。
「え、食べないっすか?寝ちゃうの?」
戸惑うようなニキの声に、胸がいくらかスッとする。もっと燐音のことを考えればいい。燐音を思って、ご機嫌を窺って、その頭の中を燐音でいっぱいにすればいい。
「お前も早く寝ろよ」
洗面所に向かう燐音の背に、ニキからの返事はなかった。
寝入りそうな頃、ニキが隣に潜り込んだ気配を感じた。正面から抱き込まれ、温かさに擦り寄る。ニキの匂い。安心して、スゥッと意識が落ちるように眠りにつく。その時「おやすみ、大好きだよ」と聞こえたニキの優しい声。返した同じ言葉は夢の中だった。