ピンクとブルー 『ピンクとブルー』
時刻は昼を10分過ぎたところだ。ESビルのラウンジでニキと燐音は事務所のスタッフを待っていた。ニキは燐音に付き合っているだけで、そのスタッフと約束はない。書類を受け取るだけだというので、渋々の体を装い燐音に付いてきた。そのスタッフが出るついでに下まで持ってきてくれるという。けれどかれこれ10分ほど待っているので、直接事務所に赴いた方が早かったのではと思っている。
お腹が空いたし、こんな小ちゃな飴を転がすんじゃ物足りない。早くご飯で口もお腹もいっぱいにしたい。
長い足を持て余してでもいるような姿勢で、燐音はソファに深く沈んでいる。見た感じは一言、態度が悪い。それに尽きる。ここは沢山の業界関係者が出入りしているのに、気にならないのだろうか。Crazy:Bに今さら落ちて困るような評判もないのだが、イメージアップは大事なのではとニキは思ったが賢明にも口にはしなかった。
二人掛けソファにニキと燐音は並んで腰掛けている。他が空いてないわけじゃない。テーブルを挟んだ向かいの一人掛けは空いていた。
HiMERUなら絶対に燐音の隣に座ろうとしないだろうなと思うと少し笑えた。燐音を知る人であれば、他に席がありながらあえて隣に座ろうだなんて思わない。それでも燐音の隣に座るだなんてのはなかなかに神経が図太いか、なにか下心があるんじゃないだろうか。
コンビ扱いの二人が隣り合って座ることに誰も違和感なんてないのはわかっていても、何となく人目が気になるのは、ニキが燐音を意識しているからだろう。
「来ないっすねー」
人の流れを見ていた燐音がスススと身を寄せて来た。それだけで跳ねた鼓動にニキは内心でため息を吐く。
「なァ、見た? 今の子おっぱいデカくねェ?」
いくら問題児のニキと燐音といえど、周りに誰もいないからってする話題ではない。単に燐音からそういう話題を聞きたくないだけでもあるため、少しばかりつっけんどんになってしまう。
「……なんすか、あんたって大きいの好きでしたっけ?」
「どっちも好き」
「ふーん」
素っ気ないニキの反応に、燐音はつまらなさそうに目を眇める。お腹も減って、あまり好きじゃない話題を振られ少しばかり気分が下降した。
「なんすか、溜まってんすか?」
燐音の下の事情なんて全く知らないが、ニキのどういう反応を待っているのか気になってつい聞いてしまう。知りたくないわけではないし、でも聞いたのはほんの軽い気持ちからだった。
「溜まってるっちゃ溜まってる。けどセックスってなると面倒っしょ。相手探しはダルいし、一人でやる方が楽だし早いし気持ちいいっしょ。 なあに、ニキちゃん興味あンの?」
その台詞に驚いて燐音を凝視した。そんなニキを揶揄う気満々でニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、肩を組んでくる。信じられない思いで、すぐ横の燐音をまじまじと見つめた。
そんな、まさか燐音に経験があるなんて。
いつ、一体どこで?
適当なことばかり出てくるその口から発せられる、キスは結婚してからとかいうのを本気で信じていたわけじゃないが、あっさり暴露された燐音の性事情。
「どした? ニーキ?」
思っていた反応と違ったようで、燐音はあまり見ないキョトンとした顔をしている。くそ可愛い顔だ。
「燐音くんって……した事あるんだ……」
燐音に確認しようとそう言ったわけではない。ただそうポロリと呟いただけだった。なのに自身で気づくほどに嫉妬が滲んだ声色だった。なんだかぐちゃぐちゃで暗い声に、燐音も目を丸くして驚いている。
「あ〜、ニキ? おまえもお年頃だもんなァ……ま、そのうち、ほら、彼女とか?出来るっしょ」
先に経験されていることへの妬みだとでも思ったようだ。年上だからか、経験済みの余裕からか、燐音に微妙に気遣われたのがまた腹立たしい。そしてこの後の台詞はもっといただけなかった。
「ま、どうしてもってんなら俺っちがさァ、面倒みてやるっしょ、な?」
「…………なに、それ」
なんという問題発言だ。普段の、ニキはアイドルなんだからとか、アイドルとして、みたいなアイドルアイドル口うるさいのはなんなのだろう。今の台詞にカッとしてブチギレなかったのを燐音はきちんと褒めるべきだ。
勘違いなんてしない、ちゃんと分かっている。この台詞の意味するところが、そういういかがわしいお店の事だって分かっている。だから余計に変な言い回しをした燐音に腹が立った。人の気も知らないで、女を簡単にあてがおうとしている。
「本当に?本当に僕、お願いしてもいいの?」
「え、あー? まあ、その気があんなら」
自分で言い出しておいて、ニキがそう言えば気乗りしない顔をする。どうしてそんな顔をするのか分からないが、ここは一つムカついた分はお返ししたかった。燐音はニキが恥ずかしがったり嫌がったりするのを、面白がるつもりに違いなかったからだ。
「じゃあ、えっと、お願いするっす」
「え?」
「え?っじゃないっすよ、連れてってくれんのか紹介してくれんのか知んないっすけど、お願いするっす。僕だって男なんで興味ある」
驚いた顔を見れたので、もうどうでも良くなっていたが、逆に今度は燐音がムッとしたらしい。
「てめェ……」
無理に作った笑顔は片頬がヒクついている。ニキを揶揄って遊ぶネタにしては、燐音が知るはずもないが一番最悪なものだった。どういうつもりで性事情を話題にしたのか分からないが、それによって今二人でイラついている。この状態は経験上よろしく無い方向へと向かうのが常だ。
「分かったっしょ。三日後、……いや明後日の夜!空けとけよニキ!天国連れてってやるぜ!」
唾を飛ばして豪語し勢いよく立ち上がると、ドスドスと、実際には足音はしていないがそんな効果音と共に去って行った。
何が天国だ。地獄の間違いだろう。
「あ〜…………。もうサイアク……」
誰も聞いていないのをいい事にため息と共に吐き出した。何が悲しくて好きな人に風俗を紹介してもらわなきゃいけないのか。興味はないし行きたくない。そんな所に行くんなら美味しいご飯にお金を使ってお腹を一杯にして、それを燐音と一緒に楽しめたらそれが最高なのに。
どうしてこんな事に。
頭を抱えそうになっていれば、慌てた足音が近づいて来た。そちらに目をやると、キョロキョロと辺りを見回していたそのスーツの男の人と目があった。胸にコズプロの社員証がプラプラしているから、もしかしたら燐音を探しているのかも知れない。
「椎名くん、お疲れ様です」
目が合うとホッとしたように声を掛けられ立ち上がった。
「あ、お疲れ様っす」
挨拶をしてみたがこの人の名前は知らない。チラリと社員証を確認すると石鍋さんと言う名前だった。鍋……。
「あの、天城くんここに居ましたか?」
「燐音くんはお腹を壊して帰りました。それ、燐音くんへの書類っすよね? よければ僕が渡しておくっすよ」
明らかに助かったと言う顔をされて、笑いながら封筒を受け取った。丁寧に挨拶をすると、これからランチがてら打ち合わせだと言い、石鍋は慌ただしく行ってしまった。
「ランチ……。僕も行こう」
羽織っていた薄手のパーカーのポケットから、何個か突っ込んである飴を取り出し口に放り込む。高カロリーを基準に買ったこの黒飴、燐音は甘すぎると言って食べない。ガリガリと噛んで砕いて飲み込んだ。命のカロリーをあっという間に一つ消費してビルを出た。