交わした契「…光忠、私と別れて欲しいの」
「………え?」
カシャンと音を立ててカップが割れた。それは僕が大切に使っていたお気に入りのもの。でも、その悲しみをかき消すほどの焦り、不安、恐怖、どうして、なんで?
「え……っと、僕、何か気に触ることしちゃったかな…ごめんね、気づかなくて」
正直思い当たることが何もない。基本的にはいつでもどんな時でも彼女を最優先に動いてきた。
三食きちんと栄養価を考えた料理を作って振る舞い、彼女の帰りは必ず玄関で出迎えるし、あまりにも遅い時は迎えに出たりもしていた。
お風呂の後の髪の手入れも、部屋の掃除も、疲れた君の体のマッサージも、全部全部やってあげる。それが彼女に対する愛情表現だと思っていたが故に、彼女が離れたいという理由が皆目見当もつかなかった。
「……いいえ、あなたは何も悪くない。悪くないの………ごめんなさい」
そう言う彼女の声はどんどん小さくなっていって、最後の方は僕でなければ聞き逃していたと思う。
「……君がそう感じる理由を、僕に話してくれないかな」
「…私が、人間として1人で生きたいって、思ってしまったから」
その瞬間、気づいた。
僕が良かれと思ってしていたこの行為は、彼女にとって良いことではなかったらしい。
「全部…全部光忠が完璧にこなしてくれるのはすごくありがたいことだったよ。………でも、このままじゃ私、本当に何も1人じゃできなくなっちゃう。」
ぽろぽろと彼女の頬を伝う涙に、胸が締め付けられるように痛んだ。
僕の愛し方は、間違っていたのかな。
でもこうするやり方しか知らないんだ。
たくさんのアイを注いできたつもりだったのに。
「………………それの何が、いけないって言うんだい」
それが間違いだったなんて、今更言われても
「え……?」
納得なんてできない。
君のために買った座椅子に座っている君と目線を合わせるように屈み、問いかける
「大好きな人を、僕の手で可愛がって、お世話して……何がいけないって言うの」
両手で彼女の顔を包み込んで、優しく触れる。柔らかな感触は前に触れた時と何も変わらなくて
「……私だって、1人の人間なんだよ。小さな子供でも、お人形さんでもない。自分でやれることは自分でやりたいんだよ。全部ぜんぶ、光忠が1人でこなしちゃうんじゃなくて…2人でしたかった。できないことは教えてもらって、私もできるようになりたかった。…私の我儘といえば、そうなんだけど…」
「……」
あぁ、駄目だよ。そんなこと。
僕は君の涙に弱いのを知っているだろう?
綺麗な君はそのままでいい。存在しているだけで僕の生きる意味になっているのに。
それ以上変わっちゃいけないよ。
瞳を震わせる君をゆっくりと抱きしめる
「…光忠?」
その行動の意味がわからないのか、不安げな声色で君は僕の名を呼んだ。
「……ごめん、ごめんね。僕が間違っていたよ」
僕が全部悪かったんだ。君の愛し方を、分かっていなかった僕が。
「……間違っていたとは」
「まだまだ、足りなかったんだね。」
「………え?」
驚き見開かれた彼女の瞳はとても綺麗だ。さながら瓶に詰められた琥珀糖のように美しく輝いていて…あぁ、ほんの少し味見したいと言ったら、嫌われてしまうかな。
怯えた様子の彼女の頭をゆっくりと撫でながら言葉を紡ぐ
「ごめんね、まだ僕の気持ちが足りてなかったんだ。だから息苦しく感じてしまったんだよ…。でも大丈夫、君が受け入れて慣れてくれれば苦しさも不安も無くなるから。何もかもを僕に委ねることに慣れて、自分では何もできない幼子のような君…。とても素敵だと思う。そうなってくれれば僕は僕の愛情を思う存分注いであげられるし、君は何も辛くなくなる。ほら、何も君にとっても悪いことじゃないだろう?」
「…私は、嫌だよ」
涙を湛えたまま、でもまっすぐ自分の意思を宿した瞳で僕を見つめる君は僕の知らない君だった。
「……」
「私はあなたと助け合って生きていきたかった。手を引かれて歩くんじゃなくて、あなたと手を繋いで、あなたの隣で歩きたかった。」
ゆっくりと君の手が僕の手を包む。少しの温もりと、震えが伝わってくる。
「私だって、あなたの」
「………もういいよ。」
自分でも少し驚くほど低い声に恐怖を抱いたのか、彼女の少し乾いた頬にまた涙が流れる。
「そっかぁ………君は別の男のところへ行こうとするんだね。こんなにも君を愛した僕を捨ててさ!!」
僕の手を離した君の手を追いかけて掴み、引き寄せて顔を無理やりこちらに向けさせると君は恐怖と困惑、絶望の混ざったような顔していた。
「なっ?!ち、違う!!話を聞いて!!」
「うるさい、うるさい五月蝿い五月蝿い五月蝿い!!!僕を置いて変わっていっちゃう君の話なんか聞きたくない!!!」
「そんな…!!私は、変わってなんか」
「あぁぁあもう少し黙ってくれないかなぁ?!」
僕の手の大きさがあれば余裕で口くらい塞げる。そのまま床に押し倒してやると、空っぽだった心がほんの少しだけ満たされた気がした。
「んッ……ぅう…!!!」
「…っは、はは、ッははっ、あはははははははははは!!!!!あぁ……今の君の顔、すっごくイイよ…。今まで苦しい顔をさせるのは抵抗があったんだけど…うん、それはそれでイイね」
信じられない、と目で訴えてくる。
手も足も僕の体で床に縫いとめられているから…そんな抵抗しか出来ないんだね。すっごくかわいい。
でもその反抗的な目は気に入らないな。
「あぁーもう…本当はしたくなかったんだけどなぁ」
そう呟きながら口を覆っていた手を内番服のポケットに入れて、ゆっくりとカッターナイフをチラつかせると一瞬にして表情が凍りつく。
「な、何するの…?!」
キチキチと音を立てて刃がむき出しになっていく。
反射して映る自分の顔が未だかつて無いほどに嬉しそうな顔をしていた。
「何って………………こうするんだよ」
その刹那、皮膚を裂き血が溢れる音が君の耳の横で響いた。
「え……………?」
自由に首が動くようになったことを忘れていたのか、慌てて音のした方を見た君はさらに絶望に飲まれた顔になった。
「やだ、ちょっと、何してるの!!」
「何って…見てわかるよね?刃を僕の手で握ったんだよ。」
ほら、と破れた革手袋の間から滴る血を見せてやれば君の顔から血の気が引いていく。あぁ、そんな顔もできるんだね。
「そんなっ…!!早く止血しなきゃ、離して!!」
自分の下で懸命にもがく哀れな君を見下ろすのは、今までに無く興奮した。
「だぁめ。離さないよ。これは戒めなんだから」
「いま…しめ……?」
大きな涙を目尻に貯めて僕を見上げるその姿、すっごくいい。ずっと見ていたいとさえ思う。
「君はとても優しい子だからね。自分が傷つけられるより僕が君のせいで傷つけられる方が辛いだろう?」
「……」
「だから、君が反抗するなら僕は僕を傷つける。」
血の流れ出る手で君の顔を撫でると、真っ赤な線が描かれた。真っ白な君の肌によく映えるね。
「目の前で僕が傷ついていくのを、君はどこまで耐えられるんだろうね」
怯える君の目に映った僕の目は黒く澱んでいて、君が褒めてくれた澄んだ金色の瞳はどこにもなかった。
でもいいじゃないか。これは君がくれた僕の変化だ。君を変わらず愛し続ける為ならば、僕は何にだってなってあげる。
「…わかっ…たから、もう……やめて………」
ひとつ、またひとつと大きな雫は僕が描いた赤い線を滲ませながら落ちていく。
「もう、別れてなんて…言わない…………約束、するから……ごめん、なさい…」
そう、その言葉が聞きたかったんだよ。
僕から離れたいって言う言葉を、君の言葉で否定して欲しかった。
「…うん、うん。わかった。じゃあ約束の儀式をしよう」
「…?」
困惑する君の口に、先程傷つけた手を近づける。
その行動で僕の考えを悟った君は慌てて顔を逸らそうとする。
「ほら、僕の血を飲んで。それで約束を誓約にしよう?」
「!!や、やだ…ッ!!」
「やだ?…それなら、僕の前で嘘をついたことになるけど。」
「あ……………」
一瞬で凍りついた空気のせいか、君の呼吸も浅くなっていく。
「君は……僕の前で、嘘をついたの?」
「わ、わた、し、は………」
「もう一度、チャンスをあげる。手を離してあげるから、僕の手の血を君の口まで自分で運んで…飲んで?」
手を離してやると、震えながらも君の手が僕の手を包んでその美しい口元に運んでいく。
そして、君は僕の血を飲んだ。
「…よくできたね」
約束はここに誓約となった。破ることなど許されない。
君は、君の意思で誓いを交わしたんだよ。
「……」
だからほら、もっと嬉しそうに笑って欲しいな。
これで僕たち、永遠に一緒なんだからね。