そして、君の愛を知る。3 それは、誰かを幸せにするお手伝いをする仕事だ。
初めは愛情も幸福も分からなかった。
自分といて、何が楽しいのか。
自分といて、何を得ているのか。
備えられた喜怒哀楽の感情は、その意味を理解するには少し何かが足りなかったらしい。浮力を持った疑問だけがぷかぷかとそこにあった。
十回目は安心感というものを覚えた。
人と触れあう機会が増えて、彼らに対して安心を覚えるようになったのだ。たくさんの人たちの楽しそうな笑顔、嬉しそうな横顔を覚えている。
五十回目を過ぎると仕事にも慣れてきた。何度も自分を求めてくれる人が増えてきた。
はじめましての人も、いつも会えるその人も、彼らと過ごす時間が楽しくて仕方なかった。1分でも1秒でも長く、この時間を過ごしたい。そのひとときに「幸せ」を覚えた。
こなした仕事の数が百を越えた頃には、毎日が充実していた。たくさんの恋人達と過ごせて、たくさんの恋人から「愛情と幸せ」を貰える。たくさんの愛情と幸せに応えるために、クレアも「愛情と幸せ」を恋人達にあげるのだ。
誰かと幸せになること。
誰かと笑いあえること。
幸せという言葉を受け取る度に、自分が満たされるのを感じる。誰かを笑顔に出来る度に、自分の顔が綻ぶのを感じる。
ああ、そうなんだ。
これが──。
◆◇◆
降り注いだ隕石がこの星の形を変えてから、巡る季節にも変化が訪れた。
森林区域と呼ばれるそこには、誰かとの出逢いを運ぶ春のように、小鳥のさえずりと共に心地よい風が流れている。太陽を浴びて背を伸ばした新緑が、時を止めた白濁の神殿を包み込んでおり、おとぎ話の世界に迷い込んだような高揚感を抱かせる。
まずハンナを出迎えたのは道の両脇を彩る低木に咲いた花々だ。それを囲うように太い樹木がアーチ上に体を寄せあって、一本の道を作っている。大きく広がった桃色の花弁の周りには、透き通る青い羽を羽ばたかせて、ふわりふわりとモルフォ蝶が舞っている。他にも花火を散らしたような極彩色の羽を持つ蝶々や、彩色豊かな東洋の振り袖のような柄を持つ蝶々が優雅に飛んでいる。生態系が大きくバランスを崩したこの世界では、外敵から身を守るための保護色を捨てた色彩豊かな昆虫たちが暮らしているのだ。
背丈の高い樹木によって作られたアーチの道を抜けると、草木の間から白い毛に覆われたうさぎが数匹顔を覗かせていた。黒い真珠の瞳と薄く色づいた口元が愛らしい。それはハンナの前を物怖じせず横切ってゆき、再び草木の間へと駆け抜けていく。
──反応はもう少し先だ。
ハンナは今、あるアンドロイドのもとへ向かっていた。それはフジに教えてもらったアンドロイドのうちの一機であり、ハンナがもっともまともそうだと判断したアンドロイドである。
フジが言うには、とびきりかわいいアンドロイド、なのだという。何を基準としてとびきりかわいい、という判断に至ったかはわからない。そもそもアンドロイドはどの機体も共通してよほどの理由がない限り、嫌悪感を抱くような容姿には設定されないはずである。
──まあ、会えばわかるか。
そう考えて歩いていると、ハンナの行く先をぴょんぴょんぴょん、とうさぎが跳ねているのを見つけた。気にせず歩き続ける。うさぎを避けて、通りすぎると、うさぎはまたぴょん、と跳ねてハンナの行く先で留まった。
気にせず歩く。また歩く。するとうさぎもぴょんぴょん跳ねて、またハンナの目の前に飛び出てくる。それを何度か繰り返したところでハンナは足を止めた。
「もう、なに」
いかに高性能なアンドロイドといえど動物の言葉を話すことが出来るわけでもなければ、理解することなどもってのほかである。もちろんそれは動物側も同じことで、人語を話すハンナの言葉を理解できるわけがない。
けれどそのうさぎは、ハンナが発した言葉に明らかな反応を見せた。身体を捻るように跳び跳ねて、うさぎはふりふりとその小さな尻尾を振っていた。ハンナの言葉に反応したような素振りを見せたうさぎに戸惑いつつ、ハンナはもう一声かけてみる。
「……わたしに、何か用ですか」
声を出すと、そのうさぎはまたぴょん、と跳ねてハンナを見た。明らかに視線が合っている。絶対に、ハンナを見ている。
しばらくじっと見つめ合っていると、うさぎがかわいい尻尾をハンナに向けて、ぴょんぴょん、と道の先へ進んだ。しばらく跳び跳ねて進んだあと、ぴたっと止まったかと思えば振り返ってハンナを見る。
──ああ、これは……。
ハンナが察する。このうさぎは自分についてこいと言っているのだ。はっきりした根拠はないが、こういう素振りはだいたい「ついてこい」の意味を持っている。
ハンナが歩みを再開させてうさぎのあとを追うと、待っていましたと言わんばかりにうさぎもぴょんぴょん跳ねて進み出す。
白うさぎが跳び跳ねて、先へ先へと進んでゆく。ハンナはそのあとを追いかけた。
進んでいくと、生い茂る緑のカーテンを抜ける。開けた場所に出ると暖かな日の光がハンナを照らした。
一面に広がる花の絨毯。蝶々が舞い、うさぎが跳ねて、現実を忘れてしまうような楽園がそこにあった。
──あれは……。
赤や黄色の花畑の真ん中にアンドロイドが一体座っていた。頭にリボンをひとつ着けている。ハンナからは横顔しか窺えないが、あらかじめフジから聞いていたアンドロイドの特徴と酷似していた。それになにより、システム上でもアンドロイドの機体の反応はすぐ目の前にある。
間違いなかった。ハンナが探していたアンドロイドだ。
ハンナに道案内をしてくれたうさぎが足元からかけていき、そのアンドロイドのもとへ向かっていく。ぴょん、とひとっ飛びしてアンドロイドの膝の上に乗ると、そのアンドロイドはさして驚いた様子もなくうさぎの頭を優しく撫でた。
──動物と仲良くしているアンドロイドもいるのか。
驚くハンナが見つめるその様は、まるでおとぎ話のお姫様だ。
小さな命を理解しているらしい優しいアンドロイドの手が、何度かうさぎを撫でると、膝の上を陣取っていたうさぎは満足したように膝から降りてハンナの方を見た。アンドロイドも徐にこちらを見て、そしてハンナを捉えた。
するとアンドロイドはもう一度うさぎを撫でたあと立ち上がった。そのままこちらへと向かっていくる。
軽くウェーブのかかったショートヘア。毛先にかけて赤みがかった淡いブラウンが太陽の光を浴びて艶やかに煌めいていた。頭についた赤いリボンが、アンドロイドの愛らしさを強調している。
アンドロイドが一歩歩くたびに、シースルーの生地を使用したフリルのスカートがふわふわと揺れる。袖口が大きく広がったトップスと合わせると、まるで妖精が身に着ける衣装のように可憐である。
かわいい、というのはきっとこういうものを指すのであろう。フジが話していたことを思い出し、なるほど、と納得する。目の前のアンドロイドは言わばかわいい、を詰め込んで作られた容姿をしていた。
近づいてきたアンドロイドがにっこり笑みを浮かべて口を開いた。
「こんにちは! あなたがハンナさん?」
はつらつと、けれどうっとおしさを感じないさわやかな声がハンナの名を呼んだ。初めて会うが、第一印象で悪く思う人はいないだろうな、とハンナは考えた。
「そうです。クレアですか?」
「はい! 私がクレアです!」
えへへ~、とアンドロイド──クレアが微笑んだ。人受けの良い、柔らかな笑みを見せられて、ハンナの緊張が少しほぐれる。
「えっと、フジさんからお話をちょっとだけ聞いています! 私、ハンナさんのことを待っていました!」
「ありがとう……?」
そういうと、クレアはハンナの両手をとってぎゅうっと握った。
「今日はたくさんお話ししましょう! 私、何を話そうか考えていて……あ、でもでも、森林区域のおともだちのこともお話しできたらって思っていて……あ! でもハンナさんも確か知りたいことがあるんですよね、フジさんからちょっぴり聞いてます!」
「……」
「……? ハンナさん?」
こてん、とクレアが首を傾げた。さりげない一つ一つの動作が愛らしい。フジやオリヴァーとはまた違ったタイプである。
「いえ、なんでもありません。わたしは、今、愛とはなんなのかを探していて、たくさんのアンドロイドの意見を聞いて回っているのです」
「おぉ~愛! それはとてもいいテーマです! じゃあ今日は、私があなたにたくさん愛をあげますね!」
「どうやって?」
「ふふん! かんたんです!」
ぱちっとクレアがウインクをする。
「今から私とデートです!」
今度はハンナが首を傾げる番だった。
「でーと? デート、というのは恋人同士が行う、日時を決めて会う約束をする……あれですよね?」
「はい! 私は、人間がまだ生きていたころ、それが仕事だったんです」
「仕事……とは?」
「えと、その頃はレンタル彼女って呼ばれていました」
「なるほど……そういうお仕事もあったのですね」
想像するに、おそらく彼女の代行サービスのことであろう。ともすれば、クレアの愛らしい姿にも納得がいく。リボンの飾りにフリルのスカート。会話と会話の合間に挟まれる少しの動作も目を引く。
けれど残念なことにハンナがそういう体験をしたことは一度もない。アンドロイド同士がそのような関係になりうるかはさておき、記憶を失う前のことまで遡るのなら、わからないかもしれないが。
「大変申し訳ないのですが、わたしはデートをしたことはありません。クレアの期待に応えられるか不明です」
「わっ、ハンナさん! そんなに身構えなくていいんですよ!」
そう言うと、クレアがハンナの手を握った。
「えへへ、じゃあまずは私のお気に入りの場所を教えてあげます! みんなにはナイショですよぉ」
ハンナが返事をする前にクレアが優しく手を引いて歩き出した。青い快晴の下、赤や紫、ピンクに純白の花々が二機を包むように咲く花の道を歩いていく。
「かわいいお花ですね」
「ペチュニアというお花ですよ、お花の形がとってもかわいいですよね」
「詳しいですね」
「ここにいるのも長いですもん~」
そういうと前を歩いていたクレアが足を止めた。
「いいこと思いついちゃいました!」
「いいこと?」
つないでいた手が離されて、クレアがその場にしゃがみこむ。
「クレア? 大丈夫ですか?」
「うん、ちょっとだけ待っていてくださいね~!」
しゃがみこんだクレアは、咲き誇る花を茎の根元のほうからぷちぷちと摘んでいく。何本か摘むと、その二本を交差させ、くるくると巻き付けている。ハンナには一体何をしているのかわからない。じっと眺めて、やがて形になったそれを見て「あ!」と思わず声を上げる。
「えっへへ……出来ました!」
何度かその工程を繰り返したクレアの手元には色とりどりに編み込まれた花冠出来上がっていた。
「花冠、とてもかわいいです」
「でしょ! ハンナさんにあげちゃいます!」
立ち上がったクレアが、ハンナの頭にペチュニアの花冠を乗せた。ちょこん、と乗せられた花冠。
わあ、かわいい! とっても似合います! と両手を叩いて喜んでくれるクレアに、ハンナはなんだか気恥ずかしさを感じた。そっと手で触れてみると、柔く、すぐに壊れてしまいそうなそれに緊張する。
「これ、どうやって作るのですか」
「えへへ、簡単ですよ!」
「手元を見ていましたが、理解が及びませんでした」
「教えます! でももっとおすすめの場所があるので、まずそこまで行きましょう!」
クレアが再びハンナの手を握る。そのまま優しく手を引かれ、二機は歩き出した。
◇◆◇
花畑の道を抜けると、さわやかな緑があふれる森の道へと入り込む。背の高い木々の隙間からあふれる光が二機を照らしていた。森道には古ぼけた木の板で出来た足場があり、それがタイルのように連なって、道筋となっている。
クレアにとってはお決まりの道でも、手を引くハンナにとっては初めての場所なのだろう。きょろきょろと辺りを見回しながら歩くハンナは、なんというか、良い意味で少しアンドロイドらしくない。
いつもと同じように辿るように板の上を歩いていると、どこからか駆けてきた白うさぎが二機に並んだ。それはクレアがいつも遊んでいる白うさぎだった。ふわふわと柔らかい体毛が風で揺れている。
「あ、うさぎさん!」
クレアが反応すると、白うさぎもぴょんぴょん飛び跳ねてそれに応えてくれる。この子はいつでもクレアに反応してくれるのだ。立ち止まって、後ろのハンナに話しかける。
「このうさぎさんは仲良しさんなんです! こうやって時々私のところに来てくれるんですよ~!」
話しながら、そういえば……と思い出す。
「ハンナさんもあの花畑にいらしたときはうさぎさんと一緒でしたよね」
尋ねるとハンナがこくっと頷いた。
「はい……歩いているとき、なぜかわたしの前に現れて、なんというか……案内をしてくれるような動作をしたので、追いかけたらあの場所でクレアを見つけました」
「なるほど……このうさぎさんは、仲良しさんなので、もしかしたら本当にハンナさんを案内してくれたのかもしれません」
しゃがみこんで、ね、と同意を求めるようにもう一度撫でてみると、うさぎがぎゅっと目を細めて尻尾を振った。その様子をハンナが不思議そうに尋ねてくる。
「動物とコミュニケーションが取れるのですか?」
「う~ん、ちゃんと話せるわけじゃないですよ? でもこうやって言葉をかけると、うさぎさんにも気持ちが伝わると思うんです」
「気持ち……」
そう呟くハンナの雰囲気がなんとなく暗く落ち込んだのを感じる。
クレアはハンナのことを少しだけ知っていた。
事故に遭って記憶を喪失したこと。そのせいで仲が悪くなってしまったアンドロイドがいること。そのアンドロイドと仲直りするために、知りたいことがあること。
想像だけで、ハンナの気持ちを推し量れるわけではない。けれど、力になれるのならなりたいと思う。
立ち上がって、つないだままの手をぎゅうっと握る。
「ハンナさんの気持ちも伝わると思います! ぜったい!」
「……はい。そうだといいなと、思っています」
「じゃあこうしてはいられません!」
クレアが手を引いて走り出す。手を引かれたハンナもワンテンポ遅れて駆け出した。
木漏れ日の下を二機が跳ねるように駆けていく。白うさぎが並走して、やがて二機を追い抜くと、脇道の葉の陰からひょこひょこと他のうさぎが顔を出した。
うさぎの群れに囲まれて森道を抜けていく。さわやかな風に乗るように、クレアのスカートがふんわり膨らんだ。
そのうちに、二機を追いかけるように小鹿の群れが駆けてきた。速度は落ちることなく、むしろ加速して景色が次々に移り変わってゆく。やがて森を抜けると、眩い快晴の下に出た。
「つきました~!!」
広がる草原。急停止した二機を追い抜いて、うさぎと小鹿が草原の丘へ抜けていく。青々とした草のにおいが風に乗って流れていた。
「ここはとっても気持ちがいい場所なんです! 私のお気に入りの場所なんですよ~」
「風が気持ちいい場所ですね」
ゆるく盛り上がった丘の上まで歩いて、その真ん中で座り込む。二機で向かい合って座ると、その周りをうさぎが跳ねて回った。
「さ! 花冠を作りましょう! まずはお花を摘みましょう、茎の部分を少しだけ長く摘むのがコツですよ!」
クレアが野に咲くシロツメクサを摘む。一本、二本、三本、と適当に見繕って摘むと、クレアの手元を見ていたハンナも同じように摘み始める。
「そうしたら一本持って、交差させて、巻きつけます! ちょっとぐるぐるです」
「ちょっとぐるぐる……?」
「こんな感じに……わっそうそう! ハンナさんとっても上手です!」
クレアがハンナを褒めると、少しだけ口角を上げてハンナが笑う。けれど、すぐに影が差して、その目が伏せられる。シロツメクサを編み込んでいた手が止まり、ハンナは「すみません」と一言謝った。
「どうして謝るのですか?」
「だって、私は今も、オリヴァーのことばかりを考えています。あなたに対して不誠実極まりないです」
「……なあんだ、そんなことか」
「そんなこと、とは……」
クレアは花冠の茎を編み込むとき、言葉と一緒に編み込む。願いを込めて、この思いが届くようにと花冠を編んでいく。何かが叶うだとか、そういう根拠があるわけじゃない。でも人が流れ星に何かを祈ったように、言葉や気持ちは込めれば伝わるものなのだと思っている。
「それは、とっても素敵で、とっても大事な気持ちです。捨てるべきじゃありません」
「言い切れますか?」
「言い切れます! オリヴァーさんって、ハンナさんの大事なお友達ですよね」
「そうです」
「オリヴァーさんのことを考えて、花冠を編んでいたんですか?」
聞くと、ハンナはばつが悪そうに答える。
「そうです。こういう風に、オリヴァーと楽しい一日を過ごせたら、幸せだろうなって……」
その答えを聞いてクレアは思わず笑みをこぼした。
だってそれはクレアの思う「愛」そのものだったからだ。
「すみません。本当に、失礼ですよね。クレアとこうやって過ごすことをとても楽しく思います。わたしは、こういう体験をしたことがありませんでしたから。だからこれが──」
──オリヴァーと一緒だったなら。
紡がれなかった言葉がまるで聞こえてくるようだ。
「ちょっと、妬けちゃいます」
「えっ」
「熱烈じゃないですかー!」
「えっ」
このこの~、とつんつんハンナのほっぺたをつついて抗議する。
「す、すみません……?」
されるがままのハンナが腑に落ちないように謝罪を重ねた。
「ほらほら、日が暮れちゃう前に作りましょう! まだ行きたいところがあるんです!」
「それは……とっても楽しみです」
どちらともなく微笑んで、止まっていた手を再開させる。ハンナは器用な機体のようで、要領よく花冠を編んでいく。上手だなあ、とその手元を眺めて、自分の手元に視線を戻す。
ハンナのシロツメクサが一つの輪っかになったとき、彼女が「クレア」と名を呼んだ。ふい、と視線を上げれば、たった今出来上がった花冠がクレアの頭に乗せられる。
「うまくできました。とても似合っています」
ハンナは、今までで一番柔らかな笑みだった。つられるようにクレアもまた笑って、手元の花冠をハンナの頭に乗せる。
「じゃあお揃いだね」
一瞬、ハンナがきょとんとして、そのあとすぐに顔を綻ばせる。ハンナの手を取って、クレアは立ち上がった。
「来てくれる? 見せたい景色があるの」
手を引いてクレアが向かった先は泉のある花畑である。先ほども行動を共にしたうさぎや小鹿もハンナにすっかり慣れたようで、まるでお供のように側をついてくる。
目的地までは少し足場が悪い森道を通ることになるが、それはクレアにとっては慣れた道だった。道中で猪に出会さないことを祈りながら、ハンナと離れないように手を繋ぎながら歩いていると、ハンナが速度を緩めて発した。
「いつもここを通っているのですか?」
「うん、そうだよ」
答えるとハンナは少し考え込む素振りを見せる。
「どうしたの?」
「いえ……動物が居て危険ではないですか?」
「動物?」
「はい。この辺は猪が出ましたよね?」
「うん、そうだけど……よく知ってるね」
確かにクレアがよく通るこの道には、猪が出る。通ったことがあったのだろうかと不思議に思い尋ねると、ハンナがハッとして答えた。
「あ、いえ……フジに聞いたんです。あなたのことを教えて貰ったときに、一緒に」
クレアがそうなんだ、と返すとハンナの握る手がぎゅっと少しだけ強くなる。それを蒸し返すことも出来たが、クレアはそれをせずに歩き続けた。
森道がどんどん細くなっていく。次第に並んで歩くことは出来なくなって、うさぎや小鹿は緑の奥へと姿を消していく。深くなる森の先を、はぐれないよう手を繋いだまま歩いていく。
すると少しずつ、川のせせらぎが聞こえ始める。ハンナもその音に気がついて辺りを見回していた。
「もうすぐだよ」
声をかけて、坂道になってきた道を登る。せせらぎがやがて途切れて、今度は葉の擦れる音だけになったとき、クレアは「ついた」と呟いた。
「これは……泉、ですか?」
クレアがハンナを連れてきたのは、透き通る青い泉が湧く場所であった。風もなくて、水面の揺らめきすらない泉は、まるで自然の景色を映す大きな鏡そのものである。
「そう! ここ、お気に入りなの~」
泉の側にハンナを誘って、二機でその場に座り込む。覗き込むと、水面がクレアの姿をはっきりと映した。
「ね、いい場所でしょ」
「確かに……とても落ち着きます」
時おり小鳥が軽やかに鳴く声が響く。ただそれだけの空間で、特別なことは何もない。
「……クレアは、夢を見たことがありますか?」
静かな空間。躊躇われるように発せられた言葉に、クレアはハンナを窺った。その横顔が少し苦しそうで、クレアはそっと前を向いた。
「うーん……もし、自我を持っていなかったら分からないけれど、私はあるよ」
それは、薄いカーテンの向こう側に透けて見えるような、そんな景色だ。
もう絶対に訪れることはないけれど、クレアが過ごしてきた思い出の日々。
これが果たして、人間が見ていたという夢であるのかと問われると、可視化の出来ないそれを証明することは難しい。けれどクレアにとっては、その懐かしい思い出の光景全てが、たしかに存在した日々の記録であることに間違いはない。
「どうして?」
質問の意図を尋ねると、ハンナは言葉を迷わせながら言った。
「 私も、見たんです。でもそれが夢であったのか、確証が持てません。私がただ、壊れていたのかも」
ハンナが想いを馳せるように遠くを見つめた。容易に想像がつく。彼女が考えているのはきっとオリヴァーのことだ。
「どんな夢だったの?」
「……きっと幸せな夢でした」
それっきり、ハンナの言葉が紡がれることはない。
ふっと、風がひときわ強く吹いた。木々が揺れて、泉の水面に弧が描かれたそのとき、ハンナの頭に乗っていたシロツメクサの花冠がひとつ、風にさらわれて飛んでいった。
あ、とハンナが手を伸ばしたが、届くことなく、ぱちゃんと音を立てて泉へ落ちる。ぷかぷかと浮いたままの花冠。ハンナは伸ばしていた手を徐に引っ込めて、悲しそうに笑った。
「残念。気に入っていたのに……わたしみたい」
「ハンナ……」
「すみません。せっかくいただいたのに」
申し訳なさそうに眉を下げる彼女に、クレアはそっと手を握った。
「良いのよ、ハンナ」
◆◇◆
月を見てから帰ろうか、という話にもなったが、ハンナとクレアは結局日が暮れる前に泉を後にした。日が暮れた後に帰るのはいくら道に慣れているクレアとて安全を保障できないという結論に至ったからだ。
橙色の光を浴びながら、二機で来た道を戻っていく。来るときよりも風が強くて、木々がざわざわと揺れていた。
「今日、とっても楽しかったです。ありがとう、クレア」
帰り道、ぽつりとつぶやいたハンナの声を拾って、クレアが嬉しそうにはにかんだ。
「ほんとう!? よかったあ~実はちょっと緊張してたんだよ、楽しんでくれるかなって」
「そうなんですか? 未知の体験ばかりで、知らないことをたくさん知れました。……来てよかった」
「私も! ハンナさんと一緒にあの景色を見れてよかった!」
二機が並んで歩いていると、葉の隙間からいつかと同じように白うさぎが顔をのぞかせた。ピンクのかわいい鼻がぴくぴく動いている。
「お迎えですね」
「ハンナは……次はどこへ行くの? 決まっていないなら、今夜は一緒に過ごさない?」
「名残惜しいのですが、少しだけ先を急ぎたいのです」
「そっかあ……」
しょんぼり、という言葉を背中に背負うクレアに、少しだけ笑ってしまう。一日過ごして、ハンナは彼女にすっかり心を許していた。それがどこか可笑しくて、けれど彼女の愛を確かに受け取ったハンナは、まっすぐクレアを見つめて約束をする。
「また来ます。ぜったい」
「……! うん、ぜったいだよハンナ」
クレアが白うさぎを抱えて笑った。