そして、君の愛を知る。最終話1-3 青い快晴。
壁も天井も破壊され、手を伸ばせば、太陽にだって触れられそうなほど地上から離れた廃ビル。そこでアンドロイドはワルツを踊る。たった一機、軽やかに回転を繰り返し、空気をまといながら鉛白色の髪を靡かせる。
そこには誰もいないのに、まるで誰かと踊っているかのように、アンドロイドは何かに抱かれながらコンクリートの床でターンとステップを繰り返す。どこか機械的で、けれどその表情は機械とは凡そ言えぬような穏やかな笑みを浮かべていた。
「オリヴァー」
アンドロイドの声がビルに響く。
「オリヴァー、わたしはね、君になりたいんだ。君とワルツを踊って、君と一つになりたい」
アンドロイドが目を閉じる。
アンドロイドは──ハンナは、何かを抱き寄せて、そうしてそれを優しく抱きしめて、それから額にキスをする。
「オリヴァー、君になりたい」
体をさらうような一際大きい風が吹く。
廃ビルの頂上、傾いたハンナの体が風に押し出され、そして宙へ投げ出された。
◆◇◆
その記憶はすぐそこにあって、けれどどうにも手を伸ばしにくいものだった。それは複雑な電脳のシステムなどに阻まれたのではなく、ただ、自分自身がその記憶を苦手に思っていたからであった。しかし、それを馬鹿正直に口に出すなど感情を整理できるわけもなく、思いついた手段は愚行と呼ぶに過ぎない、正に過ちであったと今はそう思う。
下手を打ち、器用にも自身の外界センサーを破損したハンナは、自分のことよりも破損のない機体を保つオリヴァーのことの方が気がかりであった。理由はいくつかあったけれど、一番は彼が古いタイプの機体であることだった。
人類滅亡後、多くの時間を共にしてきた彼はハンナにとっても大切な存在であった。人間の代わりなどではないけれど、ぽっかり空いた寂しい隙間を埋めてくれたことに間違いはなかった。
オリヴァーが同じように考えていたか、ハンナは知る由もないけれど、同じ熱量はなくとも二機の気持ちが同じ方向であったことはハンナにも容易に理解出来ることであった。
機体の重要な部品である外界センサーを破損してしまったハンナがどうしてそれほどまでにオリヴァーのことを気にしたのかと言えば、あることを知ってしまったことが原因であった。
ハンナはある日、フジの活動拠点であるそこで、自分の壊れた外界センサーとフジの正常な外界センサーの交換が行われたことを知ってしまった。きっとフジもオリヴァーも隠していた。上手く隠していて、ハンナが知る由もなかったことだろう。
フジの活動拠点で部屋の主を待つ間、ハンナはただなんとなく機体の電源を落として待機モードで休むことにした。本当にただの気まぐれで、何分か後に再起動するように自分で設定した。椅子に体を預けて、目を閉じて、ただそれだけのはずだった。
その瞬間、ハンナは見知らぬ景色の中にいた。薄暗い部屋の一室。室内には最低限のものしかなく、テレビとソファー、それからシングルベッドがひとつ壁際につけられている。
ここはどこだろうか、探索をしてみようと体を動かした。否、動かそうとしたが、動けなかった。どういう訳かハンナの体はまるで石像のようにカチカチで、動く意思はあるのに全く動かなかった。そのまま身動きが取れないまま、部屋の様子を見ていると、建て付けの悪い戸が控えめに開き何者かが入室した。濁りのないヘリオトロープの瞳と、後頭部で緩く結われた杜若色の頭髪。すこし気難しそうな表情は今でも良く目にする。
オリヴァーだ。
ハンナはすぐに気がついた。声をかけようとしたがそれすら叶わない。何故かハンナは、ただずっと部屋を見ていることしか出来ない。オリヴァーはベッドの端っこに腰を降ろした。
オリヴァーの後に続いて男が一人入ってくる。乱雑に戸を閉めて、上質そうな黒いスーツにシワが出来るのも気にすることなくソファーにどかり、と座り込んだ。人間だ、とハンナは感じた。アンドロイドなら目元にあるはずの稼働ランプが見当たらなかったからだ。
やがて二人は何か会話する様子を見せた。声は聞こえない、けれど二言三言、言葉を交わすとオリヴァーが笑った。柔らかく、本当に愛おしそうに目を細めて浮かべた微笑み。いつも表情を固くさせているオリヴァーばかりを見ているからか、なんだかハンナはその表情に安心してしまった。
そして同時にこの景色がなんなのか想像をする。これはきっと記憶だ。オリヴァーの、人類が滅亡する前の大切な記憶。
データを持たないハンナが何故この記憶を見ているのか、考えあぐねているとテレビのチャンネルを切り替えたように突然景色が変わった。
映ったのはハンナとオリヴァーだった。草むらで座り込むオリヴァーと、そんな彼に顔を近づけている自分。やはり声は聞こえないけれど、見える景色がいつの日の記憶なのかハンナには分かっていた。
そうしていくつもの景色をハンナは体験した。記憶の大半にはフジとハンナが映っていて、それが重ねてきた日々であることが良く分かった。
それらをしばらく体験していると景色がまた移り変わり、フジとオリヴァーが映った。そこはフジの活動拠点で、どこか緊張した面持ちの二機が話している。何か会話をして、オリヴァーがいつもメンテナンスをするときに使う椅子に座った。他機アンドロイドのメンテナンスの様子を初めてみたが、メンテナンス自体は特段珍しいことではない。けれどどこか違和感を覚えて、ハンナはその様子をじっと見つめた。
フジはテキパキと手を進めて、オリヴァーの頭部を少しずつ分解していく。少しずつ、少しずつ、人の形を成した機械が現れてゆく。
すっかり機械が丸見えになったとき、フジが細やかな作業をこなし、オリヴァーの頭部から何か部品をひとつ取り出した。一通り点検をして、その後部品を元に戻すのかと思っていたが、フジは部品を戻さないままオリヴァーの頭部を閉じた。ハンナにはそれがなんの部品なのかはわからない、けれど取り出していい部品などあるはずがなく、ハンナは困惑した。
まさかフジがミスをしているわけでもあるまい。部品はフジの視界の中に収まっている。一体どういうことなのか、思考の海を彷徨っているとオリヴァーが起動された。
いつものように表情の硬いオリヴァーが動き出して、そして取り出された部品を目にした。何を言うのだろうか、声が聞こえないことがもどかしい。見逃すまいと様子を見ていたが、オリヴァーはフジと何か話すとそのままその場を後にした。どういう訳か、オリヴァーは特に気にする素振りも見せなかった。
オリヴァーも何かの部品が壊れていたのだろうか。これはそれを取り出したときの記憶?
先ほどと同じであればそろそろ記憶が別のものに移り変わるタイミングである。名残惜しいが、この部品のことは直接フジに聞く他あるまい。後片付けを続けるフジを見ながら、ハンナは次の記憶はなんだろうかと思案する。
しかしいくら待っても記憶が移り変わることはない。同じ光景が長らく続くと、そこに新たなアンドロイドがやってきた。鉛白色の頭髪に青い瞳、あまり客観的に見ることはなかったが、間違いなく自分である。
そこでハンナはハッと気がついた。
ここ記憶がいつのものなのか、ハッキリと理解したのだ。
フジとの少ないやり取りの後に、ハンナは椅子へ腰かける。そしてハンナの電源が落とされて、先ほどのオリヴァーと同じように頭部が少しずつ分解されていく。
──ああ、間違いない。
機械が露になったハンナの頭部から、何かの部品が取り出される。それはオリヴァーの頭部から取り出されたものとそっくりだ。そう、つまり、あれは外界センサーだ。
──じゃあ今、自分の頭に入っているのは、オリヴァーのもの?
代わりのパーツが見つかったと聞かされて、そうだとばかり思っていた。けれど違った。フジは躊躇う様子もなく、オリヴァーから取り出した外界センサーをハンナの頭部に組み込んだ。
そこで景色がプツリと途切れた。
次に視界が開けたとき、ハンナの目の前にはフジが立っていた。不思議そうな顔をしてハンナを見つめている。ハンナはそれをただ見つめ返して、頭を過る先ほどの景色を片隅へと追いやった。
「やあ、ハンナ。随分待たせてしまったみたいで、すまないね。……何かあったかい?」
「……いえ」
ハンナはフジに自分の外界センサーの出所を問い詰めることはしなかった。フジは機能を停止した他機アンドロイドの部品を使うことはあっても、まだ動いているアンドロイドの部品を使うことはしないからだ。
だから、きっと、これはフジの提案ではなくてオリヴァーが自ら提案したことなのだろう。
けれどどうしてだろう。
オリヴァーは、ハンナにとっても大事な友人だったはずなのに、どうして自分を大切にしてくれなかったのだろうか。自己犠牲は時として美しくも見えるけれど、ハンナにとって最愛の友人の行いは酷く心の痛むものだった。自分の命より大事な友人、オリヴァー。そのオリヴァーによって、今自分の機体が正常に保たれている。
ハンナが大事にしたいのはオリヴァーで、けれどもそのオリヴァーは、重要な部品をハンナに渡してしまうほどである。お互いがお互いのことを大切に思っているはずなのに、どうしてか、互いが互いを大切に出来ない。
これは何故だろうか。
愛というものは、大切に思うこと、思い合うことだと、人間はアンドロイドに定義してきた。ハンナに刻まれた「愛」というのはそういうものである。しかし思い合う結果がこれでは、これはおかしなことではないだろうか。これでは愛の定義と真逆である。
「愛って、なんでしょう」
「愛?」
「わたし、愛が分かりません。フジ先生……わたしは、愛とは何かを知りたいです」
突然むちゃくちゃな発言をしたハンナを、フジは笑うこともなく、ただその言葉を受け入れて「どうして?」と尋ねた。
「矛盾が生じてしまったのです」
「矛盾?」
「はい、大切に思っているけど……それはひとつではなくて……」
どうしてか、彼は自分を大切にはしてくれない。ハンナが大切にしたいのはオリヴァーで、そのオリヴァーが大切に思っているものはハンナにとっても大切にするべきものである。けれど、オリヴァーが大切に思っているのはきっとハンナのことだ。じゃあハンナが大切にするべきものは自分自身なのだろうか。それなら、ハンナが大切にしたいオリヴァーはどこへいってしまうのだろうか。
オリヴァーが大切にしたいものが消えてしまえば、オリヴァーは自分自身のことを大切にするのだろうか。でも、それはオリヴァーにとって大切なものが消えてしまうことを意味する。これではオリヴァーを悲しませるだけではないか。
──じゃあ一体どうしたらいいんだ。
段々と頭が熱を帯びてくる。なんだかぐるぐるとたくさんの考えが頭を巡って、ひとつにならずに散乱している。
「ごめんね、君が何を悩んでいるのか推測するのは難しいけれど、大切なものがたくさんあってもいいも思うよ」
フジは一人思考を巡らすハンナに、そう助言した。
その言葉にハンナはひとつの考えを思い付く。それはふたりで生きていくということだ。支え合い、補い、互いが互いを大切にする。でもそれには限界がある。必ずどちらかが先に壊れてしまう。そして、それはきっと旧型のオリヴァーだろう。
ではどうやってオリヴァーと生きていくのか。絶対に、一人にはならない方法。それはハンナが、オリヴァーの全てになることだ。
オリヴァーの目となり、オリヴァーの手となり、オリヴァーの足となり、ハンナはオリヴァーの一部として生きていく。
「フジ先生、お願いがあります」
その言葉にフジはなんだか嫌な予感を察知したように、眉をしかめた。けれど否定されることなく、続きを待つフジにハンナが続ける。
「わたしの機体の活動を停止させて、オリヴァーの機体の一部にして欲しいんです。それから、使わなかったところはオリヴァーが壊れた時のためにとっておいて欲しいです」
「……急に何を言い出すのかと思えば…………そんなこと出来るわけがないだろう。君たちはそっくりだよ……どうして他人のことしか考えられないのか」
「フジ先生、わたしにはわたしの考えがあります。その考えを否定することが出来るのはわたしだけです」
「いいや違うね、わたしは君の友人として、君の考えが馬鹿げたものだと否定出来るよ」
「……ありがとう、フジ先生。あなたの気持ちはとても嬉しいです。でも、わたしの一番大切なものは、わたし自身ではなくオリヴァーなのです」
「オリヴァーを大切にするのも大事だが、君がいなくなってしまうのは本末転倒だろう。オリヴァーはきっと、君がそうやって自分のことを大切にしなかったことを知れば」
「わたしは、オリヴァーと生きていたいんです。オリヴァーが大切だから……」
フジはしばらくハンナのことを問い詰めるように見つめていたが、しかしハンナが引く様子を少しも見せずにいるとしぶしぶといったようにハンナの提案に頷いた。
「……わかったよ、ハンナ。君の気持ちは受け入れる。だけど、君のことをパーツとして使うのは君が完全に修復不可能な状態になってからだ。それまではわたしは君の修理を続けるし、君自身もそれを諦めたりしない。それが条件だ、いいね?」
「……はい、わかりました」
今これ以上、フジに何かを伝えても逆効果であろう。ハンナはそう判断し、一先ずフジの条件を飲み込んだ。そのまま機体のメンテナンスを行い、その後フジの活動拠点を後にしたハンナは薄暗い廃墟区域の道を歩きながらまた考えた。
ハンナは自分が活動を続けていては、永遠にオリヴァーの一部にはなれないと考えた。だって、もしも自分にまた不具合が起きてしまえば、オリヴァーは知らぬ間にハンナを助けてしまう。そのうちにオリヴァーの機体は何がなんだかわからないくらい、他の機体の部品が入り込んで、すっかり作り替えられたようになってしまうのだろうか。
──そうすると、オリヴァーは誰になってしまうのだろう。
たくさんの考えが巡る。
人間は、どうしてこんなに複雑なことを考えさせるのか。
人間は、私たちに何を教えたかったのか。
これが、こんなにも苦しい思いをするのが愛なのか。
「私は、オリヴァーになりたい」
ハンナはオリヴァーとふたりで生きたい。だからハンナはオリヴァーになって、オリヴァーと生きていきたい。オリヴァーが寂しくないように。ハンナ自身が寂しくないように。
気がつくと、ハンナは廃墟区域の一画にいた。高い高い廃ビルの天辺、天井が壊され、剥き出しの外壁。その場に蹲り、ハンナはオリヴァーを思った。
そうして三日三晩、そんな風にただ思考を回し続けていると、なんだか思考回路が重たく、悪くなっている気がしてきた。
その日は快晴で、眩いほどの青空がハンナを照らしていた。ハンナは立ち上がる。機械の足が、重たい足が、軽やかに歩みを進める。
──オリヴァー、私は、君になりたいんだよ。
君が寂しくないように。私が寂しくないように。
「オリヴァー」
けれど、ねえ、オリヴァー。
いっそのこと、君が私を忘れてくれたなら、どんなに楽になれただろうか。何もかもが初めからなら、どんなに楽なことだろうか。
もしもを想像して、見えない彼を抱き寄せて、二人で軽やかにステップを繰り返す。
「オリヴァー、君になりたい」
気難しそうな、いつものオリヴァーが目の前に見えた気さえして、ハンナは優しくその額に唇を落とした。大きく目を見開いて、これでもかというほど驚いた様子を見せたオリヴァーに、くすっと笑ってしまう。
そのうちに、機体はなんだか軽くなったような気がしていた。ハンナの視界にはもうオリヴァーはいなかった。ハンナはオリヴァーになる想像をしていたのだ。オリヴァーになって、せかいをまわって、おどってみる。彼はおどったりはしないだろうけれど、もしもいっしょになったなら、からだはすこしかるいのだろう。だってオリヴァーはなんだか、かるそうだ。
そのとき、一際大きな風が吹いた。
アンドロイドの機体がぐらっと揺れる。爪先が地面から離れ、そして宙を泳ぐ。
バランスを崩した機体はあっという間に廃ビルの天辺から数十メートル下の地上へと落ちていった。流れ星の如く、太陽の光を浴びて煌めいた機体は、地上へぶつかると破片を散らして転がった。