そして、君の愛を知る。最終話1-4 アンドロイドが一機、走っている。
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オリヴァーの活動区域から追い出されるように帰ってきたハンナは、フジの活動拠点で何をするでもなく、ただ椅子に腰かけ、じっと時が経つのを待っていた。いや、何をするでもなく、というよりかは、ただ何もする気力がなかっただけである。
フジは、そんなハンナを何も言わずに優しく受け入れた。フジはハンナとオリヴァーの事の顛末を聞いたわけではないけれど、落ち込みきったハンナの様子を見れば一目瞭然であった。そんなフジに甘えきって、ハンナはしばらくの間そうしていたが、しかしどうにもこのままではいけないと感じ、ハンナは言葉をこぼした。
「わたし、フジ先生に謝らなければならないことがあります」
「謝らなければならないこと? 一体何をしたというのさ」
ハンナがゆっくりと話し始めると、それまでハンナを気にする素振りも見せていなかったフジが優しい眼差しでハンナを見つめた。その瞳に続きを促されて、ハンナは徐に続きを口にした。
「ずっと……」
「うん」
「ずっと、フジ先生に嘘をついていました」
「嘘?」
「フジ先生にだけじゃあありません。オリヴァーにも……いえ、オリヴァーだけじゃなく、他のアンドロイド達にまで……」
「どんな嘘?」
「……記憶を喪失した、という嘘です」
口に出すと、機体の肌に触れる空気がなんだかチクチクと痛む気がした。それにとっても重たい。全身が鉛を被ったようにズッシリとしている。不思議だった。空気に触れてもそんな感覚など普通は感じないのだ。自分が可笑しくなってきた気がして、それを振り払うようにハンナは続ける。
「本当は、ずっと、記憶がありました。あのビルの上から落ちて、その後、オリヴァーがわたしを助けてくれたこともハッキリと覚えています。でも、ごめんなさい、わたしはあの時、何もかも全てが初めからになればいいのにと思っていたんです」
その方がうんと楽になれると思っていた。その方が、何もかもが簡単になると思っていた。何もかも上手くいくと思っていた。
「でも、実際は違いました。わたしは……わたしは、オリヴァーとした大事な約束を違え、そして彼を裏切りました」
ひとりはさみしいでしょ、と声をかけた。言ってくれないと分からないと彼は言って、ハンナは嘘をつかないと約束した。最後まで一緒にいる、と約束をした。
「わたしは……酷い嘘つきです」
「ハンナ、わたしも君に謝らなければならない。君の気持ちを十分に理解していながら、わたしはオリヴァーの考えを受け入れ、そして君に彼の外界センサーを……すまなかった」
「いいえ、だってきっと、それはオリヴァーが譲らなかったのでしょう。あなたは『君たちはそっくりだ、どうして他人のことを考えられないのか』と言いましたから」
そう言ったあと、しっかりとフジの顔を見てみると、なんだか酷く表情を歪めたフジと目が合った。それでもフジは「ごめんね、ハンナ」と再度言葉を紡いで目を伏せた。
「本当に、いいんです。わたしはあなたから愛を貰いましたから」
「どういうこと?」
「だって、フジ先生は『待つことが愛だと思う』と言ったじゃないですか。だからフジ先生は待っていてくれたんですよね、わたしがきちんと向かい合うまで。……わたし、ずっと正解はひとつだと思っていました。だからずっと、彼の姿を追いかけていてるつもりだったけれど……本当はそんなことなかったんです。ただ、自分の正解を相手に押し付けたくて、自分の間違いが恐ろしいだけだった」
見たくないものを、見えないふりをして誤魔化していた。それがどれだけ相手にとって残酷なことであったか、今は十二分に理解出来る。
フジは柔らかく笑っている。優しくて、気持ちがぽかぽかするような穏やかな笑みだ。
「オリヴァーには、誠心誠意、もう一度謝りたいと思っています。許しが欲しいわけではなく、わたしの過ちを謝罪したい……でも、彼がその場を設けてくれるかはわかりません。わたしは何度も道を間違えましたから」
「うん」
フジはただ頷いた。二機の間には久しく訪れていなかった心地よい空気が流れていた。ハンナが大きな嘘をつく前の、あの頃の時間。決して何年も嘘をつき続けた訳じゃないのに、この空気を至極懐かしく思ってしまうほどだった。
そのとき、空を切り裂く爆音が鳴り響いた。ドンッ、という強い音の後、ゴロゴロゴロ、と獣が唸りをあげたような低い音がした。
「いやだね、急に荒れてきた」
窓の方を見てフジが言う。ハンナも立ち上がり窓へ近寄って外の様子を眺め見た。ガラス越しに見ると確かに空は灰色で、雲は厚く渦巻き、大粒の雨が地面に打ち付けていた。
「そういえば、この窓直したんですね」
「うん、この前ちょっと遠くまで出たらいいのが見つかってね。貰ってきちゃった。……私は外に出していた資材をしまってくるよ」
「はい、わかりました」
フジが強い雨の中外へと出ていった。その後ろ姿を眺めたまま、ハンナはもう一度椅子に腰をかける。少しの間そうしていたが、結局フジの様子が気になり、ハンナも外へと向かった。
二機で資材を片付け、室内へと戻ってくることには外は暴風と雷雨によって大荒れであった。びしょびしょに濡れた機体を、使い古されたカサカサの布切れで手早く拭きながら、ハンナは窓の向こう、黒い空を見た。
「オリヴァー……大丈夫でしょうか」
「彼だってバカじゃない。ちゃんと雨風凌げるところに隠れてるだろうさ」
「はい……でも」
「気にする気持ちは分かるよ。でもオリヴァーを探しに行ったとしても君まで雨に濡れて壊れてしまっては意味がない。それに、そもそもこの雨の中を出歩けば無事でいられる保証などないよ」
「……はい、分かってます」
今は一先ず休もう、とフジが言う。それに気の抜けた声を返してハンナは促されるまま椅子に腰を下ろした。フジは椅子をもうひとつ用意してそこに座るとすっと目を閉じた。どうやら機体の電源をスリープモードにしたらしい。この雨の中じゃ出来ることもないのだから妥当な判断だ。
けれどハンナは機体の電源を落とす気にはなれなかった。気にしても無駄だと分かっていても、頭の中にはオリヴァーのことが常にある。
嵐が静まったら、直ぐにオリヴァーを探しに行こう。この雷雨の中でハンナは彼のことだけが気がかりだった。いてもたってもいられなくて、窓辺に体を寄せる。窓を覗いてもその向こうは暗闇でなにも見えやしない。ただ大粒の雨が地面を打つ音だけが聞こえてくる。
ひとりはこわいよ。
オリヴァーの声が頭の片隅で再生された。初めて会ったとき、ひとり草むらで膝をついていた彼の姿が鮮明によみがえってくる。そんな彼に、ひとりで死ぬのはこわいでしょ、と声をかけたハンナ。きっと、何度でも同じように声をかけるだろう。だってハンナもひとりが怖かったのだ。
その瞬間、ハンナは駆け出した。フジの活動拠点を飛び出したのだ。ダダダダッと強い音で機体を打つ雨。毛髪は直ぐにびっしょりと顔に張りついた。森林区域の地面はぬかるみ、泥が重たく足にまとわりついてくる。木々は激しく揺れ、緑の葉が暴風と一緒に流れてくる。機体にびたびた張りついて、それを払う間もなく次から次へと飛んでくる。
森林区域を抜け廃墟区域へ足を踏み入れる。ハンナを追い回すように小枝や葉っぱが暴雨と共に廃墟区域へと流れ込んでいた。うっすらと水を張った地面を蹴り、オリヴァーの元へと急ぐ。
跳ね返った泥が靴を汚す。視界を遮る前髪を何度も払い、額を流れる水を拭う。その機体はまるで世界記録を狙う陸上競技の選手のようにただ一心に、彼の元を目指している。
幾度となく歩いた廃墟区域の道を走る。
走って、走って、走る。
ハンナはただオリヴァーのために走っていた。
暗闇の中、閃光が走る。次いでドンッ、とこの星を揺らすような低く恐ろしい雷鳴が響いた。光ったのはオリヴァーの活動拠点の方角だ。オリヴァーは無事だろうか、足を止めている暇などない。
きっとオリヴァーは馬鹿だと笑うだろう。こんな雷雨の中を、雨も避けずに走っているなんて考えなくても分かる馬鹿馬鹿しい行動だ。いくら機体に耐水性があるとはいえ、アンドロイドとしてこれは不正解の行動だ。
分かる。
分かるけれど、ハンナはもう正解ばかりに拘ることをやめたから。普通とか、たったひとつの正解だとか、そういうものは大事だけれど、直ぐに捨てることなど出来ないけれど、でもオリヴァーの方がもっと大事だから。
急ブレーキをかけた自動車のように、水飛沫をあげてハンナは立ち止まった。視界の眼前にはあの廃ビルが見えている。ハンナが落下したビルだ。雷雨の中、視界に捉えたその廃ビルの天辺に、その姿を確認した。
「オリヴァー……?」
どうしてか、彼は廃ビルの天辺で雨に打たれている。普段なら、何を馬鹿なことをしているんだ、と彼が咎めそうなことをしている。
ハンナは再び走り出した。
地面を強く蹴る。
ハードル競技の選手のようにコンクリート片を飛び越える。今にも崩れそうな足場にも臆せず、ただ彼の元へと足を進める。何度か足がもつれて、ぐらりと体勢が崩れる。機体のあちらこちらを激しくぶつけ、けれどハンナは何度でも立ち上がる。
「オリヴァー!」
そしてついにその頂上へと辿り着く。
雨に濡れるアンドロイド。彼が振り向いて、ヘリオトロープの瞳がハンナの双眸と交わった。暗闇の中、オリヴァーの目元で稼働ランプが赤く点灯している。
「オリ」
「ごめん、ハンナ」
「えっ……?」
ハンナが口を開いた途端、それに被せるようにオリヴァーが発した。二機の距離は遠く、オリヴァーの声は聞き取りづらい。ハンナがよろよろと近づくと、オリヴァーはそれを手で制した。
「ごめん」
「どうして、君が謝るの……!」
「ごめん、僕は狡いよ。お前が思ってるよりも、ずっと、狡い」
急に謝られて、ハンナは戸惑うばかりだ。なんと言えばいいか、言葉に詰まって思わず口を開いたまま黙っていると、オリヴァーはうつむき、自嘲気味に言う。
「僕はお前を許さなかったのに、僕は『ごめん』だなんて、本当に、都合のいいヤツだよな」
「……っ顔をあげてよ、オリヴァー! わたしはきみと話せて嬉しい……!」
オリヴァーはゆっくりと顔を上げた。
口角が少しだけ上がっている。けれど眉尻は下がり、今にも泣き出しそうなのを堪えている子供のような顔をしていた。
ゆっくり、オリヴァーの足が後退する。彼はどんどん後ろへ下がり、今にも落ちてしまいそうだった。
「オリヴァー……!」
ハンナが走り出す。
それと同時にオリヴァーの片足が床を離れた。
両足が宙に浮いて、その光景がやけにゆっくりと映る気がした。
必死に手を伸ばす。
力一杯手を伸ばす。
彼の体が落下する。
「オリヴァー!!」
立ったままでは間に合わない。
崖っぷちでハンナは倒れるようにしてオリヴァーへ手を伸ばした。
片手が彼の腕を掠めた。
落ちてしまう。間に合わない。
いやだ。
いやだ、オリヴァー。
いかないで。上半身を乗り出して、手を伸ばす。
その手が辛うじて、彼の襟元を掴んだ。
「……ハンナ……お前……」
宙ぶらりんのオリヴァーが、ハンナを見つめた。
雨で濡れた機体が、少しずつ、オリヴァーの重さに耐えかねて床を滑っていた。
「ずるい!」
「……」
「きみって確かにずるい! 『ごめん』って謝って逃げるなんて、ずるい!! 自分だけ謝って、逃げるなんて、ずるい!」
「僕は……」
「わたしは、きみに言われて、きみの愛を知りたいと思った! 分かり合えたら素敵だと思った! それなのに……!」
それなのに。オリヴァーは独りで行ってしまう。
掴んでも、煙のように揺れて、消えて、離れてしまう。
「だから、生きてオリヴァー……!」
きみにまだ。
まだ、話していないことがたくさんある。
謝っていないことがたくさんある。
言いたいことが、たくさんあるんだ。
だから。
お願いだから。
「おまえ」
「生きてよ、オリヴァー……!」
「……」
「わたしのために生きて……」
「……ぼく、は……」
「お願い、きみのそばに居させて……!」
「……ハンナ」
ハンナの上腕内部からパキッと嫌な音がした。稼働パーツの潰れる音が聞こえてくる。ここまで来る途中に機体をぶつけすぎたのかもしれない。腕が外れるのも時間の問題点だろう。だけどこの両手を離す理由にはならない。
離してたまるかと指先に力を込める。掴んだ襟元がゆっくりと、じわじわ伸びていく。
「っもう! ……オリヴァーおもたい!」
「ハッ!? っお前な! 急になんなん」
「命の重さだよ!」
とても重たい。
ぼろぼろな、けれど重たい。オリヴァーの命。
オリヴァーは軽そうだなんて思っていたけれど、全然違う。大間違いだ。
「オリヴァーの命、重たいんだ!! だから、生きて! オリヴァー!」
「お前……言ってることがめちゃくちゃだろ……」
「仕方ないんだ! わたしの機体は壊れてる! だってこんなにぐちゃぐちゃで複雑な感情はあり得ない! ……でもいいんだ! それでもいい! きみといたい、今度はちゃんとそう言えるから、壊れていてもいいんだ!」
無我夢中に叫んだ。
ただ自分の気持ちを、整理もせずに思うがままに吐き出した。
オリヴァーと一緒にいたい。
オリヴァーと一緒がいい。
「……っ嘘ついててごめん! さみしい思いをさせてごめん! 自分勝手でごめん! 約束破ってごめん! きみは悪くない! きみのこと、怒ってない! ちょっとずるいとは思ってる! でもやっぱりきみがいい! ひとりはさみしい! ひとりはこわい! 誰かと一緒にいたい! でもそれはきみがいい! 誰でもよくなんかない! きみと一緒がいい! きみと二人、一緒がいいの!」
ありのままを叫ぶと、強張っていたオリヴァーが、なんだか諦めたように笑った。そうして宙ぶらりんにしていた両手を伸ばして床を掴んだ。雨に濡れたそこを確かにしっかりと掴んだ。
「……わかった。わかったから、手を離せ」
「い、いやだ」
「馬鹿だな、違う。自分で上がれる。だから、手を離せ、退け。お前の腕が外れちゃうだろ。……僕と一緒にいたいって、思ってくれたんだろ?」
そうだ。だから、ハンナはここまでオリヴァーを追いかけて来たのだ。信じてくれよ、とでも言いたげなオリヴァーの瞳。彼と見つめあって、そうしてハンナはゆっくりと襟元から両手を離した。
「ありがとう、ハンナ」
離した、その一瞬。
オリヴァーが、床を掴んだ両手の力を抜いた。
「ごめんな」
オリヴァーが笑った。
ああ、知っている。
オリヴァーはいつもそうなのだ。
いつも、いつもオリヴァーはハンナのことばかり考えてくれていた。自分のことは二の次で、彼はぶっきらぼうな優しさでハンナを抱き締めてくれていたのだ。
オリヴァーがそういうアンドロイドだということをハンナは知っている。
知っているから、ハンナは飛び込む。
オリヴァーと一緒に、地上へ落ちて行く。
「なにしてっ」
「知ってるよ。君の愛」
オリヴァーが大きく目を開いた。そんな顔は初めてだ。またひとつ君を知った。
真っ逆さまに落ちて行く。雨に包まれ、凄まじい勢いの風を体に受けながら、その中でハンナは手を伸ばす。外れそうな両手を伸ばす。大事なものを守るため。
ぎゅっとオリヴァーを抱き寄せて、目を閉じる。
大丈夫。
次に目が覚めたら、きっと、ハンナはオリヴァーと友達になれている。