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    enagagagagagaga

    @enagagagagagaga

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    enagagagagagaga

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    共同1次創作企画の本編です。
    原案・小説:えなが(主催)

    そして、君の愛を知る。1 あるアンドロイドの言う『愛』は明日がいないこと。
     あるアンドロイドの言う『愛』は誰かと幸せになること。
     あるアンドロイドの言う『愛』は与えられるもの。
     あるアンドロイドの言う『愛』は信じて待つこと。
     あるアンドロイドの言う『愛』は執着を偽ったもの。
     あるアンドロイドの言う『愛』は。
     
     君の言う『愛』は。



     その日、一機のアンドロイドが高所からの落下により頭部を破損した。
     そこは廃墟区域と称される場所だ。今にも崩れそうな鉄骨が剥き出しの廃ビル、高さ二十メートルから垂直に落ちたそのアンドロイドは固いコンクリートにぶつかり、機体に大きな損傷を受けた。 水面で水滴が跳ねるように細かな部品が弾け飛び、機体は数回転がって伏した。
     まるで、人間が死んだかのように微動すらない。
     コンクリートの隙間から逞しく背を伸ばした雑草が、アンドロイドの顔に触れている。けれどアンドロイドには、その感覚を認識することができなかった。電子回路が切断されているのだ。アンドロイドの頭部からはぬるい液体が漏れ出している。

    「今、夢を見ていた気がする」

     アンドロイドはつぶやいた。ノイズの混じったソプラノの声がそよ風にさらわれてゆく。
     何もかもがなかったことのように、アンドロイドはその瞳を閉じる。スキャンされていた地形データが薄れていき、機体の限界を悟る。 
     ぱちぱち、と頭上で火花の弾ける音がした。

    ──いい、夢だった。

     アンドロイドは強くそう思う。

    「君になれる、いい夢だった」

     それがたとえ、幻であったとしても。



     西暦四○八七年、人類史は突如として終わりを迎えた。
     七度に渡り降り注いだ隕石が、長い間星を支配していた人々の歴史にあっさりと幕を降ろしたのだ。地上に生き残った人類は一人としておらず、六割近くの生物も絶滅に追い込まれた。
     そんな中で人の姿を持って活動しているもの達がいる。限りなく人に近くて決して人ではない。運良く生き延びた、機械の体を持つそれこそが──アンドロイドだ。
     人類滅亡から百年経った今でも、荒廃したこの世界でアンドロイド達は変わらずに活動を続けている。主を失い、二度と下されることのない主命すら残っていない機械に、活動を続ける理由があるのかと問われればそれはわからない。しかし、根が腐りきって盗みを働く人間のように、稀少な資源となってしまったアンドロイドの稼働パーツを奪い合う機体もいれば、箸が転がっても笑い合えるような下らなくも何にも勝る友人関係を築き上げた機体もいる。
     つまるところ、アンドロイド達は限りなく人間に近づいていたのだ。
     他機にフジと呼ばれるアンドロイドもそのうちの一機である。



     身につけた白衣のポケットに銀色のスパナをしまい込み、フジはうーん、と顎に手を当てた。
    「どうだろう。内部コアは無事だったし、問題ないと思うのだけれど……まあ起動してみないとこればっかりは分からないね」
     そこはフジの活動拠点、平たく言えば自宅と呼んで差し支えない場所だ。人類がまだ生きていた頃から使い古されているデスクやチェア、フジが個人的に集めた工具箱を並べた木製の棚。コンクリートの床からはなんだか種類のよく分からない草花があちらこちらで伸びては部屋を間借りしているような状態だ。対価は支払われていないが。
     無機質な部屋とは打って変わって、窓枠の外れた窓からは柔らかい風が流れていた。フジの栗毛色の頭髪が揺れる。
     彼女の深い常磐色の瞳が見つめる先には、一機のアンドロイドがアンティーク調の椅子に座らされていた。深い眠りから目を覚まさないおとぎ話のお姫様のように瞑するアンドロイド。ノースリーブから覗かせる滑らかな白い腕。手は膝の上で丁寧に重ねられている。
     フジがアンドロイドの右目を隠す胡粉色の前髪に手を触れた。少しだけ掬ってみても機体の瞼が上がることはない。機体の主電源が落とされているからだ。
    「ほらおいでオリヴァー。ハンナを起動させてみよう」
     そういってフジは振り向いた。フジの後方で腕を組んでコンクリートの壁に凭れかかっていたアンドロイドが、返答代わりに視線をフジへ送る。しかしちらっ、と一瞥しただけでそのアンドロイドはすぐにフジから目をそらした。
    「何を不貞腐れているんだい、オリヴァー」
    「不貞腐れてなんかない」
    「壊れたものは仕方ないだろう。事故だよ」
    「事故なものか。……馬鹿げている」
     オリヴァーは心苦しそうに声を絞り出した。その後にキッとフジを睨む。納得できないと言わんばかりの表情を見せたが、言葉は続かなかった。
    「君の話も後でちゃんと聞く」
    「僕の話なんかどうだっていい! ……僕は、僕は……どうしてハンナが僕を裏切ったのか、知りたいだけだ……」
     切なそうに吐き出したオリヴァー。ぎゅうっと握り拳を作っている。
     眠るアンドロイド──ハンナを発見したのは、このオリヴァーだった。頭部から細い管が数本垂れて、たらたらとオイルを滴らせながら、ピクリとも動かないハンナを抱えてきたオリヴァーの心情を思えば、フジは彼に強い言葉をかけることなどできるはずがなかった。
     オリヴァーとハンナは友であった。
     彼らが人間であったなら、親友と呼べる間柄で、休日にはカフェで会話を重ねたり、二人で遠くへ出掛けたり、きっと忙しなくも堪らなく愛おしい日々を過ごしていただろうと、フジは想像する。
     二機の仲の良さは、他から見てもそう思わせるものがあったのだ。だからこそオリヴァーは、ハンナの事故にひどく心を痛めている。
    ──いや、それだけじゃない。彼はきっと……。
    「オリヴァー。君の気持ちは十二分に理解できる。けれども、まずは起動してみないと何もわからないよ」
    「修理をするときに、ログを見ることだって出来ただろう」
    「オリヴァー……気持ちは分かるが、わたしはデータにエラーが起きていないか確認することはあっても、当該機体の許可なく個人情報を見ることはしないよ」
     必死なオリヴァーを落ち着かせるように、フジはなるべく穏やかな口調で伝える。
    「ね? 事情がどうあれ、まずはハンナから話を聞こう」
    「…………わかった」
     渋々とうなずいたオリヴァーに言葉の代わりに笑みを返して、フジは椅子に座るアンドロイドの首もとに手を触れた。
     アンドロイドの左目元にある稼働状況を表す小さなランプが青く点灯する。
     ゆっくりとまぶたが持ち上がり、そしてすぅ、と息を吸うような動作のあと、目を覚ましたアンドロイドの、海を映したような美しいブルーの瞳がフジを捉えた。
     無表情なままのハンナにフジが声をかける。
    「やあ、おはようハンナ。君は廃墟区域にて、廃ビルから落下し、そして頭部を破損した。わたしが可能な限りの修復を試みたが、メモリーを損傷したため、君の記憶に著しい不具合が生じる可能性がある。わたしが分かるかい?」
     ハンナはまばたきひとつ見せずに即答した。
    「申し訳ありません。理解できません」
     言い放たれた冷たい一言。
     答えを聞いて、背後でオリヴァーが息を飲んだのが分かった。フジが振り返ってオリヴァーを見る。
     オリヴァーはうつむいていた。ただうつむいて、固く目を閉じて、痛みに耐えるような深いため息のあとに吐き捨てる。
    「……ほらな、 見たことか……だから修理したって無駄だと言ったんだ……!」
    「オリヴァー……」
     顔をそらすオリヴァーに、フジはなんと言葉を続ければよいか分からず、口を閉じて沈黙を作った。窓から穏やかなそよ風が流れても空気は重たく、オリヴァーもフジも口を噤んで互いの言葉を待っていた。
     けれど二機の沈黙を破ったのはハンナだった。すっと躊躇いなく挙手をして発言する。
    「質問があります。 ハンナとは何を表すものでしょうか。先ほどはわたしに対して発言されたように思えます」
     フジが答える。
    「君の固有名詞だよ」
    「固有名詞」
    「 そ、ハンナ。つまり名前だね。……わたしは製造番号5263 4354 8275 3371。固有名詞はフジだ。君には、フジ先生と呼ばれていたよ」
    「かしこまりました、フジ先生」
    「彼は製造番号1867 4043 0998 1210。固有名詞はオリヴァーだ」
    「かしこまりました、オリヴァー」
     流れのまま軽く自己紹介を済ませたが、オリヴァーは声がかかってもハンナの方を見なかった。
     ハンナはその様子を気にするでもなく続ける。
    「では、フジ先生、オリヴァー。はじめまして、わたしは汎用アンドロイド、ハンナ。あなたの生活を豊かにするためのアンドロイドです。わたしの管理所有者はどちらになりますか?」
     管理所有者とは、文字通りその機体の所有者。つまりアンドロイドを所有する者のことである。人類滅亡前、ほとんどの機体が人間によって管理されていた時代、家族の一員として迎えられたアンドロイドも少なくなく、アンドロイドの初回起動時には温かな言葉で挨拶をするよう設計されていた。
     ハンナが発したその言葉は、正に全てのアンドロイドに共通する初期起動時のフレーズであった。
     その言葉を聞けるのは初回起動時と、機体の初期化を行ったときだけ。どこかで大丈夫だと信じていた期待が崩れるのと同時に、なんとなく想像していたこの現実に落胆してしまう。
    「ハンナ、君の管理所有者はいない。人類は、皆遠い昔に滅びたのだ。わたしの管理所有者も、オリヴァーの管理所有者も……」
    「それでは、わたしは何のために起動されましたか?」
     それは至極真っ当な疑問のように聞こえて、極めて残酷な発言であった。
     彼女の中にはもうなにもないのだ。
     百年と少しの時間をかけて培われた感情も、交わした言葉の数々も、思い出と呼べるはずの記憶のひとつさえ残っていない。
     フジとオリヴァーなんてアンドロイドは、彼女の中に存在していなかったのだ。
     フジやオリヴァーがどれだけ彼女を想っていても、ハンナを助けた行為に、ハンナ自身は価値を見出だしてはくれない。
    ──さみしい。
     フジだってどれだけ平静を装っても、それは寂しかった。
    「……すまない、わたしはその問いに対する明確な答えを持ち合わせていない。わたし達が活動する理由はすでに失われた。しかしわたし達のように活動を続けるアンドロイドの中には、活動停止を恐れるものもいる」
    「それは何故ですか?」
    「死が怖いからだよ」
     オリヴァーが一言。
    「アンドロイドに死はありません」
     ハンナが返す。
    「あるよ。お前には、もう何もないかもしれないが」
     再び沈黙が訪れる。オリヴァーはそっぽを向いたままで、ハンナはそんな彼を見たまま、口を閉ざしている。
     今度はフジが沈黙を破った。
    「……オリヴァー、ハンナに都市を案内してやったらどうだろうか?」
    「はぁ? なんで僕が……」
     すっとんきょうな声を出したオリヴァーがフジを見た。バカかお前、と言ってきそうな雰囲気まである。
    「だってハンナにはもう記憶がないんだから、これからを生きるためには必要だろう」
     反論したのはハンナだ。
    「必要ありません。外界センサーは正常に作動しており、地形の把握が可能です」
    「けれど、人類滅亡後の世界がどうなっているかデータはない」
    「データの提供は可能でしょうか? 汎用アンドロイドには握手による通信機能が備わっています」
    「それじゃあ楽しくないだろう」
    「理解不能です。楽しみ、は必要でしょうか?」
    「必要だろうとも」
    「何故ですか? それは、人間の真似でしょうか?」
     ハンナの表情は変わらない。無感情なまま、ただ言語を交わしているに過ぎない。全てを忘れてしまった彼女に、まるでもう、なにもかも必要ないと突きつけられているようで、それが寂しい。
    「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。わたし達は友であった。人間のいない、この世界でね」
    「答えが不明瞭です。人間の真似をする必要はありますか?」
    「わたし達には、自立思考システムが搭載してある。君にもそうだろう」
    「はい。搭載してあります」
    「では君はどう思う」
     だからフジは問いかける。
     ひとつずつ、ひとつずつ。崩れたのならば積み上げるしかない。消えてしまったのならば作り上げるしかない。
     その結果に出来上がるのが以前のハンナでなくても。
     ハンナは少し間を置いて答える。
    「……申し訳ありません。その問いに対する答えを持ち合わせておりません」
    「……そう、それは残念だ。以前の君なら、きっと答えを持っていただろう、君だけのね」
     当然というべきなのか、ハンナは答えられない。けれど、はっきり否定するわけでもなく、答えられない、という答えを弾き出したアンドロイドには、すでに自立思考システムが作動し始めている。
    「以前のわたしはどのようなアンドロイドでしたか?」
    「お、興味が出たのかい?」
    「先程の会話から、以前のわたしの方が好まれていると推測しました」
    「それは申し訳ないことをした。そういう訳ではないのだけれどね。以前の君を知っているわたし達には、大きな喪失感がある」
     フジが言うとハンナがとある提案をしてきた。
    「それならば、わたしのデータをいただければ以前のように振る舞うことが可能です」
     背後で黙るオリヴァーの不穏な気配を察知して、フジは早口で否定する。
    「ちがう、そうじゃないんだ。確かに以前の君はわたしにとって最高の友といえるアンドロイドであった。けれど、君のメモリーが消失してしまったからといって、君に対するわたしの気持ちが変わったわけじゃないんだ」
    「何故ですか? データの提供がなければ、メモリーを消失したわたしに以前と同じ価値はありません」
     キッパリと自身を否定したハンナに、さすがのフジも苦悶の表情を隠せなかった。
     違う、とはっきり否定することが出来なかった。
     彼女自身に価値をつけているのか、彼女の記憶に価値をつけているのか。もしも彼女の記憶に価値をつけているのであれば、記憶さえあれば、見た目がハンナでなくても構わないということになる。しかし彼女に価値をつけているのであれば、記憶が他機のものでも構わないといっているようなものである。
     ハンナとは、何をもってハンナなのだろうか。
     フジにとってはどちらとも言い難かった。
     少し迷って、それでも答える。
    「君に記憶がなくても、あっても、わたしは君を助けたし、君とまた過ごせればいいと思っているよ」
    「そう……ですか。理解しました。ではフジ先生、オリヴァー、わたしとあなたは友人です。これからよろしくお願いします」
    「そうだね。ハンナ、また楽しい日々を共に過ごそう」
    「承知しました」
     硬かったハンナの表情が少し和らいだように見える。
     話が一区切りついたところで、フジは事故のことについて本当に記憶が残っていないのか再度確認しようと試みた。
    「ねえ、ハンナ……」と言いかけたところで、低い声がそれを遮る。
    「……僕は違う」
     ひどく冷め切った、心の伴わない声だった。
     声のした方へフジとハンナが視線を向ける。そこには濁った瞳でただ地面をにらみつけるオリヴァーの姿があった。
    「お前は、友ではない」
    「以前のわたしを希望しているのであれば、データを提供していただければ対応可能です」
     強く言い切った言葉にハンナが返したが、まるで興味がないようにオリヴァーは言い放つ。
    「違う。そんなことをしても意味がない」
    「では、なぜ友ではないのでしょうか? オリヴァーの考え方はフジ先生とは違うということでしょうか?」
    「お前、ほんとうに白々しいな」
     その一言に、ハンナはぎょっとしていた。今までになく、表情を変えて、青い眼がこれでもかと開かれていた。オリヴァーはそんなハンナにも表情を一切変えることなく、地を這うような低い声で切り捨てた。
    「お前には、もう僕の記憶がない。そうなんだろう? 僕はハンナが好きだったよ。でもそれは彼女が純真無垢で穢れのない、僕が美しいと思う心を抱いていたからだ。だけどどうだ。今のお前はそうであると言えるのか?」
    「……真意がわかりません」
    「うるさい。返事なんていらない。僕は今のお前を信じない。姿形が同じでも、お前はもう、ハンナじゃない」
     オリヴァーは歩き出した。もうハンナのこともフジのことも興味がなくなったようで、視線が交わることはない。彼はかつかつと靴を鳴らして部屋から出て行ってしまう。
     アンドロイドには呼吸なんて必要ないのに、フジは息苦しさを感じた。重たくて、吸うのも躊躇ってしまうような濁った空気を感じる。引き止める言葉さえ浮かばなくて、オリヴァーの後ろ姿が消えるのを黙って見ていることしかできなかった。
     その姿が見えなくなる。けれども、二機はしばらくの間そのまま口を閉ざしていた。何を言うべきかフジは思いつかず、ハンナも同様にただ出口の方を見て黙っていた。
    「……ハンナ、オリヴァーを怒らないであげてくれ」
     重たい空気の中で発したのはフジが最初だった。
     ハンナは振り向いて答える。
    「わたしに、怒りの感情はありません」
     淡々としているように見えた。でも、フジにはそれがハンナの精一杯の意地のようにも見えた。おそらく、記憶を喪失してしまう前の彼女を知っているからだろう。強がって、なんでもないフリをしている幼子のように見えてしまうのだ。
    「彼にとって、以前の君は心の拠り所であったようだ。君がいたから、オリヴァーはオリヴァーであった」
    「申し訳ありません。理解が出来ません。わたしがいなくとも、オリヴァーはオリヴァーです」
    「君にとってはそうかもしれない。でも……」
     言葉が滞る。うまく言えない。二機の間柄を語るには言葉だけでは足りないのだ。
     言葉だけでは、今のハンナに理解してもらうことは難しい。友という言葉だけでは伝えきれない、細やかな感情の変動をハンナが再び知ることが出来なければ、きっと今のオリヴァーとは何を話しても無駄になってしまう。
    「ハンナ……君は、本当に……」
     自然とフジの顔が下を向いた。なんと伝えてあげるべきか。フジが再び口を閉ざしたとき、意外なことにハンナが言葉を続けた。
    「……フジ先生、わたしはオリヴァーを見て、彼に不快感を与えたと感じました。彼との関係を回復すべきと考えます」
     ぱっと顔を上げるとハンナと目が合う。
    「いえ、関係を修復したいと思います」
    「……何故だろう、以前の君も同じように言った気がしてならないよ」
    「以前のわたしとオリヴァーについてのデータを求めます。可能でしょうか?」
     フジは少し迷って、否定する。
    「データの提供は可能だ。けれどそれはオリヴァーが望むものではないだろう。彼は……わたしが推測するに、君が彼のことを忘れてしまったのが受け入れ難いのだろう」
     ハンナは言いにくそうに発言した。
    「……しかし、わたしにデータはありません。これは、事実です」
    「ハンナ、オリヴァーはそれが悲しいんだよ。オリヴァーにとっての君が何なのか、データを提供してそれを知っても、オリヴァーにとってそれは……ひとつ、君について教えよう。わたしと君の思い出だ。メモリー消失前に会った君は『愛について知りたい』と発言していた」
    「愛はいとおしいと思う気持ち、大切に思う気持ち、思い合うこと、と定義されています。定義されている以上、そうであるとしか言えません」
    「でも君がそう発言したのも事実だ」
     ハンナがまた言いにくそうに口を開く。
    「……何故、以前のわたしはそのような発言をしたのでしょうか」
    「わたし達には、自立思考システムにより感情に近いものの獲得が可能だ。けれど、愛はひとつではなかったのかもしれない」
    「理解不能です。愛は定義されています」
    「これは単純で難解な問題だよ、ハンナ。人間は、わたし達に愛を教えられなかったのだ。人の数だけ、きっと愛があった。それを学べたアンドロイドはいなかった。ただ、それだけのことだ」
     本当にそうであるかなど、フジにもわからない。機体に設定された愛は、いくつかの思考を学んできたフジからすると普遍的で、誰にでも当てはまるような言葉で飾られているように思う。きっと、それは模範的な解答で、それこそがただ一つの正解なのかもしれない。
    「……わたしは、待つことが、愛だと思うんだ」
     だけどそれだけじゃなくてもいいと思うのだ。
     フジはただ、百年と少しの間で受け取ってきた自分の答えを伝えたに過ぎない。
    ──何があっても信じて待つこと。
     人のそばで生きて、あたたかでいつか崩れそうな、形にできないそれを愛と感じたフジが、絶対に正しいとは思わない。
     だけど、そうであってほしいと思う。それがたとえエゴであっても。
    「気持ちは目に見えないだろう。どんな言葉をかけても、心の内は、言葉とは真逆なのかもしれない。だから本心を言えるまで待つことが……自分の気持ちをさらけ出せるようになるまで待つことが、愛だと、わたしは思うんだ」
    「……肝心なことが分かりません。わたしが愛を知りたかった理由が不明です」
    「悪いね、ハンナ。わたしは君じゃない、それがわかるのは君だけだ。……だけど、そうだね。君は自分の愛を疑ったのではないだろうか? それとも、だれかの愛を疑ったのかも。でもそれがわかるのは君だけだ、そうだろう?」
     フジは待つことにした。ハンナがもう一度、自分の言葉で感情を語れるようになるまで。だからフジが今出来ることは、ハンナの背中を押すことだけ。答えになりうるかもしれない一つを与えて、あとはもう待つだけ。
    「わたしが君になれないように、君も……他の人になどなれはしないんだよ」
     ハンナは立ち上がって歩き出した。
    「どこへ行くんだい」
    「ひとまず、彼のもとへ」
     フジを一瞥し、すたすたと迷いなく部屋を出て行ったハンナ。本当はすぐにでもオリヴァーを追いかけたかったのではないだろうか、なんてフジは考えてしまう。
     そうであればいいと思う。
     仲の良かった二機が、こんな風に関係をこじらせて、何もなかったみたいにこの世界を生きるのは、空しいだろうから。



     ◆◇◆



     部屋を出たハンナは一度青空の元で空気を吸った。
     天気は穏やかである。青々とした草花がゆらゆらと足元で揺れて、ワルツを踊るように、蝶々が飛んでいる。生き生きとした、花園とも言える森林がそこには広がっていた。
     ハンナの視界は豊かな緑で溢れている。これが人類の滅亡した後の世界だとは、にわかには信じがたいであろう。けれど、樹木や新緑の陰に見える崩壊した建造物が、現実から目をそらすなと言わんばかりに存在している。
     目的の人物、オリヴァーがどこへ行ったのか。ハンナには見当がつかなかったが、幸いにもアンドロイドには様々な機能が備わっている。機体の製造番号さえ知っていれば、その機体を追跡することだって可能だ。
     ハンナは家庭用アンドロイドであり、その精度が高いわけではないが、まだ然程時間が経過していないから、彼の後を追うことが出来る。システムを起動して、地形データをスキャンする。現実には存在しない格子状の電気が世界を飲み込んで、その中で、人の姿を模した反応をキャッチした。オリヴァーだ。
     ハンナは駆け出した。
     どうやらオリヴァーはそう遠くない位置にいるようだった。走り出して、少し樹木の深い場所へ差し掛かったところで、彼の姿を目視でも捉えることが出来た。
     燦燦と降り注ぐ太陽の光を、木の葉が遮っていた。木陰で暗くなった道をオリヴァーが歩いている。ハンナの足音が聞こえているはずだが、しかし彼が歩く速度を速めることはない。
     まるで、ハンナのことなど世界から消し去ってしまったかのようだった。
    「オリヴァー、待ってください。オリヴァー」
     ハンナはその背に声をかけた。
     鳥のさえずりが後を追うように聞こえてくる。
    「オリヴァー、オリヴァー」
     ついにハンナは彼の背に手が届くまでに追いついたが、それでもオリヴァーは振り向きも、返事もしないまま歩き続ける。
    「オリヴァー、不快感を与えたことを謝罪したいです。足を止め、わたしと話をしてくれませんか」
     ハンナがそう言葉にすると、オリヴァーはようやく足を止めて振り返った。
     やっと話が出来る。そう思ったのもつかの間のことだった。
     彼の表情を見て、ハンナは声を失った。
    「話だと? 僕が? お前と? 僕はお前と話すことなんか何もない」
     光のないアメジストの瞳が、まっすぐとハンナを見ていた。
     来るな、来るな、近寄るな。
     来るな来るな来るな、とその瞳がハンナを威嚇している。
    「馬鹿なやつ……なぜ僕を追ってきた? 僕はお前と話すつもりはないんだよ」
     嘲り笑う、不愉快な音。
     はあ、と吐き出された吐息さえ濁っているように感じる。
    「オリヴァー、貴方は酷く憤慨しているように見えます。何故ですか」
    「聞こえなかったのか? お前と話すことなんか何もない」
    「申し訳ありません。しかし、なぜあなたがそのような態度を見せるのか理解が出来ません。」
     ハンナが言うと、オリヴァーは笑った。でもそれは楽しさを感じさせるような笑顔ではない。ハンナを憐れむような、それでいて地の底まで見下しているような、そういう乾ききった、笑顔と形容していいのかも迷ってしまう表情。
    「本当に、僕のことが理解できないのかよ、なあ、何もかも、本当に忘れたって言い張るのかよ」
    「……でも、機体にデータが残されていないのは、事実で」
    「ああ、そうかよ。そうかよ、そうかよ、そうかよそうかよそうかよッ!!」
     オリヴァーが叫んだ。
     機体の限界まで出力を上げたような、獣の雄たけびにも似た叫び声だった。ハンナの機体の内部コアまで振動している。
     それは明確な恐怖であった。目の前のアンドロイドに対する、純粋な恐怖。ハンナは声が出せなかった。
    「お前、なんでそうなんだよ。なんでなんだよ、なんで、なんで何も言ってくれなかったんだよ! 友達じゃなかったのかよ! 僕らずっと一緒だって言っていただろ! なんでだよ! なんで僕にそうやって冷たくするんだよ! なあ、教えてくれよ、お前は……本当にハンナなのか……?」
     激情が機体を揺さぶっていた。ひどく歪んだ笑顔を見せるオリヴァー、泣くのを必死でこらえているかのように彼の表情が歪んでいるのだ。その顔を見て、ハンナはハッと気が付いた。
    「お、オリヴァー……機体のランプが、黄色に点灯、しています」
     ハンナが言うと、オリヴァーは左目元の小さなランプに触れて「ちっ」と舌打ちをこぼした。黄色点灯は機体に不具合の可能性を示している。機体の状態を認識して、先ほどまでの地を震わすような怒りは落ち着いたようだった。冷静になったらしいオリヴァーはハンナと視線が合うと、それでも嫌悪感を隠すことはしなかったが、先ほどよりも幾分か顔つきは優しい。
    「さっきも言ったが、僕はお前に話すことなんてないんだよ。今のお前には何を言ったって無駄なんだから……早く僕の前から消えろ」
    「……わかりました」
     今、これ以上話すのは得策でないように思えた。ハンナは一言発して踵を返す。オリヴァーの機体の反応は、ただそこでじっと動かなかった。

     フジの活動拠点まで戻って、ハンナはオリヴァーとの出来事を大まかに説明した。
    「そうか……でも、気に病まない方がいい、ハンナ」
    「気に病んでいません。ですが、彼を余計に怒らせたように感じます」
     日はすっかりと落ちていた。室内には電気がないが、人工物の消えた世界では、夜空に輝く星の瞬きだけで十分すぎるほどに視界の確保が可能だ。それに加えて、アンドロイドには機体の内部コアを探知するシステムもある。明かりがなくとも十分に活動可能であった。
    「君が彼の気持ちをまだ良く理解出来ないように、彼も君の気持ちをまだ十分に理解できないのさ。しっかりと時間をかけて話せば、分かり合えるよ。こういうときはね、ハンナ、ことを急いてはいけないものなんだよ」
     錆びた白色のチェアに腰かけていたフジが、正面のハンナにいうと、ハンナは「そういうものですか」と一言だけ返した。
     返事はしたものの、しかし実のところハンナはもうオリヴァーとは話が出来ないような気がしていた。なんせあの対応だ。ハンナとオリヴァー、どちらが悪いというわけではないが、でももうなんだか話して分かり合えるなんて遠い未来の話のようにも思えた。
    「わたしは、これからどうするべきでしょうか?」
    「何をするべきか思いつかない?」
     フジの問いかけにハンナは黙った。
    「……それじゃあどうだろう。他のアンドロイドの愛を探してみては」
    「ほかのアンドロイドの……愛を探す?」
     フジの助言にハンナが首を傾げる。
    「ハンナ、君はどうして愛を探していたのだろうか?」
    「それは……データを喪失したわたしにはわかりません」
    「……この世界には、もう正解を与えてくれる人間はいないんだよ。君の感情もオリヴァーの感情も、君自身がその感情をなんと呼ぶか、言葉をつけなくてはならないんだよ」
     人間は、何を愛と呼んでいたのだろうか。それに正解はあったのだろうか。もしも正解があったとして、ただ一つだったかもしれない正解は、海底に沈んだ砂粒の一つのようで、それを探し当てることはもう不可能である。オリヴァーの態度を理解できないハンナが、本当に彼と分かり合いたいと思っているのならまずは自分のことを理解するべきである。
     自分の複雑に枝分かれして育つ感情をひとつずつ、ひとつずつ紐解いて、理解して、それをハンナの言葉で表せなければ、ハンナ自身の気持ちが彼に伝わることはないのかもしれない。
    ──オリヴァーは、何を愛と呼んでいるのだろうか。
    「わたしと彼の愛は違うということですか」
    「君とオリヴァーだけじゃない。わたしも、君たちとは違うだろう」
     待つことが愛だと答えたフジの言葉を思い出す。確かにそれは機体に設定された愛おしいと思う気持ちとは、少し違う気がした。
    「ハンナ、君の愛はなんと言い表すのだろうね」
    「……愛は、この機体に定義されています。それ以外を愛とは呼びません」
    「もちろん、それも一つの答えだろうさ」
     向かい合った二機は互いを見つめあった。フジは穏やかな表情でハンナを見ている。ハンナはなんだかそれがむずがゆくて視線を地面に下げた。
    「……明日、もう一度オリヴァーと話してみようと思います。彼の気持ちを知りたいです」
    「それはいいね。わたしは君を応援しているよ、ハンナ」



     翌日は曇り空だった。今にも雨が降り出しそうな灰色の雲が空を覆ってしまっている。風がざわざわとざわめいて、草花が不規則に揺れる。
    「オリヴァーはどこにいるのでしょうか」
     フジの活動拠点で朝を迎えたハンナは、窓から顔を覗かせながらそうつぶやいた。それを拾ったフジが「廃墟区域じゃないかな」と返答する。ガチャガチャと何かのぶつかり合う音がしていた。ハンナが振り返ると、フジが何やら工具箱からものを出し入れしている。細かなネジや、見たことのない正方形の薄く小さな板、他にもたくさん出しては入れてを繰り返している。
    「何をしているのですか?」
    「旧友に会ってくるんだよ。ちょっと変わっているアンドロイドでさ。でも面倒見のいい機体だし、機体のメンテナンスも出来たりするから、付き合いが長いんだ」
    「そうなのですか」
    「ハンナ、途中まで一緒に行こう。わたしの目的地も廃墟区域なんだ」
     フジの申し出にハンナは首を振った。
    「……わたしは一人で平気です」
     廃墟区域の近くまで行けば、オリヴァーの製造番号の反応を辿ることが出来る。二機が連なっていく必要性をハンナは感じていなかった。けれどフジは笑って試すように続ける。
    「オリヴァーのところへ一人で行けるのかい? 記憶がないのに」
     そういわれると、ハンナは黙るしかなかった。そのあとに小さく「ではお願いします」と呟く。
     二機は用意が整うとすぐにフジの活動拠点を出た。
     曇り空を見上げてフジは不安そうに言った。
    「これは降るかもねえ、はやく行こうか。わたし、この前傘の骨組みを分解してほかのアンドロイドの修理に使ってしまったから、傘がないんだよ」
     アンドロイドの機体にはある程度の耐水性がある。雨に濡れるのも、海に入るのも決められた時間内であれば何も支障はないが、機体の修理やメンテナンスをするにもこの荒廃した世界では厳しいことも多い。壊れるリスクのあることは避けるべきである。
    「どこかで調達できますか?」
    「どうかな。あるものは大体早い者勝ちだし……まあ、降ったら降ったでどこかで雨宿りしようか。あ、大きな葉っぱで雨を凌ぐのもいいかもしれないね」
    「それは良いアイデアですが、それに適した葉があるのでしょうか?」
    「ないなら走ろう」
     それしかない、と言わんばかりにフジは言い切った。
     ハンナとフジが向かう廃墟区域は、出発地点である森林区域から最長で徒歩一日ほどかかる。目指す場所にもよるだろうが、歩き続けなければいけないことに変わりはない。
     無駄話をしている暇はないのである。フジはすたすたと歩き始めた。ハンナは半歩後ろでそのあとを追い始める。
     柔らかい草の地面を踏み進む。低木と野に咲く鮮やかな花々が揺れる場所を抜けると、背の高い木々の連なりが見えてくる。地面は獣道となり、大きな足跡が出てくるようになった。森林区域に生息している野生動物のものである。時折、機体のパーツらしき鉄の破片が転がっており、野生動物にやられたのだとハンナはすぐに察した。
     日が高くなり、雲の隙間から少しの青空が見え始めた。気温がじわじわと上がってくる。しかし風は少し冷たい、春の風であった。
     道中、大木が横に倒れて道を塞いでいた。
    「下を潜ろう」
     フジが手にしていた工具箱を勢いよく滑らせた。地面の上で砂煙を上げ、工具箱が大木の下を抜けた。そのあとをフジが四つん這いになって追う。白衣が汚れることを気にする様子はない。進んでいったフジの後をハンナも四つん這いになって追いかけた。
     大木の下を抜け立ち上がると、そこには灰色の景色が広がっていた。打ちっぱなしのコンクリート。そこから伸びる鉄骨がむき出しの廃ビルの数々。むせるような土煙が風に吹かれて舞い上がり、視界を不確かにする。
    「森林区域を抜けたね。悪いけどここからは別行動だ。わたしが向かうのは古い住宅街がある方なんだ」
     そういってフジはまっすぐ道の先を指さした。
    「この先をまっすぐ進んでいってごらん。T字路まで行ったらそこを左に曲がって」
    「フジ先生はどちらへ向かうんですか」
    「行っただろう。旧友のところだよ。わたしは危険な道を近道していくから」
    「そうですか」
     それじゃあ、とフジは一言残して駆け足でコンクリートの道を進んでいく。一番手前の廃ビルの中へとその姿は消えていった。窓ガラスがすべて吹き飛んでいるおかげか、走りながらビルの上階へと上っていく姿が見えた。よほど急いでいるのか、靴音がここまで聞こえてきそうであった。
     さて、とハンナは視線をまっすぐ前へ向けて歩き出す。オリヴァーの製造番号は知っているため、ひとまずT字路まで向かうことにした。
     歩き出して、ハンナは街を眺め見る。右を見ても左を見ても、見えるのはビルの数々。人のいなくなった世界で、ただ終わりを待つ無機物の連なり。
     なんだか寂しい気分になる光景であった。世界の流れから取り残されて、ただそこにあるだけ。
    「みんな、終わりを待つだけなのだろうか」
     気が付けばハンナの足は止まっていた。
    「わたしも、終わりを待つだけなのだろうか。オリヴァーも、フジ先生も。もう、この機体に意味はないのだろうか」
     もう誰にも使われることのなくなったアンドロイドの価値は、誰が決めるのだろうか。フジはハンナ自身が感情に名前を付けなければならないと言っていた。
     同じように、ハンナの価値はハンナがつけるのだろうか。
    「わからない。わたしも、オリヴァーのことも」
     ハンナは再び歩き出した。

     しばらく歩いていると辺りが薄暗くなってきた。日が落ちたことと、建ち並ぶビル群のせいで余計に暗く感じる。
     ハンナはフジに言われた通り、歩いた先でT字路へと突き当たった。左の道へ逸れる。コンクリートのひび割れた地面は、いつの間にやら硬い土の道に変わっていた。
     どうやら都市部の辺りを抜けたようだった。左の道は森林区域のように草木が少しずつ生えている。しかし美しい花々はなく、生命力の強い葉っぱばかりが、ひび割れた土の隙間から器用に顔を覗かせていた。
     そこをさらに進むと、再び廃ビルが見えてきた。先ほどよりも道は荒れていて、鉄パイプや、ガラスの破片が道に転がっている。歩くとパキパキ音が鳴る。
     そこでハンナはようやくオリヴァーの機体の反応をキャッチした。機体のシステムが指し示す先にオリヴァーがいるのだろう。ハンナの足は機体の反応の元へと向かう。
     走り出したハンナ。
     気配を察知してオリヴァーが逃げてしまうのではと思ったが、システムが感知した反応は動いていなかった。
     そしてハンナはオリヴァーを見つけた。
     鉄骨がむき出しの廃ビル。高さは数十メートルはありそうだ。かぶりと大きな怪獣に食べられたかのように、ビルの上階は削り取られている。
     そのビルの前、コンクリートの上にオリヴァーは立っていた。
     ただ、何もせず、ビルを見上げて立っている。
    「お前、本当にしつこいね」
     オリヴァーから声がかかった。でも振り向きもせず、こちらを見る様子もなく、ただ機体の反応を知って発したようだった。蔑むような冷たい声。明らかな敵意。
     ハンナは開口一番に謝罪を口にした。
    「オリヴァー、すみませんでした。わたしは、あなたを傷つけたかったわけではなく」
     それを遮ってオリヴァーが強く言う。
    「お前ってバカなのか。僕は言っただろう。今のお前に何を言われたって信じないって」
    「けれど、それではあなたと永遠に話が出来ません」
    「お前は傲慢だよ」
     オリヴァーが徐にこちらを振り向いた。
     無感情な瞳が、ハンナを貫いた。
    「お前、どうしてここから落ちたんだよ」
    「え」
     それが一瞬何のことだか、ハンナは理解が出来なかった。
    「どうして、こんな崩れかけのビルの上にいた? どうしてこんなところに来た。どうして……どうして、僕には何も言ってくれなかったんだ」
     今までにない表情だった。
     怒りではない。ただ、友人を失って悲しむオリヴァーの姿がそこにあった。ハンナは狼狽えていた。記憶のないハンナには答えられないのだ。
    「わ、わかりません……わからないです。わたしには、記憶がありません」
    「それじゃあ何回来たって同じだよ。何しに来たんだ」
    「……オリヴァー。すみません、わたしにはまだあなたの気持ちが良く理解できません。でも知りたいと思っています。あなたの気持ちをきちんと理解して、またあなたと話したいと思っています」
     ハンナは正直な気持ちを打ち明けた。
     フジと話して考えたこと、そうしたいと思ったこと。記憶がないハンナに出来ることを考えて、友人であったというハンナとオリヴァーに戻りたいと思ったこと。
     話せば分かり合える。気持ちを訴えれば伝わる。言葉の意味をアンドロイドははき違えたりしない。人の脳や心に代わる、模倣品のシステムが必ず正しく理解するからだ。
    ──そういう淡い期待と、驕りと、甘えがあった。
    「どうしてお前はそうやって頑なに何も語ろうとしないんだよ」
    「わたしには、記憶がなく、あなたの伝えたいことを理解するのが難しいです。記憶のないわたしでは、もうハンナとしてあなたと話すことは不可能ということでしょうか?」
    「埒が明かない」
     オリヴァーはそう言ってハンナに背を向けた。
    「どうせ、フジと話して僕の所へ来たんだろう。でも僕が今のお前に語る気持ちなんてないんだよ」
    「……そうです。フジ先生に言われました。他のアンドロイドの考えを……愛を知るのはどうだろうか、と」
    「それで? まさか僕の愛を知りたいと、それを聞きに来たのか?」
    「……そうです。今のわたしにはそれしかありません。わたしたちの思考には大きな違いがあるように思います。」
     呆れたようなオリヴァーのため息が響く。吐き出された重たい空気が霧散する。
    「僕の愛は、僕と壊れてくれることだよ」
     静かな音だった。
     愛と相反するような壊れるという単語が、静かにオリヴァーの口から紡がれたのだ。
    「帰れ」
     オリヴァーは振り向かない。
     ハンナに背を向けたまま、もうお前に言うことなどないのだと、その後ろ姿が語る。
    「帰ってくれ。もうこれ以上、僕をみじめにさせないで」



     雨が降っていた。
     ザーザーと一切の音をかき消すような、強い勢いの雨が地面を打っている。ハンナはぬかるんだ泥道をゆっくりと歩いている。
     顔から雨水が垂れて落ちた。もしも涙が流れるならこういう風に流れるのだろう。涙を流す感情は理解できてもアンドロイドに涙は流れない。涙を流すという行為は、人間にとってアンドロイドには必要のない機能らしい。もしかすると、どこか機械的な部分をあえて残して、人間との差別化を図ったのかもしれない。今となっては真相など不明であるけれど。
     来た道を戻り、ハンナがフジの活動拠点へ着いた頃にはすでに夜が更けていた。
     ハンナが戸を開けるより先に、何者かによって戸が開かれた。出てきたのはフジだ。
    「うわお。ずいぶん濡れているね、早く入って、なにか拭くものを持ってこよう」
     フジはそう言ってハンナを招き入れた後、部屋の椅子に座らせた。最初に目が覚めたときと同じ椅子だ。そのときのことを思い出す。
     機体が起動し、記憶がないハンナを見たオリヴァーは「無駄だ」と言った。静かに、けれどはっきりとハンナを拒絶したのだ。思えば、あのときからオリヴァーの心はすでに取り返しのつかない距離で離れていたのだろう。
     遠く、遠く。形として見えない離れた道の先で、ハンナを見ていた。
     どんな気持ちだったのだろうか。アンドロイドに搭載された模倣品の心は、オリヴァーにどんな感情を抱かせたのだろうか
    ──僕の愛は、僕と壊れてくれることだよ。
     どんな心を抱いたら、愛と壊れることが結びつくのだろうか。
    「ずっとそうやって帰ってきたのかい?」
     ふと顔を上げると使い古されたタオルを持ったフジが立っていた。
    「すみません。機体が傷んだかもしれないです」
    「大丈夫だよ。わたしはそういうのが得意だから。でも、ついこの前壊れたばっかりだし、念のため一通り見て見ようか」
     フジからタオルを受け取り、まずは機体の水分を拭う。十分に乾燥させて、そのあと機体のメンテナンスを行った。主電源が落とされ、次に起動したときは太陽が昇っていた。
     初期起動のときと同じように眼前にフジが立っていた。瞼を開いたハンナに柔らかい笑みが向けられる。
    「ああ、おはようハンナ。メンテナンスは済んでいるよ。機体は問題なかったけれど、機体の調子はどう?」
    「はい。記憶も問題ありません」
    「よかった。また記憶が飛んでいたらどうしようかと思ったよ」
     軽い調子で笑うフジに、ハンナは言葉を詰まらせた。
    「……ご迷惑をおかけしています。本当に、すみません」
    「ごめん、そんなに謝らないでくれ」
     軽い冗談だよ、とフジが言うがハンナが迷惑をかけていることに変わりはない。もう一度丁寧に頭を下げるとフジは優しくそれを制した。
    「いいんだよ。わたしは君と友達だし。それより、オリヴァーのことだけど……」
    「……一度、彼とは距離を置こうと思います。今はこれ以上何を話しても無駄です……そう、オリヴァーに言われました。だから、もう少し、考えてみます。オリヴァーが話した言葉の意味を理解するために」
    ──僕の愛は、僕と壊れてくれることだよ。
     一見矛盾しているような言葉。その言葉の意味を、絡まった糸を一本一本ほどいていくように丁寧に探るしかない。
    「じゃあ、何機か紹介してあげよう」
    「紹介?」
    「わたしの友達の話を聞きにいくといい。あてもなくアンドロイドを探すのは、この世界では危険だよ」
    「……ありがとうございます」
     フジがハンナに手を差し出した。握手を求めているのだ。手を重ねると点在したアンドロイドの情報が機体に流れてくる。ただの情報共有システムの一つである握手という行為。けれどなぜだか、握った掌からぬくもりを感じた。
     情報を受け取ったあともフジは手を離さなかった。不思議に思い彼女を見る。
    「ハンナ、ここで待っているから。いつでも帰っておいで」
     ぎゅっとフジの手に力がこもった。待っているよ、とハンナの手を握っている。
    「……ありがとう、フジ先生」
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