そして、君の愛を知る。2 今日も、昨日も、一昨日も、一週間前も、一か月前も、半年前も。
ずっとずっとここにいる。荒廃した世界で、いつ崩れるかもわからない部屋のなか。流れる時間は穏やかで、けれど心が安らぐことはない。
アンドロイド──ルゥは、ただぼんやりと、ベランダの遠く向こうに見える薄れた都市部の景色を見ながら、時間が過ぎるのを待っている。何をするでもない。
ただ、待っているのだ。
「お嬢様」
口に出してみると、大切にしてきた言葉は思い出に飾られていて、すでに自分から離れているように思えた。自分だけが未だに過去に縋っているのだ。未来永劫、この先も変わることのない過去に、救いを求めているような愚かな行為。
でもまだ。
まだ、消えないでほしい。
まだ、ボクの記憶の中でいてほしい。
まだ、まだ。
そう考える度、馬鹿馬鹿しい希望の夢物語だと自嘲する。
「お嬢様」
つぶやいて、ルゥは機体に巻き付けた植物に手を触れた。
お嬢様は植物を愛でるのが好きだった。そう、好きだった。それを思い出して、まだ忘れていないことに安堵して、そして絶望する。
こんな執着をいつまで続けるのか。
一日の終わりをあと何度繰り返せば、本当の終わりが来るのだろうか。考えても考えても答えなど出ない。その思考がどれだけ人に近づいても、アンドロイドは所詮機械。人の真似事が出来る鉄の塊。答えは出せない。
部屋の隅にうずくまっていたけれど、ルゥはなんだか居心地の悪さを感じて立ち上がった。日差しのせいだろう。ベランダに迫る水が日の光を跳ね返して、室内に水面の揺らめきを映している。
きらきらと、まるで宝石が輝くように煌めく室内は、ルゥのなかに蓄積された記憶そのものだ。時間が経つにつれ、記憶はどんどん美化されているように思う。
もうずっと、何年も自分を見つけに来ない幼いその子はどんな大人になっただろうか。洋服の趣味は変わっただろうか、好きなものは増えただろうか。小さな頃握りしめていたテディベアは、今もあの子の部屋の片隅に座り込んでいるだろう。いつだって大事に抱き締めていたから、今は草臥れて平たくなっているはずだ。もしかして、好きな人が出来て、テディベアの代わりにその人の手を繋いでいたりするのではないだろうか。
「なんてね」
本当はもう気がついていた。空白のノートを埋めた希望は砂上に描いた理想であることも、あなたを想っていた日々がただの空虚な文字列に過ぎなかったことも。形にならない泥を集めて一生呪いをかけるように執着を続けている。
綺麗なものも、汚いものも。
意地汚いようなその感情も、全部、全部、全部、言葉の裏に隠されて、きれいに彩られた花束のように見せかけている。
いくら言葉で着飾っても、自分にまとわりつく、じめじめして、どろどろした感情までもがきれいさっぱりなくなるわけじゃない。
どんなにきれいに見せかけていても、これは紛れもない執着だ。
ただの執着。それだけなのだ。
けれど。
それでも、本当は。
本当は、あなたに迎えに来てほしかった。
もう来てくれないとわかっていても。
それでも。
それでもあなたに、来てほしかった。
◆◇◆
たくさん走って、体を動かすための酸素を自然に取り込むことが出来ないような状態を、人間は息が切れると良く表現していた。
アンドロイドにはそのような表現が当てはまることはないが、しかしもしも今のハンナを何か言葉で表すのだとすれば、その表現がぴったりなことであろう。
ハンナは今、何者かに追われていた。否、正体は理解している。ハンナと同じアンドロイドだ。
ハンナと違うところは、何故か同じアンドロイドに敵意を抱いている、ということ。
ハンナを追いかけているアンドロイドは一言で言えば紛れもない機械だった。特殊な素材で限りなく人間の肌に近づけて作られたアンドロイドの合成皮膚が、爛れたようにめくれて、黒い骨組みが顔を覗かせているのだ。
顔の半分は、人間のように整っているとは言い難かった。鉄の骸骨は外気に晒されており、恐らくこのままでは重要なデータや記憶装置まで壊れてしまうだろう。
伸びきった樹木の枝や葉が生い茂る獣道を、一切速度を落とすことなく二機が駆けていく。
「待っテ、行かないデ」
ノイズを発して、壊れかけのアンドロイドがハンナへ手を伸ばした。
「おいて行かないデ、おいて行かないデ」
ハンナは振り返ることなく走り続ける。
「迎えに来てくれるっテ、言ったのニ!」
止まることは危険だと、機体のシステムが判断していた。リアルタイムでスキャンした地形データを活かして、壊れかけのアンドロイドから距離を取ろうと、ハンナはあえて不安定な道を選んだ。
背後のアンドロイドからどんどん距離を離していく。固い土を踏みつけていたはずの足は、いつの間にか足首程度まで浸水していた。それでも構わず駆け抜ける。
しばらく走ったあと、パシャン、と水しぶきをあげてハンナは足を急停止させた。
ハンナの背を睨み付けていたアンドロイドは、少し前から反応を消している。アンドロイドがよほど執念深くなければ、今のハンナは逃走成功と言えるだろう。
ハンナは周囲を確認する。陽気なダンスをしているかのように奇妙に枝を伸ばしたマングローブの木、蔦の絡まる崩壊したコンクリートの居住地と思われる残骸。日差しは水面できらきらと反射している。不安定な道を選び続けた結果、どうやらハンナは森林区域と水没区域をまたぐ境界の辺りにいるようだった。
ここからどうしようか。道を戻れば先ほどの機体と鉢合わせる可能性も高い。やはりフジの助言を素直に聞いて、提供してもらったアンドロイドを探せばよかった、とハンナは少し後悔した。
オリヴァーの気持ちを知るため、愛とは何かを再び探し始めたハンナにフジは手を貸してくれた。知り合いのアンドロイドを数機紹介してくれたのだ。紹介と言っても、機体の製造番号とどんなアンドロイドなのかを教えてもらっただけだ。記憶のないハンナにとっては、それはとてもありがたいことで、けれどそう思う反面ハンナはフジの知り合いに頼ることに躊躇していた。
フジの話から浮かび上がったアンドロイドは、どれも一癖も二癖もありそうな機体ばかりであった。どのアンドロイドについてもフジは一様に「悪いアンドロイドじゃない」と話の最後に付け足しており、会いに行くにはどうにもハードルが高かった。
話の中で一番話しやすそうだ、と感じたアンドロイドさえ、ほかのアンドロイドの印象に引っ張られてしまい、そのアンドロイド像を疑ってしまう。
会いに行こうか行くまいか、悩み、ただ無意味に歩き続けていた結果、ハンナは先ほどの壊れたアンドロイドに追いかけられる始末である。おまけに逃げようと走り続けた結果、機体の足首が浸水してしまうような場所に迷い込んだ。
地形データをスキャンして、ひとまず水気のないところへ向かおうと考えたが、道を戻れば再び襲撃まがいのアクシデントに遭うリスクは高く、かといってこのままでは機体に不具合が起きてしまうかもしれない。
と、そこでハンナは気が付いた。
スキャンしたデータに何やらアンドロイドの反応があった。ハンナの知るアンドロイドではない。機体のコア反応がじっと動かず、そこにある。
そのアンドロイドが気になった。動物の気配すらない、朽ちていくのを待つだけのこの場所でただじっとしているアンドロイド。
ハンナは機体の反応がある場所へ歩き出した。
ちゃぽちゃぽ、水の音とともに反応のある場所へ向かう。相手の機体が正常に作動していれば、得体の知れぬアンドロイドが近づいている、ということだけは理解できるはずだが、どれだけ距離を縮めても、目標の反応は動かなかった。
歩いていくと、水嵩がどんどん増していく。水深は足首が浸かる程度から膝が隠れるほどまで深くなっていた。
浸水を避けようと、崩壊した居住区の残骸の上を歩く。しかし目標へ近づけば近づくほど、進めば進むほど、水量は増え、建物すら沈むほど深くなっていた。ぬかるんだ水中の土を踏みつけていたハンナの足は今、横倒れになって今にも全壊しそうな邸宅の外壁の上にあった。立ち止まって、水中に視線を落とす。
──これは、さすがにダメかもしれない。
明確な基準はない。機体には耐水性があり、全身が浸かってもある程度は問題がないように設計されている。けれど今、もしもが起こって壊れてしまっては困るのだ。
──引き返そうか。
そうも考えたが、それよりもこんなところでじっとしているアンドロイドへの興味の方が勝った。
──まるで、壊れることを待っているような。
そう思うと、オリヴァーを思い出す。
何も得ていない今のハンナが彼のことをいくら考えようとも無駄なのに、けれどどうしてもふいに思い出す。馬鹿なやつ、とハンナを罵った彼が浮かんだ。
はあ、と気持ちを入れ替えるように深呼吸をした。といっても、アンドロイドには呼吸など無意味であるし、肺があるわけでないから実際に空気を吸い込んでいるわけではない。涙は流れないのに、呼吸の真似事は出来る。人間はとことん不思議な生き物だ。泣くことと息をすることに、機能的な差はあるのだろうか。さして意味のないこだわりにしか思えなかった。
足を踏み外さないようハンナは慎重に歩みを再開させる。
そうして目と鼻の先に、目標の反応を捉えた。
最初に見えたのは屋根だった。青い塗装が錆びの間で見え隠れして斑模様になっている。次にベランダが見えた。浸水するぎりぎりの高さまで水が迫っている。外気と室内を隔てるガラス製の戸。そこから中の様子が伺えた。
中は物が散乱しているようだった。倒れた姿見、追いやられた椅子、使われていない鏡の割れたドレッサー。肝心のアンドロイドの姿は確認できそうにない。けれど反応は動かずそこにあった。
器用に屋根へと移動して、そこからベランダへ静かに降りる。ゆっくりと室内へ足を踏み入れた。
アンドロイドの後ろ姿があった。
部屋の隅でうずくまっている。ハンナに気がついているのか、いないのか。わからないけれど、そのアンドロイドは動かなかった。
──壊れているのだろうか。
機体の主電源がついていても、システムや稼働パーツに不具合があれば、ハンナに気がつかないことも納得できる。
アンドロイドの後ろにしゃがみこんで、肩を叩いた。
「みつけた」
アンドロイドの肩が揺れた。
ゆっくりと振り向く。恐る恐る、ぎこちなく体が動いていた。
目が合ったアンドロイドは泣きそうな表情をしていた。瞳が揺らいで、でも、待ち望んでいた瞬間を体感したように、悲しそうには見えない。その表情にハンナは戸惑った。泣き出しそうで、嬉しそうで、しかしなんだかさみしそうに見えたのだ。
なんと話を続けるべきか迷っていると、アンドロイドはすぐにハッとして、そのあと残念そうに「こんにちは」と言った。
「こんにちは」
とハンナが返す。
「アナタもかくれんぼをしているの?」
「かくれんぼ?」
「そう、かくれんぼ。しらない?」
「知っています。やったことはないけれど」
ハンナがそう言うとアンドロイドは「そう」と一言だけで会話の流れを断ち切った。
──顔に、花が巻き付いている。
ハンナは、眼前のアンドロイドの顔を覆う花を見た。左目を隠すように、一輪の花が咲いていた。しかし機体から生えているわけではなさそうだ。奇妙なことだが、自分でそうしたのだろうと推測できる。そうじゃなきゃ、すぐに顔からはがすはずだ。
けれど一体なんのために? 眼前のアンドロイドへの興味がより一層高まる。
「わたしはハンナです。あなたは?」
「ルゥ」
「ルゥ、もし良ければあなたの話を聞かせてもらえませんか?」
「いいけれど、静かにね。お嬢様に見つかってしまうから」
ルゥと名乗ったアンドロイドは人差し指を唇にあててハンナを制した。かくれんぼ、といっていたルゥの言葉を思い返す。
「何かから……お嬢様、から逃げているのですか?」
「違うわ。お嬢様のかくれんぼに付き合っているのよ」
「……なるほど、では、静かにお話しします」
部屋の隅、陽の当たらないそこで二機は横に並んで腰を降ろした。
「話って、ボクの何を聞きたいの?」
「いろいろです。わたしは今、オリヴァーという他機アンドロイドと仲違いをしてしまい……すこし、困っています」
「ふうん。オリヴァーってだれ? アナタの友達?」
友達。そう、友達のはずだ。
少なくとも記憶を失う前のハンナにとっては、紛れもなく大切な友達だったはずだ。けれど今はどうだろう、ハンナにとってオリヴァーが友達でも、オリヴァーにとってハンナは友達とは言えないのだろう。
「友達……ではありません。そうなりたいとは思っています」
「じゃあ知り合いね」
「知り合い……とも、違うかもしれません」
口に出してみて、その違和感に気がつく。
──わたしとオリヴァーは、今、なんという関係なのだろうか。
友達ではない、知り合いでもない。けれどオリヴァーはハンナのことを知っていて、ハンナはオリヴァーのことを知っているとは言えない。
フジは記憶があってもなくても、ハンナはハンナだと言ってくれたが、オリヴァーはそれを否定した。
もしも、もしも友達だったら、オリヴァーはハンナを受け入れてくれたのだろうか。フジと同じように、記憶がなくてもハンナはハンナだと言ってくれただろうか。
そんな風に、もしもばかりを想像する。
でも、そうであってほしい、という願望混じりの想像を肯定してくれるアンドロイドはいない。
「まあ、そもそもの話、アンドロイド同士がトモダチっていうのもおかしな話だけれどね」
「えっ」
「だってそうじゃない。トモダチっていうのは人間同士に使うための言葉なんだよ」
「……それは、確かにそうですが」
そんな風に言われては、ついにハンナとオリヴァーは何者でもなくなってしまう。
人間でもない、友達とも呼べない。ただの機械と機械。エラーを繰り返して、誤作動を起こしたまま動き続ける壊れた機械。
現実から目をそらすようにハンナは話題を変えた。
「……あの、ルゥはどうしてかくれんぼをしているのですか」
出会ってからずっと気になっていたことだった。
「お嬢様のかくれんぼに付き合っているのよ」
「いつから……?」
「もうずっとよ」
ルゥの言うお嬢様というのは、つまるところルゥの管理所有者のことだろう。もしくはその家族かもしれない。しかし人類はもう何年も前に滅んでいる。
ハンナのようにメモリーを損傷したりしていなければ、それは事実として理解しているはずである。
「その、お嬢様は……」と、言いかけてハンナは言葉を止めた。愚問だからだ。人間は全て例外なく滅んだのだ。それは紛れもない事実である。
ハンナは盗み見るようにルゥの目元に視線を流した。機体のランプは青く点灯している。正常な証拠だ。
壊れているのではない、ルゥは望んでここにいるのだ。それを理解した瞬間、ハンナは苦しい気持ちになった。同時に疑問が生まれる。どうして待ち続けることが出来るのか。
「あなたはずっとここで、お嬢様を……その人を待っているのですか?」
「そうだよ。今はボクが隠れる番だから」
待っている、という言葉でハンナはフジを思い出した。フジが話していた、フジの考える愛の話。
本心をさらけ出せるようになるまで待つ。それにはどれだけの時間がかかるのだろうか。もしかすると、途方もない時間を費やしても、本心を聞くことなんて出来ないかもしれないのに、それでも待つというのがフジの愛。
凄くさみしい気持ちになった。
いつか話してくれる。いつか来てくれる。ずっとずっと盲目的にそうやって信じることが出来るのは、結局のところ、ハンナ達が機械の枠を出ないからではないだろうか。どこまで進んでも、アンドロイドは人の心を模倣しているに過ぎないのだ。
「さみしくはないですか。……待つことは、辛くはないですか」
問いかけると、ルゥがすっと顔をそらして遠くを見た。
「アナタはこの世界を歩いてみた?」
「え」
急な質問にハンナは不思議に思いながら答える。
「……多少は歩きました。けれど、全てを知っているわけではありません」
「そう、この世界はね、夕日が遥か遠い水平線の彼方に沈んで、そして辺りに闇をもたらすの。静かに、水底へ意識が落ちるように。けれど全てが暗闇に包まれても、星の瞬きがボクたちを見守っているんだ。そうして朝日がゆっくり浮かんでくる。ボクたちはそれを信じてるんだ。はやく昇れと願いながら、そうであれと、そうあるべきだと手を伸ばし続けている」
ね、とルゥが一度こちらを見た。しかし再び窓の向こうを眺めてしまい、待てどもそれ以上ルゥの口から言葉が語られることはない。
「えっと……それは、たとえ話でしょうか?」
「シッ、静かに。隠れているのがバレちゃうでしょう」
「すみません」
小声で返して、ハンナも窓の向こうを眺めてみる。
ベランダのすぐそこまで差し迫る水。風が吹かなければ水面は鏡のように景色を写し出すだけ。ぼうっと眺めると、オリヴァーの存在が電子脳裏を掠める。けれど再生されるのは、ハンナを拒絶した彼の姿だけ。
「アナタはさっき、オリヴァーは友達じゃないって言ったでしょう」
不意に、思考を読み取られたように話を振られて、わずかに反応が遅れた。
「……はい、そのように考えられるからです」
「知り合いでもないんでしょう」
「…………そのように、思います」
「じゃあ別に、仲直りも何もないじゃない」
淡々と告げられて、ハンナは何も返せなくなった。
「どうして、そのオリヴァーというアンドロイドと友達であることにこだわっているの?」
「それは……わたしとオリヴァーはもともと友達であったのです。けれど、わたしの……わたしが記憶を喪失したために、彼の記憶を失くし、彼はそれに怒りを抱いているようでした。わたしは、記憶を失う前の交友関係を取り戻したいと考えているのです」
けれどオリヴァーはそれを拒絶した。それも明らかな敵意を持ってそうしたのだ。
「アナタ、記憶がないの?」
「はい、ビルから落下したのだと教えてもらいました」
「それをオリヴァーは怒っているの?」
「……オリヴァーの考えは、良くわかりません。けれど、それはオリヴァーも同じなのだとあるアンドロイドが言いました。わたしがオリヴァーの考えを理解出来ないのと同じように、オリヴァーもわたしの考えを理解出来ないのだと」
「そう。でもそれならなおさらオリヴァーにこだわる理由がわからないね。だってアナタにはオリヴァーの記憶がないんでしょう。記憶がないなら知らないも同然なのに、どうしてそこまで彼との関係を回復させようとしているの? この世界はアナタとオリヴァーだけじゃないんだよ」
「それは……」
この世界はハンナとオリヴァーだけではない、そんなことはわかっている。
──わかってはいるけれど。
ハンナはその先の言葉を続けることが出来ない。歯切れの悪いハンナの言葉で会話が途切れた。
会話がなくなった部屋はとても静かだ。二機が並んで座り込んだまま、時計の秒針の音すらない部屋は、ひっそりと時間だけが過ぎていく。
「……たしかに、あなたの言う通りかもしれません。けれど、オリヴァーと話して、わたしは彼の愛を理解したいとも思ったのです」
「彼の愛?」
「オリヴァーは自分と壊れてくれることが愛だと言ったのです
」
ハンナにとってそれは、機体に染み込む「愛」とは真逆の答えだ。なにをどう解釈すれば、その答えにたどり着くのかわからない。けれどそれを否定したくはない。ハンナはまだ、彼のことを知らないだけだから。
だからこそ、ハンナは知らなければならないとも思う。自分だけじゃない、たくさんの愛を知るべきだと。
「……ルゥの考える愛は、どのようなものですか」
「……おとめ座の一等星スピカは知っている? 水没区域から外れた場所にある、沈没船の鼻先から南西を見上げた空にある星のことだよ」
「その星は知っています。でもその場所で見られることは知りませんでした」
「夜空に輝く星の瞬き、見上げた空に浮かぶ美しい宝石。他にもたくさん輝く星はあるけれど、ボクはそれを選ぶんだ」
紡がれた言葉にハンナは耳を傾ける。
先程と同じだ。ルゥはなぜだか話をはぐらかしているように感じる。
「でもあれはただの核融合反応だ。何も知らないから、綺麗な言葉で形容できてしまうんだね」
そう言うとルゥはまた口を閉ざす。それ以上がルゥの口から語られることはない。
「……ルゥは、どうしてスピカを選ぶのですか」
一歩、内側へ踏み込むように尋ねる。
「……」
ルゥと視線は合わない。
「他の星でもいいのに、その星を選ぶのは、きっとわたしと一緒です」
「一緒じゃないよ」
「一緒です。だって同じ星はない」
先程は口にできなかった言葉が今はすんなりと出た。
「……静かにして。お嬢様に見つかっちゃう」
ルゥの小さな呟きがやけに響く。
「違うのですか」
「……違うでしょ」
そっぽを向いたままのルゥ。その横顔を見て、ハンナはなんとも言えぬ気持ちになる。けれどルゥが違うというのならば違うだろうし、話したくないルゥの気持ちを少しばかり理解した気になって、ハンナは会話を続けることをしなかった。
──同じ星はない。
自分で発した言葉を口のなかで反復する。答えをひとつ見つけた達成感と、必死にオリヴァーへ近づこうとする執着心に気がついて、ハンナはなんだか余計に困惑した。
「友達って、なんなのでしょうか」
ぽつりと溢した言葉に、ルゥが振り向く。
「わたしは、互いに心を許しあい、対等な関係を築いた間柄のことをそう呼ぶのだと考えていました。それが機体に設定された友達の意味です。けれど……」
また、言葉が途切れる。言いたいことも、聞きたいことも、わからないことすら言葉としてまとまらない。
「ルゥはどのように考えていますか?」
乱雑になげうった質問に、ルゥはしばし沈黙したあと静かな声で問う。
「ボクはこの一瞬でアナタを愛した、 そう言ったら信じてくれる?」
視線が自然と混じりあう。見つめたルゥの表情から感情を読み取ることは難しい。けれど真っ直ぐと向けられた視線に、ハンナは居心地の悪さを感じた。何もかも見透かされているような、機体の全てを暴かれたような恐ろしいまでの不安。
逃れるように視線を床へ落とす。黙るハンナに、ルゥが続ける。
「……ボクはわずかな間でも、長い時を隔てたとしても、今このひととき、ボクと言葉を交わしたアナタのことを、友として愛おしく思うよ」
「ルゥ、わたしは……」
そのとき、バシャンと遠くで何か水の音がした。視線が外へと吸い寄せられる。ルゥも同じように外の方を見て、そして立ち上がった。
ベランダに波が押し寄せる。
ざぶん、と飛沫をあげて落下防止用の格子の隙間を流れた水が室内を侵食した。
ハンナも慌てて立ち上がる。室内に薄い水の膜が張った。
「きっとどこかの建物が崩壊したんだね」
ルゥはまるで日常の出来事のように言って、壁に背中をつけてもたれかかった。
「よくあることなんですか?」
「この辺は……もう、沈むのを待つだけだから」
そう話すルゥの横顔はさみしい。まるで自分のことを話しているように、言葉に感情が乗っている。
室内を満たした水面には、二機の姿が映っている。ぼんやりと、その輪郭が揺れている。
「ここにいるのは危険ではないでしょうか? いずれ、この建物も沈むはずです」
「そうだね」
「わかっているのならば、ここから出ましょう」
「かくれんぼをしているのに、途中で隠れる場所を変えるのはルール違反でしょ」
「だって! ルゥ」
「アナタはもう帰りなよ。アナタにはあるでしょ、帰る場所」
視線がかち合う。
「でも、ここにいては」
引き下がるが、ルゥはハンナの言葉を聞きはしない。
室内が橙色に染まり始める。
ベランダの遠く向こう、水平線の彼方へ真ん丸の夕日が沈み始めていた。
「大丈夫だよ、ハンナ。すぐに沈むわけじゃない。ボクはいままでも、ずっとこうだったんだから」
黙ったまま動かないハンナを気遣ってか、ルゥはそう言った。暗くなる前に帰った方がいいよ、と付け足された言葉に、ハンナは静かに頷くしかなかった。
「わかりました……今日は突然押しかけたにも関わらず、ありがとうございました」
「気にしないで、ハンナ。……さようなら」
来たときと同じように、ベランダから屋根へと移動する。振り返らずとも、ルゥの機体の反応はずっとそこにあることがわかった。
どんどんルゥが遠くなる。
いつか、ルゥはこの場所で水の中に沈んで行く。いつか沈むこの場所で、主が見つけてくれるのを待っている。
寂しい。きっと、寂しい。
それはハンナの勝手な思い込みかもしれない。ルゥは、本当はそんなこと思っていないのかもしれない。けれど、どうしても寂しさが募って、ハンナは踵を返した。
屋根の上を走ってベランダへと飛び降りる。バシャン、と水飛沫が跳ねて、部屋の中にいるルゥが振り返った。
「ルゥ!」
──これは彼女を呪う言葉だろうか。
──彼女をここに縛りつけてしまう言葉だろうか。
一瞬迷い、けれどハンナは声を張り上げた。
「絶対! また来ます!」
だから待っていて。
そう続けたハンナに、ルゥは優しく笑った。
「見つけてくれてありがとう、ハンナ」