idle talk in the elevator 1夏が終われば秋が来る。
四季の移り変わりは当然のようにやってくる。
この国でのアイドルにとって、季節が移り変わることは、仕事が舞い込みやすくもなるのと同義だ。
「それでは葵ゆうた、お先に失礼しま〜す!お疲れ様でした!」といまや日課になった挨拶に加えた敬礼をしながら事務所を出れば、スタッフの皆は笑いながら返礼をくれる。
「今日、ひなたくんは直帰なんだね」
「そうなんですよ。代わりに俺が今度の仕事のスケジュールやらなんやら受け取りに来たんですが……お陰様で嬉しい悲鳴ですね」
同じように外に出た事務のひとと世間話をしつつ、そのひとが呼んだエレベーターを待っていると、ピンポーンと間の抜けた音で到着を知らせた。
「お先にどうぞ〜」
「ありがとうございます」
荷物を両手に抱えたそのひとのために扉を押さえれば、笑顔と会釈が交互に返ってくる。
広いようで狭い箱の中には先客が居たようだ。
端に寄って『開』ボタンを押している人物を認識したゆうたやそのひとより先に、社会に叩き込まれた挨拶をその人物は笑顔で口に出した。
「お疲れ様です!」
狭い箱の中に響き渡る大変明朗な声だった。
くすくすと好意的に笑った事務のひとにぺこりと頭を下げて、「何階だろうか。荷運びの手伝いは不要だろうか」と矢継ぎ早に訊ねる。
上階フロアに居を構える『スターメイカープロダクション』に所属するALKALOIDのリーダー、天城一彩は事務所が違うスタッフにも別け隔てがない。彼の謹厳実直はアイドルのみならずスタッフたちにも多く知られており、ゆうたが知る限り悪く言う人間は見当たらない。仕事柄、荒んだ人間関係に直面しがちな彼らには汚い言い方をすると“ウケ”が良いらしい。
「ゆうたくんにも言ったんですがこれは軽いものなので全然大丈夫ですよ」
「そうか。それは差し出がましかったかな。またなにか困ったことがあったら声をかけてほしい。いつも世話になっている分、役に立ちたい。僕は体力が有り余っていると言われるくらいだから肉体労働には自信があるから!」
こういうものは本音がどうであれ、それらしく見えるのが重要だ。
相手に不快を与えず、こいつは“イイモノ”だから友好的にしておこう、と思わせもの勝ち。仕事の営業はだいたいそういうものだ。生存戦略のひとつ。働いている人間だけではなく、どこにでもあるやりとりでもある。
しかし、胸を張った一彩からは打算のにおいがしない。心からの言葉に見える。
これが本当は社交辞令で言っているのだとしたら、大層腹芸がお上手だ、と拍手してしまいそうだった。
だが、これが天城一彩という人間なのを少なからず知っているゆうたは「一彩くんってばまーたスタッフさん口説いてるんだー」とからかうに留めた。
大真面目に「そんなつもりはないよ!」と期待通りに返してくれて、ほっとした。
ずっと楽しげに笑っていた事務のひとがじゃあわたしはここで、と数階下に降りた。お疲れ様でしたの言葉に、二人で会釈した。
順調に下へ向かっていく中、片手に下げられた大きな紙袋に一瞬目をやる。
「ファンレターを受け取りに来たんだ」
「そっか。一彩くんはそれで仕事終わり?」
「ウム!ゆうたくんもかい?なら一緒に帰ろう」
「いいよ。あ、ご飯どうする?」
「椎名さんから連絡があったから部屋で食べるよ。ひなたくんも夕飯は部屋でと今朝話していたんだけど、ゆうたくんも一緒にどうかな?」
にっこりとした満面の笑みから放たれた発言はゆうたの頭を撫でた。髪の流れを反対からゆっくりなぞるようなそれは、なんだか不快な感覚だった。
寮生活をするようになって物理的に離れて暮らすようになってから、たまに起こるもやついた気分をやり過ごす。
「……それならご相伴に預かろうかな」
「ウム!椎名さんに連絡しておくね!」
たどたどしく端末に文面を打ち込む彼から別のところへ視線を移す。箱の中に表示されているパネルの数字がみるみる若くなっていく。
到着する少しの間をもたせるために世間話を振った。
「……そういえば一彩くんって燐音先輩と喧嘩とかしないの?」
「ウム?しないよ」
「即答!?」
端末の画面から顔を上げた彼の間髪入れない回答に驚かされた。
「意見の相違はあるよ。しかし、兄さんは僕よりも先に“ここ”で生きているのだから、優先順位が昔と異なるのは理解しているつもりだよ」
「クールすぎる……」
「僕には僕の、兄さんには兄さんの営みがあるからね」
あわよくばあの野郎の弱味でも握れやしないか、というちょっとした下心から聞いたせいで、何故か申し訳ないことを聞いてしまった気分になった。
「あんなに元気いっぱい愛してるよ!攻撃してるものだから、うん……」
淡々と返してくる一彩は歯切れの悪いゆうたをじっと見つめるとひとりごちるように呟く。
「……あれはわざとやってるときもあるんだ」
「ほほう?」
「僕にもこの野郎と兄さんに思うときが結構あるんだ」
「結構あるんだ……」
どうにも世話を焼きたくなる性質がある彼は見に覚えのある表情で静かに笑った。
「あるとも。だから、ゆうたくんへの答えは、“これから喧嘩はするかもしれない”が正しい」
「俺たちもひとのことはあんまり言えないけど、言葉にして伝えるって大事だよ。……それがちゃんと思う通りに受け取ってもらえるかは別だけど」
寄せては返す波のようにどうしようもない感情が生まれる。
自嘲が浮かんだゆうたにそっと秘密を打ち明けるような小さな声で訊ねてくる。
「……ゆうたくんになら話してもいいだろうか」
「なんだか不穏な言い回しだなあ」
「ふふ。“兄”という心持ちを矜持にしているひとには内緒にしておきたかったからね。……僕は自分の“独り善がり”を恥じていて、兄さんは“あの頃の僕”に合わせる顔がないんだよ」
「あの頃の……昔の一彩くん?」
「ウム。正確には“故郷においてきてしまった僕”かな……兄さんにとってきっと郷愁を覚えることはやっとできたかさぶたを掻きむしるようなものなんだろうね……僕と思い出話をしてくれやしない」
「あー……うん。なんとなくわかるかも」
ひなたが優しい思い出として懐かしむこともゆうたにとってそうであるとは限らない。これはどんな人間にでもあてはまることだ。
人として生きる上で避けては通れないものだ。
「ゆうたくんとひなたくんでもそういうことがあるように、僕と兄さんとでは見てる視点が違うんだろう。言葉の端々にそれを乗せているというのに兄さんは自分がそうなら僕もそうだと思いこんでしまうことがある」
「あの人、そういうところあるよね」
「あれは落ち込むというよりは失望されているといったほうが正確かな。僕は頭が固いからなかなかどうして問答がうまくできない」
むう、と唇を突き出して拗ねてみせるいたいけな仕草とは裏腹な自分を排除した客観性に少しばかりぞっとする。
「お兄ちゃんって身勝手だよね。頼んでないのに」
「そういう生き物らしいからね。習性なんだろう」
「それ、誰から聞いたの?」
「プロデューサーだよ」
「……ああ、なるほど。納得した」
どこかおかしい人間を誰かのあこがれへ変身させることのできる彼女のそこにいるはずなのに実像を結ばせない空気を思い出しながら苦笑した。
「プロデューサーは不思議なひとだよね」
「うん。それはもう」
「彼女はなぜあそこまで献身的なんだろうね。なんだか強いなにかを感じるよ。僕もひとのことは言えないように見えているだろうけど」
少ない瞬きのなか、じっとこちらを見つめられると背筋が伸びる気がする。
冷静な判断力を持っている、というのは聞こえの良い言い方だが、悪い言い方をすると人間味がない。
自分たちの在り方へ口さがなく罵る輩から見れば“化け物”じみている。
(うーん。なんかやっぱりここって人外魔境だよね)
俗世間とは切り離された生まれ育ちの人間も多いことからうまく紛れられるのは僥倖というべきか、なんというべきか。
「一彩くんって理論派だよね」
凪いだみずうみに波が立つ。
「事実から得られるデータは大事だろう?……人を慮ることはひどく難しくて、よかれと思うことを言うと誰かを傷つけてしまう。これでも学んだんだ。……そうしたら今度は思ったことを全部口に出すな、なんて言われてしまったよ。本当に難しいよ」
しぱしぱ瞬いて、目を泳がせた彼は眉を下げた。
(ああうんこれは“生粋の弟”ってやつだ)
これはそうすることが当たり前に許されていた証拠だ。天性のものだ。
本人にそんな意図はないのがまた憎らしい。ふとした言動が庇護欲やら親心やらを駆り立ててくる。脳裏に浮かんだ自分の“アニキ”は自分以外にも割と面倒見が良いことは知っている。
特に同室となったこの天城一彩には何くれと世話を焼いているのが端々から感じられる。なんなら見せつけられたことさえある。
入れ替わりをしたときに「ああうんこれは仕方ない」と納得はしたけれども。
彼と同じ空手部に所属しているひとりっ子のはずの鉄虎も「部長、部長とまっすぐ懐かれるのは気恥ずかしいけど嬉しいッス。それになんだか放っておけないんスよね、一彩くん」、なんて言っているのを聞いたことがある。彼と親しくしている人間は口を揃えて「いい子」だと評する。
彼は怖いほど素直で、自分の足りないところがあれば、不足を詫びる。自分の弱さを認めることも厭わなければ、他人への助力を乞うのも躊躇わない。そしてなにより他者を優位に思わせるような素振りをする。
謙虚と多くは捉えられているから好意的に接してもらえている。
一を理解すれば、誰もが考えるよりずっといい結果を出すのだから、あれやこれやと彼に与えたがるのだろう。
それがどことなく自分たちの……いや、Ra*bitsの生存戦略に似ていた。
「折角、気にかけてもらえているのに、期待に答えられないのはくやしいよ」
(これが弟なら今の燐音先輩が“ああ”なるのも少しはわかるかも……俺もちょっといいなぁ、って考えちゃう。考えるけど“こう”はなれない)
本人に聞けばいいものをゆうたからあの手この手の根掘り葉掘り聞き出そうとした、いつかのことを思い出す。
捻れて拗れてしまった糸を弄くり回しているみたいだ。
これが知恵の輪だったらよかったのに。必ず解く方法があるから。
でもそうじゃない。人間って面倒くさい。愛って重苦しい。
好きでも大事でも憎らしくなる。
どうでもよくなんて、無関心なんかではいられない。
だから、ちぐはぐになるのだ。
弟への害意はどんな犠牲を払ってでも根絶やしにすると言いながら、表立って構おうとしない様はまるで――まるで、思春期のティーンエイジャーみたいだ。
目を閉じても白く焼いてくる陽の光。
そこまで考えてしまうと、つい最近暴れがちな情動が呼び起こされそうになる。
細く長く息をついて口の端を緩めた。
「……人間ってややこしいよね」
「そうだね……十人十色とはよく言ったものだと思うよ」
目的地である1階に到着した。狭い空間から広々としたエントランスに開放され、思わずぐっと背を伸ばした。軽い世間話のつもりが、とんだ藪蛇になってしまった。
定時で上がる人も居れば、忙しくエレベーターに乗り込んでいく人も居る。
その横を通り過ぎながら、現在の“家”へ向かう。
「あ!椎名さんからメールだ!」
(一彩くんが独り善がりだっていうけど、生きている人も死んでる人もみんなおんなじところあると思うけどね……ん?ということは燐音先輩への距離感、見極めてやってるってことだよね?)
そこまで考えてしまったゆうたの頭には縄張りに入り込んだ相手を品定めする野生の動物の姿が浮かんだ。
(ほぼ無自覚でやってそうな気もするけど、さっきの話を聞いちゃうとなんかちょっと……)
いつだか抱いた『なんかちょっと怖い』という印象が『みんなに見せている天城一彩』に滲んだ。
「ゆうたくん」
「えっ、なぁに?」
「内緒にしてね」
こちらを振り返る彼にはっと我に返る。
今日のメニューは麻婆豆腐だよ、と同列にお願いだよ、と言った一彩の顔はエントランスに差し込んだ夕日の光を背にしていたせいでよく見えなかった。