喧嘩するのって難しい「お前さァ……せっかくの仕事のチャンス、棒に振るほど儲けてンの?」
「それは……」
兄の呆れたと言わんばかりのため息に一彩は言葉に詰まってしまった。
わかっている。自分は駆け出しの人間だ。仕事を選り好みするのは良くない。だが……譲れないものは譲れない。それが尊厳であり矜持というものだと今の一彩は知っている。
「それでも僕らは取捨選択をするものはした方がいいと思ったんだ。あの人が持ってきた話は僕には不審にしか見えなかった」
「あの企画書読んでそう思うとか終わってンな」
「兄さんこそあの企画書を読んで受けようというのかい?」
「あ?」
「あんな……僕らを見世物にした内容……」
「ギャハハ!お前、俺っちたちはそもそも見世物だろォが!今更何言ってんの?」
「……兄さんはいいの?」
「いいもなにもナイね。プロならちゃんと見極めろよ。俺っちはイイ、オメェがダメなら……考えろ」
違和感が強くなっていく。噛み合っていない。ちがう。伝えたいことはそうじゃない。
一彩が言いたいのは自分たちのアイドルとして売り出していない部分、『兄弟』というものを売り物にするのが、嫌なのだ。そう言いたいのに言葉がうまく紡げない。
「……わかった。今回は僕が折れる。先達に従おう。兄さんの言うとおり、せっかくの仕事の機会だものね」
「お………まえ!まったく成長したかと思えば3歩下がりやがって!本当そういうとこアレだよなァ!」
「人に仕事の選別できるほどなのか問うたのは兄さんだろ。論理がめちゃくちゃだ」
「……思考停止した回答にしか聞こえねぇんだけど?」
「そうかな。別に兄さんに唯々諾々と従っているわけではないよ。先にアイドルとして仕事をしてきた経験のある『天城燐音』の意見を尊重したまでだよ。だから僕も考えた末、結論を出している」
「……」
「それとも何かな?僕の意見に反射で反論でもしたのかい?兄さんに限ってそんなことはないだろうけど」
「……もういい」
「は?」
「もういいよ。俺が悪かった」
「ど……どうしてそうなるんだ!ちゃんとした理由を教えてほしい!」
「はァ……メンドクサ。こんなことお前が気にすることじゃねェだろ」
呆れ混じりのため息と共に吐き出された言葉が脳内に響く。
『お前が気にすることじゃない』、『面倒臭い』、『お前本当にそういうとこアレだよな』。
ぐわんぐわんと銅鑼を打ったときのようにリフレインがこだまする。
「なぁ、弟くんさ」
「……これではだめだ。頭を冷やしてくるよ」
「はァ?ちょっとま……」
兄がまだ話している最中なのに部屋を飛び出してしまった。
廊下の椅子のあるスペースで駄弁っていたらしいひなたとニキが走ってくる一彩を見て手を上げた。
だが、それに反応する余裕はない。
「ごめんよ!」とだけ告げ、横を駆け抜ける。ぎょっとした顔をきていた二人の姿を振り返れない。後ろから「待て!」という声が聞こえたからだ。まだ遠い。
「一彩くん!?どこ行くの!?」
「あっ、燐音くん!弟さんに何したんすか!?」
ぐっと歯を食いしばって、自分の脚に力を込めた。
二階から三階へ駆け上がり、一番遠い階段へと向かう。
「廊下を走るな!」
書かれている文言と一字一句変わらぬ怒声をあげた寮監にも「ごめんなさい!」と伝えるが、一彩の脚は止まらない。止められない。目的地へ視線を向けると「オイコラ逃げんな!」と怒った顔をした兄が現れた。やはり先回りをされた。
くるりとその場で回れ右をし、階段の手摺に脚をかけた。
「何するつもりだ貴様!」
「蓮巳先輩ごめんなさい!お叱りは後できっちり受けるから今だけは勘弁してほしいよ!」
そう告げて構造上、ぐるぐると歪な円を描いている手摺のレールの内側に身を踊らせた。
「度し難い!」
声が裏返っていたので心配してくれたのだろう。しかし、兄も同じように飛び降りて来るだろうからやはり振り返れない。
一階部分の手摺に着地すると階段を使っていた翠がぎょっと目を向いて悲鳴を上げた。
「うわぁ!?野蛮人!?」
「驚かせてごめんよ!」
腰を抜かしてしまったので後でちゃんとお詫びをしよう。
勢いを殺すことなく一階の廊下へ向かうと見せかけ、二階へ階段を駆け上る。
同じように降りてきた兄が「コンニャロッ……!」と舌打ちをしたのが聞こえた。
そのまま止まることなく三階へ向かえば仁王立ちする寮監の隣に天祥院と朔間が居る。
「一彩くん。何事かのう?白鳥くんが心配しとるぞ」
「ごめんなさい!」
「まっすぐ謝罪できることはいいことだけど、一回止まろうか一彩くん」
圧のある言葉に本能的にブレーキをかけそうになるのを堪えて真上に飛ぶ。わずかにある照明のくぼみに手をかけ、振り子の原理で彼らの背後に降りる。
「それはできないよ!」
「おやおや」
「おうおう。よく飛ぶのう」
「本当にお猿さんみたいだね」
「……貴様ら見物してないで止めないか!」
「止めたぞい、吾輩」
「止めたよ、僕は」
「いや、アンタは止めてないだろ……朔間」
「よおよおお揃いの皆さん!邪魔だからどけや!」
背後でコントじみたやり取りをしている彼らを怒鳴る声に弾かれ、一彩は走る。
「ヒロくん!この山猿!いきなり野生にかえってなにしてんのォ!」
3階の部屋の扉から飛び出してきた藍良にぶつからないよう避けると気配を消し、一彩の後ろを取っていたこはくが腕を拘束しようとするので更にターンして階段へ向かう。
「やるやん、一彩はん」
「ありがとう!」
「こはくっち!?」
「こはくちゃん!リーダー命令!いや、一生のお願いだからソイツ捕まえといて!」
なんだかんだ言ってバリケードと化していた朔間と天祥院の隙間を抜けられていない兄がそう叫ぶ。
「ぬしはんの一生は何回あるんじゃ!?はぁ……しゃあないな……」
気安いやり取りに落ち着いてきていた思考がまたカッカしはじめた。本当にどうしたらいいんだろう。どうやったら落ち着いてくれるんだろう。
そう考えていたら伸ばされた腕を避けられなかった。なので捕まえられた瞬間、ねじった。
加えられた力がこはくに返り、すてんと転がる。
「おわっ!?……ぬかったわ」
「ヒーローくーん!?いい加減止まれ!」
一瞬、突っ込んできた藍良に気を取られている内に兄が距離を詰めてきた。
「本当……なにしてんのお前」
「なにしてるんだろうね。僕にもわからないよ」
みぞおちのあたりを不快なものが溜まっている。
「あーこれ連帯責任かなあ」
「そうじゃね?あーあー俺っちまで怒られんじゃん」
「燐音はんは走っとったんやから自業自得やろ」
「えー……まったく手のかかる弟を持つと苦労すンぜ」
そこで一彩の中の何かがいつぞやのごとく、切れてしまった。
「ちがう」
「ン?」
「ちがうだろ!兄さんはもう僕の兄さんじゃないんだろ!都合のいいときだけ僕の兄さんになるのやめてよ!」
ぽかんとしている兄が思い当たったのか二度目の置いてけぼりのことを苦虫を噛んだ顔で頭を掻いて「あんなのノーカンだろ」なんて言う。こはくは不思議そうにしているが藍良は知っている。だから整えられた柳眉がぴく、と反応するのと同じで一彩の眉間にも皺が寄る。
「ハ……?お前、まだアレ引き摺ってんの?」
「撤回してないくせに!兄さんはいつもそうだ!勝手に僕の気持ちを決めてかかって!勝手にわかったつもりになって!」
近くにいた偉いひと3人だけでなく、階下にいた同室の2人、騒ぎを聞きつけてきた人間がどんどん増えてくる。あっという間に人だかりができる。
「オイ、弟くん……や、ちがう、一彩。なあ、一彩、おち」
「おいてったじゃないか!うそつき!僕をおいていかないっていったのに!もういらないんだろ!僕のことなんか!兄さんにはちゃんとした家族がいるから!ちゃんとしてない僕のことなんか捨ててしまいたいんだろ!面倒だから!」
ボロボロと考えていたことが口からそのまま飛び出してしまう。
絶句しているのは図星だからなんだろうな、と思うと止められない。
「ムカつく!ムカつく!ムカつく!」
地団駄を踏む。ヒィ、という悲鳴がどこからか聞こえてきた。
「……あれはお前のためだった」
「あんなの僕のためなんかじゃない!兄さんのためだろ!僕の兄さんは兄さんしかいないのに!どうしてそんなこと言うの!そういうとこが大嫌い!大嫌いだ!」
ぼたぼた垂れ流されるもののせいで視界がまともに機能しない。言葉もどんどんぐちゃぐちゃの支離滅裂になる。
「罰が当たったのはわかってる!僕はすごく苦しかった!兄さんの苦しみはこんなものじゃないんだろう!でもね!譲れないものは譲れないんだ!」
「一彩」
「兄さんの馬鹿!僕も馬鹿!なんでいつもみたいにほうっておいてくれないの!たくさん……たくさん迷惑かけてごめんなさい」
そこからはよく覚えていない。……兄の狩りにこっそりついて行って迷子になった時くらい泣き喚いたことは憶えているけれど。
わんわん泣いて、引き寄せようとした自分を腕を突っ張るだけでなく、仰け反りながら拒否する弟を見た燐音の思考回路は仕事を放棄してしまった。
弟は幼い頃、甘えん坊ではあったが泣き虫ではなかった。嬉しいことも悲しいことも苦しいことも。ことごとく自分の変化に鈍感で、こちらが期待した反応とは少し斜めな言動をする。
それでもちゃんとどう思って感じたのか、というところは伝えてくれていたのを燐音は知っている。
だからこそ、その事実に打ちのめされている。泣かせた。自分が弟を泣かせた。
いつだって後ろ向きな軽口を叩くと、本気で心配をしてくっついてきた弟。
いつも顔は自分の胸や背中に埋まっていた。
もしかしたら今日みたいに泣いていたかもしれない。
そこまで考えたところで、「天城はこっちで引き取る」なんて声がかかった。
燐音は頭を冷やした方がいい、とサークルの先輩によって引き取られていった一彩の姿を茫然と見送っていた。
「なかせた」
ぽつん、とその場に落ちた声が道に迷った子どものようだったので見捨てられなかった。
藍良は渋い顔をしたこはくと顔を見合わせ、大きな息を吐いた。
「燐音先輩はこっちね」
「おら!しゃんとせぇ!調子狂うわぁ」
弟よりも年の離れた二人に手を引かれ、尻を蹴飛ばされながら辿り着いたのは馴染みになりつつある旧館の一室だった。
そこまで大きくはない部屋に弟を除いたALKALOID2名、Crazy:B3名の計5名が詰めているとやや狭苦しい。
真っ先に状況整理に乗り出したのはALKALOIDの自称パパと特技・推理のウチの事情通だった。
どん底まで落ちた思考回線のまま、話を聞いてみれば、何やら弟から相談も受けていた上に“不審人物”な一部始終を目撃していたらしい。
「故に燐音が逆に受けようと判断した理由を聞きたいのです」
「おそらくあなたと一彩さんの噛み合わない企画の話はそこに肝があるのでしょう」
「副所長からの案件かつ、おね〜さん……プロデューサーが噛んでるなら乗った方がイイだろォ?」
「「それです!」」
ユニゾンした二人の出した名前は資料に記載されていない人間で、ニキに対して食に関するドッキリ……コラボ商品の開発に抜擢!それを酷評される的な胸クソ悪い企画を持ってきた人間だった。つまるところ、外見は同じでも中身が全く違う話を分かっている前提でしてしまった、ということだ。
「なるほどな……あァ〜……クソ」
以前ならばここまで熱心に深入りすることもなかったであろう人間たちの言動になんともおさまりが悪い心地がする。
ぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
HiMERUは特にわかり易いが、巽とて他人の機微を無視して傷を見ることを出来得る限り避けようという意志はあった。
あたたかくてむず痒いそれを誤魔化すために口を開く。
「俺っちの弟くんも最初からそう説明してくれりゃ助かるんだけどな」
「ふむ、しかし一彩さんとてあなたのことを想う故の行動でしょう。それを否定する権利など誰にもありませんよ」
「その通りなのです。あなた方は互いに互いを心配……というよりかは庇護的に考えがちなのでは?特に弟の方は兄に対して盲目的過ぎるきらいがあるような気がしますね」
「弟くんは俺っちのためっつーか、故郷のためにコッチに来た訳だろ。後生大事に長兄を君主として絶対視する愚直な臣下としてな」
「ん?」
「そうでもなきゃ彼処から一人で出れる訳がねェ。あの国から外に出るってことはそういうこった。現君主の命令だろ」
「んん?」
「……ンだよ藍ちゃんその反応」
これまで黙って話を聞いていた藍良は雲行きが怪しくなってきたことに気づいてしまった。
(もしかしてもしかしなくてもそこからすれ違ってる!?)
回りくどい言い回しをする燐音が思うことをどうにかこうにか噛み砕いた藍良はパニックになった。
確かに一彩はそれが兄の為だと信じてなにかとやらかしてはいたが、根っこの部分はブレていなかった。きっといい子で居続けた一彩の最初で最大のワガママを貫いて、ここに居る。それを全部、故郷の教育の賜物みたいな言い方をされるのは何故か藍良は我慢ならなかった。
「一周回っておバカなところまで兄弟って似るのォ?」
「あん?」
燐音を見据えた藍良は自分の服の裾をぎゅっと握った。
「おれ、いまから“かもしれない”ことを話す。全部ヒロくんの本音じゃないかもだし、おれのこう感じたって話だからァ……んん、つまり!ヒロくんがなんでも兄さんにいさん愛してるよ!なんてことするのは、天城燐音ってひとが大好きだからに決まってること!」
「は?」
「さっきの燐音先輩が言ったとおりだと思えないもん。だってヒロくん兄さんとの思い出をいつも聞いてないのに聞かせてくるしィ。何よりさ、ヒロくんが故郷の人たちの反対を押し切って家出同然にこっちに来たのとかさ、お兄ちゃんに会いたかったからじゃん!」
「………は?」
青天の霹靂。その言葉の意味を身を以て知った気分だ。
虚をつかれ、目を丸くした燐音に今度はALKALOIDの面々が驚く番だった。
「そんなまさか」
「いやこれはぁ……」
「えっ………ウソぉ……ほんっとに知らなかったの?」
「やっぱアホやな燐音はん」
集中砲火で浴びせられた言葉の雨に背中に汗が滲んだ。
「そんなわけあるかよ」
「……ヒロくんって嘘つけないでしょ?だからあえて言わないようにしてることもたくさんあると思うんだ。トンチンカンだけどヒロくんはたくさんいろんなことを考えてるって知ってるから。……燐音先輩も本当は気づいてるんでしょ? だからヒロくんが話をしてるときだけ変な顔するんだよ。でもそれを認めるのは怖いからって逃げてるんだ
」
一番弱いからこそ、ここぞというときに会心の一撃を放つ存在はどこにだっている。
MDMのときもそうだった。
誰よりもアイドルを愛しているからこそできたこと、言えたこと。いつも震えてばかりの小動物が噛み付いてきた。
「そもそもヒロくんがなんで出てきたと思ってるの?燐音先輩を連れ戻すため?そんなんあの故郷AI状態のヒロくんの中で一番しっくりくる表現だっただけでしょ!ヒロくんはずっと燐音先輩を心配してたの!そうじゃなかったらもう燐音先輩は諦めようムードのお家の中、兄さんじゃなきゃダメなんだって押し切って家出同然で飛び出してくるわけ無いじゃん!何年も連絡取ってなかったんでしょ?その間に燐音先輩も色々あったようにヒロくんにも色々あるに決まってんじゃん!
ヒロくんが君主?とかになるって一個も考えなかったの?
燐音先輩のことだから考えてたんだろうけど!
それじゃヒロくんは幸せになれかったの!言ってたよ。自分ではだめだったって。今ならわかるけどあのヒロくんがだめなわけないのにね。ヒロくんのこと勘当してどうするつもりだったの?なんで、ヒロくんのこと見てあげないの?ヒロくんはあの頃のヒロくんだけじゃないんだよ!おれたちALKALOIDは家族みたいなものだけど、ヒロくんのお兄ちゃんは燐音先輩だけでしょうが!」
「藍良さん」
その静かな声にハッとして続けようとした言葉が消えていく。
息つく間もなく矢継ぎ早に投げつけた言葉たちを思い返し、遅いけれど口を押さえた。
「いまは相手を打ちのめす言葉を使うときではありません」
ああ、自分じゃなくても良かったんだ。いつぞや思い知らされたことが故郷に姿を変えて現れた。
じくじく膿んだ傷に爪を立てられ、引っ掻かれた。
だというのにその痛みに笑ってしまいそうになる。
攻撃された理由が燐音と弟を思うが故、なんて。
耳にタコができるくらい聞かされた言葉がこんな風に湿度ではなく、温度をもつとは思わなかった。
ここに居る人間は馬鹿ばっかりだ。
スン、と誰かが鼻を鳴らしている。
それが自分だと気づくまでしばらくかかった。
藍良は口を半開きにして燐音を見つめているし、HiMERUとこはくもぎょっとしている。巽にいたっては目元を押さえながら俯いてしまっている。
もういいや、と思った。
……その時、空気が破裂したような音が飛び込んでくる。
「藍良に兄さんの何がわかる!」
目と頬を真っ赤に腫らした弟がそこにはいた。
扉を勢いよく開け放ち、蝶番を馬鹿にさせた弟は先程まで怒りながら混乱していたはずなのに……高らかに兄のために叫んでいた。
「兄さんはいつだって皆の為、僕の為に心を砕いてくれていた!確かに僕は怒っていた!どうしてわかってくれないんだ、と!でもそれは兄さんだって同じことだ!僕もわからず屋なんだ!だから!兄さんを傷つけることは藍良でもしないでほしい!」
「ヒロくん……」
藍良の呟きに応えるように一彩はつかつかと歩み寄ってくる。
そして、何も言わず燐音の胸ぐらを掴みあげた。
「ひっ、一彩さぁん待ってくださいぃ……!」
「ちょっ! ヒロくん!?︎」
慌てて止めようと後を追ってきたらしいマヨイと落ち着いた藍良の静止を振り切って、弟は燐音に向かい合ってしゃんと座り込んだ。
「にいさんのことこわがってごめんなさい。ぼくはにいさんが」
「ごめんな一彩。俺がわる」
「にいさんがわるいとおもっててもぼくがわるいとおもってないんだからじゃましないで!」
「はい」
「にいさんがぼくのしらないにいさんになるのがこわかったからこわがった。だけどいまはわからないままでいるほうがこわいよ」
「ひい」
「ぼくのはなしをきいて。ぼくのことをみて。にいさんの頭の中のぼくとここにいる僕は違うはずだから」
頬を張るくらいの力で挟み込まれ、逸らすことが出来なくなった視界。
小さなちいさな一彩の姿が、いまだ見慣れぬ青年期の只中にいる一彩の姿へ像を結ぶ。
「僕が最初に兄さんから逃げた。だからこれでおあいこなんだ、と思うんだ」
凛々しいとはこういうことを言うのだろう。眩しい。まぶしすぎて目が焼けて溶けてなくなるかもしれない。
「ごめんなさい。僕はもう逃げないよ」
「一彩……」
謝らなければいけないのは自分の方だ。しかし、うまく言葉が出てこない。
「よし。これでさっきの話はおしまいだ。では、兄さん。僕と殴り合いの喧嘩をしよう!」
「……は?」
まごついている内に頬に触れていた手が襟首を掴む。きちんと突き合わされていた膝を滑らせ、流れるように足の裏で腹から身体を持ち上げられる。感慨に耽っていた燐音は無防備な状態で背中から床に落ちた。
「考えすぎても土壺に嵌まってさあ大変だ!ならばわかり易くしようと思って!それに蓮巳先輩も多少の殴り合いは兄弟にはつきものだと言っていたからね!鬱屈した気持ちを言葉以外でもぶつけ合おうじゃないか!」
「なにいってんのォ!?」
今まで固唾を呑んで見守っていた藍良の言うことは最もだった。
おいつけない。光になるな。
真っ先に思い出したのは木苺への道程だった。季節の草花、野生の動物、一番星に満月。そして……兄を、自分を見つけたとき。
「……お前、ホント、あっという間にどっかいっちまうんだから」
投げ飛ばされた姿勢のまま、掴んだ手を離さず燐音は腹筋を使い、長い脚を弟へ絡みつけた。
「かかってこいよォ!お兄様が胸を貸してやらァ!」
「ウム!よろしくお願いするよ!」
呆れた顔をした者、笑顔を浮かべる者、様々見えるが誰も止めようとはしない辺り、この勝負の行く末に興味があるようだ。
雲門日日是好日、どんな日であれいつかはあの日があって良かったと思える日が燐音にも訪れるのだろうか。
その答えはまだ自分の口から出すことは出来ない。
だが、この眼の前の日々のかたまりがそれを示してくれていることは確かだった。
今日も明日も明後日も、これから先ずっと続いていくものたちなのだから。