心音真夜中と言うには少し早い時間に呼び出されて、荒船はバクバクと心臓を高鳴らせていた。
荒船の視界は真っ黒に塗り潰されている。それは夜の形容ではなく、物理的にだ。いわゆる典型的な目隠しを施された荒船の右手を引っ張るのは、先程家まで迎えに来た水上だった。
互いに成人を迎えて1年は経った。18の頃に実施された閉鎖訓練以降、水上とは妙な距離感が発生していた。お互い任務終わりに夜飯を食べに行くことが増えて、成人してからは酒の席も多くなった。同年代が居ることもあれば、2人きりの時もあった。そして必ず2人きりの時は、何故か水上を自分の家に泊めた。水上曰く、歩くには少し距離があるから。近いとこで休みたいということだった。
今思えば、歩いて帰れよと言えたはずだと、荒船は混乱した頭の中で考える。いや、今考えることではないことだとしても。
はあ、と小さく息を吐いた荒船の耳に少し張ったような声が届く。
「手震えとるな、寒いん?」
「いや…」
荒船は口篭る。そもそもこんな真夜中に目隠しをされて誰に見られるか分からない(そもそもタクシーに乗せられたこと以外ほぼ情報がない)状況は、怖いとまでは行かなくても不安になるだろう。そんな心境と、もうひとつ荒船の手を震わせる原因は、耳に流れ込んでくる音だった。
ざぁざぁと、規則性のない水の音がする。急いで履いてきたスニーカーの下に踏みしめる感覚は柔らかく、時々足を取られる。
どこかは頭の中で想像しなくてもだいたい理解出来た。だからこそ荒船の手は、か弱く震えている。
「なんでこんなとこ…」
思わず情けない声が出た。手の振動が喉まで伝わってしまったのかと、荒船は目隠しの下で伏せたままの瞼を歪ませた。
その呟きは波の音に消されたのか無視されたのか、水上から声が帰ってくることは無かった。
ああ帰りたい、早く帰って背中に少しだけ滲んだ汗をシャワーで流したい。
そんな当然の願いは、突如差し込んだ柔らかな黒で滲む。
未だに右手は掴まれているが、ゆっくりとした手つきで目隠しの布が解かれるのが分かった。それと同時に、視界に黒くて蠢く波が入りこむ。
「っ…!」
強く水上の手を握った。左手は自分のシャツを握り締める。うるさい心臓の音が伝わりそうで嫌だった。情けなく震える姿をこの男には見せたくなかった。
それは同年代のプライドだとかくだらないもののせいじゃないことを荒船は知っている。
何年経ったって、自分が好きだと認識している奴にダサい部分なんて見せたくないという気持ちが荒船の中には常に存在している。
ようやく自然な黒に目が慣れてくるのと同時に、目の前に立つ水上が真っ直ぐこちらを見ているのが分かった。どうしても視界の端に映る黒い波からの目を背けるように、荒船の視線も水上と重なる。
落ち着いた金色に見つめられることが増えたのは、それこそ夜飯を食べに行くことが増えた頃だろう。その視線に気付かない訳もなく、どうせ揶揄いだろうと意趣返しでよく荒船も見つめ返したものだ。そうしたらその眉が片側だけ下がって、笑い返してくるものだから不思議で堪らなかった。
あの時になった心臓の音と、今の音は似ている。海のせいで少し間隔が早い気もするが、誤差程度のものだろう。
波音が大きいから、荒船は少しだけ口を大きく開いた。
「なんでこんなとこ、連れてきたんだよ!」
先程とは違って、声はしっかり聞こえているらしい。水上の視線が瞬きをひとつ挟んでから、口が動く。
「……正直あんまり、こっからどうしようとか考えてないねん」
「はあ?」
「言うとかんと、って思ったら勝手にお前の家まで行っとった」
脈絡なく始まった独白に思わず荒船は顔を顰める。思わず握っている右手の甲に爪を立ててやろうかと思ったほどだ。そういえば、目隠しは外されたのにどうして右手はこのままなんだという疑問は、次いで響いた声に覆われる。
「荒船のこと好きやねん、俺、」
いっそう大きな波の音が響いて、反射的に荒船の体が動いた。繋がった右手を離して、その一瞬で金色を閉じ込めている瞼が大きく持ち上げられたのが荒船からは分かった。
そのまま、どっさりと重い音がする。
荒船は真下を見下ろした。大きく目を見開いたままの水上が居る。かおがちかい。
バクバクと相変わらず心臓の音がうるさい。さっきよりも一段と、大きく高鳴っている。ふと気づけばそれは、自分の右手が置かれている胸元から響いていた。
さっきまでシャツを握っていたはずの左手を自分の胸に添える。同じぐらいだ。何一つ変わらない速度と間隔に、わけも分からず荒船は自分の頬が緩むのが分かった。
「……っふは、うるせえ」
「やかましいわ…いきなり押し倒されたらビックリもするやろ」
「お前にやられたことよりはましだろ」
口を噤んだ水上に、勝った、なんて呟きながら荒船は体を前に倒した。少し位置が悪いかと、右手の代わりに右耳が当たるようにと体の位置をずらす。上から「重い」と苦しそうな声が落ちてきた。
「あー…落ち着いてきた…」
「それお前だけやろ、俺はもうやばい。割とどいて欲しい」
「そんな重いか?」
「……あの荒船とは思えんぐらい察し悪いな」
ぽんぽんと音が響きそうなぐらい軽快に頭の上で衝撃が踊る。なんの感覚かを考えるのも億劫で、荒船は深く息を吐いた。
「心臓いてえ…」
「落ち着いたんとちゃうんかい」
「俺が海苦手なの知ってんだろ?…あ、もしかしてお前、吊り橋効果でも狙ったのか?」
「なんでそんなとこは察しええねん」
矢継ぎ早に交わされる会話も手馴れたものだ。くつくつと喉の奥で笑い声を噛み殺しながら、荒船は砂利がついた胸元に頬を埋める。
「俺も好きだ」
耳元で聞こえる音がまたいっそう早くなった気がした。上から響く声よりもよっぽど分かりやすいなと思いながら荒船は顔を上げる。
またあの金色を見てやろうと体勢を変えようとした瞬間、ぐっと下から力を込められて体を無理やり起こされる。そのまま砂浜の上に尻がついて2人、体育座りの形になる。
「………水上?」
「…………」
無言のまま肩に腕が回ってくる。? と疑問符を浮かべる頭がそのまま腕の中に納まって、まるでヘッドロックのような形になる。もちろん力はそれほど入ってないが、腰が変な形に曲がるせいで荒船は情けない声を漏らした。
「いて、いてえ。なんだよ!」
「あかん、これはあかんわ。やらかした」
「だから何が!」
「想像してた100万倍ぐらい嬉しいわ」
その口から飛び出してきたありえない数字の大きさに荒船は一瞬身体の抵抗を止めて、それから響く波の音に負けないぐらいの笑い声を上げた。
「ずっと一緒にいようぜ、水上」
笑い声混じりな言葉に、水上がまたピタリと黙る。直感で腕に力が込められる気配がして、荒船は思わずその腕から抜け出して、今度はこちらからと両腕を彼の頭に回した。
バクバクとうるさい心音は少しでもこの男に伝わっているだろうか。どうせ同じぐらいなんだから、いっそ聞かせてやろう。