アネモイの福音 新しい仕事、新しい街、新しい家。
それは何もかもが真新しく始まろうとしていたある日の出来事だった。
その日、ヘルメスは遊びに出かけた親戚の少女、メーティオンを探して新しく住み始めた街をあちらでもない、こちらでもないと彷徨い歩いていた。幼い頃からの付き合いのある親戚の近くに新しい部屋を借りて荷解きや整理が完了したヘルメスは、近所の親戚よりメーティオンの世話を任されており、彼女は近所の公園へと遊びに出て行った所だった。そろそろ午後のおやつを食べようと思い、帰っておいでと呼び戻そうとしたのだが彼女の携帯電話は玄関に置き忘れられていた。
土地勘もまだあまりなく、彼女のお気に入りの公園はどこだっただろうかと頭を捻る。世話を頼まれたのであればその責任は自分のもので、彼女に何かもしもの事があったなら、後悔してもしきれない。やはり最初から自分が一緒について行くべきだったか、いやいや彼女ももうそれなりに大きくなったのだから過保護すぎるのも良くないと悶々と考えながら携帯電話の画面に映る地図と自分の現在位置を照らし合わせて歩き回る。
「あぁ、ここか」
漸く公園を見つけて少し離れた場所に青い髪の後ろ姿が見える。よかった、みつかったと安堵の息を吐き、メーティオンの元へと足を進める。よく見れば何やら木の上を見つめているじゃないかとヘルメスも視線を上げればそこには一人の人が木の枝の上にいる。何をしてそんな所にと思えば、以前自分がメーティオンにプレゼントをした麦わら帽子が木の枝に引っかかっていたのだ。まさかあれを取るために?
唖然とその光景を見つめていたらその人はスイスイと木の枝を伝い帽子まであと少しの所へ辿り着く。尻尾が見えるのでミコッテ族だろうか?まるで猫のようだ。だけれども危ないにも程がある。早く向かわなければと足を早めたその時だった。
バキッと鈍い音が聞こえて木の上の人は大きく体のバランスを崩した。それを見た瞬間、ヘルメスの心臓はヒュッと縮み上がる。落ちる。
「あ、危ない!!!」
何故かは全くわからないのだけれど身体が動いて、その人を受け止めなければと思ったのだ。強い風が吹いたようなそんな感覚がして、頭上からは何やら叫び声が聞こえる。直後、身体に走る強い衝撃と痛みに鈍い声を出してヘルメスは地面に倒れ込んだ。
「!?!?!」
なんと締まらない姿だろうか。受け止める事はできたものの、成功とは言い難く無様に地面に転がってしまった。受け止めた人がおそらく無事だと思われるのがせめてもの幸いだ。
「え、わ、ご、ごめんなさい!!!??!」
女性の慌てた叫び声が聞こえて自分にかかっていた重みが無くなる。その後にメーティオンが自分の名を呼ぶ声が聞こえて一瞬遠のきかけた意識を戻してずりずりと身体を起こした。
「あ、あの、骨とか、大丈夫ですか!?」
ぼぅ、と目の焦点を合わせて顔を上げれば声の主がヘルメスの顔を覗き込む。金色の髪の毛に淡い橙色、朝焼けの空のような光を帯びた瞳がヘルメスを心配そうに見つめていた。一瞬息を呑んで、言葉を失いかける。とても綺麗なものを見つけた時のような、胸を焦がすような奇妙な心地だった。けれども何か言わなければと居た堪れない心地で返事をする。
「え、あ、えっと……うん、大丈夫。一応、体は丈夫なんだ」
そう伝えれば木の上から落ちてきた金色の猫のような女の子は安堵したように少し笑い、同じく金色の尾をゆらりと揺らすのだった。
携帯電話の画面をぼんやりと見つめてどれくらいの時間が経ったのか。
そこには、昨日なんとも奇妙な出会い方をしたミコッテ族の女の子、コレーの名前が表示されていた。
木の上から落下した彼女を受け止めようとその身体の下敷きになったため、ヘルメスの体調を心配した彼女が連絡先を交換してほしいと言ってきたのだが、体調に異常は無いし特にこちらから連絡をすることなど何も無い。詰まる所彼女と関わる口実は無いのだ。
と、そこまで考えて思考を整理する。いやいや、不思議な縁ができたものの、これから新しい仕事も始まるし他人を気にする余裕などないだろう。確かに彼女の瞳に目を奪われたりなんかもした気がするが会ってまでどうこうという感情は抱いてなどいないのだ、決して。
「ヘルメス〜!! コレーと会う!!」
勢いよく扉を開けてメーティオンがヘルメスの部屋へと入ってくると同時にヘルメスは驚き飛び跳ねた。
「メーティオン…人の部屋に入る時はノックをしてから入らないと」
「あっ、ごめんなさい…」
嬉しさに興奮していたようですっかりノックをするのも忘れていたメーティオンは突然の入室に驚いたヘルメスにやんわりと注意をされて、しゅんと謝った。
「次から気を付けようか。他の部屋の人にも響いてしまうから」
「うん、わかった!! あのね、コレーが会いたいって!!」
頭を撫でて優しく伝えれば笑顔で頷き、自身の子供用携帯電話をヘルメスに差し出した。その名前を聞けば、先程考えていた事をメーティオンに見透かされたのかと心臓が跳ねて音を立てる。
「君も彼女と連絡先を交換していたのか…」
「そう! たくさんメールしたらね、この間のハンカチ返したいんだって!」
運良くヘルメスがメーティオンの置き忘れた携帯電話を持って行ったため、メーティオンも彼女と連絡先を交換していたのを思い出す。いやしかし今たくさんメールしたと言っていたが彼女はもしやメーティオンのメールに先日から付き合ってくれていたのだろうか?
「まさかずっと昨日からメールを?」
「ううん、コレーがやりすぎはよくないと思うからって決まった回数だけ」
「そうか…」
ありがたいのと申し訳なさが混ざってまた胃のあたりがきゅうと縮むような感覚がする。メーティオンに配慮をしてくれていたようでとても助かった。そういえば彼女の怪我にあの時持っていたハンカチを差し出し、あれはもう捨てられて構わないと思っていたのだが律儀にも返却をしようとしてくれているのだと。
「ヘルメスにもね、連絡するって」
会ったばかりだし、彼女の事は何も知らないし、きっと奇妙な新しい出会いが嬉しいだけで特別なものは何もない。必死に自分の感情を整理して、理由を並べ立ててヘルメスは自身に言い聞かせる。
「わかった。さぁ、そろそろ家に帰る時間だ。彼女に会う日は自分から伝えておこう」
「は〜い! またね、ヘルメス」
「気を付けて」
そろそろ親戚が帰宅する頃だ。メーティオンに帰宅を促し、玄関で別れを告げる。そうして扉を閉めた後、小さな通知音が携帯電話から響いて思わず急いで目を向けた。
『こんにちは。先日は痛い思いをさせてごめんなさい。お体の具合はいかがですか?』
その画面に表示された名前とメッセージを見た自分の顔が穏やかな喜びに満ちている事に、ヘルメスは未だ気付いていないでいた。