彼の引きとめ方 災いである月は賢者とその魔法使いたちの手によって退けられた。歓喜に沸く人々を見て、晶は自分の役目が終わったのだと感じる。大きな達成感の中に潜む一抹の寂しさ。彼女はそれに気づかない振りをして群衆に向かって大きく、手を振った。
魔法舎において盛大な宴が催され、彼女はたくさんの魔法使いと話をした。色んな事があったけれど、彼らは一人残らず晶の仲間だった。きっと相手も、そう思ってくれていることだろう。豪勢な食事を楽しみ、話に興じてひたすら笑う。厄災との戦いはひどく心身を削られるものであったが、この時間はその全てを押し流していくようだった。この時、晶は確かに幸せを感じることができたのだ。
風呂に入った晶は火照った身体を冷ます為に外をぶらぶらと歩いた。中からは賑やかな笑い声が聞こえてくる。酒好きの大人たちにとって宴はまだまだ続くのだろう。
きっと私がいなくなっても、この風景は変わらない。響いてくる笑い声も、生温い風も、穏やかに佇む魔法舎も。元の世界に帰還する方法は分かっていた。厄災を倒したのち、魔法舎内のエレベーターの様子が明らかに変わっていたからだ。いつも移動手段として使っていた際のものとは全く違う、異質な空気を纏わせたそれをスノウとホワイトは「賢者の帰り道」とした。一回開けてしまえば、それきりだ。なので彼女も慎重にならざるを得ない。しかし任意にタイミングが選べるとはいえ、いつこの道が閉じてしまうかわからない。できるだけ早く、この世界を去らなくてはならない―――。晶はそう、自らに言い聞かせた。納得できない気持ちは膨らんでいくばかりであったが、どうしようもないこともある。帰りたくない、なんて思っちゃだめだ。
柔らかな草を踏みながら歩いていると背後から声がかかった。
「賢者さん」
「ネロ」
姿を現したのはネロだった。東の国の魔法使いの中で最も長生きな彼は魔法舎お抱えのシェフとして晶に様々な料理を振舞ってくれた。そのどれもが舌がとろけるような旨さで彼女を唸らせたものである。どこか、人との間に一線を引いている人。それが晶の第一印象だった。
「宴会のほうには戻らなくていいんですか?」
「ブラッドにポーカーで散々負けて、大量に飲まされそうになったから逃げてきたんだよ」
「それは・・・大変ですね・・・」
「賢者さんはどうした?寝れないのか?」
「長風呂しちゃってのぼせたので冷ますために歩いてたんです」
「なるほどな」
それきり会話が途切れる。ネロのほうをちらりと見やると彼もこちらを見ていたようでバチリ、と目が合ってしまう。晶は恥ずかしくて視線をすぐに逸らした。彼女はネロのことを恋愛対象で好いていた。細やかな気遣いをさりげなくこなすところや照れた表情が魅力的だ、と思った時にはもう遅かった。恋心は取り返しのつかないところまで奥へと入って、引き返すことなんてできない。彼の内側へ一時でも入れてもらえた日にはあまりの嬉しさに自室のベッドで転がってしまったほどだ。
それでもネロにその思いを伝えることはしなかった。晶は自分の深い恋心を自覚してたが、同時にこれは叶わないものだとも諦めていた。諦めるように、努めていたのだ。彼は人と深い仲になるのを拒もうとする節がある。
『俺を信頼しないでくれ』
そう言った彼の顔を、今でもはっきりと思い出せる。中途半端に世界に漂う自分は人の望む何にもなれないのだと。だから彼を位置づけるために「友達になってほしい」と言った。しかし晶はその線を自ら超えてしまった。彼はきっとこのラインを忠実に守る。ネロのことを好いていた彼女には痛いほどそれが分かった。そしてこの想いを伝えれば彼と築き上げてきた関係そのものが崩れてしまうとも。だから、伝えることなんて考えられなかった。その代わり、元居た世界へ帰ってもこの気持ちは大切にしようと決めていた。
「・・・暇なら、少し俺と歩いてくれないか?」
ネロがそう言って笑ったので、晶は頷いた。隣に並んで夜空を見上げながら歩く。きっと出会ったばかりの頃はこんな風に横にいられることもなかっただろう。これまでの時間の長さがそうさせたのだと思うと感慨深い。お互い無言だったが晶はそれを苦としなかった。むしろ居心地の良さを感じてすらいたのである。隣の彼も、そうであるといいのだけれど。
視界が開けたところで、ネロは立ち止まった。色とりどりの花たちが一面、風に踊って揺れている。彼は数歩歩いて晶の手前に立った。その背中を無言で彼女は見つめる。
「いつ帰るんだ?」
「・・・おそらく、数日のうちに」
視線を彼の背中から足元に落として彼女は答えた。ネロは滔々と続ける。
「これまで長かったな。やっと帰れて良かった」
「・・・そう、ですね」
「もう賢者さんと会えなくなるのも寂しくなるな。ヒースなんてさっき涙目でさ、それをシノが笑って・・・って賢者さん!?」
笑いながら後ろを振り返ったネロはぎょっ、とした。
「どうした?どっか痛いのか?」
彼の反応で初めて自分が泣いていることに気づく。見られたくないと晶は反射的に背を向けた。
ああもう、自分の馬鹿。あと少しだったのに、どうして今こんなに泣いてしまうのだろう。堰を切って溢れた感情は涙となって頬を流れ落ちる。
ネロが好きだ。まだ、一緒にいたい。この想いが結ばれなくたっていいから、まだ彼の隣を歩いていたい。
口を食いしばるも嗚咽は漏れるばかりで、ひたすら駄々をこねる子供のように泣いてしまう。
「っ、賢者さん、」
「・・・かえり、たく、」
途中まで出かけた本音は必死に飲み込んだ。こんなこと言っても、彼を困らせるだけなのだ。それなら、どんなに自分が苦しんだっていいから何も言わずに帰りたい。背中を丸めて肩を震わせる晶に、ネロが近づいた。そのまま、後ろから覆うように彼女を抱きしめた。
「賢者さん・・・。頼むから泣かないでくれ。あんたに泣かれるとどうしたらいいのか途方に暮れちまうよ」
「・・・ネロ?」
背中に伝わる彼の温かさが密着しているという事実を伝える。彼の体温が温かいことは握手をした時から知っていた。心の奥を解きほぐしていくような感覚を伴ったそれに晶の涙はぴたりと止まった。その代わりに羞恥心が襲ってくる。
「ね、ネロ・・・っ」
「・・・情けねえ。好きな女の涙も止められないなんてな」
「えっ?」
涙は止まってるけど、って聞きたいのはそこじゃなくて。
「前に話したろ?俺は人と馴染めないけど人がいない場所で生きられない、半端な野郎だってさ」
「はい」
「今まで、碌に生きてこなかった。何となく育って、あいつと出会って導かれて、別れたあとも寄る辺を探して。最も気性が合いそうな東に住むことになった」
「・・・」
「俺はその中で、ほとんど願いなんて持たなかった。まあ強いてあげるなら料理がしたい、くらいだったかもな。流されるまま生きて、社会に寄生してきた。それでいいと思ってたんだ。楽だったし、俺には合ってた」
かつて賢者の書を作成する際に耳にしたものと同じこと。当時と違うのは、声色だった。かつては自分を客観視しながら、淡々と説明書を読み上げるような無機質さを伴っていた。しかし今の彼の声は弱弱しく、悔しさがどこか滲み出るような、そんな話し方だ。後者のような彼は見かけることはほとんどないので晶にとっては新鮮だ。
「でもまさかそれを・・・この歳になって後悔するとは思わなかった。物のねだり方すらわかりゃしねえんだもんな」
「・・・」
「俺はちょっと長く生きてるくらいで双子先生みたいに知識があるわけでもなし、オズみたいに強い力も持ってない。ヒースみたいにまともな地位もねえし、特別顔がいいわけでもない。でも・・・、でもさ、もし賢者さんが残りたいっていうなら、もしそう言ってくれるなら、俺は何をしてでもあんたを引きとめるよ」
「ネロ・・・」
「何人に頭を下げたっていい。どんなに情けなくてもいいんだ。だから、」
「『帰りたくない』って言えよ・・・」
掠れた彼の声が耳に触れる。初めて、彼の核心に触れたかのような心地がした。彼は憶病で、―――あたたかい。そんな彼が、どうしようもなく愛おしい。
「・・・ネロ、わたし、ネロのことが好きです」
止まったはずの涙がまた零れる。背中に触れる温かさが今ではもう耐えきれないくらい熱くなって、でもそれがまた大切で、それを分け合いたかったから前を向く。私を抱く腕がぴくりとして、こわれものを扱うかのように優しく、身体を内へ寄せる。それに応えるように、私も彼の背に腕を回した。
「俺も、・・・賢者さんのこと、好きだよ」
彼から、柔らかい柔軟剤の香りがする。おひさまのような、安らぐようなネロの匂いだった。
「恋人って、信頼で成り立ってるだろ?だから、―――俺を信じて、もらってもいいか?」
確かめるような口調に晶は思わず笑ってしまった。面白半分、嬉しさ半分である。人に信じろ、だなんて彼は口にしたことがないのだろう。ゆえにこの言葉はとても重い意味を帯びる。この人にはすべてを預けられると晶は確信していた。
「もちろんですよ。ネロのことは、とっくに信用してますから。だから私のこともどうか信じてくださいね」
彼の信頼に足る言葉を、晶は紡ぎだした。
「帰りたくないです。ずっと、この世界で、あなたと一緒にいたい」