夏の気配 ふと目が覚める。
二宮は一瞬の疑問を覚え、すぐに海辺の小さなリゾートホテルに泊まったことを思い出した。
横になった視界の奥にほの暗い窓があって、手前には使われていないままのベッドがある。
雨はまだ降り続いているようだ。
***
――旅行に行きたいと言い出したのは、太刀川だった。
海辺の観光地へ向かう特急電車も、平日の昼下がりには空席が目立つ。
網棚に旅行鞄をのせた二宮は窓際の席に腰を下ろし、背もたれを少し倒した。
今日から一泊二日の小旅行の予定だった。太刀川と。
大学の課題もボーダーの書類も全て提出済みだと、ドヤ顔で言った太刀川を蹴り飛ばしたのが数日前。
そして昨夜遅く、太刀川からメッセージが届いた。
『ごめん。レポートが再提出になってた。明日は間に合わないかも』
詳しく聞けば、再提出――それも複数――に気づいていなかったらしい。
何の反応もない太刀川に不安を覚えた大学からボーダーに連絡が入ったのだと、提出までの見張りを任されたという東がため息まじりに教えてくれた。
ボーダー推薦で進学した以上、卒業まで面倒を見る必要があるのだろう。
A級一位部隊の隊長であり、ナンバーワンアタッカーが留年などすれば、今後の入隊志願者数に影響が出てもおかしくない。
『馬鹿がご迷惑を』
『二宮こそ、明日から旅行だったんだろ?』
『いえ。俺は……』
気遣ってくれる東に、いたたまれなさを覚え俯いた。
太刀川の「提出済み」に信用がないことは知っていたのに、自分もどこか浮かれていたのだ。
手伝いを申し出たものの、久しぶりの休みなのだからリフレッシュしろと言われ、うなずくしかなかった。
『終わったら追いかけるから、先に行ってて』
『余計なことは考えずさっさと終わらせろ。東さんに謝れ馬鹿』
朝になって届いていたメッセージにそっけなく返して、二宮は予定より少し遅い時間に家を出たのだ。
車窓からの景色をぼんやりと眺めながら揺られること、一時間と少し。
目的の駅で下車すると、かすかに海の香りがした。
宿を予約しただけの二宮は、駅前の少し古びた観光案内地図の前で立ち止まる。
チェックインもできるが、せっかくなので裏手にある山の遊歩道へ足を向けた。
小高い山の中腹に、海と街を見下ろす展望があった。
多少湿度は高いものの、海から吹きあげる風が心地よい。
木陰でしばらく休んだあと、来た道を下る。
駅前から海へと続く商店街を歩いていると、喫茶店の軒先で揺れる小さな氷旗が目に留まった。
梅雨の終わりを知らされる前に、夏がきたようだ。
この時期、夕方と呼べる時間になってもまだ太陽は高い。
海開き直後の海水浴場は、しずかにキラキラと太陽を弾いていた。
チェックイン後。部屋に置かれていた観光案内に掲載されていたホテル近くの海鮮食堂で夕食を済ませ、シャワーを浴びるとすることがなくなった。
太刀川と選んだ宿は、全室オーシャンビューだというホテルだった。
掃き出し窓のカーテンを開けば、降り出した降水確率三十%の雨でホテル前に広がる砂浜が黒く濡れていく様子が見えた。
***
明かりの落ちた室内で、いつもとは違う枕の感触を左の頬に感じながら、二宮は重い瞼で数回まばたきする。
カーテンの隙間から見える空に、夜明けが近いことがわかる。
この季節の夜明けは、起床には早すぎる。
雨音は嫌いじゃない、と。眠気に逆らうことなく目を閉じて、ぼんやりと思う。
背後にある熱がもぞと動いた。
腰から腹にまわされた重みが、わずかに増す。
「にのみやー」
ごめん、と。
耳元でぽつりとこぼされた謝罪に、軽い舌打ちを返す。
『終わった。今から向かう』
メッセージを受け取ったのは、手書きのメニューでおすすめされていた地魚の定食を食べているときだった。
部屋番号とフロントに鍵を預けることだけを伝えて放っておいたのだが、到着していたらしい。
「――うるさい。寝る」
邪魔をするなら、自分のベッドに行けと言外に伝えれば、ぐずるように首筋に頬をすりよせてきた。
雨の中を歩いてきて、シャワーも浴びずにもぐりこんできたのだろうか。屋外の水の匂いが強くなる。
腹の奥がソワとするのを無視して、深く息を吐き出した。
後ろ手に甘えたなくせ毛をかき回し、全身の力を抜く。
二日目も、予定は特にない。
昨夜見た天気予報によると、チェックアウトするころには雨は上がっているらしい。
太陽が顔を出せば暑くなるだろう。
昨日訪れた喫茶店のかき氷でも食べようか。
ディスプレイの写真にあった、白玉と黒蜜ときな粉がトッピングされたかき氷を思い出し、無自覚に口角を緩める。
雨の音と温もりに誘われるまま二宮は、ふたたびの眠りに落ちた。
【夏の気配とかき氷/終】