夜の鳥 空気が冷えている。日が沈んでいる。空が黒くなっている。
日はとうに地平線の彼方に沈み、今や月が空を照らしている。自らの独壇場だと言わんばかりに、月が黒い空に浮かんではその光を灯す。星々は月に付き従うかの如く黒い空に散らばり、月の光を引き立たせるかのようにきらきらと小さく光る。強い光のもの、弱い光のものなど、その種類はさまざまである。他の人々や、ワタシの同僚たちは、とうに眠っているはずである。あるいは、眠る準備をしている最中であろうか。
しかしながら、ワタシは眠れそうにない。
どうしてだろうか? そう考えても分からない。ただ、稀にこのような日がある。目を閉じても、寝返りを打っても、毛布に包まっても。何をしたところで眠りに落ちることが出来なかった。身体の中に鉛が混じったかのように身体は怠い。ずっしりと何かがのしかかるかのようにずんと重い。身体は疲れている。疲れているはずなのに、目が冴える。重くなるはずの瞼は、未だに軽い。いくらベッドの上で待とうとも、眠気はまだワタシを眠りに落としてくれそうにない。代わりに、思考能力がワタシを覚醒の淵に立たせたままである。思考能力は働き、脳を働かせている。思考が巡るまま、ワタシは夜空を見上げた。
ぼんやりと光を灯す月が、こちらを見ていた。
そもそもワタシは、夜という時間が好きだった。
人も、草木も、生き物も、皆々が息を潜めるように眠るこの時間は、静かだ。音を立てることすら許されないような、この静かな時間が好きだった。よくよく耳をそばだてれば、生きているものの呼吸音が聴こえてくる。それが人のものなのか動物のものなのかはよく分からない。ただ、呼吸音にも似た何かの音が聴こえてくる。
夜は、暗い時間だ。
明かりがなければ何も見えない。だから人々は早々に家路につく。暗い夜の中を歩かないで済むように。夜は、人ではない何かの独壇場と言える。
「そこにいますか」
ワタシは声をかけた。他でもない、夜空に対して。何もいない、虚空に対して。
『いますよ』
虚空が応える。そこに存在していると、ワタシに伝える。その男性とも女性とも分からない声の後、ばさばさと何かを開く音が聞こえてきた。恐らく、身体の大きさの調整をしているのだろうか。あるいは、身体の一部の置き場所に困って、自分の立ち位置を整えているのか。
「いつからいましたか」
『もう、ずうっと前からここにいました』
虚空は形を成した。夜空の闇からすうっと溶け出すようにその黒い空気が窓に流れ込み、黒い霧になった。かと思えば、黒い霧は黒い鳥に形を変えた。カラスに酷似しているが、カラスとは違う。黒い鳥はワタシの部屋の窓枠に留まる。ともすれば、黒い鳥は尚も流暢に話す。
『眠れませんか』
「はい。あなたの時間だというのに、未だに眠れません」
『そうでしたか』
黒い鳥は閉じていたその目をワタシに向ける。空に浮かぶ月と瓜二つの、黄金色に輝く目である。そうして、黒い鳥は羽根を繕う。その羽根は、夜に瞬く星と全く同じように、きらきらとした光を含んでいる。黒い身体は、夜の帳のそれと同じである。
「申し訳ない、眠らなければならないのに」
『夜更かしをしていたら、私が来ますよ』
「だからあなたは、ここにいる」
『それが私です』
「左様でしたか」
ワタシと黒い鳥との会話は短い。無理もない、そもそもワタシと黒い鳥は、別の存在である。本来ならば、言葉を交わす機会などなかったはずだ。こうやって言葉を交わすこと自体、特異なのだ。
「夜として、あなたはここにいる」
『はい、私は夜ですから』
「疲れませんか」
『疲れません。あなたのように眠らない人がいれば、ことさらに元気になります』
「夜とは難儀ですね」
『夜は難しいものです』
「でしょうね」
『夜とは難しい。ただ、明けるまでそこにいるだけです。さあさ、もう寝なさい。人の子は寝て育つものでしょう。明けるまではそばにいてあげましょう。眠れるように、暗いままでいてあげましょう』
それだけをワタシに伝えると、黒い鳥は再び夜空へと帰っていった。するり、と空気を滑るかのように、音もなく飛び去ってしまった。黒い鳥はいなくなった。
されどもワタシは、まだ眠れそうにない。