その水の味は。 如月。衣更着(きさらぎ)とも書く時期に相応しい凍てついた風雪が頬や耳の皮膚を刺す。駐屯所の門前は、所々に残った雪が幾度とない人の行き来によって踏まれ、固まって氷へと変貌してしまっている。手を抜いたな…。と、尾形は除雪当直へ苛立ちを感じつつ 「はぁ。」と、白い溜め息は一瞬にして空へ舞い消えていった。
「尾形か」
午後十一時過ぎ。夜勤以外の兵が寝静まった頃に屯所へ戻った尾形は、北海道の厳しい寒夜で凍え切った身体を温めるべく白湯を一杯貰おうと食堂へ足を運ぶと、思いもよらぬ人物に声をかけられた。
「ただいま戻りました。月島軍曹殿」
尾形は食堂のドア越しに、自分へ声をかけてきた人物に対し敬礼した。薄暗い中、尾形の上官である月島は一つの小さなランプが灯されている卓へ腰を落ち着けていた。
「外はとびきり寒かったろう。お前も一杯飲むか?」
白湯だが。と月島は薪ストーブにかけられた鉄瓶へ移動した。なるほど、食堂に入った際、思いの外室内が暖かかったのは、先客である月島が暖を取っていたからなのだとわかった。食堂の窓辺には外との寒暖差で結露ができていた。
「ああ、自分でやります。お手を煩わす訳にはいきません」
尾形も月島に続いて薪ストーブへと寄った。周りからは可愛げが無いだの、生意気だのと言われている尾形だったが、さすがに上官への配慮は心得ていた。
「手もカチコチだろう。火にあたれ。狙撃手の命だからな」
尾形の制止を聞いているのか聞いていないのか、月島は新しい湯呑に白湯を注いでいる。ほら、と差し出された湯呑を、有り難うございますと両手で受け取った。湯呑からじわりと白湯の熱さが凍え切った手に染み渡る。
しかし尾形はその湯飲みに一向に口を付けようとはしない。
「どうした?」
「……熱いので」
尾形は周りから “ヤマネコ”と揶揄される。生い立ちもさることながら、動向や癖までまるで猫だと、同期や上司に揶揄われた事がある。この猫舌も、同じ上等兵の宇佐美に「お前はホント期待を裏切らないね」と嗤われた。恐らく目の前にいる、鬼軍曹と呼ばれるこの上司も――。
「そうか。なら、ゆっくり飲め」
きっと他と同じような事を――、と考えていた思考を中断した。思いがけない真逆の応答に尾形は思わず鬼軍曹に顔を向けた。
鬼、なのだろうか。確かに普段からの自他ともに厳しい姿勢は鬼と呼ばれるに相応しいが、尾形を揶揄することなく薪ストーブの灯に照らされた表情には、微塵の恐ろしさは感じられなかった。煌々とした薪ストーブの火の色が、月島の深い灰緑色の瞳と混じって不思議な優しい色をしていた。尾形は「有り難うございます」と返事する事しか出来ず、沈黙が生まれてしまった。
沈黙は気まずいが、どういう訳か心地は悪くない。と尾形は感じた。月島という男は上司部下共に信頼が厚い。それは偽造されたものではなく、月島自身の人柄が生み出したものなのだと、尾形も納得していた。嘗ての弟も周りから絶大な信頼を置かれていたが、月島はまるで違う。【高尚】から生まれる信頼ではなく、信頼から生まれる【安堵】だった。
「尾形、お前、……大丈夫か?」
は?と尾形は月島に顔を向けた。突然何の心配をされているのはわからなかったが、尾形を見ていた月島の表情は先程とは違い、驚愕の色を浮かべていた。月島は言葉を詰まらせながら隣の尾形を気遣った。寒さで顔色がそんなに悪くなっていたのか?自覚がない分、表情は崩れなかったが尾形も戸惑った。
「申し訳ございません。何の事でしょう」
尾形が意味を訊ねようとすると、急に視界が塞がれた。正確には突然月島の手が目の前に来た為に状況を目視する事が出来なかった。
月島の手、というよりも指先が、尾形の瞼に触れる。それは壊れ物に触れるかのように睫毛に乗せたまま、横へ滑るように払って離れていった。
(―――は?)
訳が分からなかった。今、自分は何をされたのか、何故目の前の上司は “相手の涙を拭う様な行為”をしてきたのか。
「あの…重ねての質問で恐縮ですが。私の目に塵か何か付着していましたか?」
「……あれ?」
(いや、あれ?じゃねぇよ)心の中で不敬を働く尾形だが、当の月島は首を傾げまじまじと尾形の顔を見つめている。本当に、何がしたいのだこの人は。と尾形は更に悪態をついた。心の中で。
「ああ。いや、突然すまん。お前が……」
月島は言葉に詰まっている。言って良いのか、迷っているような素振りだ。今度は尾形が首をかしげる番だった。
「尾形が、泣いている様に見えたんだ」
尾形は元から大きな目を更に大きくさせた。俺が?泣いて???
己に不釣り合いな動詞を使われるとは思わなかった。この人に。こんな所で。
「………はぁ?」
十分な間を開けた後、眉を顰めながらとうとう声に出してしまった。一瞬しまったと思う尾形だが、こんな反応になってしまうのは、目の前の意味不明な行動ばかり取る男のせいだと改めた。現に月島は、尾形の不敬な態度に対して怒りを見せることは無かった。
「お前の睫毛が濡れていたから、てっきり…。外の雪が睫毛に着いて、溶けただけだったみたいだ」
月島は「睫毛が長い奴は大変だな」と、適当な言葉で強制的に事を終わらせ、再び白湯を口に運んだ。が、尾形はじっと月島を無言で見続けた。いくら泣いているように見えたからとしても、月島らしかぬ行動に納得がいかなかったからだ。
尾形の視線で、月島も尾形の意図を組んだのか、ぽつりぽつりと説明を始めた。
「この間の、御父上の件で…お前の事が気がかりだった」
尾形の父、つまり。元第七師団長———。
世間では戦争被害の重責を負った為に切腹したと報じられているが、実際は身内の手による暗殺だ。尾形たちの更に上司である鶴見を筆頭に。手を下したのは、実息子である尾形自身。
この月島という男は、実質鶴見の右腕だ。もちろん暗殺の事実も知っている。だというのに何故こうも自分に構おうとするのだろうと疑問が頭をもたげたが、嘗て月島の過去を噂で聞いたことを尾形は思い出した。
ああ、そうか。そういう事か。
「自分と重ねてしまいましたか?」
ストーブに焚いた薪が崩れ、バチバチッと火の粉が舞う。照らされた二人の顔が、強い灯により深く被っていた軍帽で目元の影が一瞬だけ濃くなった。先程と打って変わって、月島の口は紡がれている。対して尾形の口元は三日月のように弧を描いていた。
「御心配には及びません。父親には何の思い入れも持っておりませんので」
「軍曹殿は大層情け深い御方ですなぁ」言葉とは裏腹に、まるで小馬鹿にしているような眼と言い方で、ははぁと尾形は嗤った。
「・・・・・・」
月島は応えない。口を固く結んで、視線は何処を向いているのか分からない。実際は軍帽の鍔で顔の半分が隠れてしまっている為、どんな表情をしているのか伺うことは出来なかった。しかし恐らく、余計な気苦労だったと後悔はしているのだろう。
「これは大変失礼しました。しかし軍曹殿が私の為なんかにこんなにも配慮をしていただけるなど、やはり貴方は他の輩とは違いますな」
補助のつもりなのか、言葉を付け足すが何の効力も無かった。じとりと射貫くような月島の眼差しを真っ向から受けるが、尾形には何の効力もなくニヤニヤとただ嗤っているだけであった。
実際のところ、尾形は嬉しかった。沸き上がった感情の理由は不明だったが、柔く、温く、非常に心地良いものだった。同じ境遇の者に同情されたからなのか、それとも何か、他の理由があるからなのか。
見てくれていたのか、ずっと前から。
気がかりだったのか、ヤマネコである俺の事を。
だから手を伸ばしたのか、流れるはずもない涙を拭う為に。
既に冷めた手元の白湯を一息に喉へ流し込んだ。流したことがない涙と、無味無臭の水との違いはいかなるものなのか。興味も意識も向けた事は無かった尾形だったが…。
尾形は月島の軍帽の鍔を持ちそのまま脱がせる。またあの灰緑色の眼と相まみえた。その色に先程の憂いは無く、“鬼”の色味を携えていた。
「あんたが泣く時は、どうか俺の所へ来てください」
睫毛に着いた雪と涙の違いを教えてくださいよ。
睨みつける月島へそう言い放ち、あるはずのない涙を吸うように唇を相手の瞼へ乗せた。
あとがき
この度は当作品に目を止めて頂きありがとうございます。
基本イラストばかりの活動ですが暫く二次創作の活動を停滞しており、新ジャンル金カムにハマり「今の自分ではどんな作品ができるか?」と九年ぶりに短編小説を執筆してみました。きゅ、九年?時の流れに震えました(笑)
尾月はシリアス、ほのぼの、甘々、ギャグ…どれを取っても最高になるカップリングですが、今回のお話では互いに好意を抱いているか否かの絶妙な心情状況を表現したいと思いました。駆け引きの様な恋愛も素敵ですが、尾月の場合はそうはいかんよなぁ。特殊な経歴だし。
尾月の共通点は親コロの部分だけでなく、地味に世の中の汚い所を幼少期から味わっていて、汚れているのに汚れ切っていない心と言いますか…。その根っこ部分を時代や立場のせいでどうにも出来なくて、絶対に弱い所を誰にも見せないけれど、手探りで欲している物を求めている。そんな部分だと思っているんです。他のキャラなら闇の淵から救い上げてくれますが、尾月の場合はどんな場所でもどこまでも一緒に堕ちて、お互い傷を舐め合いながら微睡みの中の心地い存在になるのでは、と。お互い依存体質ですしね。そんな尾月が愚かで厭らしくて可愛いと思っています(笑)
いかんせん表現がド下手くそなので読みにくいとは思いますが、少しでも雰囲気が伝わっていれば幸いです。
器用で、不器用で、優しくて、非情で、純真で、不浄で、どうしようもなく愛を求めているのに何も信じられない孤独な人生を歩んでいる。原作中でも特に人間らしい二人の絡みを、今後も何か形にできたらなと思います。
令和七年二月二十二日 発行 森 海月