無期限の恋人 ランスと心を通わせたあの日から何日か経った今でも、まだ夢なんじゃないかと思ってしまう。だって、ずっと好いていた男が自分のことを好きになってくれていたなんて俄かには信じ難い。あまりにも自分に都合が良すぎて、全部オレの勝手な妄想だと言われたほうがまだ現実味がある。朝起きる度に、カレンダーの日付と隣で眠る愛おしい恋人の寝顔を見て、夢ではなかったのだと馬鹿みたいに安堵する。
仕方ないだろう。ランスの気持ちを知るまでの日々は散々だったのだ。最初の一ヵ月は、ランスがあまりにも純粋にドットに身を委ねるから触れるのがかえって躊躇われた。その癖、どこから手に入れたのかわからない知識に基づいて、キスだのなんだのを持ち掛けてくるのだから堪ったもんじゃない。好きだと伝えて、ひた隠しにしてきた想いも全部伝えて、嫌われて関係も全部壊してしまいたいと、何度自棄になりかけたことだろう。
次の一ヵ月などもっと酷いものだった。友人としての距離などもう忘れてしまって、とにかく今までよりは離れなくてはと焦った。自室は仕方ないにしても日中はなるべく二人きりにならないように、ランスといるときには常にいつもの皆といるようにした。寝る前や日曜日も出来るだけ部屋から出ようと、無意味に図書室や共有スペースに入り浸ったりもした。
ランスとはもう『恋人』ではないのだから、早く今まで通りに戻らなくてはとそれはもう必死だったのだ。ランスにこの気持ちが悟られてはいけないと恐れていた。結ばれて恋仲になることは出来なくとも、親友や頼りになる友人という肩書は、どうしても失いたくなかった。
『お試し期間とか、どうよ?オレと』
かつて自分が言った全ての始まりの言葉が、時折脳裏を過ぎる。あの時緊張で僅かに言葉尻が震えたのに、彼は気付いただろうか。
彼は自分のものにならないと思っていた。しかし同時に誰のものにもならないと信じていた。だから彼が恋愛について尋ねてきたとき、コイツもいつか誰かのモンになるんだな、と至極当然の事実に漸く気が付いたのだ。
だから、その契約を持ち掛けた。自分の望みの無い恋心に終止符を打つための、最後の思い出として。いつか大切な人と出会ったとき、彼がちゃんと恋人の振る舞いが出来るように教えるため。彼がちゃんと幸せになって、それを自分が友人として祝福できるように。
好いた人に独り善がりの恋心を持って、恋人としての権利だけを得ることの苦しさを、その時は理解していなかったのだ。触れて良いのに、そこにはいつだって自分だけが恋情を乗せている。気持ちに踏ん切りをつけるためだったはずの日々を過ごすにつれて、彼に対する恋心も邪な気持ちも消えるどころか膨れ上がって、制御が利かないくらいまでに育ってしまった。その罪悪感と苦痛はもう経験したくもない。
少々強引で苦しい説得をして、恋人ですらない『お試し』の頃のランスを自分のベッドで寝かせて以来、ランスよりも早く起きるのが習慣になった。いつもは涼しげで冷ややかとも取れるほど気高く美しい瞳が長い睫毛に隠されて、あどけない無防備な顔ですやすやと眠るのが何とも愛おしい。あの頃はランスが眠っている間しか触れられなかったから、さらさらの髪を梳いてそっと起こす朝の時間が楽しみだったっけ。起きたら頭なんか撫でさせてもらえないだろうと思っていたから、毎日毎日、形の良い頭と綺麗な髪を確かめるみたいに何度も撫でていたのをよく覚えている。触れる権利のある今も、それが毎日の楽しみであることに変わりはないけれど。
今日は日曜日。ランスと出掛ける約束をしたから、平日よりは遅いがそれなりに早く起きた。いつものように頭を撫でているとやがて睫毛がふるりと震えて、中に秘められた美しいアクアマリンの瞳が姿を現す。寝ぼけ眼が視線を彷徨わせて、直ぐにドットを見つける。瞼を持ち上げて自分の方を見つめては、安心したように目尻を緩ませるこの美しい恋人のなんと愛しいことだろうか。また半分夢の世界にいるようでもぞもぞとすり寄ってくる最愛の恋人におはよ、と朝の挨拶を済ませれば、二人きりの幸せな一日が始まる。
ランスと朝の支度をするのは久しぶりだった。あの一ヵ月が過ぎた後はランスと二人きりになるのが気まずくて、ずっと避けていたから。ドットが何も言わなくてもランスはアンナの服を手に取ることなく、以前ドットが彼に買った服一式に腕を通しているのを見て、その何とも言い難いいじらしさに自然と口元が緩んだ。
「……何だ、じろじろと」
着替え終わったランスがじとりとドットを睨む。何でも無いと返すと、彼は不満気にフン、と鼻を鳴らした。一見すると表情の変わらないランスだが、彼の感情を示すヒントは色々なところに隠れていて、表情だってよく見ればわかる。けれどどんな顔をしていても可愛いと思ってしまうのだからどうしようもない。かつてはそんな余裕は無かったし、まじまじと見る勇気も無かったから気付いていなかっただけで、今までも色んな表情をしていたのだろうか。惜しいことをしていたと思う。
ドットも着替えを済ませて、二人でマーチェット通りを歩く。空はよく晴れて雲一つない。そのお蔭か通りはいつもよりもたくさんの人で賑わっていて、皆それぞれの娯楽に夢中だ。誰も、友人にしては少し近すぎる距離の二人のことなんか気にも留めていない。
「お前は何が欲しいのか決めたのか?」
隣を歩くランスがドットの顔を覗き込んで尋ねる。お揃いの帽子被って上目遣いするのめちゃくちゃ可愛い……じゃなくて。欲しいもの、か。
言ってくれた当初は相当舞い上がった。ランスがドットのプレゼントに喜んでくれたこともそうだが、何より『次』があると思ってくれていることに。オレって結構気に入ってもらえてるのかなと浮かれたりもした。でも実際には、『次』は今日まで訪れなかった。気まずく無かったころの日曜には雨が降ったし、それ以降はずっと気まずくぎこちなかったし。だからその約束は無かったことになっているのだとばかり思っていた。それでも良いと思っていた。そんなことよりも、ランスとの接し方の焦りと戸惑いと葛藤ばかりに囚われていたから。
「あー…悪い、決まってねえ」
正直にそう伝えると、ランスは露骨に呆れ顔をする。そりゃあそうだよな。決めとけって言ってたもんな、ごめんな。
でも、本当に何も思いつかないのだ。考えてもいなかった。今ランスに誘われて二人で正真正銘の『デート』をしているというだけで、プレゼントには十分すぎるくらいなのに。お前というこの上ない幸せを貰ったばかりなのだ、これ以上何を求めれば良い。
「こう言われんの困るかもしんねーけど、オメェが選んでくれねえか。オレはオメェが選んでくれたもんが一番嬉しいんだけど」
そう言えばランスは驚いたように僅かに目を見開く。やがて口元を戦慄かせて、視線をうろつかせた。少し俯いても、キャップの鍔では全く隠しきれていない。じわじわと顔が赤くなって、彼が照れているのがわかる。どうやらランスは直接的な愛情表現や言葉に弱いらしい。あぁ、やっぱりめちゃくちゃ可愛い。
「そ、うか」
そうだよ。オメェの、その普段見せない表情をオレに見せてくれているだけで、オレにとっては何よりのプレゼントなのだから。オレにしか見せない表情をもっとたくさん見たいと、欲張ってみたくなる。そんなことを言ったら怒ってしまうだろうか。拗ねてしまうだろうか。恋仲になった今は、そんな顔も大切に見つめていたい。
ランスが落ち着かない様子で暗い青色のキャップの鍔を弄っている。普段よりそわそわしている様子は、もしかしてこのデートに浮かれてくれているのだと自惚れてもいいのだろうか。もしそうでいてくれたら嬉しい。
ふと傍の店に目を向ける。通りに面したその大きな窓を見れば、そこには自分の顔が映っていた。その顔はランスのことを茶化せないくらいに緩んでいて、口角は上がりきっている。浮かれているのはどうやら自分もらしい。片手を顎から頬にかけて当ててぐにぐにと押してみても、緩みに緩んだ口元は直りそうも無い。
「おい、早くしろ」
いつの間にかドットより少し進んでいたランスが振り返ってドットに声を掛ける。風に靡いて揺れる透き通った水色の髪は晴れ渡ったこの青空によく似ていて、美しい宝石のような空色の瞳は真っ直ぐにランスの方を見ていた。その様子があまりにもドットの胸を打って、どうしても視線が引き寄せられて、逸らせない。ずっと焦がれていたその儚げで気高い双眸が、青とは相容れない赤を映しているというただそれだけで、どうしようもなく堪らなくなって、泣きたいような、叫び出したいような、どろどろに蕩けさせてやりたいような、優しく抱き締めたいような、よくわからない感情で一杯になってしまう。
この引力にも似た衝動を、人は愛と呼ぶのだろう。